人間論から解釈される暴力の概念(4)
三石博行
社会構造的暴力の内化としての精神構造的暴力
本能の壊れている動物・人間が生きていくために人類が見つけ出した装置がタブー、伝統、習慣、社会規範や法律、規則であった。総じて、それらの社会文化的規範を自己化することを、現実則に即して動く自我と呼んだ。人類が考えた精神エネルギーを現実の生活や生命の維持のために活用する社会文化的規則に即して、自我が機能することで、自我は現実的に生存可能な行動や思考を行うことが出来るようになった。
つまり、社会文化規則(社会構造的暴力)がなければ、現実則(精神構造的暴力)を形成することは出来ない。換言すると、精神構造的暴力は社会構造的暴力が無ければ形成されない。社会構造的暴力がなければ、本能が機能しない人類は他者との共存も不可能になり、その結果、自らの生存条件を獲得することも出来ないことになる。自らの生命を維持するために、自我は現実則で機能することになる。
社会構造的暴力に類似した精神構造的暴力を自我に形成することで、生態系との調和や種の保存を生命活動の第一次的目的に出来ない人間的行動が修正され、無条件に自己をリビドー(人間的性欲)の対象とする自我の原初的な形態が抑制される。社会の規則に即して欲望を満たすこと、社会的価値の具現的対象としてある他者を自己の理想とする機能が生まれ、そのイメージが自己化され、自己の理想とする価値観やモラルが形成される。
社会構造的暴力は本能の壊れた動物・人間を存続させるために創り出された(発明された)機能なのである。つまり、本能が壊れている人間の生物的生存可能性を保障するための文化的装置としての社会構造的暴力であり、その内化によって作り出されたものが精神構造的暴力である。
意識・社会構造的暴力の土台に類似して機能する精神構造的暴力の産物
人間(乳児)が言語を話すようになって、自我(自己意識)が形成された。自己とは自ら発した言語によって再確認された存在を意味する。もし、言語が無ければ自己意識はない。声帯運動によって作り出されている音を同時に聴覚器官によって知覚し、その聴覚刺激が脳で意味となると同時に、運動野で生み出されている声帯運動の指示と同時化することによって生じたものが自己意識である。
聴覚野の音声パターンが視覚野の表象パターンへ変換し、その表象パターンが運動野の声帯運動パターンへ変換し、その声帯運動パターの声帯運動を生み出す(1)。それによって、自己の外に飛び出した音(音声)が、同時に、また再び、聴覚を刺激し、聴覚神経の刺激パターンが聴覚野へ伝達を繰り返すのである。この内的身体機能運動によって生産された外的世界の産物によって、再び内的身体機能が刺激され、外的世界の産物を通じて(声を聴くことを通じて)内的身体機能の所在を理解するのである。これが、所謂自己意識なのだ。
自己とは自己の生み出す身体運動の彼方に存在するものである。自己とは、その身体運動を認識する法則(言語的法則・文法や意味)を前提にして、理解された他者(外化された自己・自我活動によって外に生み出された自己の影)なのである。つまり、自我が言語化されていない限り、自己意識は存在しえない。何故なら自己意識とは言語活動を自我する自我がその生産物(言語活動・音声)を認知することによって生じた意識であるからだ。
更に述べると、精神構造的暴力の土台が社会構造的暴力の土台を真似て作られなければ、自己意識や意識は生み出せない。言語によって構造化されて自我の結果として、自己意識や対象意識(意識)が存在しているのである。つまり、意識とは、言語と呼ばれる社会文化的産物、社会構造的暴力の土台に類似して機能する言語活動と呼ばれる精神構造的暴力の産物によって生み出される。
内的世界の外化、外的世界の内化
そこで、意識は基本的には社会構造的暴力の土台に規定されている。それらは社会文化規範、つまり言語、価値、習慣、規範と呼ばれる社会や文化の構造に規定されている。しかし、その社会文化は人間活動の生産物である。人間活動がなければ、社会文化的構造は生産されない。その生産物として社会文化の構造、つまり社会構造的暴力を生み出すシステムが存在している。
同時に、社会構造は社会を構成する人々の意識によって機能する。例えば、もし、職業や社会的所属に対する意識(責任感)、社会的役割という個人の社会帰属意識が無ければ、社会は機能しないだろう。社会制度があるから社会が機能するのでなく、その制度を担う人々、言い換えればそれらの人々の自分の社会的役割と呼ばれる社会帰属意識が無ければ、社会は機能しないのである。(2)
社会構造的暴力の効力は、精神構造的暴力が社会を構成する人々に共通して機能していることが前提条件となる。これを、共同主観と呼ぶことも出来る。つまり、社会構成員がその社会的役割を自己意識として確立していなければ、社会は機能しないし、社会構造的暴力は生み出されないのである。社会機能の有効性は個人的意識において有効性を持つことで発揮されている。しかも、その個人とは社会的な個人である。つまり、ある集団であり、その集団を構成する大半の個人が共通に持っている価値観、モラル、社会文化規範、常識とよばれる意識である。
その意味で、社会構造的暴力やその土台は、精神構造的暴力やその土台と相互に補完し合う関係にある。つまり、生産活動において内的構造(精神構造)は外化(社会構造化)される。その外化作用の蓄積によって社会構造の土台が形成され、その社会構造の土台はそれを生産した人々の意識によって運営される。その運営形態を社会構造的暴力と呼ぶ。社会構造的暴力によって、社会構造(過去の人間的生産物の蓄積とその構造)は、あたかもそれ自体(生産物自体)が生きているかのように機能するのである。それを動かすのは、その社会の構成する人々、そしてその人々が持つ社会的役割意識とよばれる精神構造なのである。
