2010年6月21日月曜日

いじめるという行為の分析、いじめないということの困難さ

倫理問題(人間観の問題)としての虐めの課題


▽ 教育学者によると虐めには、子供社会にある「お山の大将を決める行動」に由来するもの、嫉妬によるもの、そして刑事事件的な暴力行為まである。その具体的な手口は、悪口を言う、笑いものにする、悪いうわさを立てるなどの言葉による暴力、無視する態度による暴力から集団暴行(暴力を振るう)、恥ずかしい行為を強制する、金銭を要求する、万引きなどの犯罪行為を強制するまである。

▽ 刑事事件の対象になる虐めに関しては発見した際に警察の協力が必要で、保護者も学校も警察に通告しなければならない。例えば自殺者を出すなど、重大な事件に発展し被害者の保護者の憤激を伴う場合、刑事事件として告訴しなければならない場合が生じる。それ以外に、こどもの喧嘩(暴力を振るう行為)によって傷害事件も発生するだろう。それらのすべての事件を刑事事件として告訴することは出来ない。暴力事件が起こったとしても、教育の立場から、学校での虐め対策を検討し、教育活動として虐め問題を考える機会を与え、予防対策をおこなう必要がある。

▽ また言葉や態度による虐めに対しても常に敏感に対応し、それ以上虐めがエスカレートしないように学校として(職場として)対策を行う必要がある。つまり、虐めた子供も虐められた子供も含めて文部科学省が提案しているマニュアルなどを活用し学校やクラス全体で虐めに対する対応をしなければならない。この課題はこれまで2回にわたって学習してきた。つまり、社会的対応と教育的な対応が必要である。

▽ ここで問題にしたいことは、虐めを倫理的問題として考えるために、虐めの構造を理解する必要がある。これまでの議論では、虐めたという自覚を持つこと、また虐めが暴力であるという意識を持つことの二つの点に関して問題を整理してきた。さらに、虐めの問題を人間性や倫理の課題として議論してみよう。


傷つけた」という思いと「いじめた」という思い

▽ アンケートで、クラスの学生に、「いじめられたことがあるか」という質問を出す。殆どの学生が「ある」と答える。その逆の「いじめたことがあるか」という質問には「ある」と答える学生は少ない。さらに、「人を傷つけたことがあるか」と問いかけると「ある」と殆どの学生が答える。

▽ 「いじめる」という行為は「ひとを傷つける」行為である。しかし、人を傷つけたと思う人でも、ひとをいじめたとは思っていない。何故なら、「人を傷つけてしまった」と思う現在の自分は、「傷つけるつもりで傷つけたからではなく、結果的に傷つけてしまった」ことを記憶している。「あのとき、あの人を傷つけたのだ」という思いが、「ひとを傷つけてしまった」という記憶として、心に留まり続けている。それがこの「人を傷つけたことがある」という答えの背景ではないだろうか。

▽ また、多くの学生が「傷つけたことがあった」が、「いじめたこと」はないという答え(過去の行為に関する自覚)を示したのは、「傷つける」行為と「いじめる」ということばのニュアンスの違いがあるからではないだろうか。

▽ 言換えると、「いじめる」という行為がはるかに「傷つける」行為よりも悪意に満ちた意図的な行為であり、その意味で、いじめる行為の方が暴力的に聞こえる。傷つけるとは家族、友人や恋人のこころを傷つけたというニュアンスが大きい。しかし、いじめるとはあるいじめの集団の一員として意図的に弱い人をターゲットにして陰湿な暴力行為を行ったというニュアンスに近い。その意味で、いじめると傷つけるは大きく主観的な意味が異なることになる。

▽ また、傷つけたと言うニュアンスには、その行為への罪悪感が匂う。すべての人が、何らかの形で、ひとを傷つけてしまったという罪悪感(良心)を持っている。特に自分の愛する人に対してこの感情を持つ。この感情が愛なのだろう。ある意味で、他者への愛が、人(友人)を傷つけたという気持ち(罪悪感と呼ばれる良心)として現れているのである。

▽ 例えば、「人を傷つけた」と答えた人に「あなたの傷つけた相手は誰ですか」と問うたとする。女子大の学生なら「母親」という答えが多く返ってくる。また、若い夫婦なら「自分のパートナー」、年を取った人々なら「過去に老いた両親の面倒をみてやれなかった」という答えが返ってくる。自分の行為の不十分さ、未熟さを省み、それを悔やんでいる場合に「不十分で未熟な自分の対応を受けた他者への思いが、何かもっとしてやりたかった。なにもあんなことを言わなくてもよかった。そうした悔恨の気持ちが「傷つけた」という感情として残り続けるのである。それは、悔恨と呼ばれる愛の姿、呵責という良心の姿ではないだろうか。

