2010年8月30日月曜日

私にとって研究活動とは何か

三石博行


はじめに

ホームページの課題「研究活動」を書くために、何故、私が現在の研究活動を始めたのかという経過を書かなければならなかった。

私の研究活動は、大学人と呼ばれる大半の人々とは異なっていた。普通はいい日本の大学を出て、大学院にそのまま進み。教官(恩師)の指導を受けながら学術論文を書き、それを学会に発表し、その実績を積み重ねながら大学の職を得る。これが最もオーソドックスなコースであった。

私はそれらのコース(道)に何一つ当てはまらない人生を歩いてきた。私にとって哲学は自分のためにあった。しかも、その哲学を大学の講義で教えられるようになったのは、今年になってからである。つまり、日本で教鞭を取って16年目に哲学の入り口の入り口、つまり哲学らしく講義できる科目を持った。

しかし、その科目で、哲学らしい授業をしようとは思っていない。それよりも役に立つ「失敗学」を教えるほうがいいと思っている。

私の研究活動の全体的構成を問いかけるため、点検するためホームページをつくることにした。それはこれまでの私の生き方の反省をすることによってしか進み得ない作業であった。

そして、恥ずかしい私の失敗と挫折、誤りと不詳の人生を曝け出すことから始めなければならなかった。



社会に貢献する科学者を夢見た少年時代

私の小学生の時代の夢は、1950年代当時の多くの少年たちと同様に「世の中のためになる発見や発明をする自然科学者」になることであった。戦後まもない日本、資源の少ない日本では工業化によって国を豊かにすることが社会的コンセンサスとなっていた。豊かさをもたらすものは工業化であり、工業化を可能にする力は科学技術であり、その科学技術を発展さす力は理工系の技術者であり、理学系の科学者であった。多くの小学生と同様に、私も多くの人々が新しい科学技術の力によって豊かになることを夢見ていた。

高校時代にベトナム戦争があった。戦争報道の映画を観てショックを受けた。そして大学で理科系の学科に進んでから、その戦争で使われている兵器開発に科学技術が使われていることを知った。また、水俣病などの公害病の発生の責任を科学技術は避けて通れないと思った。科学研究への憧れとそれへの批判が交差し合っていた。

卒業研究で選択した実験物理化学から、水素結合の分子間相互作用を研究するために理論化学の分野への移行を試みた。それは科学研究の方向と私の能力においても失敗であった。高度な数学能力は大学時代そう訓練を受けていなかった。私が研究を始めるために選んだ研究室の理論化学は理論物性物理学の一分野であった。総合的な化学分野の専門教育を受けた私にとって、数理物理学を理解しなければならない理論化学の分野への転向は困難であったと同時に、実験科学的世界とかけ離れた今日謂われる計算機科学の世界、分子モデルの計算(シュミレーション)を行う世界であった。


科学研究の道への挫折と社会運動としての科学技術論活動(安全センター活動)

その理論化学への挫折と当時の大学で持ち上がった社会問題・「大学の理工系学部の実験系研究室から流される有毒物質、おもに実験廃棄物の垂れ流し」問題が新聞に記載された。実験系の研究室ではその対応に追われ、大学は社会に対してその対応を即刻しめさなければならなかった。になった。そして、大学での教育研究活動が生態系汚染を起こしている事実を農学部の「災害研究会」が指摘し、学内での討論会が起こった。

私は科学研究をやめることの口実を得た。それは「科学技術の発展は必ずしも人間社会の利益と繋がらない」という結論と人間社会に貢献する科学技術とそうでない科学技術があるのかという疑問がわいた。

当時、流行っていた武谷三男や星野芳郎の科学技術論を読みながら「科学のイデオロギー」を友人たちと議論した。中国の文革運動から生まれた新しい技術運動、例えば三廃運動などに関心を持ち、公害物質は労働から作られる非交換価値的生産物であると考えた。公害物資は疎外された労働の形態という考え方である。