しかし、同時にそれらの人々の持つ社会的役割意識は、以前に作られた生産物の蓄積、つまり社会構造によって根拠づけられるのである。その物的根拠なくして、社会的機能に関する個人の役割意識もそして精神構造的暴力も生産されないのである。
つまり、社会構造的暴力によって精神構造的暴力は形成され、精神構造的暴力によって社会構造的暴力は機能する。その社会構造的暴力の機能によって、精神構造的暴力は規定され、その規定された環境からさらに社会構造的暴力が再生産されるのでる。
生存するための闘い・暴力の起源
社会構造的暴力と精神構造的暴力の限りない相互補填運動によって、社会構造的暴力は維持され、その限りにおいて精神構造的暴力も維持されつづけるなら、つまり、この二つの相互補完関係が限りなく続くなら、自我の破綻や社会の破綻の根拠、そして新しい自我や社会変革が生まれる過程を説明できないだろう。
社会構造を維持するための力、つまり社会的価値観や規範の強制力である。その意味で、この力を社会構造的暴力と呼んだ。社会はその社会を構成する人々に、社会を維持させるために力(強制力)をもって登場する。その強制力は、しかし、精神構造化されることで有効に発揮される。個人の価値観、道徳心、モラルが形成される。それを精神構造的暴力と呼んだ。社会構造的暴力によって生み出された精神構造的暴力を持つことで、人々は(そのモラルに基づき)社会的役割を自覚し、生活、社会行動、生産活動を行うことが可能になった。
精神構造的暴力が有効に働かない場合にその精神構造的暴力装置(自我)の機能を解体し、新しい自我の機能に変えなければならない。精神分析が語る「転移」がそこで生じる。つまり、理想の自我の変換が起こる。そのためには、古い理想を捨てなければならない。この理想の自我、自我の理想の廃棄のためには、新しいリビドーの対象が選ばれることになる。古い自我を捨てるために、新しい理想の対象が登場し(新しい精神エネルギーの投資対象が登場し)の自我の変革作業が進行するのである。新しい自我によって、精神の安定を獲得し、より有効に精神エネルギーを投資し、現実の生活を運営するために、自我の変換が行われるのである。
また、社会構造的暴力が有効に働かない場合には、古い社会的習慣や規則は破棄される。その破壊の主体は新しい社会的価値観をもった人々(若者)たちである。彼らは、これまでの社会構造的暴力の正当性を否定する。その根拠は、その社会構造的暴力では社会構造が安定しえないからである。例えば、現在北アフリカで進む民主化運動は、民衆化という理念的課題を追求するために生じている運動ではない。食料や生活の貧困が生み出す社会的危機に対して、その解決として現在の制度を否定しているのである。人民が満足しているなら、革命は生じない。しかし、社会が人々の生存を保障しないから、人々はその社会制度や秩序を否定し、新たな秩序や制度を確立するために動く。目的は、あくまでも、飢餓や貧困から人民を救済するために有効な制度を持つ社会の確立である。40年前、カダフィーがやった様に、若い人々が独裁者カダフィーに対してリビア人民の貧困か社会を救済するために血を流すのである。
古い精神構造や社会構造を破壊するために、新たな理想、価値観が登場し、自我や社会は変革されて行く。例えば、新しい世界観、西洋科学技術観、民主主義や資本主義思想によって影響を受けた人々によって、幕末や明治の日本の近代化(社会変革)が行われたよう、欧米近代思想やその社会的価値観が日本の近代社会への変革の力となった。欧米列強による植民地化を防ぐために、明治維新、近代化政策や富国強兵政策を推し進めたのである。
また、戦後民主主義は敗戦の責任として古い日本への批判と同時に戦勝国の新しい社会的価値観が導入され、国民主権、人権擁護と平和主義を謳う日本国憲法が公布され施行さることで、戦後民主主義社会思想に基づく自由主義と平等主義を原則とする自我が形成される。つまりそれまでの封建的自我は破棄され新しい自我に変革されるのである。そして、自由主義経済を興し、平和な経済国家を目指し、戦後の経済復興に取り組んできたのである。
精神構造的病理と社会構造的病理への対策として・構造的暴力の意味
ある時代の精神構造的暴力とは、その時代の人々の自我を維持するための間接的暴力であり、それによって個人(社会的個人・社会的役割を担う個人)の精神構造のシステムが維持されるのである。その力を持つことによって、社会構造的な直接的暴力を最小限に防ごうとするのである。それが、社会病理に対する対応策なのである。
また、ある時代の社会構造的暴力とは、その時代の社会を維持するための間接的暴力であり、それによって社会文化の構造やシステム維持されるのである。その力を持つことによって、個人的な直接的暴力を最小限に防ごうとするのである。つまり、それが精神病理に対する対策となる。
参考資料
(1)吉田民人先生(以後、吉田民人と呼ぶ)はある記号から別の記号への変換、つまり「記号が記号を意味する作用を『内包する』と呼んだ。 吉田民人『自己組織性の情報科学』、新曜社、1990、pp47-49
(2)ピーター・バーガー トーマス・ルックマン 山口節郎訳 『現実の社会的構成 知識社会学論考 』 新曜社、新版2003.2、pp111-140
Tweet
0 件のコメント:
コメントを投稿