「人間には二種類だけしかいない。一は、自己を罪びとと思っている義人。他は自分を義人と思っている罪びと。」パスカル『パンセ』


暴力行為としての虐めの自覚

▽ 傷つけたという思いがあることはすでに虐めたと云う過去への反省が始まっていることを意味する。自分が人を虐めたことがあると言えるとき、そこから虐めに対して向き合う姿勢が生まれる。虐めたことを認めない場合よりも、虐めたこと、つまり人を傷つけたことを自覚していることが、虐めの問題を解決する鍵となる。

▽ 考えてみると「いじめ」と平仮名(ひらがな)で書かれると、子供たちや友達の間に生まれる遊びに近いニュアンスをもった「嫌がらせ」や「仲間はずれ」を意味する。実際、「いじめ」は言葉による嫌がらせから肉体的暴力や金銭を要求する恐喝行為まで含めた幅広い意味を持っている。ひらがなの「いじめ」をここではあえて漢字で「虐め」と書いたのは、この行為が「人を傷つけること」をそのことばの意味の中心におきたかったからである。その意味で「いじめ」が「ひとにいやな思いをさせる」という緩やかな、あそび心のある行為であったとしても、それは明らかに他者を「虐める」という暴力であることには変わりないのである。

▽ 暴力という言葉は明らかに他者を傷つけるという意味を持っている。しかも暴力は、ことばの暴力から肉体的暴力、また個人の暴力から集団の暴力、そして社会や国家による暴力まで、その種類も形態も多様である。つまり暴力という言葉には否定的な意味が強く含まれている。暴力という言葉を使い、その暴力の良さを語ることは非常に困難になる。そこで、虐めを暴力として理解することで、そのいじめが人を傷つけている行為であることを自覚する必要がある。

▽ 暴力を振るってはいけないという意味は、殆どの場合、肉体的暴力を意味している。何故なら暴力の「力」が具体的な行為を意味するので暴力という用語が肉体的な行為を意味するからである。言葉や態度で示す他者への嫌がらせを精神的暴力とか言葉による暴力と呼んでいるのは、もともと暴力は肉体的にダメージを与えるという意味が基本となっているからだ。

▽ 虐めを暴力として自覚していないことが、虐めへの反省が生まれない原因になっている。つまり、誰もが「きもい」と思っている奴に自分が正直に「気持ち悪い奴だ」と言ってやったという不特定多数の他者の意見や感情を代弁する立場に立って、虐めという行為が正当化されるのである。もし、「気持ち悪い奴」と言う事が暴力であるという自覚を持つなら、不特定多数を代表するという「皆が言いたいことを言った」という社会正義の錯覚や主観的イメージを持つことは苦しくなる。

▽ 自覚的に虐めが不当な行為であり社会的にも認められない暴力であると自覚することによって、虐めるという行為が卑劣であるという意味付けが可能になる。卑劣な行為は誰もやりたくないだろう。その意味で、虐めるという行為を恥ずかしく思えるだろう。つまり、虐めを行った人々が虐めを暴力として自覚することが虐めの問題を解決する糸口を与えると思われる。


最広義の暴力への抑制と無意識の自己中心的な自我の世界の自覚

▽ 暴力と呼ばれる行為を非常に広い意味(広義)に解釈すると人を傷つける行為と言えるのであるが、人を傷つける行為は人間の行為の中でまったく特別な行為ではない。何故なら日常的に人は何らかの形で人を傷つけているからである。しかし、この「人を傷つける行為」が意図して行われた場合と意図しないで行われた場合を分けるなら、暴力は意図して行われた人を傷つける行為であると解釈できるだろう。

▽ 意図しないで、つまり主観的には傷つける気持ちはまったくなかったのだが、結果的に人を傷つける行為をしてしまう場合もある。すなわち差別用語などの、言葉によって人を傷つける行為は、差別用語を使う人々は日常的にそのことばをつかっているので、別状取り立てて悪意をもって使っているわけではない。例えば、「片手落ち」という用語は「何かが足らない状態を意味する」のである。そこで上肢(じょうし)障害を持つ身体障害者にとっては、この「片手落ち」の国語表現は、自分の身体的状況を「不完全なもの」と一般解釈されていることになるため、上肢障害を持つ身体障害者にとっては特別な意味となる。つまり、身体的な状況をもった自分の存在は、一般的な意味で「不完全なもの」、「未熟な状態」という意味になるのである。

