- 激動するグローバリゼーションの歴史の流れでの急がなければならない政策課題 -
三石博行
1、独裁型国家から民主主義国家への移行原因(資源論から見る)
21世紀社会のこれからの課題を考えるために、17世紀からはじまった近代合理主義、啓蒙主義、そして民主主義や資本主義の意味を、これまでの社会経済史の進化過程の中で、理解しなければならない。
そもそも、生物の世界では、種の保存が個体保存よりも強くはたらく。しかし、人間は、その逆だ。つまり、種の保存よりも個体保存を優先してしまう。そのため、私たちは社会規則、慣習、習慣、文化、社会制度という人工的な環境を創りだし、個体保存(利己主義)を抑えるシステムを構築してきた。
その意味で、封建社会までが、最も人類にとって種族保存には都合の良い、素晴らしい環境であった。しかし、近代主義、個人の自由や社会的平等が社会観念の本流を形成していった時代、確かに、自由という欲望の力によって資本主義経済が発展し、私たちは巨大な富を獲得したのだが、同時に、この自由の制御システムを摸索することになった。
最初の試みは、社会契約という考え方であった。つまり、「自己のエゴを認めてもらうために、他者のエゴを認める。それらのエゴの利害関係を前提にした社会制度・法を形成し、その法の支配を前提にした社会、つまり民主主義社会を形成する」という考え方である。
確かに、封建時代は、強力な暴力装置とそれを独占しる王権、独裁者によって、社会は運営されていた。意思決定は早いし、面倒くさい選挙や国民投票など不要で、王様や権力者の一言で、国が一つになって動いていた。その意味で、この社会制度は、意思決定機能に必要なコストを最低限に抑え、その分、国家の経済力を軍事力やその他に配分できた。勿論、権力者達がそれを支配し、その配分方法を決めていたわけだ。その視点から、見るなら、民主国家は、封建主義・独裁主義国家に比べて、恐ろしく非効率な制度を前提にしていると言われるだろう。
しかし、封建主義国家では、国家運営に活用できる人的資源を獲得できるストックは支配者階級を支える階層(貴族階層、武士階層)と限られている。勿論、封建社会の政権運営には、それで十分であったとも言える。しかし、より高度の政治経済機能を前提にして成立している近代国家では、一部の支配階層の人的資源では、国家運営を担うことが出来ない。国民国家として、国民すべての人的資源を活用することで、近代国家は成立する。国民への義務教育、徴兵制度、納税制度等々、それらは、近代国家の運営の一つを物語る。
封建・独裁国家が持つ意思決定の速さ、その経済効率を、民主主義国家では豊かな人的資源の活用によって、より高度の生産性と経済効率の良さを獲得する方向で進化してきた。もし、この進化の方向を予測するなら、未来の社会経済システムは、より広範囲の人的資源ソースを獲得し、そしてそれからより質の高い人的資源をより多く活用することが出来る社会制度になると思われれる。
2、21世紀型の社会経済システムへの進化プローセスのデザインとは何か
それを実証するように、ソビエト連邦が崩壊した。また、文化大革命によってより強固な社会主義体制の確立への政治路線を修正し「国家資本主義化」の道を選んだ中国ように、社会主義経済は実質、崩壊した。崩壊していない国がるとすれば、朝鮮人民民主主義共和国(北朝鮮)だけである。しかし、それも、多分、今後、大きく政治路線を修正し、中国型国家資本主義を目指すことになるだろう。
未だに、欧米型民主主義国家が一般的民主主義社会の典型として世界化しないのは、富国政策の要である近代化政策に、それぞれのやり方があることを、世界、特に欧米日本を中心とする経済先進国は理解しなければならない。
今更説明するまでもないことだが、中国型の一党独裁型国家資本主義経済制度と国家支援の国有企業経済が、意思決定の速さ(経済効率)と大衆化した共産党を土台とするより豊かな人的資源の活用によって、急速な経済発展を可能にしようとしている。事実、社会主義を名乗る中国は一党独裁型国家資本主義制度の中で、急速な近代化、工業化、資本主義化、市場経済化、国際経済力を付けて来た。こうした新しい近代化政策やそれを支える政治制度を、旧来の社会主義対資本主義という古い視点で見る限り、その基本的構造を理解することは出来ない。
