国民主権による政治改革を目指して(3)
三石博行
東日本大震災・福島原発事故が導く政治危機
東日本大震災や福島第一原発事故は現在の日本の政治のあり方の限界を明確に示した。つまり、現在の日本の政治は国家の危機的状況に直面して、その問題点を露呈することになった。社会の危機に対して、国会議員達の無能さや政治への姿勢が問われている。
そして、今、私たちの社会に求められている「災害に強い国」を作るための条件として、真剣に政治改革を考えなければならなくなっている。この国・社会の未来、つまり災害に強い国や社会の必要性を痛感しているのは災害に立ち向かう人々、国民である。多くの政治家はそのことすら感じる感性を失っているように見える。そして、彼らは相変わらず今でも首相の退陣時期をめぐる政局論争に血道を上げているのである。
この状況を作り出しているのは政治家だけではない。マスコミ、経済界、大学研究者などの専門家集団等々。こうした亡国へ日本を導く人々、集団、組織等々の意図は何かを知る必要がある。彼らは自覚的にこの国を滅ぼそうとは思ってはいない。しかし、彼らのやっていることは結果的に亡国へ導く行為となることが予測できる。勿論、この指摘に対して、彼らは納得しないだろう。
しかし、罹災者の救済対策よりも「首相を辞めさせること」に専念した議員たち、原発事故で甚大な被害を国民に与えながら「原発推進」を決めた電力会社の経営陣・株主総会でのやり取りを見るだけで、この国の未来をこの種の勢力に任せることが出来ないと国民の大半が感じているだろう。
政治改革の第一課題・政治家の姿勢と実行力
今回、震災罹災者救済活動をさて置き、政局に血道を上げた議員たちは、選挙で選ばれたことをどこかで忘れているのではないだろうか。そして、選んだ住民、国民は単なる一人の有権者に過ぎないと思っているのではないだろうか。選挙期間(2週間)以外の日には国民と真剣に向き合うこともなく、選挙期間だけの関係、つまり一票を投じてくれる人としてしか、国民を見ていないように思える。
こうした議員たちは日常的に市民の生活の場に出向き、声を聞き、市民が抱え込んでいる問題の解決、そして同時に中長期的な視点に立って、市民との話し合い(時には、目先の利害に翻弄される市民を説得することも含めて)をすることはないだろう。
彼らにとって市民とは、票田の収穫物のようなもの、つまり自分が議員となるための手段のように写ってはいないだろうか。それらの人々の声を真剣に聞くこと、真剣に未来の社会について議論すること、自分の活動を正直に情報公開すること、現実出来なかった選挙公約の中身を分析しその理由を述べること、次回の選挙までには公約とその達成率を開示すること、つまり、市民をごまかさない態度を身に付けることを議員活動の基本に置いているだろうか。
国家が危機に瀕した時、国民の前で、堂々と未来社会のあり方を語ることの出来ない政治家は淘汰されるだろう。国民は馬鹿ではない。そして、国民は、政治家としての見解や姿勢のない人、そして実行力のない人々を次回の選挙で選ぶことは無いだろう。
政治改革運動の主体は国民である
しかし、こうした無責任な議員たちの行為がいつまでも続けられることはない。国家が危機に瀕した時、その危機的状況から国家の進むべき方向を示し、問題を解決する力のある人々にしか、国民は政治を任せることは出来ないのである。
国の経済が右肩上がりで成長していた時代、国民は自分たちの生活が豊かになることが中心の課題であった。しかし、その時代が終わり、新しい国のかたちが問われ、限りある資源を有効に活用し、豊かな生活を維持しなければならなくなった現在、国民は自ら努力してその生活の方法を模索し続ける。その国民の日常的努力に対して、政治が鈍感、無関心である場合、国民の多くが政治に対して絶望することになる。今回の国会での議員たちの振舞いに対して、多くの国民が絶望した。
しかし国民はいつまでも政治に絶望、政治に無関心でいる事は出来ない。何故なら、政治こそが直接的にも間接的にも、自分たちの生活に関係する社会条件を決定することを知っているからである。そして、この政治的危機、社会的危機は、国民が政治改革の主体であることを要求するのである。今や、国民は政治に対して無知や無関心を公言する余裕は無い。もし、政治家たちが国民の政治無関心と無知を前提にして対応するなら、彼らのその侮りにたいする回答を用意するだろう。これが政治危機に立ち向かう国の基本的な社会現象なのである。
このことは、一言で言えば、政治危機に立ち向かう主体が政治家ではなく、国民であることを意味するのである。
市民に対する政治的責任とは