▽ 日常的に使われている日本語に含まれている意味を我々は深く考えもしない、そして用語としてそれらの単語や言い回しを使うのである。主観的にはまったく人を傷つける気持ちはないのであるが、結果的にはそのことばで誰かが傷ついている。この状況は、広義の暴力の定義に該当しないため、さらに最広義の暴力として位置づけてみよう。つまり、最広義の暴力とは、「主観的に意図して行われていない状態で人を傷つけていること」という概念である。こう考えると、日常生活の中で、非常に多くのことばや態度でまったく主観的に意図していないが人を傷つけていることは数々あることに気づく。

▽ 例えば、我々は、自然に自分の自慢をしている。人と話始めたら、決まって、自分の自慢話、子供の自慢話、兄弟の自慢、友達の自慢、恋人の自慢、になっている。人の自慢話ほど聞いていられない話はないが、その自分も口を開ければ、聞きたくない人の話と同じように自慢話をしている。他人の自慢話は聞きたくないものである。不愉快である。何故なら、その自慢に対してどこか自分が惨めになるように思われるからである。他人の自慢話を笑って聞ける人は、自慢話をしている人よりも少し優位に立っているようにおもえる。「あの人はあんなに自慢しなければ身が持たないのだ」とか「自慢は、コンプレックスの裏返しだらか、よっぽどコンプレックスを持っているのだろう」とか、非常に冷たく自慢話をする人を上から見下ろせば、きっと他人の自慢話も滑稽(こっけい)な話に聞こえる。そして、自慢話をしている人のその裏の心理を察しながら、どこかで同情したり哀れんだりできるのかもしれない。しかし、よっぽど自信家でない限り、他人の自慢話は我慢がならないものだ。

▽ 自慢話をしない偉い人、謙虚な人間として他の人々からの尊敬を集めている人が、まったく自分を自慢する気持ちがないのではなく、彼らは自慢話をされた人の気持ちが理解できているから自慢しないのである。彼ら(謙虚で偉いと言われた人々)は自慢話をされた人が持つ不愉快さと、自慢話をする人の滑稽さを知っているので、努めて自慢話をしないのである。決して彼らが自分を自慢したいことを持たないために、自慢話をしないのではなく、ただあえて自慢したいことを自慢しないだけである。その違いをもって、人は謙虚な偉人になれば、うぬぼれ屋の俗人にもなるのである。

▽ 人は自己中心的世界をもって生きている。それを自我とよんでいる。すべての人にとって他者や世界は自己の周りにあるもの、自己を取り巻くものであり、また自己によって認識されたものである。その意味で対象世界も他者も自我によって認識されて登場したものである。その状態を主観と呼ぶ。しかし、現実の世界は、自分が認めようと認めまいと、自分が生まれる前から存在したし、また自分に関係なく運動し存在している。現実の世界にとって自己がむしろ「存在をゆるされている」ものであり、「生かされているもの」である。しかし主観的世界からは世界が自分によって認められたもの解釈されたものとして存在している。

▽ 最広義の暴力を抑制するためには、自分に潜在的に存在し、そして無意識に湧き上がる自慢や自己愛というナルシシズムを抑える意識力を持たなければならないことになる。 意図しないで人を傷つけたことばや態度を意識的に拾い上げ自己分析、反省しながら、その行為(なんとなしに語る言葉や態度)を対自化(たいじか)、つまり自分の外に取り出して、自分の意識の対象にし、分析的に理解する作業に組み込まなければならないのである。

▽ この作業、最広義の暴力を引き起こさない作業は至難の業である。それ程、困難な作業、自己点検分析、反省の作業が必要とされているのだ。しかし、それを可能にすることは殆ど出来ないのではないだろうか。


残酷な自己中心的存在者としての人間、人間性の自覚

▽ 話しが飛ぶようだが、生物の世界では個体は生き延びるために他の生物を食べている。その生物の生存のための決まりは人間でも例外ではない。つまり、人は他の命を食らい生きている。もちろん、生きるために他の生物を食らうことは生命活動の自然な姿であり、生態学では食物連鎖と呼んでいる。人があらゆる生物、植物から動物までを食べるのは、人間が食物連鎖の最上段に位置しているからである。

▽ 動物愛護団体の活動、例えば捕鯨反対運動を行い哺乳動物・鯨を守る団体(シーシェパード・SS)のメンバーが、日本の捕鯨船に乱入するという事件が起こった。鯨の乱獲によってある種の鯨が絶滅しようとしている。その意味で捕鯨を制限しなければならない。乱獲を防ぐための国際的規制を作る必要がある。しかし、すべての鯨の種が絶滅種になっているわけではない。捕鯨に反対する人々の言い分は、鯨やイルカが海の哺乳動物ということで、動物愛護団体の立場から、イルカ漁や捕鯨に反対している場合もある。

