2010年8月31日火曜日

哲学的探求の宿命

三石博行


哲学が形成した萌芽的な科学思想によって生み出される新科学によって、伝統的哲学は駆逐されてきた

「考える」行為によって形成される知識は、人類の歴史の中では、哲学と呼ばれる学問の形態を始め取りながら、そして哲学の中の一つの分野でありながら、それらの知識は哲学から専門分離し、哲学の領域からそれらの知識に関する特権を奪ってきた。

例えば、存在論は哲学が始まった以来の古い哲学の大きな一つの分野であり、宇宙や世界の物質的存在の基本要素から天体や地上の運動物体の説明に至るまで自然哲学の分野の課題であった。

それらが自然神学や物理神学の分野になったとしても、基本的には宗教哲学の分野に属するものであった。そして、17世紀のデカルト、パスカルやニュートンの物理学の形成を通じて、それらの学問の発展の結果として、新しく形成された力学がギリシャ以来の自然哲学の理論を駆逐して、哲学的存在論から自然科学的存在論へと変換を行うのである。

19世紀終わりから20世紀の始めに掛けて、認識活動の自己分析によって形成される精神現象学や認識論も思惟主体の意識分析という方法を取る。認識活動を実験心理学、動物心理学や脳神経生理学・脳科学や認知科学によって研究する中で、上記したように、認識論はそれらの科学に乗り越えられてゆき、思弁的方法において認識過程を解明する有効性を失うのである。

その場合にも、論理実証主義のマッハにおいても、パターン認識の課題は哲学的課題であった。人はどのように世界を観ているのか、人はどのように対象認識をするのかという伝統的に哲学が検討して着た課題であった。それらの課題を、物理科学者であり大脳生理学者である彼が科学的経験主義や論理実証主義で分析的にパターン認識のメカニズムを解明しようとするとき、これまの哲学的な思弁的思惟回路から実験科学的、論理実証的な思惟回路に認識過程の研究や解釈は変更展開され、そこに新科学、大脳生理学や認知科学が形成されるのである。

一度、認識過程に関する科学、大脳生理学・脳科学や認知科学が形成されるとき、もはや、認識過程を哲学者が思弁的に議論する余地を失うのである。哲学者は哲学が形成した新実証主義による新たな科学、認知科学によって、哲学的認識論の有効性を失い。認識問題を語る権利を失うのである。


哲学は新たな科学性を生み、そこらか形成あれた科学は哲学から知の領域を奪う

これまでの哲学、経験主義、実証主義、史的唯物論(マルクス主義)などが形成した新しい科学、社会学、経済学、生理学などによって社会現象や生命現象をめぐる哲学的議論は消滅したように、現代哲学の最後の砦、主観的世界の認識活動でも、例えば現象学や構造主義・ポスト構造主義によって展開する言語学、精神分析、文化人類学など20世紀を代表する科学によって、主観的世界に関する哲学的な議論は消滅する運命にあると謂える。

つまり現代哲学によって創造された20世紀の科学、人間社会科学によって説明される主観的世界の関与する現象の明晰判明な説明によって、それまで直感的に語られてきた哲学的説明は、その思弁性や曖昧さを理由に消滅する運命にあると言えるだろう。

言い換えると、主観世界を課題にする現代哲学は新たな人間学を提案し、その人間学が哲学的な主観世界の認識に関する議論を乗り越え、哲学からその議論の権利を奪い取るのである。

それが、謂わば、歴史的に知の分化を促し、知の専門化の原動力となってきた哲学の宿命であるとも謂える。


生きる場の知としての哲学

哲学は新たな科学を生み、その科学は哲学から知の領域を奪う哲学的知と科学的知の展開過程が歴史的に存在し続けるなら、哲学的知は、今後、主観的世界の認識領域に関する探究活動からも排除される運命にあると言える。

つまり、知識の専門化、科学化が進化すればするほど、哲学は限りなく領域を狭めることになると謂えるのである。そして、いつか哲学は知的世界から消滅するのではないだろうかと思われる。

哲学が知の専門性から排除される理由に、本来の哲学の知のあり方が関係していることを理解しなければならない。それは哲学は知の体系を目指す学問ではなく、体系的知の検証と批判の契機を与える知であったということである。

最も哲学らしい学問を決定付けている公理としてソクラテスの「無知の知」やデカルトの「コギト」を持ち出さすまでもなく、哲学と呼ばれる学問の基本公理には、ある知識を疑うといい知のあり方が存在していた。

その意味で哲学が知の体系化に進む科学的知の進化の方向とは逆に、知の単純化を目指す生活世界での直感的知あり方を目指す。つまり、体系でなく直感として生活主体に生きる知のあり方を目指しているのである。

その意味で、哲学的知を科学的知に比較して、これまで直感的に新しい世界観の基本となる批判的知を提起し、その体系化を確立した科学的知と同じ評価を求めることが間違いであることに気付くのである。哲学的知は、生きる生活の場に根拠する直感的な知、批判的な知、反省的な知、そして生と死を同次元に見つめる実存的知なのである。

哲学的に知ることは自らが変わることを意味するのはそのためである。





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