2010年4月9日金曜日

哲学の道の桜

先日、突風の吹き荒れた日のNHKのニュースから、「桜の花は激しい風にも散りません。何故なら、まだ受粉していないからです。受粉しないと桜は自分の役目を終えていないと思い、散らないのです。」ということばが飛び込んできた。

取材していた記者が受粉前の桜の花びらを引っ張る。
桜の花は小枝を引っ張る。
桜の花は小枝から離れない。
小枝も引っ張れて曲がった。
桜の花はか弱く散りやすいのではないのだ。

散る桜はもう自分の役目を終えたので散っているのだ。

太平洋戦争の時、十代の青少年が片道の燃料を入れた特攻機に乗って、薩摩半島南にある知覧基地から飛び立っていった。そのイメージは常に、映画や話の中で、散る桜として語られてきた。

美しい桜の花、そしてその花は咲いて間もなく散る。その美しい花(青年達)と散る花びら(潔く死を迎えること)のイメージを重ねた話しである。

こんな悲しい話の材料に桜は使われ、国を守るために死んでいく若い命に美しい日本の花、桜のイメージを与えたのだ。

彼らはこれからの生きていく未来を持っていた。
まだ役目を終えていないのだ。
戦争は、その役目を終える前の花びらを散らしてしまった。
彼らは散る桜ではない、散らされた桜ではないか。
なぜなら、桜の花は、台風並みの春の嵐でも散らないのだ。
ちゃんと受粉(子孫を残す)まで散らないのだ。
それなのに、彼らの桜は、恋も経験せず、家族も持たないで、散っていった。

今年も桜に花が咲いた。あれから六十数年を経った今年も桜が咲いた。

あの青年達を、忘れないでほしいと、日本国中の桜は、今年も咲いているのだろう。

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