2016年11月23日水曜日

故岩松弘先生の教育(1)「アクティブ・ラーニング型授業」

今朝、NHKのニュースで「アクティブ・ラーニング型授業」について紹介されていた。この「アクティブ・ラーニング型授業」は、日本人に取って、大切な教育だと思う。

私は、この「アクティブ・ラーニング型授業」を中学校3年(1963年)の時に経験していた。当時、担任であった故岩松弘先生が、「道徳」(?)の授業の時に、生徒に課題を与えて、自由に議論をさせていた。先生は何一つ言わず、また、最後の何一つ結論も言わなかった。それで、授業の間、私たちは議論し、その後も友達同士で話が続いた。つまり、「自分の力で考える」授業だった。私は、この授業が何よりも好きだった。先生のテーマは、「身近な人のことを考える」テーマが多かった。自分がその時どう理解し、何をするべきかを考え、また話し合う授業だった。

良く図書館に行った。そして本を探した。当時の私は「白樺派」だった。甘い人道主義的理想主義者だった。それで、武者小路実篤やロマンローランを読んでいた。これらの読書も、この「アクティブ・ラーニング型授業」に刺激されたのだと思う。

自分の力で考えるという事は、その文字通りに自分ひとりで考えるという事ではない。友人と話し、読書をし、ニュースや新聞を読み、社会の現実を自分の目で観て、考えるという事だ。そのためには、自分の自然に、いつの間にか考えていることを知る必要がある。自分の考えていることを知るために、人と話をするのだと思う。人との話を通じて観えるのが自分の姿であった。それを「自分で考えること」と言うのだと思う。

岩松先生は、この授業で、身近な話題「テープに録音されたテーマ」ばかりでなく、短編の小説を読んで聞かせ、それについて議論をさせた。自分の作品(岩松先生は小説家としても有名で、九州で幾つもの賞を取っていた)とそうでない作品を出して、どちらが聴きたいと聞いてから、その一つを読んでいた。もちろん、どちらが先生の作品かは知らなかった。読み終わった後で、それが先生の作品だったと知った。

それらの読書を通じて、やはり、「読書話し合い」が行われた。先生は、その時も、何一つコメントしなかった。最後の最後まで。自分の作品であっても、コメントしなかった。一つの小説は、恋愛もので、きわどい大人の愛が表現されていた。そうした作品に私達は触れながら、中学3年生では想像できない世界を観た。これまでの少年期に植え付けられたモラルでは計り知れない世界があった。丁度、初めて森鴎外の「舞姫」を読んだ時のような、苦しく、怒りの、そして自分の価値観を越えた世界であった。それは大人の世界と呼ばれていた世界だった。今から想えば、それは、思秋期から青年期に向か私に、人間・自分についての問題提起を与えていたのだと解釈できる。

この授業の後、親友とあの大人の愛について語った。すると彼は、自分の家であった両親の出来事を話してくれた。そこには、彼の父親への感情、それはもう子供ではない一人の人間としての感情が彼にはあった。そうして、大人の入り口、決して人道的理想主義者でしかなかった私に大きな課題を突き付けていた。その問いかけは、30を過ぎ、多くの失敗、人を傷つけていた自分の現実、その時まで続いていた。

「アクティブ・ラーニング型授業」とは、多分、その授業時間にその成果があるのではなく、その授業が終わった生徒たちの生活の中で、授業の意味、授業が目指した教育が発揮されるのだと思う。否、それどころか、生涯を通して、その授業の課題が、私たちの生活の中で、際限なく問われ、生きる環境や時代の変化に合わせながら、その回答を求め続ける。そればもっとも素晴らしい「アクティブ・ラーニング型授業」の例ではないかと思う。

日本の教育で最も問われているのは「人間力」だと数年前から言われ続けて来た。人間力とは、まず、自分で考える・友達と真剣に話し合える技術から生まれるのだと思う。そのための「アクティブ・ラーニング型授業」のやり方を現場の先生たちに考えて欲しい。何故なら、人間力を身に付けることが「アクティブ・ラーニング型授業」の教育課題であるからだ。

