2015年1月30日金曜日

国際平和へ貢献する社会思想としての民主主義の概念

民主主義とは何か(1)


三石博行


政治制度の対立項から共通項の理解の意味


現在、世界の文化を自由主義の国と反自由主義の国、もしくはキリスト教国とイスラム教国と二分して考える傾向がある。これらの考え方は、つねに、対立項を見つけ、世界を二つに分けて、紛争を煽っているようにも思える。

以前、社会主義国家と資本主義国家、もしくは自由主義国家と独裁主義国家というカテゴリーを設けて、東西冷戦が繰り広げられた。つまり、世界を対立する二つの社会に二分する国際政治の手法は、冷戦時代の残骸ではないかと思う。

そうして利益を得ているのは国民ではないことは確かだ。多分、軍事的緊張によって準備される軍備、その軍備によって儲かる人々ではないかと憶測している。そこで、不毛な戦争への挑発やまたそれに必要な税金の無駄使いを減らすために、異なる政治制度の国々の共通項を見つけ、それらの国々の現状を理解する国際政治思想を提案しようと思った。

それが、前記した「多様な民主主義の形態」であった。しかし、多様な民主主義の形態を認めることが、民主主義文化発展途上国で行われている人権侵害を認めるという事ではない。寧ろ、それらの人権侵害の構造を明らかにしながら、その現実的な解決とは何かを模索するために、政治制度の対立項を強調することをやめて、寧ろ経済活動の自由度という共通項を置くことによって生まれる多様な民主主義文化の形態に視点を当て、これまで異質な社会として排除してきた国々を、自分たちと同じ社会カテゴリーの中に入れて、その上で、それらの国々で起こっている人権侵害の課題を自分たちの国にもあるその課題に近づけながら、それらの課題の現実的な解決を考えるという視点に立ったのである。


多様な民主主義社会の形態


民主主義には色々な形態がある。この社会文化は、資本主義経済制度と結びついている。何故なら、世界には多様な資本主義経済文化が存在しているからである。言い換えると、これらの資本主義経済文化は、それらの国々の資本主義制度の歴史、その発展段階で獲得した独自の社会経済制度を前提にして成立している。

資本主義社会とは「人間の経済的欲望を肯定し、需要と供給によって経済的な契約が成立する活動を前提にして政治社会法律制度が確立している」社会を言う。人間の自由な経済活動を保証しない限り、資本主義経済は発展しないのである。その意味で、民主主義文化の三大要素(自由、平等と博愛)の自由を前提にして、資本主義文化(経済文化)は成立する。

しかし、世界の国々は、現在、民主主義文化の三大要素がすべて完璧に成立している訳ではない。その一つの要素、つまり経済的活動の自由が保障されている(されようとしている)社会を、ここで民主主義文化を発展させようとしている社会であると定義するなら、民主主義社会のカテゴリーに含まれる社会は広がる。そして、同時に、色々な民主主義社会のあることも理解される。

そのために、例えば、アメリカにはアメリカ型資本主義があるように、アメリカ型民主主義制度があり、フランスも同様にフランス式の民主主義がある。それらが同じ共和国制度(大統領を国民が選ぶ制度)を取っても、同じ政治文化や経済文化を持っていない。さらに、同じ共和制の国でも発展途上国、例えばインド、ブラジルやロシアと先進国では、まったくそれらの政治文化は異なる。また、立憲君主制を取る英国や日本は、共和制を取る国と政治制度が異なる。しかも、同じ立憲君主制の英国と日本とでも、政治文化は異なる。

そればかりでない、経済自由化、資本主義化を進める中国では、政治的には共産党独裁国家であるが、この国も、民主主義発展途上国であると言える。この国では政治的自由は認められなくても、経済活動の自由はある。その意味で、共産党独裁であるから中国には民主主義がないとは断言できないのである。

また、中東の国々で現在も国王が実質政治的権力を持つ国がある。それらの国でも、経済的活動の自由が存在している。その意味で、これらの国を中世の王国と同じだとは言えない。つまり、王権をもって国の近代化を推し進めているのである。近代化とは資本主義化であり、その意味で中国もサウジアラビアも、資本主義経済制度を敏速に導入するために、共産党と王政が、便利な意思決定機関として機能していると言える。

