2015年1月12日月曜日

写真芸術の革命「1秒間の写真映像」

美に取って時間とは何か(1)


- 試論 所幸則写真芸術評論 -



三石博行


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写真機はミクロな単位まで正確に対象を映し出すことができる。そこで、写真機を使った芸術・機械芸術によって超写実主義的な表現方法、光の世界の描写を正確に映し出す「光描写芸術」が可能になった。

この光描写芸術は、精度の高い写真機によって発展してきた。写真映像としての超写実的具象表現は、生きた時間表現を捨象して、形の最小単位である点まで明暗の差異を正確に表現できる写真機によって可能になった。

言うまでもなく、写真芸術の最も得意とする表現は精度の高い写実表現である。そのため、これまで正確な写実表現で描くことを要求された芸術はすべて写真にその座を奪われた。今では、芸術的な目的以外に、例えば、肖像画像を画家に描いてもらおうとは思わないだろう。写真で写せば、素早く、安く自分の姿を撮ることができる。

つまり、具象的表現の頂点に写真芸術は躍り出た。そして、写真の発明によって、絵画は写実主義的で具象的な表現から全面撤退を決め、新たな領域を開発し続け、現在の絵画芸術を生み出したのかも知れない。


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しかし、所幸則氏は、写真芸術に一つの革命を起こそうとしている。写真芸術の進化の方向、つまり精度の高い光描写芸術の流れに反する超写実主義からの脱却を試みようとしている。彼は、光の世界にある構造的写実でなく、生きた光の流れの世界を、ある時は視覚の時間性を、そしてある時は身体運動の時間性を映しだそうと試みているようだ。

所幸則氏の「1秒間の写真映像」の作品、シリーズ「富士を撮る」やシリーズ「バレエダンサー樋笠理子」(私が勝手に命名)で、写真芸術で通時的に流れている生きた時間が表現できるかどうかという課題に挑戦している。普通、写真芸術を分かる人々から考えれば、彼の試みは常識を疑う挑戦であるとも言えるだろう。何故なら、写真芸術の醍醐味は、その機械芸術にしか可能にすることのできない超写実主義的な光の世界の描写であり、瞬時の造形美の最高の表現であると理解されているからだ。

所幸則氏撮影 タイトル 【300kmの速度から見えた不条理】


私の知る限り、これまでアインシュタインロマンシリーズのなかでみた「富士を撮る」では、白黒写真が使われてきた。時間性を表現するために白黒写真が使われている。何故なら、光から色彩を奪い、光の強弱の世界に視覚を集中させることによって、時間以外の余計な物語が飛び込んでくることを防ぐことが出来る。写真芸術家たちは、光の世界(世界の光)と心象色彩の違いを知っている。心象世界の一切の解釈を断ち切る手段として、白黒の世界を敢えて選ぶのである。つまり、その選択は、鑑賞者たちを一つの事実に集中させる手段なのである。


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しかし、所氏はバレエダンサー樋笠理子さんとの共同制作(2014年11月30日ファイスブック公開)、シリーズ「バレエダンサー樋笠理子」ではカラーで撮っている。ダンサーにとって写真よりもビデオで自分の身体表現を取ってもらう方が自然だと思う。写真家とダンサーの二人(チーム)は写真で「美に取って時間とは何か」という課題に挑んでいるのだろうか。

所幸則氏と樋笠理子バレエダンサー


所氏の作品には、身体運動の美の表現、踊り子の姿、身体の具象性が色彩と光の強弱の世界に溶け出すことによって身体運動の時間の動きが表現されている。これはカラーであるからこそ、ダンサーが表現したい身体運動の音楽性が描けるのだとも言える。

これまでアインシュタインロマンシリーズの作品は白黒写真であったが、先日、2015年1月11日にカラー写真のTITLE「300kmの速度から見えた鉄橋」がフェイスブックで公開された。

高速で走る新幹線から観える世界は、遠い風景なら視覚的な構造性は維持されている。しかし、近距離にある物体は、殆ど、そのパターンを正確につかむことは不可能である。実際の視覚世界では、殆どが、パターン化される前に、時間と共に過ぎ去る。そして新しい世界が飛び込んでくる。この速度の世界はどのように視覚理解されているのか。多分、それは殆ど記憶の中に正確に留まることはないだろう。何故なら、それらのパターンは言語化しえない瞬間の世界にしか存在することを許されなかったからである。


所幸則氏撮影 TITLE「300kmの速度から見えた鉄橋」



この言語化される時間も許されなかった事物(前事象的表象世界)は、具象性を与えられなかった世界である。その世界を撮る。これは所氏の「1秒間の写真映像」という写真思想と写真技術によってしか生み出せない作品である。

光の速さに押しつぶされた現実の視覚の世界、時間的変化を受けて非構造化された世界、それこそ時間が視覚的空間を決定している世界である。その具象的世界は、言わば、ゆっくりと視覚的パターンを許されて成立している常識の世界から見れば、抽象画の世界になる。この抽象画の世界こそ、実際に存在していた高速で走る新幹線から観えた現実の世界であった。

この写真は、速度に捨象された視覚の世界の具象形態が抽象画的世界に成ってしまっている現実を教える。つまり、抽象性と具象性の間には認知時間の差異でしかないことを物語っているのである。言い換えると、我々は至る所で、実際は抽象画的世界に接している。しかし、それらの抽象画的世界は具象化されて意識に残り、記憶に保存されている。

更に、極論すれば、抽象的世界の風景が具象的世界の風景を取り囲んでいるのだという視覚や認識の世界の常識を破る、恐ろしい仮説を科学哲学者に投げかけているようであった。所さんの写真から、「美にとって時間とは何か」という課題は、科学哲学の中にある合理主義的世界観を震撼させる響きをもって聴こえてくるのである。



1月7日 フェイスブック記載文書 修正

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芸術評論文集「芸術評論落書き帳」目次
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