その公害物質にさらに労働力を加えること交換価値を持つ商品に変換することができる。公害物質の発生は労働過程にある。つまり、労働によって本来価値を持つ商品への変換過程が存在可能になるが、その過程が疎外される。公害部資質は非交換価値生産物である。資本主義生産様式の労働過程を解決することで公害問題への解決の糸口が見つかる。つまり、公害は資本主義生産様式の典型として生じる」と主張した。大学新聞にそんな主張を載せながら「京都大学安全センター」を工学部機械自主研の友人達と呼びかけた。

学生運動は「はしかのようなもの」とよく言われた。殆どの学生が学生運動をして、卒業間じかになるとチャント就職して社会人となった。結果的には、批判した資本主義社会の歯車やその原動力となって行った。しかし、卒業後自活しなければならない学生たちの現実の生活が選んだ賢明な進路決定であった。学生運動に参加した殆どの学生が当然現実的な方法で卒業後の進路を決めた。


社会運度としての安全センター運動

しかし、当時の私はチャンと社会人となることの意識がなかった。つまり、いつまでも何か夢を追いかけていた。そして学生時代の仲間と共にその夢を追いかけあった。それが関西労働者安全センターであった。今まで知らなかった労働現場、そこでの過酷な作業、職業病や労働災害の現実を見た。

その解決のために、自分たちの知識をフル回転させた。工学部のSS助教授、機械自主研のMH氏や医学部の労働災害職業病の研究会の仲間と一緒に労働現場を調査し、データを取り、それを医学や人間工学的な視点から分析して報告書を書く。労働基準法や労働安全衛生法の事例を引用しながら意見書と作り、労働基準局に労災認定の救済を申し込む。私の毎日は、労働運動の一部、労働災害職業病との取り組みという仕事となった。

当時、MY氏は阪大医学部を卒業し堺市民病院で研修医を終え、その後、どの医療機関にも属さず、地域活動家の一人として、京大薬学部を卒業したばかりのTM氏、私と一緒に安全センター運動を創っていった。MY氏は医者であることにこだわらす、港湾労働者の着る作業服を着て毎日労働現場を私と歩いていた。

私を含めてMY氏、TM氏、NH氏、KS氏の力がなければ、安全センター運動は大衆化しなかった。そしてそれを京大で支えていた工学部のSS先生やS先生の教官、MH氏を中心とする京大安全センターや京大阪大労職研のメンバーの力がなければ関西労働者安全センターは形成されていなかった。

そして彼らと共に、特にMY氏と共に南大阪労働者診療所運営委員会、松浦診療所、同診療所検診部を創った。地域医療活動に安全センター運動が結びついたとき運動の質は大きく変化した。そして、私は、安全センター運動や地域医療活動を担った多くの仲間と共に、全国労働者安全センター連絡会、大阪被災労働者同盟、北大阪労働組合、黒川医療奨学金制度、能勢農場等の組織創りに参加した。

南大阪労働者診療所(松浦診療所)を建てるために、小口のカンパ(出資金)を全金港合同労組や全港湾労組大阪本部や多くの労働組合、そして京大の教職員から貰った。大口はMY氏と私が出資した。それらの多数の人々から集まった資金こそ、これまでの安全センター活動の成果であった。

労災職業病闘争支援の職業的組織として関西労働者安全センターが機能し出すなかで、全国港湾労働組合や全国金属労働組合からの労災認定のための協力要請が連日のごとくあった。毎日が労働組合と連携して大阪、兵庫や京都での労災認定のための労働基準局との激しいやり取りであった。そして、我々の活動は関西全域のみならず北陸、九州や四国にまで、労働基準局との交渉に走り回った。

また、労働安全衛生法の変更を契機に、関西労働者安全センターは国会での法律改悪反対闘争を取り組んだ。当時安全センターの会員である労働組合の支持政党は日本社会党や民主社会党であった。民主社会党の和田耕作議員は率直な人柄で、我々の運動が少し過激で民社党としては協力できないと話されていた。自民党以外の公明党を含めたすべての政党の議員の所に行って、労働安全衛生法の改悪阻止に協力してもらった。そんな関係で国会議員特に土井たか子議員、井上一成議員や当時の多賀谷社会党書記長には協力して頂いた。