この様に、現在の世界で、資本主義経済を発展させ、国や社会を豊かにしようとしているすべての国々を、一応、大きく、資本主義経済文化を興す国々であると定義するなら、これらの国々は、それぞれ異なる民主主義文化の段階にある国々だと定義することが出来るだろう。


民主主義ための侵略戦争の時代を超えて


民主主義文化を構成する三大要素として、自由、平等と博愛があると述べた。これまでの議論では、経済的な自由な行動を基準にして、多様な民主主義文化の存在に関して言及した。つまり、その自由度の程度によって、それぞれの国の資本主義経済文化の多様な状況が生れることになると説明した。この考えは、世界を自由国家とそうでない国家に二分する旧来の社会イデオロギーを批判的に評価し、世界の国々の多様な自由主義経済の在り方を理解するという立場を提案したのであった。

言い換えると、上記した視点は、民主主義文化を構成する一つの要素のみを取り上げたに過ぎないとも言える。民主主義文化を構成する自由全体の問題、例えば、政治的活動の自由や人間的自由に関しては、言及しなかった。また、同じように、平等と博愛に関する社会文化や社会経済制度に関しても言及していない。その意味で、経済活動の自由を尺度にして民主主義文化全体を議論することは、不十分であると言える。

しかし、民主主義を最も進んだ人間的自由を保証し、人間的平等を確立し博愛精神を尊敬する社会に限定することで、現在の世界には、民主主義国家、民主主義発展途上国国家、低民主主義国家、非民主主義国家と大きく4つの区分されることになる。そして、それらの評価を行う人々は、多分に民主主義国家と称される国の人々(知識人や文化人)となるだろう。

このような民主主義レベルの分類にどのような意味があるのか。つまり、このような分類によって、世界の国々が人権尊重の文化や社会制度を充実することになるだろうか。これらの分類は、人権文化の低い社会をより高い社会に導く指針となるだろうか。しかし、多くの場合、これらの分類は、先進国、特に欧米の社会政治イデオロギーに利用され、例えばアメリカを先頭したイラク戦争のように、サダムフセインの独裁国と命名された国や社会を軍事的に攻撃するための口実になっているのではないか。

民主主義を守るという口実で、軍事的に圧倒的力を持つ先進国が軍事的力を台頭させて来ている発展途上国を攻撃、その政権を崩壊させてことが現実にイラク戦争で起こった。そして、独裁政権に代わる民主国家の建設を行うために行ったイラク戦争、さらにはリビア・カダフィ政権の転覆、そしてシリアサダト政権への武装闘争の支援によって、北アフリカや中東諸国は政治的混乱を続けている。その結果、イスラム国が誕生したとも言える。

第二世界大戦時に、アメリカが掲げた民主主義社会を守る戦いは、日本の軍国主義、イタリアのファシズムやドイツのナチズムを倒し、戦後の民主主義社会の方向と基調を形成した。その主張の延長線上にベトナム戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争、そしてリビア内戦やシリア内戦への介入がある。こう考えれば、第二世界大戦後の民主主義政権の支持や樹立という先進国の軍事介入は明らかに侵略戦争の口実になっていたと言えるだろう。従って、民主主義勢力を守るといスローガンは先進国・巨大な国際(金融)資本主義国の政治的意図をもって理解されているのである。

その意味で、民主主義文化を先進国の視点から一方的に評価する方法を止め、寧ろ、民主主義文化の三大要素の中の一つである自由、その自由の中の経済的活動の自由に限定して、世界の国々の経済的活動の自由度を相対評価しながら、多様な民主主義文化の評価を認める考えに立つ必要がある。楽観的と言われるかも知れないが、その視点に立つことで、国際紛争の課題の幾つかは、解決の糸口を探ることが出来ると思われる。




参考資料


1、三石博行「わが国の民主主義文化を発展させるための課題について」目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_04.html

2、三石博行「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post.html


三石博行のフェイスブック 2015年1月29日 記載文書
https://www.facebook.com/hiro.mitsuishi

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