2010年7月14日水曜日

NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る  東シナ海の光と影」のテキスト批評

三石博行


資料
NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」(6)「倭寇(わこう)の実像を探る。東シナ海の光と影」の映像 2009年に放映された資料   

司会    三宅民夫 
レポーター ユンソナ
ゲスト 村井章介(しょうすけ) 東京大学教授
キム・ムンギョン スンシル(宗実)大学名誉教授

A 資料の要約
11世紀から14世紀の東アジアで盛んになる民間人の交易活動


新安沖の沈没船遺跡から見えて来た東アジアの交易活動

842年に遣唐使が停止して以来、日本は、明と国交を回復するまで約500年にわたって中国と国交を開いていなかった。その間、鎌倉時代に2度にわたって、蒙古(元)の襲来を受けた。一回目は1274年、二回目は1281年である。

日本と中国の間に正式な国交のない時代、そして二回に及ぶ蒙古襲来の時代に、日本、朝鮮と中国との間で民間人による盛んな貿易が行われていたことが、近年、解って来た。

韓国中西部に位置するテアン半島、そこの遺跡(沈没船)の発掘で、海底の泥の中から12世紀から13世紀の沈没船の遺物(青磁や白磁)が発掘される。韓国の国立海洋文化研究所のムン・ファンソク氏を中心として発掘が進んでいる。研究所のチームによって発掘された磁器は11世紀から17世紀のもので、朝鮮半島や宋、元、清の時代の中国で作られたものであった。そのことから、この地域が中国と朝鮮の貿易船の経由ルートであると判明した。

韓国南西部のモクポにある国立海洋文化財研究所に、新安沖で8年掛けて発掘した交易船の遺物が保管されている。この交易船は東シナ海で貿易を営んでいた商人たちが使っていたものである。全長34m幅8mを超える巨大な交易船は、14世紀の元の時代に中国で製造されたもので、遠洋航海に最適なV字型の船底をしていた。この船には磁器が2万3千点積まれていた。その中に素晴らしい磁器や青銅製品(青銅獅子形香炉)があった。

そしてまた、これらの荷物は慶元 (けいげん)現在の中国の寧波(ねんぱう、ねいは)から積まれたものであることが分かった。

さらに驚くことに、その中には、日本、京都の東福寺への荷物があった。1323年の木簡(もっかん、古代社会で使われていたもので、薄い木の板に文字が書かれている札)から船が出港した年も判明した。

東福寺の開山忌(かいざんき 寺を開いた僧侶たちの供養)の時にだけ開示される什宝(じゅうほう 家の宝として秘蔵されている器物 )の「八卦の香炉」(はっけのこうろ)と呼ばれる青磁がある。この八卦の香炉は中国元の時代に作られたもので、新安沖(しんあんおき)で引き上げられた遺跡とそのデザインはよく似ている。

この事実から、1319年、沈没船が就航した四年前、東福寺は火災に遭い、その再建費用を賄(まかな)う為(ため)に、中国で品物を仕入れて、日本で売ろうとしていたということが分かった。

また、当時日本人しか履かない下駄や日本人の遊び道具であった将棋の駒が、この沈没船から発見されている。つまり、日本人がこの船に乗っていて、日本に荷物を運んでいたことが判明した。

さらに、28トンもの中国の銅銭が積まれており、当時の日本では、これらの中国の銅銭が貨幣として使われており、経済の根幹を支えていた。つまり、この難破船は中国から日本に荷物を運ぶために運行されていたのではないかと推察されている。


交易活動で活躍していた人々の姿

11世紀以降、中国(宋、元)、朝鮮半島(高麗)と日本では多様な航海航路が開発され、交易が盛んに行われていた。日本の玄関口になったのは博多であった。福岡市埋蔵文化財センターには、博多で発掘された中国から運ばれた遺物が多数保管されている。出土品の中には元のものもあり、二度の蒙古襲来があり、元との外交関係が中断したにもかかわらず、民間人の間で盛んに交易が行われていたことを物語っている。