▽ 動物愛護団体に参加し、捕鯨反対を唱(とな)えている人々は多くの場合、欧米先進国の人々である。彼らは鯨の肉やイルカの肉を食材に使ってきた歴史や伝統文化はない。欧米では、これまで鯨はナガス油(狭義の鯨油)と呼ばれる食料油とマッコウ油とよばれる工業用油の材料として使っている。ある少数民族を除いて伝統的に鯨を食べる習慣はない。その意味で、捕鯨の中止は、彼らの生活文化(食文化)に大きな影響を与えることはない。

▽ しかし、もし仏教国の動物愛護団体が豚や牛を殺すことに異論を唱え、豚肉や牛肉を食材とすることを動物愛護精神に反する残虐な行為であると批判するなら欧米の人々はどのように反応するだろうか。彼らの食文化から豚肉や牛肉を取り除くことが出来ない以上、鯨肉を食べる食文化圏の人々のように、屠殺(とさつ)(現在「屠殺・とさつ」と言うことばは差別用語とされている。)に反対されることは大変なことに違いない。

▽ 実際、屠殺は残酷である。例えば上等の豚肉は5ヶ月ぐらいの子豚を屠殺するのであるから、豚は屠殺されるために生まれてきたと言っても言い過ぎではない。そして、日常生活の風景として、屠場に運ばれ食肉に加工された牛肉や豚肉は、お肉屋さんやスーパーの食肉コーナーに並べられ、それを我々は買い求め、毎日の食材として使っている。

▽ 多くの人々が菜食主義者ではない。1970年代までは、屠殺はハンマーを使って豚や牛の脳天を叩き殺していた。一瞬にして豚も牛も死んでしまう。しかし、隣で殺される仲間を見ながら仔豚たちが叫び泣く声は悲痛であった。一回でも屠場に行ったことがあるものなら、あの泣き声を忘れることはできないだろう。しかし、それでも豚肉を食べるだろう。

▽ 日常生活を過ごす自分達の姿をリアルに観ることによって、そう深く考えなくても、人間のリアルな姿が少し正しく理解されるだろう。例えば子豚を食らう我々人間の姿から、人間の姿が見える。人は他の生命によって生かされている動物である。

▽ だが、そういう肉食という残酷な生活文化や生活習慣を自覚したとしても、やはり生きるためにその肉食を続けるだろうし、仔豚を屠殺し続けるだろう。

▽ 仏教文化を持つ日本では、長い期間肉食の文化がなかった。そのため屠殺行為は封建社会の士農工商の階級制度から除外された部落民の仕事になっていた。近代日本が始まり、西洋文化を取り入れ肉食文化が輸入され、食肉加工のために屠殺が行われるようになっても、屠殺にまつわる古い差別意識が残り、屠殺という言葉が差別用語に結びつくように、肉食をしながらも、屠殺行為を忌み嫌い、嫌悪し、屠殺を行う人々を非民の慣わしとして差別してきた。

▽ 豚肉や牛肉を食しながら、屠殺することで得られているそれらの食材の現実を認めないところに実は、人間が宿命として多くの動物の犠牲の上に生きている残酷でありながら宿命的な現実をも否定する意識の構造が隠されている。実は、この現実、つまり屠殺して他の動物を食らって生きている現実を直視しない現実こそが、最も問われなければならない問題である。

▽ 前節で自覚しないで人を傷つけている行為を最広義の暴力と定義をした。その最広義の暴力を振るわないようにするためには、例えば自慢話の例ではないが、無意識に行っている自己中心的な行為によって、自分の周りの人々の受ける気持ちを理解する作業が必要であった。しかも、それによって仮に自慢話をしなくなったとしても、本来、人は自分を最も愛している以上、自慢話をするようにできているために、自慢話を決定的に防ぐことは出来ないという自覚が必要であった。

▽ ある意味の逆説、つまり、人が本来自己中心的存在であり、自我という意識を持ち、世界を自分の周りに認識している以上(本来、世界によって自分は創られたのだが、意識的には世界は自分によって認識されて存在していると理解されている)、その意識中心主義が起こしている認識世界と存在世界のあり方の逆転を防ぐことは出来ない。そこで、もっとも現実の自分、世界によって生かされ、他の動物を食らうことで生かされ、他の人々の労働によって生かされ、家族という制度で生かされ、育てられ、社会という制度で育てられてきた人間としての自分を理解することからはじめなければならないのである。

