思考実験としての書く行為
三石博行
ぼんやり頭で理解していることは殆どが気持ちの上で了解された内容に留まる。これらの内容を文書化する作業は理解していると思っていることを点検する作業であり、一種の思考実験である。
書いてみると不十分な点が明らかになる。また、書いたものがあるために自分の理解や認識の不足を再度点検することが出来る。そのために書くのである。書くことは他者への表見であると同時に自己への確認でもある。
書かなければ生きていけない人々がいる。日記を書き続ける人、ブログを書き続ける人、詩、エッセイ、小説、読書日記等々、書かざる得な人は自分にあった表現を選び、文章を書き続ける。
本当に知っていることはわずかである。しかし、多くことを知っているからと言って、それが自分の納得する知性の在り方には通じないかもしれない。勿論、知識力を競うテレビ番組に参加することを目標としていれば、知識の量が問題となるだろう。しかし、自分の生きている生活空間の中で求められる知識はその生活空間に有用な知識のみであり、わずかな知識で人は生きている。
書くという行為は、自分の知識の量や豊かさを確認するためのものではない。もちろん、知っているべき知識が書く作業の中で問われる。そのため、書く作業を通じて、多くの情報を取り入れ、勉強をしなければならない。
色々な課題に関して書くと言うことは、今まで関心をもっていた世界、それは専門的な学習をしたのではないが、興味を持ち続けていた世界、何となく知っていると思っていた世界が、各行為を通じて、自分の理解していた情報の曖昧さを気付かせてくれる。
書くという行為に通じて、知らなかった世界が明らかに浮き上がってくる。それは書く行為を楽しむ一つの要素でもある。この実験作業によって、多くのことが明らかになる。それが書く行為ではないだろうか。
2019年9月14日 ファイスブック記載
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