しかし、どうだろうか。はたして、教師が生徒に「人間力を身に付ける」ことが大切だと説教しながら、人間力を生徒に教えることが出来るのだろうか。と言うのも、生きるという課題は、それぞれの主体の抱えた主体(自分)にとっての課題であり、他者かた迫られる課題ではない。己がそのことに目覚め、そのことを目標にして初めて可能になる課題である。そして、そう自らが決め、立ち向かった時に、その課題「人間力」が生まれる。教師が、その生き方をしていない限り、生徒にそのことは通じないだろう。

その上で、始めて「人間力」の具体的な教育課題が検討される。教師は、まず、「人と話せる力、自分で考える力」が何故必要なのかを生徒に教えなければならない。それは理論ではない。それは教師の人間力、生きざまなのだと思う。生きざまを問い掛けている人間であるからこそ、その生きざまを磨く「人間力」を他の人々と共感できるのだと思う。そうした人間力を課題にする教師を、日本の教育現場、特に初等中等教育(小学校から高校まで)の現場では求められている。

多感で感受性の豊かな時代に、人間教師と出会うことは、その人の人生に大きな影響を与える。それこそ、日本社会の最も大切な文化的人的資源だと思う。教育を大切にする社会には、未来がある。その教育の中心が人間力を育てる教育だと思う。だから、学校や社会で「アクティブ・ラーニング型授業」について考え、それに協力し、素晴らしい授業例を紹介し研究し、研修する作業が必要となる。それを始めるべきだろう。

岩松先生がこうした「アクティブ・ラーニング型授業」を出来たのは、彼が、彼の人生の中で、苦悩し、必死に生き、友人たちや家族を愛し、生徒を愛していたからだろう。そのことが、この「アクティブ・ラーニング型授業」を行う教師に最も問われる課題ではないだろうか。

岩松弘先生は、自らが完全な人間だとは言わなかった。いつも、私たちに自分の弱さを見せてくれた。その度に私は先生が好きになった。大人が子供に真剣になるという事は、つまり、真正面から、一人の人間として向き合うとこだ。つまり、カッコいい分かったふりは要らない。一人の生身の人間として、その矛盾も弱さも、すべて子供に見せながら、子供とともに考え、そいて生きている生身の自分を見せることだ。それから、初めて、子供と話ができる。親とはそんなものだ。子供を育てること、それは子供に育てられていることを知ることから始まる。それが教育の原点だと思う。

「アクティブ・ラーニング型授業」は、こうした教育の原点を持たなければ可能にならないと思う。「アクティブ・ラーニング型授業」を、教授法とか授業、話し合いをさせる技術として理解するなら、多分、「アクティブ・ラーニング型授業」は成功しないと思う。

とは言え、教育現場で、この困難な「アクティブ・ラーニング型授業」を一方的に先生方に迫り、そして彼らに、困難な人間力を身に付けなさいと説教するのは無責任だと思う。

この「アクティブ・ラーニング型授業」に関して、多くの研究や研修があっていいと思う。その原則は、この「アクティブ・ラーニング型授業」を社会全体で育て、豊かにすることを社会が理解することだと思う。何故なら、家庭で、親がこどもと真剣に向き合っていないなら、子供たちに人と真剣に話し合う、向き合うという「アクティブ・ラーニング型授業」の土台が形成されていないからである。

「アクティブ・ラーニング型授業」を学校の中の、先生だけの授業として理解している社会では、人間力を育てる「アクティブ・ラーニング型授業」は可能にはならないだろう。社会全体、少なくとも生徒の親をも含む、また、「アクティブ・ラーニング型授業」を経験した大人(教育関係者以外の人を含む)も参加することが理想だろう。

社会全体が「アクティブ・ラーニング型授業」への協力をし、初めて、一つのクラスの一人の教師の取り組む「アクティブ・ラーニング型授業」が可能になるのではないか。そのための仕組みを作ることを始めなければならない。

その意味で、この「アクティブ・ラーニング型授業」の普及は、日本社会の教育文化の在り方を、国民・市民が自らの問題として考える社会作りだと思う。それは、教育こそが未来社会を創るという日本の伝統文化を維持・発展させようとする私たちの未来への責任ではないかと思う。

2016年11月9日 Blog記載

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