▽ 最広義の暴力とは、自己中心的な意識をいかに現実の世界の中に正しく置き換えるかによって自覚的に抑えることが可能になるのではないだろうか。そして、他の生命、仔豚を食らう自分がいるなら、その肉を食い散らさない、捨てない、最後まで、きれいに食べてあげる親切さを忘れないことだろう。その努力に、最広義の暴力を理解する術が隠されていないだろうか。


「いじめるな」から「いじめない努力をしよう」という考え方の変換

▽ 虐めを無くするためにこれまで「いじめるな」と教育してきた。しかし、本来人間は、自己中心的な存在であるため、虐めるという行為は自然に現れる。意識的に虐めなくても無意識的に他者よりも優位に立ち、他者よりも立派だと評価されよと努力する。その努力がある意味で自分を高めながらも、同時に他人を傷つける結果となる。

▽ 自己中心的意識から生まれる行為や言語(認識)活動と他者より優位に立ち、自分をよりよく見せようとする行為は不可分の関係にある。それらは人間的行為の典型である。つまり、人は自己の利益を追い求め、自己を高めるというモラルと人は他者を助け、共に共存するというモラルの二律背反するモラルをもって生きている。その二つは互いに反しながら、そして自我の確立と社会性の確立の両方を同時に備えるために必要とされている。

▽ 虐めるなという行為要求は、その意味で自己に自己中心性よりも他利中心性の大切さを解く論理から導かれている。つまり、人は自己中心的であってはならない。そこで「虐める」ことは悪であり、もし虐めるという行為があるならそれを悪として徹底的に否定しなければならない。

▽ だが、果たして「いじめるな」という説教が虐めに対して、虐めない人間の内面性や倫理感を育てることができるだろうか。最広義の暴力を防ぐ力を与えるだろうか考えてみたい。

▽ そこで、まったく発想を変えて「虐めるな」でなくて、逆に自覚的に「虐めないように努力する」ことを課題にしてはどうか。何故なら、人は自己中心的存在であり、その意味で人は自然に他人を傷つける存在(虐める存在)である。無意識の自己中心的な存在、自然と他者を無視する存在、その限りにおいて他者を傷つけずにはいられない存在、そうした人間の性(さが)、自我のあり方を自覚的に理解する方法として、せめてこれ以上「虐めない」ように努力をし続けること、虐めを予防する対応として理解する必要はないだろうか。

▽ 虐めない努力をするという対応がいじめるなという対応よりも、より現実的な対応ではないだろうか。つまり、人が自己中心的存在であることを自覚的に受け止めているから、虐めないための最低限の努力をするのである。この「虐めない」努力をすることは、虐めの対策を自己中心的人間性の自覚の上にたったそれ以上傷つけないという倫理的目標として提案されたものである。

▽ 「いじめない努力をする」ということを考えるとき、中学2年だったころの思い出が浮かぶ。それは、中学2年の担任の先生のことばだった。中学の周りに生えていた松の木が春になると、すっと細長い小枝を伸ばす。その小枝は柔らかく、棒で叩くと、まるで刀にすっぱりと切られた枝のように簡単に折れる。その快感を味わいながら、パクパクとようやく待ち望んだ春に力いっぱい伸びる松の枝を切っていた。担任の先生が「君、その枝はまっすぐと伸びようとしているではないか。何故、そんな可哀そうなことをするのだ」と私に注意した。

▽ その時、はじめて松が必死になって生きようとしている生命であることに気付いた。想像力のなさ。子供であるということを一言でいうと、想像力のなさだろう。そして無邪気な残酷さだろう。

▽ いじめとはその無邪気な残酷さ、想像力のない子供じみた行為のように思える。いじめないということは、その無邪気で残酷な子供らしさから抜け出て、大人になること、想像力を持つこと、によって獲得される人間性ではないだろうか。

▽ 他者への共感は、自己にある他者という共通する存在を自覚した経験を前提にして生まれる。もっと高く伸びたかった先生には、まっすぐと高く伸びようとする松の若芽が美しく見えたのだ。その伸びようとする生命を残酷に切り落とす私の行為を見過ごすことは出来なかったのだろう。

▽ いじめないという行為の困難さを教える。否、共に自覚しあうことが、いじめに対して大人が子供に語らなければならない作業かもしれない。今は、あの担任の先生のように、諭す大人や教師がいないのだろうか。それとも、大人もこともと同じくらい陰湿ないじめにあっているのだろうか。


引用資料
ブログ「生活運動から思想運動へ」2008年1月 三石博行
http://mitsuishi.blogspot.com/2008/01/blog-post_9938.html

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