2015年1月21日水曜日

表現の自由とその社会的責任と我国のやるべき課題

-イスラム教とキリスト教の文明の対立にされよとしている問題に好き好んで足を踏み入れてはならない-


三石博行


今いがた、田原総一郎氏の 公式サイトから「シャルリー・エブド襲撃事件から「表現の自由」を考える」と題するメールが届いた。彼の主張は「テロは決して許されるものではない。だが、一方で、表現の自由が どこまで許されるかもまた、たいへん難しい問題である。」という考えに立ちながらも、「襲撃されたシャルリー・エブド紙が、休刊どころか、大増刷して発行を続けた」とその風刺画を、一切載せない日本のメディアに対して「日本のメディアがあまりに 情けないということだ。問題となった風刺画を、多くのメディアは映さなかった。禁止されたわけではない。自主規制だ。彼らは事を荒立てたくないのだ。」と批判していた。

確かに表現の自由は守られるべきで、風刺画を出したとして新聞社をテロで襲い、新聞記者は諷刺画を描いた作者を殺害することは絶対にあってはならないことである。その行為は認める訳にはゆかない。これが原則である。と同時に、もう一方で、考えなければならないこともある。つまり、同時に、「ムハンマドを侮辱した」と感じている人々の気持ちも理解すべきである。

逆を考えればよい。イスラム教徒の多い国でイエスを侮辱する風刺が新聞に記載された場合、深々なキリスト教徒の人々はどう反応するだろうか。例えば、他の国で日本の天皇を侮辱する漫画が出たらな、日本人はどう反応するだろうか、等々。キリストにしろ、ムハンマドにしても、あるモラルや信念を代表する象徴的存在であるために、政治家を風刺するのとは違う意味がある。そのように、宗教に関わる問題はデリケートな感性と結びついている。そうしたことを理解するのも民主主義の文化だと思う。

言論の自由は守られるべきだが、そうした多様な社会の文化を理解し、それに対して敬意を払うのも高度に進歩した民主主義社会の在り方であり、民主主義教育で受けた人権思想や文化の一つではないかと思うのである。私は、その意味で、田原総一郎氏の意見とは異なる考え方を持つ。つまり、日本のメディアがもし、敢えて、その風刺画を取り上げずないで、言論の自由を叫ぶ市民の姿のみを取り上げているのは、非常に正しいと思う。

敢えて、現在の日本、つまり、イスラム教を信じる人々にとって、これまで親睦な関係を築き上げた国として、その国民として、敢えて、イスラム教とキリスト教の対立にされようとしている、世界の経済格差の問題に、好き好んで飛び込むことはないのである。寧ろ、問題の本質、つまり、富める国(先進国諸国)と貧しい国との間で起こっている、そして広がっている国際的な経済格差とそれを助長する先進国の国際政治の在り方を反省し、変革を呼びかけることが、日本のやるべきことではないかと思う。


2015年1月20日 フェイスブック記載

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