塚原史論文「今村仁司の暴力論の系譜」のテキスト批評
三石博行
塚原史氏の「暴力論の系譜」
デリダや今村仁司氏(以後、今村と書く)の暴力論の背景に、ジョージ・ソレル(George Sorel)(1)がいる。そこで、今回は塚原史氏(以後、塚原と書く)が書いた「暴力論の系譜 –今村仁司とジュルジュ・ソレル-」(TSUKfu 08a)(2)を参考にしながら、今村のG.ソレルの暴力論の解釈や暴力概念について述べる。
塚原は今村と共に、2007年にG.ソレルの『暴力論』(上・下)の新訳版を岩波書店から出版した(3)。塚原は今村とソレルの『暴力論』を翻訳したという研究活動の背景がある。その意味で、今村とソレルに関する塚原の批評は信頼できると言える。
ソレルの暴力概念・革命の仕掛・神話に糧を与えるもの
塚原は、暴力概念の展開でソレルは「暴力という社会現象を理性的に解明しようということから始まって」 (TSUKfu 08a p87)、さらに,その暴力の解明が「神話(mythe)」という発想にたどり着くことになる。しかし、「ここで(ソレルの言う),神話とは,通常の意味合いとは異なり「現実に働きかける手段」(同上)であり「現代社会に対して社会主義が仕掛ける戦争」(同上)つまり(ソレルの言う)「ゼネスト」のイメージの「組織化」である。」(同上)
言い換えると、「この意味での神話は「預言」ではないのであり,それが実現するかどうかは偶然ではなく,労働者ひとりひとりのモラルの問題であり,社会を新しい段階へ導くための思想装置としての神話の役割を,ソレルは強調している」(同上)と塚原は述べている。
そして「その神話に糧を与えるものがviolence なのだから」,このソレルの暴力という社会現象(神話)は「物質的な力であると同時に,精神的な力でもあるということになる。」(同上)つまり「この(ソレルの暴力概念の)発想には,ベルクソンの「生の躍動élan vital」の影響を見出すこともできるだろう」(同上)と塚原は述べている
ソレルの「force」 と「violence」から
また、今村が著書『暴力のオントロギー』(4)で取り上げられている暴力は,「社会形成に内在する暴力(荒ぶる力)」( IMAMhi 82A p151)であり、「支配者の物理的暴力に通じる点では,むしろソレルの言うforce 」(TSUKfu 08a p88)つまり、権力に近い概念であると言える。
つまり、「この時期の今村の「暴力論」は,ソレルがviolence の概念に託した意志やモラルとはかけ離れた,まさに「荒ぶる力」を土台に構想されていたと考えられる。」(同上)そして、今村が「この「荒ぶる力」としての暴力と社会の関係をさらに詳細に論じたのが『排除の構造』(5)であると塚原は述べている。(TSUKfu 08a p88)
そして、塚原によると今村の「ソレルにおけるゼネストの「暴力」は理念としてはviolence だが,経験的にはforce(権力の強制力)に通じるものになってしまうと読むことができる。」
そこで塚原は今村の「暴力概念とソレルのviolence 概念との本質的な差異に気づかされることになった」(TSUKfu 08a p89)。つまり、今村にとって,「暴力とはとりわけ破壊と殺戮の力」である。(TSUKfu 08a p89)今村は、暴力に関する我々の理解は「精神と身体を,自然よりも病気よりも,迅速に効率よく殺すことができるという経験的事実のみ」(6)から来ると述べている。つまり、暴力とは神話的存在である。そして、我々は現実の社会や歴史で繰り返される破壊と殺戮、そして絶対的無の現実・死、生からするとイメージの世界、その生と死の世界を繋ぐ物語、暴力はその物語に欠かせない存在なのである。絶対的無の現実を語る物語つまり神話が暴力の意味付けを行うのである。
現代社会の暴力、例えば革命は、既成のすべての秩序を破壊し新たな秩序を構築する巨大な力である。その意味で、「まさに暴力(violence)から,社会主義は高度の道徳的諸価値を引き出さなくてはならない。この道徳的価値によって,社会主義は現代世界に救済をもたらすのである」(TSUKfu 08a p90)という神話の上にその革命の暴力は肯定され崇拝される。
「その(革命・暴力の)助けなしにはけっして道徳が存在しえない熱狂を今日生み出す力(force)はひとつしかない。それはゼネストのためのプロパガンダから生じる力(force)である」(ここでforce とは,もちろんブルジョワジーの強制力の意ではなくて,プロレタリアートのエネルギーの表出としての「力」の意で用いられている)。つまり,ゼネストの熱狂がもたらす崇高感こそが現代的な道徳の源泉であり,ゼネストをつうじた真の社会主義の実現の過程で,高度な道徳的価値が生まれると,ソレルは予見し,期待していたのだった。」(TSUKfu 08a p90)