6月28日に東電株主総会があった。福島第一原発で事故を起こしたにも関わらず、株主総会では「今後も原発推進すること」を決定した。つまり、今回の事故に対して、東電は抜本的な原子力発電の企業路線を検討する方向を示さなかった。その東電と同じように他の電力会社の株主総会で「原発推進」が決定された。
東京都は東電の大株主の一つである。今回の東電の株価の下落(2100円から350円)によって東京都は770億円の含み損をしていると言われている。つまり、都民、約1000万人として一人当たり7700円の損をしたことになる。勿論、これまで配当金を毎年25億円貰っていたので、都民としては、その責任もあり、東電の株価の下落による損失を受けることになる。
東京都が株を持っているということは、東京都民が東電の株を持っていることである。つまり、株主である東京都民は今回の株主総会で「原発推進」を承認したことになる。しかし、大多数の都民は本当に了承しているのだろうか。東京都にも放射能物質をばら撒いた福島第一原発事故、そして今でも最悪の事故が発生する可能性を秘めている状態にありながら原発推進を都民は承認するのだろうか。都民として、株主総会で都庁が原発推進を了承した経緯を問うべきだろう。もし、都議会がそのことをしなければ、都議会は都民のために働いているとは思えない。そして、株主である東京都は株主総会で東京都民の原発に対する不安や対策について意見を述べたのだろうか。石原都知事、東京都議会議員たちは、そのことを都民に説明する義務があるではないだろう。
同じことは関電にも言える。大阪市が筆頭株主であると言う事は、大阪市民が関電の株主であることを意味する。その意味で、関電の株主総会で「原発推進」を決定したとすれば、平松大阪市長は、大阪市民に対してその推進理由を明確にしておかなければならない。
つまり、こうしたことが、政治家(都知事や市長)の政治判断や行動を選挙民に対して明確に説明し、その情報を公開する責任をもっていることの一例なのである。もし、今回の電力会社の株主総会に対して、株主である東京都を含めて都道府県市長村が明確な判断を示さないままでいるなら、そこには市民を無視した政治姿勢があると判断するしかない。こうしたことが、今後、政治に問われる。そして、今回の東電株主総会での問題は、その一つの例に過ぎない。
今後、東電は原発事故による巨額の被害への保障費用の負担を国に求めている。つまり、事故への責任感覚を持たずに株主総会で原発推進を決め、その上、福島第一原発事故が引き起こした莫大な被害への保障を国民の税金に頼っているのである。このことをそのまま認めるなら、わが国には国民主権・民主主義は存在しないということになるだろう。
国民の犠牲の上に、企業の利益を優先する議会や株主たる地方自治体が今後も維持され、存続することが国や社会の本当の政治的危機であると言える。
原発村(原発マフィア)の強烈な攻撃に備えよ
しかし、この課題つまり国民主権を尊重し運営される立法機能の確立は、現在、福島第一原発事故の課題と不可分の経過がある。例えば、原発事故の反省として「再生可能エネルギー促進法案」を政府は成立させようとしている。原発事故が重大な被害を社会に与えることを知った以上、原発を止める方向で今後の社会経済システムを作り変えなければならない。この当然の政治的判断に対して、危惧を持つ人々がある。それらの人々は「原発村」と呼ばれている。
原発村とは原発によって利益を得ている人々である。原発利権を独占している原発マフィアを原発村と呼んでいるのである。利権集団に対して日本的な村のイメージ、つまり共同体のイメージを与えている。しかし、生きるための共同体・村ではなく、これらの集団は明らかに原発から生まれる利益を独占する権利、利権集団である。その意味で原発マフィアと呼ぶことにする。
電力会社、原発を推進する官僚機構(天下り先として原発関連企業、電気関連企業、原発関連団体等々がある)、原発推進派学者(巨額の研究費を電力会社や政府機関から得ることが出来て、しかも卒業生を送ることもできる。さらには退職後に原発関連団体や企業に就職出来る)、マスコミ(電力会社が巨額の宣伝費を支払ってくれる)、経済団体(原発を建設することで多くの関連企業・原発関連企業が利益を受ける)、自治体(原発誘致によって利益を得ている)、政治家(原発誘致による原発関連企業の利益から得られる政治資金を得ることが出来る。また電力産業関連の労働組合からの支援を得ることが出来る)等々。その数は夥しいものとなる。
つまり、原発マフィアを構成している社会の拡がりは大きく、その数のみでなく、至る所で影響を与える力を持っている。報道機関から流れる原発推進のイメージ、トーク番組の司会者が今でも「原子力で作る電気代に比べると自然エネルギーから作る電気代は高いし、安定していない」という発言が飛び交う。そして、今でも「原発は安全に運用することが出来るはずだ」と有名大学の学者が述べる。多くの社会的に影響力を持った人々の集まり・原発ファフィアは福島でどんなことが起ころうと、そう簡単に自分たちの利権を離すはずが無い。