近代化の遅れたアジア(ロシアを含む)では、近代化は、かくてイギリスやフランスが成し遂げた市民革命、西欧民主主義制度を類似して進行することはない。そのことは日本の明治維新、そして明治・大正・昭和初期の天皇制日本帝国の歴史を振り返ることでも理解できるだろう。 いずれにしても、今後、社会経済システムの進化は、資本主義経済を生み出した民主主義国家の基本的な路線を踏襲しながら、それらの民族国家の歴史や伝統、資源状態を前提にして進むだろうと思われる。
3、21世紀社会の重要課題、人的資源の育成、確保、維持
その意味で、21世紀型の社会経済システムを構築するためには、大きく二つの課題が問われる。一つは、その国の伝統や文化という言葉に凝縮された過去の資源形態、そして、もう一つは、現在の社会経済システムを稼働している現在の資源形態である。その二つの課題から、まず、第一の課題、伝統や文化という言葉に凝縮された過去の資源形態を活かし、これからの社会経済システムの進化プローセスを設計(デザイン)することが問われる。そして、第二の課題では、グローバリゼーションの流れの中で存続可能な社会と人々の在り方を課題にする社会制度設計が問われる。
第一の課題では、以下のテーマが問われる。
1、伝統文化、生態文化を重んじ、また他国、異文化理解、多様性を受け入れる豊かな教育文化と教育制度の確立を行う。
2、伝統産業と先端産業の融合による、文化と人的資源の開発・イノベーションを進めるための研究開発を促進する制度や教育を充実させる。
3、グローバリゼーションの流れの中で持続可能な多様性を基調とした地域社会の在り方を摸索する。
また、第二のっ課題では、以下のテーマが課題となる。
1、より広く人的資源ソースを獲得する社会制度の構築、豊かな教育文化と教育制度の確立を行う。つまり、教育環境、教育内容、国民皆教育制度(教育の無料化)の充実が大切な課題となる。
2、また、より素早く社会変革に適応する人材形成の制度構築、豊かな再教育制度。つまり、新しい産業構造に順応し、またそれを担う人々を育成する制度が必要である。そのためには、既存の学校制度(大学や専門学校)をそのために活用すべきである。そして、すべての人々が、多様な、しかも自主的・主体的な再教育制度を受けられるように改革を進めるべきである。
3、教育を重要な社会インフラとして位置づけること。つまり、より多くの人々が、その教育社会インフラの向上や維持に参加できる制度の構築が必要である。教育インフラを社会全体、市民全員でサポートする制度を形成すべきである。
4、21世紀社会の重要課題、政策決定過程への市民参画型社会の形成
グローバリゼーションが更に進行する21世紀の社会経済システムを構築するために、参画型市民社会の形成、多様性を受け入れる力をもつ社会文化の形成、変化する産業構造に対して新しい産業構造を構築できる人材育成と再教育制度、研究開発機構、必然的に進行する格差社会に対する社会政策、社会福祉保障、教育政策、等々、敗者復活戦を可能にする社会、意欲ある人々に挑戦の機会を与える社会、つまり人的資源の確保や維持を重要な課題としえ取り上げる社会の仕組みが必要となる。
これらの課題を解決しようとする社会が、21世紀型社会経済、つまり、社会経済のグローバリゼーションの流れの中で生き延びることが出来る社会となるだろう。一言でその進化の方向とは、民主主義文化の徹底化であると言える。しかし、現在、世界のあらゆる国々の政策や政治の在り方を見る限り、必ずしも、そうはなっていない。逆に、民主主義を抑制し、国家的統制を強化し、国民から政治参画の機会を奪い、また国家の情報を安全保障に関わるとして隠蔽し、強引な国家運営を行う傾向にある。そうした傾向を推し進める政治家の言い分は、「意思決定の速さ」と「国家安全保障」のためと言うことだ。
