私の故郷、鹿児島県指宿、山川の港町は伊豆大島の波浮港と同じくマール式火山の爆裂火口が海没して出来た港町である。吹き飛ばされた火口壁が海に開き、港の入り江が狭く奥に火口が広がる。しかも港はほぼ垂直な火口壁で囲まれ、切り立った火口斜面がそのまま海に深く落ちている。天然の良港であり、避難港である。
昔から、東アジアとの貿易の拠点となってきた。
切り立った岩山に囲まれた山川の港町は、地理的にも閉鎖空間を作っていた。200メートル近くの断崖の下を、細い道路が指宿市から続き、その横をJR指宿枕崎線がしがみ付くようにはしっている。
山川港の町で育った我々の世代は、5歳の保育所から15歳の中学まで一緒に遊び学ぶことになる。少ない転校生以外に、隣町から港町の小中学校に入ってくる子供はいなかった。そのため、多分に閉鎖的で緊密な関係が我々の中にあった。
そんな同郷の人々が「みんなの広場」という掲示板を立ち上げていた。
http://6927.teacup.com/ijohs/bbs/
懐かしい気持ちで、メールを送った。川畑義法さんからお返事を頂いた。多分、お会いすれば、幼いころの顔を重ねながら、どこどこのだれだれだったと思い出すことも出来るだろう。
故郷の想い出の一つに「大隈の山」がある。
小学校のころ私が何となくみていた向え大隈半島南端に向かう木場岳を頂く山地は太平洋プレートの造山運動から出来た地形で、急激に隆起した山地は険しいV字谷に刻まれている。そうした雄雄しい山々の風景に、小学6年のある日、突然(友達と遊んでいる時に)、激しい感銘を受けたことがあった。
それまでは、ただ向え(錦江湾の向う)にある大隈の山だった。その大隈の山が、ある瞬間から、こころを揺り動かす美しい山々に変貌したのである。それは、私の自我の形成、理想の自我への芽生えを意味したのだろう。まるで、無二の親友のように山に語りかけ、恋人のように山を眺め、山をスッケッチしていたことを思い出す。
中学1年が終わって春休みだったと思う。母と兄弟姉妹で大隈半島の最南端の佐多岬に出かけたことがあった。フェリーに乗って、山川港から錦江湾の沖に出ると、こんどは薩摩半島が見える。山川港の後ろに美しい開聞岳(薩摩富士)が見えてくる。さらに沖にでると、薩摩半島最南端の山々が東シナ海の広い海面にへばり付いているように見えてくる。殆どが低い山と低いシラス台地の穏やかな地形である。
ふと、大隈半島の人々は、こんなのっぺりとした向かい(薩摩半島の南端)の地形を見て、何を感じているのだろうか。私のように自然の風景に感銘するだろうかと考えていた。
私の大隈の山々への感銘は、女性的なやさしくのっぺりとした地形で育った人間の「自分にない世界」への憧れではないのか。逆に、険しい大隈の山々の村で育った若者は、自分を育てた厳しい山々の自然に、私のように感銘するだろうか。感銘でなく、その厳しさとの闘いの日々をおくっているかもしれない。
私の大隈の山々への感銘は、厳しい世界への憧れから生まれたものである。しかし、彼らの現実は険しい大隈の山地の麓での厳し生活から生まれたものである。
私は、大隈の山々の雄雄しさに憧れ、逞しく生きることを価値とし、育てられた。
彼らは、その雄雄しい山の麓で、毎日険しい坂道と這い蹲るように通う山道を歩きながら、その苦境から出ること、その苦境を耐えることを、大隈の山々に言い聞かされた。
そんな思いをしながら、私の乗っていたフェリーは根占港についた。
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