誕生と死、破壊と創造、侵略と増殖、構築と脱構築、この二つの世界の連鎖は生命力によって生み出される。生命力とは破壊力と構築力、つまりその生命運動を生み出すものとしてソレルの暴力の概念ある。暴力(violence)とは生命活動によって生み出されたものであると言える。その社会や文化的現象を力(force)として我々は理解する。つまり、生命体のエネルギーのように下から湧き上がるものが暴力である。その逆に力は生命体に上から浴びせられる圧力である。我々の世界は、「下からのviolence(暴力)」と「上からのforce(強制力)」によって構築され運動している。
言い換えると、権力・force(力) は生命運動violence(暴力)の物象化現象であると言える。暴力の世界によって生命活動があり、その活動によって生産された社会や文化が生命活動を抑制し強制する。つまり、生命活動(暴力)は社会的抑制(力)によって規定される。その規定条件を破壊するとき、生命活動(暴力)その本性をあらわにし、新しい規則性(力)を構築するのである。
今村のソレル解釈
そのソレルの暴力概念を今村は6つに分類している。(TSUKfu 08a p90)
「(1)意志としてのviolence(生の飛躍,激しく充実して生きようとする意志)
(2)行動のなかでのみ生きる観念としてのviolence(「神話」,ホメロス的叙事詩)
(3)創造する力としてのviolence(「自由な人間」を創造する力,努力)
(4)モラルとしてのviolence(自己犠牲,献身,ヒロイズム)
(5)労働あるいは生産としてのviolence(生命の飛躍の先鋭的表現としての労働)
(6)徳(vertu)としてのviolence(革命的ゼネストで発揮される人間的徳=勇気)」
(同上)
この今村の6つの分類に関して塚原は「(今村が行ったソレルの暴力概念に関する)以上の(6つの)分類は,必ずしもソレル原文どおりではない」と言っている。しかし、その今村の解釈は「物理的力や権力の強制力(force)とは次元の異なる概念として(ソレルの)violence を再評価しようという試みとして,意味深いものである(この分類は岩波文庫版『暴力論』新訳下巻「解説」中でも,ほぼそのまま繰り返されている)」(同上)と塚原は評価している。つまり、今村のソレルの6つの暴力概念の分類は今村自身のソレル解釈から来た暴力論の展開であると塚原は解釈した。
その今村のソレルの暴力論の解釈の経過は今村自身の暴力論研究の系譜に負うものであると塚原は述べている。つまり、今村のソレル解釈過程で、今村はそれまでの研究から帰結してきた暴力概念をさらに展開した。
例えば、ソレルの暴力と力の次元と異なる概念を前提にしてさらに今村の暴力論を解説してゆく。つまり、今村の言う「ゼネストのviolence が権力のforce に変化することの危険性を指摘していたが,このベンヤミン論中でも」今村は「violence は,物理的強制力という意味での暴力すなわちforce を解体する力なのである。まさにこの論点が,すでに自己の歴史哲学の構想を確立していたベンヤミンと共鳴しあう。」(TSUKfu 08a p90)
つまり、今村は『排除の構造』(7)で,「ゼネストのviolence が権力のforce に変化することの危険性を指摘していたが,このベンヤミン論中でも」(TSUKfu 08a p90)、今村の文章では「violence は,物理的強制力という意味での暴力すなわちforce を解体する力なのである。まさにこの論点が,すでに自己の歴史哲学の構想を確立していたベンヤミンと共鳴しあう」(7)と述べたと塚原は指摘し、今村の暴力論の背景を解説している。
今村の「ソレルの暴力概念を精神的な領域に属するものとしてとらえようとするこの見解は,死後出版となった『社会性の哲学』でも繰り返されており」(TSUKfu 08a p90)、そこでは今村は「ソレルの暴力は,ベルグソンのエラン・ヴィタル,ニーチェの《力への意志》に近い一種の精神的・モラル的力であった」(8)と述べている。(TSUKfu 08a pp90-91)
つまり、塚原は今村が「1980 年代までの「破壊と殺戮の力」としての「暴力」概念を問いなおす過程で,ベンヤミンをつうじてソレル『暴力論』に再接近し,そこに「残忍な強制力」としてのブルジョワジーの力の行使force をプロレタリアのゼネストの暴力violence,つまり戦闘の力で解体するという意味での「非暴力」の思想を見出したのではなかっただろうか」と考えた。(TSUKfu 08a p92)
何故なら、今村は「ベンヤミンのソレルの読み方のみが正しい」(TSUKfu 08a p92)と考え、ソレルのviolence を「意志やモラルや神話といった思想や感性として解釈」(同上)することで、「いわば「実力行使」としてのゼネスト理解から遠ざかってしまった。」(同上)塚原の今村のソレル暴力論の解釈は今村が影響されベンヤミンのソレル解釈を前提とすることになったと述べている。
問われる現代社会・増幅する抑圧と縮小する生命力