例えば、最も典型的な国家として日本、わが国のエネルギー政策をその例に挙げることが出来る。1973年の第一次石油ショック、1979年の第二次石油ショックを受け、エネルギーの海外依存を続けてきたわが国のエネルギー安全保障の見直しが進む中、原子力エネルギー政策が大きく歩み出した。資源・エネルギー・食料の自給は国家安全保障上、極めて重要な課題であることは言うまでもない。当時は、再生可能エネルギーは化石燃料よりも高価であった訳で、原子力発電をベースにしたエネルギー政策を立てたのは、日本だけではなかった。しかし、原子力発電の安全性は極めて問題であった以上、その政策決定を、検証する必要がある。化石燃料に依存しないエネルギー政策を、当時、原子力以外に摸索することが出来たのかという反論もあるだろう。その意味で、当時のエネルギー政策を、現時点から評価することは、難しいのであるが、安全性の課題を、隠蔽し、原子力発電を建設し続けたことは、大きな誤りであったと考える。
もし、このエネルギー政策を、民主主義社会の進化を推進する条件を取り入れて、展開したとすれば、政策過程に、これまでの歴史的経過と、どのような違いが生じたいたか、その違いを仮定してみよう。
1、原子力発電の仕組み、管理体制、その安全性に関する徹底的な情報公開を行い、誘致する地域、及び、原発事故を想定して、被害が及ぶと仮定される近隣地域の市民を含めて、枯渇する化石燃料(海外の)に依存する日本のエネルギー政策・安全保障に関する議論を行う。
2、原子力発電の危険性や安全性を訴える科学技術者、その有用性、必要性を訴える経済人、政府、地方行政等々の専門家の意見を社会的に公開し、市民のコンセンサスを得る活動を行う。
以上のような、情報公開、市民参画のエネルギー政策を進めることができるなら、原発建設を同意し、建設されたにしろ、また、その逆に建設が中止されたにしても、エネルギー問題を国民的課題として考える機会を得ただろう。そのことで、国民間では、どのようなエネルギー安全保障に関する意識が高まっただろうか。例えば、省エネルギー国民運動が起こらなかったか。また、市民共同での小水力発電、風力発電、太陽光発電、太陽熱利用、等々の再生可能エネルギー政策を支援し、推進する国民運動が起こらなかっただろうか。これが、ここで、簡単に仮定できた海外に依存し、かつ枯渇し続ける化石燃料に依存しない日本のエネルギー政策に対する国民的な参画、サポート、支援活動ではなかったかと思われる。
しかし、今述べてことは夢物語と一笑されても仕方のない話である。つまり、歴史的現実は、まったく、それとは反対の流れを作り、そして、50基を超える原発が建設され、それらの燃料を自給するための核燃料サイクル、高速増殖炉よって原発で生産された劣化ウラン(ウラン238)がプルトニウム239に変化し、それを更に核燃料として再利用するいうストーリーで現実は進んだ。その結果は、今更、ここで言うまでもないだろう。
問題は、国家の最も重要な政策に関する情報が国民・市民に公開されず、また、政策決定過程が闇に包まれ、一部の与党政治家、官僚、専門家と原子力関連産業の幹部によって、政策が決定されてきたことである。この意思決定の構造は、前記した封建時代や独裁国家の意思決定の手法と類似している。原子力発電所建設をめぐる多くのステークホルダーの意見を取り入れていたら、建設は不可能であると理解した上で、民主主義社会では考えられない独裁的な決定方法を選んだ。その結果が、福島原発事故であり、そのために国民が受けた被害とさらに100年以上も掛かる事故処理や巨額の税金、国民負担である。
この失敗を再び繰り返さないためには、市民参画型のエネルギー政策を行うしかないのである。しかし、まだ、日本国民と政治はそのことを理解していないようである。となると、もう一度、福島原発事故に近い、災害を繰り返す可能性があると考えるべきである。