人間論から解釈される暴力の概念(2)
三石博行
前節で、人間的暴力の起源として今村仁司氏(以後、今村と呼ぶ)が述べた「根源分割」に言及しながら、生命力(エロス)とナルシシズムを具体的な暴力の起源として語った。つまり、リビドー(人間的な性的欲望、欲動)を、人間論的な視点から、暴力性を生み出す力と考えた。
生命力の起源としてのリビドー(人間的性欲)・暴力性
もし、エロスがなければ、人は人として生きることは出来ない。また、もしナルシシズムがなければ、人は自分の理想を持ち、その理想に向かって生きることは出来ない。つまり、人間として生きている条件に十分なリビドー(プラスの精神エネルギー)があり、その精神エネルギーを自己に投資することで自我の基本的構造である「自我の理想(ideal de moi )」(欲望の対象)を形成している。自我の理想とは現実の自己ではない。それは尊敬する人である。
「現実の自我」はこの「自我の理想」(尊敬する人)を目標にしながら努力し続けることが出来る。「現実の自我」(尊敬する人)は「現実の自我」ではないが、その自我の精神エネルギーを投資している対象(欲望の対象)である。その対象に自己を同化させ、その対象のまねをする。
つまり、「自我の理想」に向けられた精神エネルギーとは、現実の自己がその欲望の対象である「自我の理想」へ同化しようとする作用であると言える。勿論、現実の自我は、「自我の理想」ではない。リビドーの対象(理想の人)へ現実の自我を同化しようとするのである。この同化作用とは、観方を変えれば現実の自我を理想化された幻想の自我の姿として解釈する作用であるとも言える。自我の理想に同化しようとして形成された幻想の自我を「理想の自我( moi ideal )」と呼んでいる。
自我は自我の理想を持ち(希望を持ち)、その自我の理想(尊敬する人)に現実の自分を近づくために努力する。しかし、その理想には到底達し得ない。それが現実の姿である。だが、どうしてもこの現実の惨めな自分を勇気付け、そして一歩でも尊敬する人のようになりたいと思う。昨日の失敗を反省し、今日も努力する。そして、昨日よりも今日はよく出来た。その自分を励ましながら生きている。自分は出来る。必ず出来ると思いながら生きている。その力は、自分が尊敬する人に少しずつ近づいているという確信から生み出される。つまり、その確信とは確かに幻想かもしれないが、努力し、尊敬する人のようになりたいという自分にとっては希望の星なのだ。
以上の議論から、エロスやナルシズムの力(人間的暴力の起源)を取り除くことは、人間にとっては不可能なことであることが理解できるのである。
精神構造的暴力と社会構造的暴力
自我を維持するために、絶対的に必要な力、つまりエスからのプラスの精神エネルギー(リビドー・欲望)、そのエネルギーによって生み出されたエロスやナスシシズム、しかし、それは同時に、人間的暴力性の起源となる。
この暴力性は精神構造を維持するために必要なエネルギーであり、精神構造はその暴力性によって安定していると言える。この精神構造のシステムを維持するために、つまり、自我が、リピドーの具体的な投資対象(理想の自我)を持つことで、自我は安定しているのである。
この精神構造のシステム(自我)を維持する力を「精神構造的暴力」と呼ぶことにする。この名称は、以前、社会文化構造のシステムを維持する力として構造的暴力を定義したが、それと同様に、精神構造を維持する力を精神構造的暴力と呼ぶことにする。また、混乱を避けるために、社会文化の構造的暴力を「社会構造的暴力」と言いかえ、自我のシステムを維持する力を「精神構造的暴力」と命名することにした。
また、この二つの構造的暴力は、自我にしろ、社会文化にしろ、システムを維持するための暴力(エネルギー)であるので、間接的暴力として現れる。つまり、精神構造的暴力は誰かを具体的に直接的に攻撃しているのではなく、むしろ、間接的に攻撃しているスタイルを取る。例えば、ナスシシストの態度は「鼻につく」という不愉快感を人に与えるのだが、ナルシシストが誰かに悪意を持って自分の顔の美しさを鏡で見ていることはない。ただ、彼は(彼女は)自分の美しさに惚れ惚れし、もっと美しくありたいと願っているのである。しかし、その行為が、誰かにとっては「たまらない」ものに感じるのである。構造的暴力の一般的定義から、この暴力は常に間接的暴力の形態を取るのである。
過剰な精神構造的暴力を抑える現実則の働き
精神構造的暴力を抑制するために、つまりナルシシストにならないための精神機能が現実則とよばれる精神経済機能である。過剰の精神エネルギー(リビドー)の自己投資によって、つまり理想の自我を追い求めようとすることによって、自我は不安定になる。例えば、高い理想、実現不可能な理想を持てば、だれでも挫折するだろう。そこで、そんな高い理想でなく、「自分の背丈にあった目標を持つべきだ」と現実の自我が呼びかける。そうすることで、不可能な目標を立てて苦しむ自我を救うのである。これが「現実則」と呼ばれる精神機能の働きである。
また、他人や社会の迷惑を考えずに、自分の欲望を直接満たそうとする気持ちを抑え、社会的規則を守り欲望を満たすための方法を見つけ出すこころの働きを生み出す作用が、この現実則である。現実則によって、人々は、他の人々と共存できる。また現実則によって、社会的規則に従って考え行動する自我が生まれる。エス(無意識の自我)から直接湧き上がるリビドーを調整し、社会的に認められた方法で欲望を満たす行動をさせるために現実則は機能する。
現実則によって精神構造的暴力は最小限自我の維持のために使われることになる。現実則によって過剰な精神エネルギーの投資を抑えられる。つまり、現実的でない高い目標を追いかける無駄な行動を起こさない。そして、出来ることをコツコツとこなす日常生活を大切にする。そのことで、こころは安定する。
自我の内部に過剰なエネルギーを持ち続けることは、つまり、何かの情熱に浮かれた状態を想像すれば理解できる。例えば、現実生活を無視しても、その理想や不可能な恋の対象を追い掛け回す毎日が続くなら、必ず現実の生活は破綻を来たすのである。そこで、自我の内部の過剰なエネルギーを抑制するために、自我が持つ機能として超自我がある。この超自我は無条件に自我のエネルギーに急ブレーキを掛ける。急ブレーキでなく、納得積みのブレーキ、つまり自らが理解して自我の過剰なエネルギーを抑えるのが現実則である。
この現実則の働きは「社会的規則に従う」という大儀名分が用いられる。また、「そうでないと人が迷惑する」というモラルが用いられ、そして「そうすることでお互いが助かる」という理念に支えられるのである。つまり、精神構造的暴力を抑える力として現実則が存在し、その力を我々は理性、社会性、協調性やモラルと呼んでいる。
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修正 誤字 2011年6月28日
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