また、博多でも韓国のテアン半島で発見された遺物と同じものが2千点以上発掘されている。つまり、東シナ海を股に掛けて中国(元)、朝鮮半島(高麗)、そして日本で交易を行っていた国際的な商人も居たことを示している。つまり、倭寇が出没するようになった以前の東シナ海は民間貿易の盛んに行われていた地域であった。

この時代、海のシルクロードと呼ばれる航海航路が日本、朝鮮半島、中国、さらにはインドシナ半島を経て、インドからアラビア半島まで続いていたと謂(い)われていた。この航路は陶磁器が主要な商品であったことからセラミックロードとも呼ばれていた。

村井章介教授の解釈によると、当時、11世紀から14世紀、日本は主に砂金、水銀や武具(鎧や刀)を輸出し、主に陶磁器と銭を輸入していた。中国との大規模な交易は中国と日本を直行便で結び、小規模な交易では朝鮮半島を経由して行われていたといわれている。

高麗と日本との交易航路は、都、ケギョン(開京)に近い港から、朝鮮半島の西海岸を南に下り、朝鮮半島の南を回り、プサン(釜山)を出て、対馬を経て、九州に渡るルートが一般的だったと考えられている。

9世紀のはじめ朝鮮ではチャンボゴという有名な交易商人がいた。この時代活躍した交易商人は、もともと商売をしていた人でなく、平民や被差別民で新たに商人になった人々も居た。チャンボゴも被差別民階級の出身者であった。彼らは中国や日本と交易しながら莫大な富を蓄積し、中国に進出してきたイスラム商人たちとも交易をしていた。

日本では、当時使っていた船の様式が中国式で中国南部の木材を材料として使っていたので、船の所有者は中国人であったと解釈されている。船には日本人の乗組員がいた。交易でやってきた中国船に博多で雇われた日本人が乗り込んでいたと考えられる。


倭寇の起源とその正体

倭寇の出没によって疲弊する高麗

民間人による交易が盛んになる一方で、その影の部分とも言える倭寇(倭の国の盗賊という意味)が生れていく。倭寇の出現を示す最初の記録は「高麗史」の1223年の資料に倭寇が朝鮮半島の南部(金州)を襲い、船を200隻ほど焼き、女性を略奪したという記載がなされている。その後、倭寇は高麗を頻繁に襲撃し略奪を行っていた。

明を襲った倭寇の姿を中国人が書き残した倭寇図巻(わこうずかん)の資料から、倭寇は海賊として描かれていた。船で襲い、陸に上陸し、民家を襲い放火し、食料、財宝や婦女を略奪していることが描かれている。

九州北部や瀬戸内海からやって来た倭寇は、東シナ海を荒らしまわり、朝鮮半島を頻繁に襲った。時には数百隻の船団で高麗の沿岸部を襲撃した記録もある。倭寇に襲われた高麗の被害の例として、幾度も倭寇に襲われた韓国西海岸に位置する港町のチャンハンでは、海に面した小高い場所に城壁を築き、倭寇の侵略に備えていた。この城壁は倭寇の襲来が頻繁であった高麗末期に造られた。

当時(高麗末期)、高麗はすべての租税は、朝鮮半島の南から西海岸線を通って北の首都に運ばれていた。高麗政府は租税(米)を全国13箇所に集めて、それを北の首都ケジョンに船で運搬していたので、倭寇はその輸送路を狙って出没していた。頻繁な倭寇の略奪のために、沿岸部の農民たちは農地を放棄せざる得ない状態になっていた。山村部に農民が移住し、人々は流浪し、食料が不足し、飢餓が起こり、高麗政府は租税の収入を減らし、そのため高麗政府は疲弊して行った。


