2010年4月15日木曜日

人間と倫理1 「性善説と性悪説から推察できるモラルのあり方」

三石博行

3、性善説と性悪説から推察できるモラルのあり方を考える

性善説
▽ 性善説からすれば、人は本来、善き存在で、悪(悪い癖)は社会生活の中で受け入れてきたものである。そのため、社会の悪癖(悪い行い)に染まらないように努力する必要がある。もし、悪い友人や集団と交わることで、悪癖を受入、悪に染まってしまったら、その悪友や集団から離れ、自分の良心を取り戻す生活をすればよい。そのことによって、倫理的な生き方を取り戻し、維持することが出来る。

▽ 我々の社会は欲望によって動いている。悪が社会の中で生み出される必然性がそこにある。その社会の中で、自分を善き存在(人)であるように努めるには、出来るだけ悪い集団や習慣に近づかないように努めなければならない。しかし、もし悪い習慣を身につけたなら、その悪い社会環境から離れ、自分ひとりになって、自分に向き合い、自分と会話することで、人本来の姿を取り戻すことが出来る。人は本来善き存在である以上、自分と確り向き合えば、倫理的生き方が維持されるのである。

▽ つまり、人は社会的な影響を受けることで、悪を受け入れてしまう。そのため、そうした社会から出来るだけ離れ、自然の中に身を置き、社会の影響を受けないことで、倫理性は自ずと生まれることになる。

▽ 人間の内面にあるモラルの力を信じ、その内面的な力を引き出すために、出来るだけ一人になり、確りと自分に向き合う時間を持つこと、そうすることで人間は誰でも間違いを見つけ出し、正しい道に戻ることが出来る。


性悪説
▽ 性悪説からすれば、人は本来利己的存在であるため、悪は人間が生まれつきもっている、人間本来の姿であるという考え方である。

▽ 性悪説は人間が本来悪い存在であると述べているのではない。人は、本来、生きるために悪と評価される行為をしなければならないように出来ていると述べているのである。例えば、もし、自分の欲望を満たそうとする力がなければ、人は生きてゆけないだろう。そして、何がなんでも自分の生命や生活を守ることが出来なければ、死んでしまうかもしれないし、大切な人を見殺しにしてしまうかもしれない。

▽ 生きるために行う行為、それは悪と言われようと、善と言われようと、食べるために、命をつなぐために、選ぶ行為がある。

▽ 終戦直後、日本では闇市が禁止されていた。闇市で食料を買わないと生きていけなかった。親は子供に食べさせるために闇市で食料を買いあさった。それは社会的に悪とされている行為である。ある人が、その社会の決まりを守ること、社会が認めない行動をしないことを良心に誓い、闇市で食料を買いあさることをしなかった。その人は餓死したとの事である。

▽ しかし、闇市で商売する人々の弱みにつけこんで、人々から「寺銭」(闇市をするためのお金)を集める人々が生まれる。生きるために闇市をする人々は、社会が認めていない商売をするので、不当なお金を取られることを警察に相談することは出来ない。そこで寺銭を集める人々は、闇市の商売人たちを脅し、半ば強制的にお金を取り上げることができる。

▽ このようにしてヤクザやマフィアは収益を得て、大きく組織を拡大することが出来た。社会の悪は、人が生きるために行う行為によって、さらに拡大し続ける。

▽ 生活物資が不足し、食料が無いときに、人は誰でも自分が生きるために、家族を守るために、それが社会で禁止されていても、それが悪いことだと知っていても、闇市で商売し、闇市で食料を買うのである。貧しい限り、生きるための生活物資が不足している限り、警察が闇市を徹底的に取り締まったにしろ、社会から闇市をなくすることは出来ないのである。

▽ アメリカの禁酒令とマフィアの関係はもう一つの典型的な例である。

▽ 人々が個人の欲望を満たすために争い、殺しあうなら、社会は混乱することになる。食料が欲しければ、スーパーで盗む。カラオケで遊びたかったら、人の金を巻き上げる。こうした行動が日常化している社会がある。この社会では人の命が簡単に奪われる。欲望を満たすために、何をしてもいいわけではない。

▽ そこで、社会の秩序を保つために、社会の平和を維持するために、人々の生活を破壊されないために、人々は決まり(法律)を作った。その決まりを守らすために、警察をつくり、刑務所をつくった。決まりを守らない人は、自分達の社会から排除する制度を作ったのである。

▽ 社会の秩序が維持されるには、個人の欲望を抑制する社会的機能が必要となる。個人の道徳や倫理的規範を支える社会的な制度、法律、警察、裁判所、刑務所、場合によっては死刑台が必要となる。

▽ つまり、「人のものを盗んではいけない」という道徳規範があり、それが有効に働いていなければならない。人のものを盗む行為を取り締まり、裁き、刑罰を与える制度があり、その制度が機能していなければならない。悪を取り締まる厳しい制度や罰則があって、はじめて犯罪の発生を抑えることが出来る。

▽ 人々は、その罰則を受けないために、ひとのものを盗む行為等の犯罪を行わないように、自分の中で自然に生まれる欲望、例えば「人が持っているいいものが欲しい」という欲望を押さえ込むことが出来る。つまり、人がもっているものが欲しいのだけど、それを勝手に取り上げたり、盗んだりしたら、自分はもっと損をすることになると知っている。欲しいものを直接手に入れることの利益から、それをやった後に受ける懲罰の不利益を引くなら、結果的に損をすることを知っているために、人はものを盗まないのである。

▽ 人間が本来利己的であり、自分の欲望を満たそうとする限り、倫理や道徳で述べられたことが自然にできる分けではない。むしろ、個人のモラルを維持し、社会的倫理規範を維持するためには、法的な強制力をもった抑止力が必要である。

▽ 言い換えると、個人のモラルを助けるために、社会は個人が自分の欲望を抑えるために必要な社会的強制力を他方で用意しなければならない。それが人を罰するために刑法があるというのでなく、人が自分の欲望で自滅しないように、犯罪行為を起こさないように、その抑止力として、刑法や刑罰があると考えることも出来る。

▽ 人のモラルや理性はあまりにも弱い。利己的な人間本来の性格や少しでも良く見せたい、楽をしたい、いいものを手に入れたいという欲望によって、理性やモラルは、簡単に、いつでも破棄されてしまう。ついつい、いつのまにか間違いを犯す。それが人の姿である。その間違いが致命的なことにならなければ何とか生きていける。そして、致命的なことにないように、社会に助けてもらわなくてはならない。それが警察であり、刑務所である。

▽ 懲罰を行う社会制度は、人の引き起こす重大な間違いを事前に抑制するために、もしそれが生じたなら厳しく取り締まるために、性悪説を前提にして設定されているのである。





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