成熟した民主主義社会文化の日本を建設するために
三石博行
経済中心主義戦後民主主義の終焉、2009年8月30日
何故、今、市民運動論について論じるのか。それは、現在の日本社会の中で、民主主義社会を成熟させるための課題が問われているからである。言換えると、この課題は21世紀の日本社会の在り方を問い掛けている。
この課題が国民的に問われたのは、2007年7月の参議院選挙を経て2009年8月30日の第45回衆議院総選挙によって政権交代が行われた時からではないだろうか。この二つの選挙で国民は戦後の殆どの期間を政権与党として国政を担ってき自民党から民主党へ政権交代を命じた。
政治主導の敗北の意味
自民党政権への国民的批判があると言うのがこの政権交代の背景を語る極めて表層的な説明である。しかし、この政権交代は自民党によって社会改革はできないという国民の判断があった。自民党を打っ潰すと言って自民党政権を強固なものにした小泉政権の成立、それを引き次いだ安部政権、しかし、この自民党ですら変革できない強烈な国家体制が存在している。国民はその強烈な利権集団が何者かを知っている。
それに立ち向かえる力を持つものと期待されて生まれた民主党政権であった。政治主導を掲げて民主党政権は、明治維新以来、近代日本の繁栄を指導し、また敗戦国家日本を経済大国に導くために貢献した国家的専門家集団・官僚組織をまともに敵に回そうとしていた。官僚の力は強大であり、彼らの持つ専門的能力を凌ぐ議員集団が形成されない限り、政治主導は掛け声に終わることは明らかである。そのことを民主党は痛いほど経験した訳だ。そして、民主党は官僚体制に立ち向かう気力や官僚主導型国家から脱却する具体的政策を持ち合わせているだろうか心配である。
野党は勿論、世論にも政治主導主義が引き起こす国政の混乱が指摘され、民主党の中にも軌道修正を求める声が起る中で、唯一、政治主導を言い続けた小沢氏は司法権力(司法官僚組織)によって政治生命に大きな打撃を受け、また市民派を称する管直人氏も原発事故対策では四面楚歌を味わうのである。
つまり、民主党が無能であったということよりも、民主党の政治主導型が完全に失敗したために、野田政権では極めて現実的な対応を取っているのである。それが野田首相が行うエネルギー政策であり原発政策であるように思われる。
ねじれ国家という国民不在の立法機能現象
しかも、2010年の参議院選挙に敗北した民主党政権は困難な国会運営を行うことになる。自民党は政局論争を先行させ、国会は空転し続けている。
このねじれ国家と呼ばれる国民不在の立法機能不全現象が深刻な問題として国民に理解されたのは、2011年3月11日の東日本大震災と東電福島第一原子力発電所事故以後であった。2007年参議院選挙以後2009年までの自民党政権時代もねじれ国家の状態であったが、この時には、ねじれ国家が引き起こす立法機能不全に関して国民は深刻な事柄として理解していなかった。
ねじれ国会が引き起こしている立法機能不全を国民が骨身に沁みて理解したのは、2011年3月11日の東日本大震災と東電福島第一原子力発電所事故以後であった。ねじれ国会によって、敏速に行わなければならない国家の意志決定、当然、議会制民主主義による法治国家・民主主義国家である以上、法的根拠がなければ国家は動かないし、行政は機能しない。その最初、危機に対応するために必要な政策決定を決める土台、立法機能がマヒしているのである。
国家では、国家の危機、被害に苦しむ国民のために政治は運営されず、政治家の失策や失言を巡る国会質問が優先され、その収束点に内閣不信任決議や国会解散が議論し続けられた。つまり、震災に苦しむ国民の救済ではなく、政局論争が国会の討議で優先され続けてきた。この異常な事態に対して、国民の絶望や怒りは、次第に嘲笑に変わり、国会には何も望めないのかという絶望感すら生まれているのである。
代理人不信から自らこの社会を変える主体になれるのか
この国家的危機を救うのは誰か。それは国民が政治を委託した代理人(議員)ではなく、国民自身であることを国民は次第に自覚し始めているのではないだろうか。そして、これまでの全ての民主主義の歴史に新しく成熟した民主主義の歴史を書き加えるなら、国民自身が自ら政治に参画することを要求するだろう。
しかし、この要求は、即座に現在のわが国の民主主義制度、間接民主主義を変革する方向で展開するとは思えないし、国民には、代理人としての政治参加の経験(選挙で投票すると言うこと)しかないのである。この貧弱な民主主義制度への参加体験を基本的に補い、豊かな社会参加を実現する手段が市民運動なのである。
だが、こうした結論が国民的な意見となっている訳ではない。それを示す社会現象として橋下徹氏への国民的評価である。多くの国民は、素晴らしい代理人の登場を待ち望んでいる。代理人が変われば、何とか自分達が望む社会になってくれると期待しているのである。
この最後の国民の期待が裏切られることを望む訳ではないが、これまでの小泉自民党政権に期待し、そして民主党に期待した我々が、また橋下徹氏の大阪維新の会に期待している構造は全く類似しているように思える。その類似性が正しいなら、きっといつか、同じ失敗を我々は味わうことになるのではないだろうか。
しかし、だからと言って、改革を進めようとする人々に期待を掛けない人々がいるだろうか。期待するのは当然の社会現象ではないか。しかし、それと同時にそれにいつか失望するのも、また、当然の社会現象だとも言えるだろう。それが民主主義の運営を代理人に委託している我々の宿命ではないか。そして、同時に、未来の社会から、我々は、「代理人不信を掲げるなら、自らこの社会を変える主体になれるのか」と問われているのではないだろうか。
社会運営に参画する運動かそれとも反体制運動か、問われた市民運動論
しかし、これまでの市民運動や社会運動は、イデオロギー運動としてレッテルを張られ続けた。その代表例が反原発運動であり、現在でも、反原発運動をイデオロギー的な運動、つまり、一部左翼過激派の運動であると評論する人々や世論に出会うのである。
この事態を打破し、市民運動や社会運動が一部政治思想団体のイデオロギー運動でなく、日本社会の民主主義文化の成熟に欠かせない国民運動であることを説明しなければならないと思った。しかし、この私の思いが、これまた主観的な思い込みや希望的なスローガンであってはならないのである。
そのために、社会運動や市民運動の起源を分析し、政治化した過去の社会運動、特に戦前戦中、さらに55年体制時代の労働の時代・社会的背景と非政治化する現代社会運動や市民運動を一つの社会学的理論によって一貫して説明できなければならないのではないかと考えた。
そこで、この市民運動論を書く作業を始めた。この作業事態が一つの思考的な実験である。その基本理論に吉田民人先生に影響され展開した「生活資源論」を置いた(1)。この理論から、社会運動論が展開できるか、それもまた、私の理論を検証するための思考実験である。
引用、参考資料
(1)三石博行 「設計科学としての生活学の構築 -人工物プログラム科学としての生活学の構図に向けて」 金蘭短期大学 研究誌33号 2002年12月 pp21-60
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_02/cMITShir02d.pdf
(2) 三石博行 「生活資源論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_02.html
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2012年4月16日 誤字修正
(120414a)
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