そして、当時の社会党から衆議院への立候補を推薦された。勿論、政治家になることは断った。


左翼労働運動の問題点とその限界・復活するスターリン主義の亡霊

京大安全センターの運動はそれなりに科学者技術者運動として展開していたが、同じように関西安全センター運動を科学技術者運動として始めた私の姿と私の現実の行動はかけ離れていった。

そして、もう一度、科学技術の問題を研究する活動に帰ろうと決意した。何故なら、当時の私は余りにも深く大衆運動へ参加していた。仲間と創った組織への責任やそれらの組織を支えていた人々との関係を一方的に切ることは不可に近かった。その不可能さを超えるためには、私がそれまでの自分の蓄積は成果をすべて無にするしかなかった。今までのすべてを捨てる以外に、もう一度、科学技術問題の研究に戻ることは不可能であった。

また、当時の左翼労働運動、強烈な階級闘争を前提とする社会運動、特にUH氏を中心とするG新聞に集まる仲間の活動は、ある意味で党派性をもっていた。仲間として参加することはすでに革命運動に身を置いたかのような覚悟を迫られる。あらゆる生活を犠牲にすることが当然の運動として革命運動ごっこがあった。

家族を犠牲にしてでも、労働運動や社会運動に身を捧げることが正しい生き方であると信じていた自分に、一緒に巨大マンション建設反対の住民運動していた住民Aさんが「Mさん、あなたは家族を犠牲にして運動しているが、本当にそれが私たちと一緒にやっている労働運動なのですか。私たちは家族のために闘っているのです。あなたを見ていると、仲間のように思えないのです。ごめんなさい。お世話になりながらこんなことを言って。しかし、あなたは若いし、小さい赤ちゃんもいるし、奥さんもいる。あなたのことが、これからのあなたのことを思うと、どうしても、言いたくなったのです。」

このAさんの思いもよらない私への評価に驚いた。自分は尊敬されていると思っていた私は、自分が間違った生き方をしている人間として評価されていること、しかも、私の協力を受けて解雇撤回や反公害運動している彼から、ありがとうという言葉でなく、これでいいのかという言葉が返ってきた。

私はいつの間にか自分勝手に大衆を指導する人になり、それらの人々の生活を守る闘いの指導する人になり、彼らと共に自分の生活を守る人、つまり本当の仲間にはなっていなかった。人々を上から見下ろし、人々の要求闘争をどこかで軽蔑しながらも、それを指導していた。

私を自分の弟のように思ってくれたAさんの勇気をもっての忠告であった。

京大やその他の大学で、私のように学生運動で考えたことを真面目に内面化していたある意味で純粋な人々はことごとく、これまた私と同じく、強烈な社会運動家たちと出会うことで、学生的貧弱さを粉砕され、その貧弱な生き方と考え方では、理念を貫き通すことは出来ないことを見せ付けられた。U氏はある意味で、日本の戦中戦後の左翼運動の本流、死を掛けて、敵・資本主義社会体制と闘ってきた人間たちの生き残りであったともいえる。そのUH氏の生き様に圧倒されるのは、学生運動で問われたことを内面化し続けた我々にとって、無理もないはなしであった。

そして、いつの間にか、かくて否定したスターリン主義が自分たちの身体に染み込んでいく。いつの間にか、疑うことでなく、信じることであり、それは決断することが自分の日常性を支配する思想性に変換されていた。いつの間にか、かくて批判した筈の教条的な思想の自分が絡め取られ、ある思想のあめには簡単に人々を切り捨てかねない人間となっていた。

まるで連合赤軍のように仲間同士の殺し合いでも起こりかねない思想を自己批判という言葉で語っていた。

「核戦争で人類の半分が死滅したとしても、社会主義革命が成功するなら核戦争もしかたない」と書いている毛沢東の考えは、つまり彼のマキャベリズム思想は、かっこよいと思われると同時に恐ろしい考え方であった。20代のはじめに愛読し熟読していたドストエフスキーの「未成年」を思い出した。スターリン主義を予感した彼の著書には教条的な革命運動、未熟な社会変革の思想が登場人物を通じて描かれていた。私は、その未成年の中にいた。そして未熟な社会変革の思想を私はいつの間にか支持していた。