南北朝の戦乱と倭寇の出現

高麗の各地に爪あとを残した倭寇、彼らは九州の各地からやって来たと言われている。高麗を襲っていた倭寇の根拠地である長崎県対馬は韓国まで僅か50キロメートルの距離にある島である。九割が山地で、リアス式海岸に囲まれて、複雑に入り組んだ入り江をもつ対馬の地形は、海賊のアジトとしては絶好の場所であった。鎌倉時代、対馬は壱岐や松浦と共に倭寇の本拠地の一つであった。対馬では米の自給自足は不可能であり、食料の多くを島の外に依存していた。

倭寇の首領の子孫、早田(そうだ)さんの家には代々伝わる鎧冑(よろいかぶと)や日本刀が残されていた。倭寇は略奪行為のみをしていた海賊であったというだけでなく、水軍と貿易商人の面もあった。水崎(みずさき)遺跡から、倭寇が使っていた建物の跡が見つかり、その遺跡から数々の遺物が発掘され、高麗青磁や李朝の白磁等が大量に見つかった。

出土品の多くは14世紀から15世紀のものである。それらは非常に広いアジアの地域、例えばベトナム、タイなどの東南アジアで作られたもの、朝鮮半島で装身具として使われていた宝石、モンゴル帝国の文字の刻まれた銅銭(大元通宝)が発掘された。この膨大な遺物は、対馬の民がアジア全域と交易をしていたことの証である。またそのことから、彼らの活動範囲、活動力のすごさが理解できるのである。

対馬で最も大きな入り江、浅茅湾(あそうわん)は朝鮮半島を向いて開いている。この湾を出ると、すごい勢いで対馬海流が流れている。その流れを使って、倭寇たちは朝鮮半島、中国沿岸から東南アジアに向かった。

対馬の民たちはもともと交易を行っていたが、ある時期を経て倭寇としての活動が急激に増えた。高麗の資料から調べると、朝鮮半島を襲った倭寇は1350年から急激に増えたことが判明した。この時期の日本の歴史を振り返ってみる。1350年の日本は南北朝時代の真最中で、60年近い騒乱が続いており、日本が政治的軍事的に混乱した時代であった。南北朝の動乱で国が乱れた時代と倭寇が活発化する時期は一致する。特に九州では戦乱が多かった。

戦乱が起きることで、すぐに武力に訴える行為が安易に生じ、日本国内に武力紛争が頻発し、食料の供給ルートが絶たれ食料不足が起こり、庶民は生活の糧を失った。戦乱と食糧危機は常に密接な関係にある。対馬のように食料を外部に頼っていた人々は戦乱の結果、即食糧危機に襲われることになる。それらの人々が倭寇となり、目と鼻の先にある食料の倉庫、朝鮮半島に目を付けて襲うことになる。


境界人としての対馬の民、交易商人としての倭寇の姿

倭寇は略奪をしていた人々という側面だけでなく、交易商人や水軍の側面があった。このことから、対馬の人々を単純に倭寇、つまり倭(日本)の寇(盗賊)と意味する呼び方だけでなく、「境界人」と呼ぶことはできないかと村井教授は指摘する。つまり、対馬の人々は日本と朝鮮半島の狭間(はざま)に住んでいる。その狭間、その空間を生きる人々として様々な生活様式を持っていた。例えば魚を取って、それを両方の国に持っていって売るとか、品物のやり取り、交易をするなどの二つの国の境界領域の空間で生きていた。対馬の人々は朝鮮とも日本とも交易を行っていた。

しかし、ある条件で交易をしていた人々が、略奪に走ることも生じる。例えば、朝鮮半島に交易に行っていても十分な利益を得られない状態になる場合など、この境界人たちが通常の生活で生きることが出来なくなった場合に、彼らが倭寇化する場合が生じるとも言える。つまり、対馬の民が高麗と今までのような交易が出来なくなった場合に、彼らが倭寇に変身していったということが言える。

