三石博行
インターネット仮面討論会の意義
現在、あるグループ討論サイトで、毎日のように議論に参加している。私も自分のニックネームがあるが、プロフィールで、自分のホームページやブログを紹介しているので、私のニックネームは形だけのものということになる。
多分、世の中ではニックネームで参加する討論会は、無責任な発言を助長することを抑制できないため、意味がないと言われるだろう。その発言にも一理あることは事実だろう。しかし、仮面を被って発言できることによって生み出されるプラス面を観る必要がある。
考え方によっては、年齢、職業などを明らかにしてしまうと、そうした社会的仮面が個人の意見評価に反映され、20代の学生の意見が面白い内容であっても、50代の社会人の社会的仮面に対する偏見にさらされることになるとも言える。したがって、この種の討論会では逆にニックネーム参加の意義があると言える。
つまり、発言内容よりも社会的仮面の種類が発言の正当性を要求する一般社会のあり方から隔絶するために、一応すべての人が仮面を被る(ニックネームを使う)ことになる。
この仮面討論会は、しかもインターネットで行われるので、発言者の素性も発言当時の態度すら見えてこない。見えるのは発言者の書き込み内容のみである。その意味で、発言者の発言内容のみが存在することになる。現実の社会では、社会的立場や年齢など、意見内容に関係ない要素で討論の中身に色を付けられる心配は起こらない。
仮面をしていない私の立場
仮面を形だけ被った私は、仮面を確り被った人々の中で、少し緊張することになる。何故なら、彼らは私の正体を知っているが、私は彼らの正体を知らない。そのため、議論の相手が、自分の身近なところに潜んでいる可能性もある。
私の現実の生活スタイルを私の身近に潜んだ仮面正体は、観察することが出来る。もし、私の書いた内容と私の生活スタイル、つまり大学教員として、私の仕事、教育研究への私の日々の態度を観察されている以上、私は真剣に書かなければならない。そしえ書いたことに責任を持たなければならない。
つまり、仮面を被った周りの論客と仮面を脱いだ私、彼らは思い切って何でも言えそうだ。私は自分の年齢は立場を考えながら発言しなければならない。これは明らかに不平等な立場なのだが、むしろ私はこの不平等さを楽しんでいるようだ。
仮面学生の参加した授業はどうなるか
仮に、私の講義で、学生がみんな仮面を被り、私が一人素顔で講義したらどうなるだろうかと考えてみた。まず、仮面を被った学生たちは教師が仮面の中の正体を知らないので随分安心して、厳しい要求や批判、質問を、直接、教師に投げかけるかもしれない。教師の心証を損なっても、教師は発言者の名前が分らないし、発言者は勿論のこと仮面講義に参加した学生の出欠すら出来ないのである。むしろ、教師はこの授業に出席簿を持って来たこと事態がミスであると理解するだろう。
こうした仮面討論会のような「仮面学生を相手にした」授業があったら面白いかもしれない。
最近、学生アンケートを授業科目終了時に取っている。匿名で出すアンケートであるので、丁度、仮面を被った状態と同じで、学生は言いたいことをアンケートに書くことができる。その分、正直な意見が出される。
私は、15年間も、毎回の講義終了時に、任意で5分間テスト用紙の最後に付け加えたアンケートで、講義の評価、つまり、講義が理解できたか、講義に興味をもったか、講義内容が役に立ったかの三点についてアンケートをとり続けてきた。
しかし、この15年間を振り返ると、殆どの学生がアンケートの記入をしない。そこで「私へのプレゼントを忘れないで」とアンケートをお願いする。親切な学生たちがお願いを聞き入れて書いてくれる。
書かれたアンケートの内容は、大方、評価するに傾いている。それもその筈で、実名入りで、しかも、授業評価のアンケート質問はテスト用紙の中に書かれていうのであるから、思い切った批判は出来ないのが当然だろう。こうしたアンケートは余り意味を持たないといえる。
仮面授業を企画することは意味があるかもしれない。この考えを基にして、私の講義を検討する機会を作ろうと思う。
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