2009年10月29日木曜日

東アジア共同体構想と日本のEU協会運動の役割

22世紀を迎えるとき評価される壮大な試みとしての東アジア共同体構想

The social role of the Kyoto・Nara EU Association and the idea of anEast Asia Community (EAC)

Hiroyuki Mitsuishi

We hope to create a plan for the establishment of the EAC, however,this formation could be difficult because of the different politicalsystems in Japan, Korea and China. Because of the different economicgoals of these countries, the EAC should begin the first step byworking towards friendly relations between the three countries, whichis the goal of the EAC. And, these improved relations will help thecivic cultural exchange in East Asia which willl also help theserelationships to develop. In addition, the credit transfer systembetween universities in East Asia countries, which the Japanesegovernment is planning, will also help to encourage talented peopleto help establish the EAC.


現政権が打ち出した東アジア共同体構想は実現して欲しい課題である。これまでの歴史の中で、国際的な国家の連合の枠組みを決定していたものは共通する政治的立場や利害であった。例えば、55年体制を代表するソ連を中心とする社会主義国家連合とアメリカを中心とする自由主義(資本主義)国家連合の二つの国家連合があった。同様に、欧州石炭鉄鋼共同体設立から出発したヨーロッパ共同体も共通する政治経済の立場にたった自由主義国家の連合である。

その共同体を共通の政治文化理念として支えていたのはヨーロッパ評議会である。「人権、民主主義と法の支配」を理念とし、人権裁判所設置、死刑廃止などの人権擁護、ヨーロッパ文化アイデンティティの保護とその文化的多様性の推進など欧州地域の少数民族言語の保護、環境問題、教育問題、スポーツ推進、青少年の保護、共同司法制度、麻薬や組織犯罪などの撲滅、文化財保護、ヨーロッパ内の格差廃止、開発資金の設置などにヨーロッパ評議会は取り組んできた。

日韓中を中心とする東アジア共同体構想はヨーロッパ共同体の違い、必ずしも自由主義国家の連合体ではない。その意味でEU形成の政治文化思想基盤を均すための役割であったヨーロッパ評議会に相当する共同体形成のための推進機能を準備することは困難であろう。しかし、鳩山政権の推進するこの構想は、当時不可能と言われていたEUへの長く困難な試みと同じように、21世紀半ばを過ぎ、22世紀を迎えるとき、評価される壮大な試みであると言える。


まず、東アジア共同の経済的利益を前提として出発

アジア周辺国の近代化は必ずしも欧米型近代国家の形成と類似した形態を取るとは限らない。ソ連や社会主義中国の形成は、明治維新によって成立した大日本帝国と同じように、欧米列強の帝国主義植民地政策から自国を防衛するための、つまり近代工業化を国家主義的に推進するための手段であった。その意味で、東アジア共同体の中で、自由経済を推進する社会主義中国と自由主義国家日本と韓国がそれぞれの国家の政治経済の利益を共有することが可能であると言える。

東アジアの平和と安全を保障するために、ソ連崩壊や中国の改革開放以後、日米同盟には仮想敵国として民主主義ロシアや現在の現代中国を位置付ける必要はない。その意味で、基本的に日米同盟と東アジア共同体構想が対立することはない(勿論、日本は東アジアの政治的安定のためにロシアとも和平条約を提携する必要があるのだが)。

しかし、人権問題や国内政治のあり方でも異なる政治制度を持つ中国と東アジア共同体構想を育て形成していくためには、共通する政治文化を性急に要求し合うことは出来ない。そのことがまず、東アジア共同体構想が出発するための第一公理である。そして、この構想が展開していくための第二公理は、東アジア共同体構想の基本に経済的共通の利益を置く、東アジア経済共同体形成の構想が展開されることである。例えば、東アジア経済共同体では、未来型産業の共同研究、省エネ・資源再利用型産業、農工産業の形成、第四次産業(研究開発型産業)育成等々の課題が緊急に検討されるだろう。