国の未来を議員たちに一任させてはならない
つまり、今回、非常にはっきりしたことは、政治や社会危機を生み出している原因の一つとして、原発マフィア的構造が日本社会に蔓延しているという事であった。彼らは、権力を私物化し、税金を使い、甘い汁を吸うことに長けている。彼らは、この利権をそう簡単に失いたくないと思っているだろう。つまり、福島第一原発事故によって、住民がどうなろうと、国土がどうなろうと、日本がどうなろうと、この甘い汁を吸える権利を失いたくないのである。
これらの人々の反撃は、陰湿に巧妙に仕組まれてくるに違いない。管直人総理が「再生可能エネルギー促進法案」を国会で承認する前に、彼を総理の座から蹴り落としたいだろう。しかし、毎日緊急事態に追われる原発事故の最中に、はっきりと、「さらに原発推進し再生可能なエネルギーは使わない」とは言えないだろう。国民の多くが原発事故の成り行きに不安を持ち、日々原発行政を批判する立場に変わる中で、原発推進を言う機会ではないとこれらの人々は思っているだろう。そうでなく、管首相は何がなんでも早く辞めるべきだとしか言わないだろう。そして、未来の日本社会を脱原発の方向に行かさないために、色々な策略をめぐらすだろう。「管首相はすぐに辞めないで、原発問題を政局課題にして、国会を近いうちに解散するに違いない」という意見も出始めている。ともかく、一日も早く、管総理に辞めてもらいたい。その真意は「再生可能エネルギー促進法案」を国会で通して欲しくないという意図のように観える。
今回の政治家たちの振る舞いを、私たちは絶対に忘れないようにしよう。これは狂った議員たちの亡国のための演劇会であった。そして今後も彼らは同じことを繰り返すだろう。その責任は国民にある。何故なら国民が彼らを議員に選んだからだ。その責任を明らかにするために、私たちは議員の活動を点検する国民的運動を起こさなければならない。政治、つまり現実の社会問題を解決し、未来の社会を構築する活動を議員に任してはならない。国民が政治活動の主体であり、国民によって政治が行われる社会を創らなければならない。国民主権の確立なしにこの国の未来はない。
参考資料
三石博行 「罹災者救済、国民と国家の将来のために働くことのみが政治家の課題である」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_07.html
三石博行 「原発問題は今後、我が国の政治の中心課題となるだろう」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_12.html
三石博行 「国民による議会・立法機関の検証作業は可能か」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_14.html
三石博行 「国民による議員の選挙公約に関する検証機能の提案」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3645.html
田原総一朗公式メールマガジン
現在の永田町の政治の動きに対して、田原総一郎氏は明快な分析を行っている。何故なら、彼には、明確な視点が存在し続けいる。今回、彼は一貫して「被災者の救済」「国難の克服」を課題にし、その視点から永田町国会議員たちのホームルームのやり取りを分析している。
http://www.taharasoichiro.com/
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東日本大震災関連ブログ文書集
1、ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3562.html
2、ブログ文書集「東日本大震災の復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
3、 ブログ文書集「国民主権による政治改革への提言」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_9428.html
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2011年7月3日 誤字修正
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