現代社会で、再び暴力の概念が問われている。何故なら、高度に進歩してゆく科学技術文明社会、高度な専門的知識を土台に成立する生産活動、情報化社会によって成立する経済流通、コミュニケーション、外交、情報伝達、益々進みつつある国際化、力のある様式や思想によって排除される多くの弱小少数派、世界の均一化、未来への流れ、それを支え推進する巨大な強制力(force)、つまり、科学技術社会、情報化社会、国際化社会のすべての未来社会は、この強制力を必要とし、その力で湧き上がる反対勢力(イスラム原理主義やオーム真理教など)を監視し抑圧し続ける。そして、過剰に進む管理社会の展開、目に見えない強制力を張り巡らし、人々を監視する社会によって、人々は自由さを喪失してゆく。
つまり、そのことと塚原は現代社会の現実として訴えている。
つまり、「ソレルの用語を使えば上からのforce(強制力)と下からのviolence(暴力)の関係が,とりわけ9 ・11 以後大きく変化して,一方では管理社会・監視社会の過剰な展開によってforce が体制維持のための強大な抑止力として機能し,とりわけ私たちの国では,労働現場や街頭や大学のキャンパスから意思表示の行動としてのviolence が姿を消しつつある一方で,force の行使が多元化,多様化して,たとえば最近の身近な例で言えば,相撲部屋での新人力士への死にいたる暴力や,ミャンマーで日本人ジャーナリスト(東経大卒業生,長井健司氏)を射殺した暴力,あるいは無抵抗な子どもを刺し殺す暴力など,強者からの残忍な暴力が弱者へと向かっていく傾向があると思われる。ソレル的プロレタリア暴力の消滅あるいは希少化と,モラルなき粗暴な「暴力」の過剰が,同時に進行しているわけである。」(TSUKfu 08a p92-93)
以上、塚原の今村のソレルの暴力論の解釈を述べ、さらにその解釈にたって生じる現代社会での暴力の課題に触れた。
今村ソレル暴力論の今後の展開課題
今村のソレル解釈にそって、暴力を生命力とし、社会機能の根源的エネルギーとすることで、暴力論に二つの方向が見えてくる。
1、 ソレルの暴力論は、社会構造-機能の動態運動の基本に暴力概念を置くことによって、生命力モデルを導入した社会学理論、つまり生の哲学に基づく社会学理論が展開する可能性を持った。
2、 ヨハン・ガルトゥングの構造的暴力の基盤にソレルの暴力、つまり社会の基盤構造の下から湧き上がるviolence(暴力)を解釈する可能性が生まれる。(9)
3、 今村がデリダの暴力論の解釈から導く人間存在の世界了解作業の基本にある「根源分割」とソレルの暴力の6つの概念、中でも「意志としてのviolence」としての暴力の概念との関係が問われる。(10)
参考資料
(1)「ジョルジュ・ソレル」Wikipedia
ソレルは19世紀後半から20世紀初頭に掛けて活躍したフランス人哲学者・社会理論家であると紹介されている。彼は、当時のマルクス主義に修正を加え、革命的労働運動の理論化として有名である
(2)塚原史 「暴力論の系譜 –今村仁司とジュルジュ・ソレル-」 東京経大学会誌 経済学 (259), 83-94, 2008年3月、pp.83-94 文献コート番号(TSUKfu 08a)
http://www.tku.ac.jp/kiyou/contents/economics/259/083_tukahara.pdf
(3)『暴力論(上・下)』今村仁司、塚原史訳、岩波文庫、新訳版2007年
(4)今村仁司 『暴力のオントロギー』勁草書房,1982 年,212p. 文献コート番号( IMAMhi 82A)
(5)今村仁司 『ベンヤミンの〈問い〉』講談社,1995 年,270p. 文献コート番号( IMAMhi 95A)
(6) 今村仁司 『理性と権力』、勁草書房,1990 年
(7)今村仁司『排除の構造 : 力の一般経済序説 』 青土社、 1985 文献コート番号( IMAMhi 85A)
(8)今村仁司『社会性の哲学』 岩波書店、2007 年、286p
(9)「非暴力主義かそれとも暴力による暴力抑止主義か -社会文化機能としての暴力装置・構造的暴力 (1)-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_20.html
「民主化過程と暴力装置機能の変化 -社会文化機能としての暴力装置・構造的暴力(2)-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/2.html
(10)「暴力の起源と原初的生存活動・一次ナルシズム的形態 今村仁司氏の講演「暴力以前の力 暴力の起源」のテキスト批評-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post.html
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