東アジア文化アイデンティティの形成に向けた交流と日韓中大学間単位互換制度の確立の意味とEU協会の役割


数年前の韓流ブームは、日本に近くて最も遠い国であった韓国を本来の地理的位置に戻した。多くの日本人がハングル語を学び、今や大学で多くの学生が第二外国語としてハングル語を選択している。そして、NHKのEV特集「日本と朝鮮半島2000年」の番組に観られるように日韓間の緊密な歴史が大衆的に検証・了解されようとしている。この数年の日韓関係の改善に韓流ブームを起こした韓国ドラマの功績は大きい。

韓国や日本の文化は中国文明の影響を抜きには語れない。この三つの国に共通する文化は、2000年以上前から続いてきた東アジアの文化・人的交流によって形成された。東アジアには儒教や仏教を中心とした生活文化アイデンティティが存在する。自然観や芸術文化、建造物、生活感覚など東アジア独自の文化、その文化的多様性が、2000年の時を経て得られた我々の生活文化の基底を構成する。そして、ここ150年間で、私たち東アジアの文化は、経済発展に必要な近代工業化社会建設の中で共に変貌しようとしている。

共通する経済的利益を前提に発展する東アジア共同体の流れを根底から支える力は、東アジアの人々が文化アイデンティティを共有することである。しかし、わが国は、過去の戦争の過ちに対して、十分に向き合っていると被害国の国民に思われていない。まず、そのことを解決しなければならない。再び悲惨な戦争を東アジアで起こさないために、東アジア市民間の文化・人的交流を創らなければならない。

すでに、現政権は日韓中三国の大学間単位互換性制度を具体的に提案している。EUのエラスムス・プログラムによってヨーロッパの大学ではEU内の学生が共に学び交流する機会を得ている。EU大学間の共同研究や良い意味の大学間競争も起こり、EUの将来を担う若者がそこで育っている。EUの大学コンソーシアムに学ぶことは多い。また大学コンソーシアム京都の経験は、東アジア高等教育単位互換制度を確立するときに具体的に役立つと思われる。京都・奈良EU協会は、日欧学術教育文化交流活動でヨーロッパ学研修プログラム等を企画し活動している。これらのプログラムを、将来、東アジア共同体を担う人々の教育として位置づけ、活動を続けなければならない。何故なら、我々がEUに学びEU市民と交流する目的は、我々東アジア生活文化圏の平和と共存のためにあるからだ。

KNEU-No4 京都・奈良EU協会 会報No4 記載


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6. EU関係及びEU協会運動

6-1、生活運動としての国際交流運動

http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_14.html

6-2、日欧学術教育文化交流委員会ニュース配信
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_8507.html

6-3、文化経済学的視点に立った国際交流活動
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_26.html

6-4、新しい国際交流活動のあり方を模索して
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/06/blog-post.html

6-5、我々はEUに何を学ぶのか
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/07/eu.html

6-6、東アジア諸国でのEU協会運動の交流は可能か
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/09/eu.html

6-7、東アジア共同体構想と日本のEU協会運動の役割
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/10/eu.html

6-8、欧州連合国の成功が21世紀の国際化社会の方向を決める
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/21.html

6-9、Eddy Van Drom 氏のインターネット講座 ヨーロッパ評議会の形成史
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/10/eddy-vandrom.html
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」 から

2009年10月8日木曜日

批判的にも共存する方法

三石博行


自己制御プログラムの形成の必要性

誰でも、ある不当な扱いを受けたとき、その不当さに憤りする。人から受けた不当な扱いや暴力に対して異議を申し立て、また反撃に出るのは至って当然の行為である。その限り、人々の相互の行為は「やってはやられる」ことを繰り返し、その繰り返しを続けながら、あるときは仲良くなり、あるときは決定的な敵対関係に発展する。それが人々のコミュニケーションのあり方であり、人の生き方であり、人が人に対する考え方であり、それが人々の人生の姿となっていることは疑えない。