当時の高麗の国内事情は、北からモンゴル帝国の侵略を受け、政治的にその支配化にあった。また、モンゴルによる二度の日本出兵、元寇によって高麗は多くの出費をし、国は非常に疲弊していた。高麗は、沿岸の人々を内陸に移し、また島から村民を移し無人島化したこともあったが、積極的に有効な倭寇対策を打てなかった。


国際化した倭寇軍団と高麗の崩壊

倭寇は、次第に勢力を伸ばし、海賊集団として括(くく)れないほど大きな力を持つことになる。高麗史には500隻の大集団で朝鮮半島の西海岸を襲撃した倭寇の記録が残っている。彼らは1600頭の馬を連れていた騎馬軍団であった。彼らは沿岸部から内陸部深くまで侵入した。西海岸からおよそ100km内部の町ナンオン(南原)まで倭寇の侵入が続いた。そこで倭寇と高麗との最大の戦い、上陸後騎馬軍団に姿を変えた倭寇とそれと戦うために高麗政府から送られた将軍イ・ソンゲ率いる高麗軍の激戦があった。その跡が血の岩として残っている。その時の倭寇の将軍は若いモンゴルの兵士であったと思われる。

騎馬軍団を率いる倭寇とは、対馬などの海で活動する人々では組織不可能である。ここから済州島(チェジュド)でのモンゴル帝国支配の歴史が倭寇に与えた影響が浮かび上がる。高麗は100年間モンゴル帝国(元)の支配を受けていた。済州島(チェジュド)にはモンゴル帝国によって軍馬を育てる牧場があった。馬の面倒を見るために多くのモンゴル人が済州島(チェジュド)に移住していた。彼らは牧子(ぼっこ)とよばれ、モンゴル帝国が済州島(チェジュド)から撤退した後も島に残り、そこを拠点に高麗政府に抵抗していた。牧子(ぼっこ)は倭寇と連合して高麗政府と戦った可能性がある。

しかし、日本では元寇の記憶が生々しい時代に日本人とモンゴル人が連合できたのかと疑問が起こる。しかし、海の世界に生きる(移動する)人々は国境、民族は大きな格差ではない。つまり、対馬などの境界人にとっては、そうした元寇に関する平均的な日本人の持つ感覚はない。ある条件が整えれば、それらの境界人たちは違う立場の人々と容易に結びあうことができる。例えば高麗と敵対しているという相互の利益が合致するなら、その利益を求めて対馬の境界人は、済州島のモンゴル人と連合(結託)し高麗と戦うことが出来た。この対馬の民とモンゴル人牧子が倭寇として、朝鮮半島を略奪した可能性は十分あると思われる。

馬を巧みに操るモンゴル人と航海に長けた倭寇の連合軍と戦ったのがイ・ソンゲ将軍であった。激戦の末、イ・ソンゲは戦いに勝つ。そして、イ・ソンゲは倭寇対策を考え、弱体化した高麗を滅ぼし、新たな国・朝鮮を建国した。


倭寇と境界人(境界領域空間の人々)の世界

朝鮮半島の西南部の沿岸地域は潮の干満差が世界的にも大きく、その地形を日本から来た倭寇のみで自由に航行できたは思われない。つまり、それが可能だったのは、朝鮮半島沿岸部の人々、朝鮮半島の沿岸の漁民、つまり高麗人も倭寇に加わり協力していたのではないかと村井教授は指摘する。

しかし、それに対して、キム・ムンギョン スンシル(宗実)大学名誉教授は反論した。例えば、ナンオン(南原)まで侵入した騎馬軍団はモンゴル人でなく、九州の豪族などの兵力だと思われる。また、高麗人が倭寇に協力するとすれば、倭寇に捕らえられ協力させられていたと考えられる。そして、倭寇が内陸部まで侵略できたのは、朝鮮半島の情報を収拾していたためではないかと指摘した。