何故、そうした教条を持つのか。それは遥か昔、高校時代から私が否定してきた思想ではなかったか。私は人々の生命や生活がもっとも大切だと思って、社会運動に参加したのではなかったか。私は社会正義を信じてベトナム戦争や侵略戦争に反対し人民の自由と世界平和のために闘ったのではなかったか。私のどこかで崩れ、そして激しく疑い、解体するものがあった。


私の「自己批判するべき」事件を通じて、私はその責任を取る形で、その大衆社会運動から出て行かなければならなかったが、言い方換えれば、それは新しい自分の挑戦・本来希望した科学技術論研究の機会を得たのであった。


問題提起の旅へ

インドへ向かった。目的はなかった。ただ、この現実との距離を得たかった。

カルカッタ(コルカタ)の街に着いた。そこで多くの人々と出会った。WMCAカルカッタ支部の人々(インドのキリスト教徒)、マザーテレサの施設へボランティアに来ていたヨーロッパ人や日本人達、マザーテレサの施設のシスターやカロリック協会の牧師達、サダストリートに集まっていたヒッピー達、東大闘争で挫折しインドに来てベンガルの詩人タゴールとインド楽器タブラを研究していた元東大生(数学専攻)のNさん(彼は長年コルカタに住んでコルカタ喘息となり、日本帰国した。そして確か昨年2009年に彼が死んだと知った)、彼が下宿していた家の息子、インド共産主義運動親中国毛沢東派のリーダであったミットロ氏、インドやバングラディシュの社会や農業開発を研究していた日本の研究者達、その他多くの人々、インドのコルカタ(カルカッタ)に集まる人々には何か現代の社会に適用しにくい性格をもっているような気がした。研究者、ボランティア、単なる旅行者もヒッピーも、インドに来た人々には何か共通したものがあった。

神秘的なインド、西洋文化に失われた世界を求めて旅する人々。
私の興味はそこにはなかった。むしろ、帝国主義植民地時代の軌跡や第三世界の近代化の過程を観たくて来た。

悲惨なインド社会の現実、それは先進国日本の労働者階級ですら彼らからすると貴族的としか言いようのない人々であったろう。私はミットロ氏からインドの下層階級の人々、インドのイギリス植民地時代の傷跡の歴史について学んだ。

東大の助手をしていたN氏や京大農学部で農業経済のオーバードクターをしていたK氏に紹介されて、カルカッタ社会科学センターの研修生となった。そこの教授は非常に偉い感じだった。彼の紹介で講師のN氏を紹介された。その研究センターに通った。

ミットロ氏との話を通じて、そして彼に日本について語る中で、日本の近代化の過程に関する説明をしなければならなかった。何故、日本は近代化を成し遂げ、インドは失敗したのか。他のアジアの国々は列強の植民地になったのは何故なのか。その疑問を抱え、インドからイランまで歩いた。

当時、バングラディシュでは農業近代化政策のためにアメリカからのトラックターの導入、機械性農業の導入のために、伝統的な水田耕作地帯の耕作地区画改良が行われていた。バングラディシュには自動車は勿論のことトラクターをつくる技術はなかった。その輸入品に合わせて耕作地の区画整理をしていた。何千年も掛けて、雨季に水田に降る雨の量(降水量)からこの水田の面積は計算されつくされ、その結果、細かく区切られた水田地帯が広がっていた。しかし、それらの水田地帯では大きなトラックターは動かなかった。そこで、トラックターに合わせて水田の区画整理が行われた。当然、長年掛けたこの地域の生態系に合わせた田んぼの姿は消えた。

日本では、多分、田んぼの姿にトラックターを改良し「耕運機」が作られた。海外から来た機械に風土の形態を変えるか、それとも風土の生態系に合わせて海外から来た機械の形を変えるか。その違いによってすべてが変わるのである。

多くのアジアの国では、自国で機械を改良する技術力がなかった。そのため、性急な近代化政策は、機械に合わせて風土を変えることになる。この政策こそが、植民地化を代表する方法であり、現在でも、政治的植民地化ではない技術的、つまり文明的植民地化が進み、その結果として先進国の機械を輸入し自国の農産物を輸出するという国際分業に基づく経済的搾取のみでなく、文明的搾取、つまり自国の生態系資源の破壊をもたらしているのである。

