2、性善説と性悪説
▽ 古代中国の二人の賢人、孟子(もうし)と荀子(じゅんし)は孔子の弟子であったが、人間に関する考え方は真っ向から異なった。孟子は、人間は生まれながらにして善であるという思想であるである性善説を唱え、一方、荀子は孟子の性善説を批判した。
▽ 孟子は、「人の性の善なるは、猶(なお)水の下(ひく)きに就くがごとし」(告子章句上)と述べ、人の性は善であり、どのような聖人も小人もその性は一様であると主張した。また性が善でありながら人が時として不善を行うことについては、この善なる性が外物によって失われてしまうからだとした。そのため孟子は、「大人(たいじん、大徳の人の意)とは、其の赤子の心を失わざる者なり」(離婁章句下)、「学問の道は他無し、其の放心(放失してしまった心)を求むるのみ」(告子章句上)とも述べている。」 「ウィキペディア(Wikipedia)」
▽ 一方、荀子は性悪説の立場から、孟子の性善説を批判した。「人間の性を悪と認め、後天的努力(すなわち学問を修めること)によって善へと向かうべき」だと荀子は主張した。ウィキペディア(Wikipedia)
▽ つまり、荀子は、人間の「性」(本性)は「限度のない欲望」だという前提から、「悪」を「乱」とした。何故なら人々は各自、自分の個人的な欲望を無限に満すために、最終的には奪い合い・殺し合いの騒乱を引き起し、社会は「乱」(=「悪」)に陥ることになる。
▽ 荀子は、そのような欲望を無限に満たそうとするのでなく、それを抑え騒乱を引き起こす行為を治めることを「善」と考えた。つまり、各人の欲望を外的な規範(=「礼」)で規制することによってのみ「治」(=「善」)が実現されるとして、礼を学ぶことの重要性を説いた。
▽ 荀子は、まず人間の性を悪と認めることで、本来人に具わっている悪を自覚し、それを戒める努力が必要であると考えた。従って、人は後天的努力、例えば学問修行、スポーツやボランティア等などによって悪(人の迷惑を顧みず自分のためにだけ行動しても満たしたい自分の欲望)を抑制することが出来る。そして、自分の行動や生活スタイルを他者との共存と対立しない考え方や生き方を工夫し、社会規範を守る行動を心がけ、人々のために働く努力をすることで、人は善へと向かことが出来ると荀子は考えたのである。
参考文献
1、 松尾善弘「性善説と性悪説」鹿児島大学教育学部研究紀要.人文・社会科学編 第47巻(1996) pp11-26
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