どんなシステムでも、そのシステムの運用を間違い、結果的に誤りを犯すことが必然的に生じる。間違いはシステムの必然的現象であるともいえる。システムと呼ばれるプログラムの運用機能が、そのプログラムの運用を必然的に間違うのである。つまり、間違いを犯すことまで、システムプログラムの組み込まれているかのようである。例えば、遺伝子のコピーの誤りから、モラル的誤り、社会秩序の混乱など、誤りはシステムの運動の中で必然的に生じる現象であると言える。システム上の問題は、それらの誤作動によって生じたバグやごみを処理する機能があるということで、誤りの結果、誤りの過程に学ぶ機能があるということだ。そして、その誤りの結果を修正する機能がなければ、システムは崩壊するので、その優秀な機能があることが最大の問題になる。

例えば、一国主義の国際外交政策でさんざん失敗を重ねてブッシュ政権の誤りを、オバマ政権が修正することが出来るのも、民主主義国家としてのアメリカの政治的機能である。アメリカの政治というシステムが過去の外交政策の誤りを修正できる機能を持つということが、アメリカへの信頼となるだろう。そして、日米同盟を考える上でも、そうした相互の国際政策の誤りや正しさを評価し修正しあえる関係こそが、政治的システムの中で求められている。日本の民主党の言う「日米間の対等な関係」とは、日米同盟が健全な姿、つまり国際平和と共生の政治的立場に共に立ちながら、お互いの政策に関して相互に点検する機能を持つことと、同時に共同で平和と共存の国際世界を構築することである。それらの考えは一国家の政治的利益を前提にしている以上、アメリカのブッシュ政権も日本の鳩山政権も同じ政策を打ち出すことはない。当然のこととして、お互いの国家的利益を前提にした政策が提案されるだろう。しかし、その違いや生じる利害、もしくは批判や受け入れ不可能な相互の立場を前提として、理念として共有した「国際社会の平和と共存」の立場に立ち戻りながら会話を続け、また共通した政策を共に実行すること以外にない。

個人的な人間関係にしろ、人々はそれぞれ意見や感性の異なるもので、相互に批判や意見の違い、感情の違いを持つものである。そのため、他者への批判や異議は当然生じるものである。大切なことは、他者へ率直な意見を言わないことでなく、言ったとしても、そして過去に批判しあった関係や敵対した関係が合ったとしても、それを修復する精神的や生活文化的機能があるということだ。

しかし、こうしたことは、簡単なようで、非常に難しいことだ。何故なら、人は他者に対して優位に立っている場合のみ、他者の批判をおおらかに受け入れることが出来るもので、もし、批判した人にたいして少なくとも何らかの劣勢な感覚を持つ場合には、その批判にたいしておおらかに、「彼の言っていることも一理あるかもしれない」などといえないものである。

批判されたことが心底こたえる場合は、それがあまりにも的を得ている場合が多いのである。その意味で、批判され批判する関係のあり方は、批判する側よりも、批判される側に、考えなければならない問題が多く存在しているように思える。

批判を不当な非難や不当な扱いとして感じる自分(批判されている側の主観的現実としての論理)を分析するために、もう一歩進んで、その不当さと判断した自分を自己分析し、不当な批判や扱いと思う自分と向き合うことの大切さ、必要性が理解できている(そうした自己制御プログラムを持っている)ことである。

しかし、理屈では分かっていることが、実際には、なかなか困難な作業である。そこで、その困難な作業をもっと分かりやすく、簡単な方法になければならない。

1、例えば、不当な行為を受けたと思う自分に対して、その理由の一端が自分の側にあるのではないかと仮説を立てってみる。なかなかそう思えないので「仮説」と立って、その理由をあれこれと探してみる。

2、過去に、自分も同じくらい彼らに不当と思われる行為をしたのではないか。そう仮説を立ってみる。

3、不当な行為の問題は、受けている場合には自覚でくるが、行っている場合には自覚し難いものであると仮説を立てる。自覚しないまま不当な行為を行っていたと仮説を立ててみる。

以上の、他者からの非難や不当な仕打ちに対する自覚のための制御プログラムが出来上がった。しかし、この制御プログラムも自然に機能することはない。それを機能させるための強い意志が必要であることは言うまでもない。


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