しかし、こうした現実は近代化過程の日本でも生じていた。それは公害と呼ばれる生態系の破壊の形をとって現れていた。考えると足尾鉱毒事件以来、水俣病、イタイイタイ病、四日市喘息等々、世界的に有名なあらゆる公害病はすべて日本発のものである。

20代後半に取り組んだ労働災害職業病も公害問題も資本主義生産様式の問題つまり経済的問題と同時に文明的問題がその根底にあるのではないか。公害を起こす生産様式の生産機能を文明的に分析する必要はないのかと考えた。

今西錦司の「生物の世界」に書かれてあった「生物の機能と構造」には生物の形態(構造)が生命活動の機能性の効率化を達成していることを「合理性」と考えていた。生産様式(構造)の合理性は、生産活動の目的、生命や生活の維持が発展(機能)が達成されているかということで決まる。つまり、より合理的生産構造とはその生産様式の目的である人間生活の充実に寄与する機能性を持つかどうかと言う事で決定される。

その意味で、公害(生産活動による生態系の破壊)や労働災害職業病(生産活動による人間的破壊)を生み出す生産様式にはその合理的形態が確立していないことを意味していた。

近代化の過程で、合理性は西洋近代様式を物語、生産効率は工業生産の効率、もしくは企業利益に限定されて理解されていた。合理性を生活世界の豊かさとして語り、人間的生命生活活動の豊かさが政治、経済や社会活動の目的ではなかった。

この思想はどのようにして生み出されたのか。それは単に資本主義経済批判として片付けることが出来たか。当時のソビエト連邦では、疎外された労働、公害や労働災害職業病はないと言えるのか。

イランを旅した時に、その疑問に答える多くの現実に出会った。大型トラックターの導入で砂利砂漠化した農地、荒廃した伝統農業様式、泥でうまったダム等々。アメリカの支持を受けパレビー王朝が行った近代化政策はイランの風土を破壊しつくそうとしていた。多くの失業した農民たちがテヘランのスラムを作り。彼らが憎んだものが近代化であった。

そして、その憎しみの彼方に登場する思想的救済として「イスラム原理主義」が存在した。近代化の失敗こそ、反動的宗教思想、つまりイスラム原理主義を導き出した張本人である。そのことに対する自覚はアメリカにも日本にもない。そして近代化によって荒廃した発展途上国の風土とその元凶である西洋文明への怒りが爆発しているのである。

それらの爆発をさらに力で押しつぶそうと先進国は軍事的介入を続けてきた。この付けはいつか未来の人々が払わなければならないだろう。そのためにこれから起こる暴力の連鎖をどうのようにして防ぐことができるのだろうか。

科学のイデオロギーを政治的課題に限定することで現代の科学技術の問題を解決できるほど問題は単純ではなかった。つまりイデオロギーと科学技術の二つの概念を明確にすることが必要となっていた。

今に続く私の哲学的課題は、こうして明確になり、その方向が決定された。

研究室を出るとき抱え込んだ問題、京大安全センターを結成するとき展開しようとした問題、関西労働者安全センター運動を引く時に取り戻したかった問題、インドからイランの旅を経て理解した問題、それらはすべて私の中で連鎖し続けてきた課題を示していた。


私の哲学研究の課題とは

1、 私の思想的間違い、つまり批判した筈のマルクス主義ドグマチズム(スターリン主義)へ現実の運動の中で絡め取られる思想的限界を明確にすること。これが私の反省課題である。

2、 発展途上国の近代化の過程で解決しなければならない伝統文化と競合しない改良のあり方、つまり現代科学技術のイデオロギー的構造(プログラム)を理解し、そのプログラムの自覚的認識を前提にした科学技術思想を形成することで、発展途上国での生活世界の発展や改良への実践な科学技術の寄与のあり方を検討し形成することを目指す。

こうして、私はフランスのストラスブール第二大学(人文科学大学)現在のストラスブール大学の博士課程に席を置き、長い研究生活を始めることになる。



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