三石博行
平成維新の志士たちがいるなら
一般に金が入るとか、名誉をもらえるとかいう理由なら人が動くのだが、
厄介なことはその人たちは社会の常識で動かないだろう。
例えば、正義のためとか、国家、社会、人民のためとか、彼らは理解し難い抽象的な理由で動く。
これらの人々は、一般の人々には理解し難い存在である。
社会が安定している平成の世の中で、一般常識では信じがたい理由で動き出す人々は、やはり気が狂っているとしか言えないだろう。なぜなら、そんな理由でこの平成元禄時代を動き回る必要がないからだ。
社会が不安定で国家が危機的状況になっている場合は、社会や国家を救済するために、社会を変革するために、侵略者と闘うために、国民市民の悲惨な現状を解決するために、動く人々が生れる。
それをある人は志士と呼び、ある人々は過激派とかテロリストと呼ぶ。
何しろ、自分の命などどうでもいい、自爆しようが暗殺されようが、それを恐れることはない。彼らにとって最も恐れることは、それに立ち向かえない自分がいること、そして不正や邪悪な権力におびえる自分がいることである。
母国国家や人民の未来を信じて、自分の命も財産も家族的生活もすべて捨てた人々なのだ。聖人にして狂人である彼らは、時代の落とし子に違いない。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり。」西郷隆盛
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