倭寇を考えるとき、現在の国家観で見ると間違う。つまり、現在の対馬の人は日本人で済州島(チェジュド)の人は韓国人という見方は、近代以降の国家観に基づいて言われることである。当時の生活の実態、言葉、身なり服装など、対馬人と済州島(チェジュド)人は、現代の日本や韓国と比較するなら、多くの共通の要素があったのではと思われる。

対馬人も済州島(チェジュド)人も、日本と高麗という二つの国にも所属さない境界人として存在していたのではないか。現在の我々が思うほどの違いはこの二つの島の人々には存在していなかったのではないだろうかと村井教授は指摘する。そして、境界領域の住人という共通要素で、異なる境界領域の人々が共同して海賊行為を行っていたのではないかという見方も可能である。

また、倭寇に対する現在の歴史解釈では韓国と日本ではかなり異なる。倭寇に襲われていた立場である韓国と倭寇であった側日本では歴史の捉え方が基本的に変わるのは当然である。
そして、大軍事集団となった倭寇によって朝鮮半島は変わっていった。倭寇による被害で高麗は滅びた。倭寇から国を守るために軍事勢力が生まれ、そこでイ・ソンゲは高麗を滅ぼし朝鮮王国を建国することになる。倭寇の影響を朝鮮半島は深刻に受けた。その理解、つまり倭寇として襲った立場と、倭寇によって襲われた立場では、倭寇に関する歴史の観かたが違うのではないかとキム・ムンギョン教授は述べた。


倭寇を生み、倭寇によって影響された東アジアンの政治

倭寇を防ぐための政治協定や方策

1368年に元が滅びて明が中国に誕生する。1392年に日本では南北朝が統一された。室町幕府の第三代将軍足利義満と明の洪武帝(こうぶてい)は国交を結び交易を始める。光武帝は日本、室町幕府との交易を求め、足利義満は倭寇の取締りを明に約束した。

また、日本で南北朝が統一された1392年に高麗が滅び、朝鮮王朝が成立した。初代国王のイ・ソンゲは日本との交流や交易を進めながら、倭寇の対策に力を注ぐ。イ・ソンゲは室町幕府や九州や対馬の領主に倭寇の取締りを強く要請した。倭寇の本拠地対馬でも倭寇の取り締まりが行われ、1418年までその効果があった。しかし、倭寇取り締まりに積極的だった宗貞茂(むねさだしげ)の死後、再び倭寇の被害が朝鮮半島で起こり始めた。そこで、朝鮮王国第四代国王 世宋大王(せじょんだいおう)による対馬征伐が行われた。朝鮮は1万7千の兵を対馬に送り、倭寇の撲滅を図った。朝鮮軍は倭寇の首領早田氏の根拠地を集中攻撃した。

しかし、その一方で、朝鮮王朝は倭寇に対する懐柔策もとった。それが、倭寇対策として効果を発揮した。つまり、朝鮮王朝は早田氏に国身と呼ばれる辞令書を出し、早田氏に将軍の官職を与え、正式な交易を認めた。その朝鮮王朝の懐柔策によって、早田氏は倭寇の活動から遠ざかっていった。倭寇の朝鮮半島の襲撃は急速に減って行った。正式な交易権を得た対馬の民は再び東シナ海での交易事業を始める。1431年に朝鮮王朝を訪ねた早田六郎次郎は商いの船に琉球国の使節まで乗せていた。琉球から対馬、朝鮮半島につながる広大な東アジア交易ルート、そこで、対馬の民は朝鮮と日本と交易の仲介者としての役割を果たすのである。


font size="4" color=#00008b">政治的軍事的不安定が生み出した倭寇と現代社会

倭寇問題を解決することが東アジアの国際関係にとって最大の課題であった。特に、明はその問題を解決しなければならなかった。明と日本の関係の中で、倭寇の問題は極めて重大な課題であったと村井教授は指摘した。

キム教授は、政治が安定したことで倭寇対策が出来たと述べた。倭寇はアジアにおいて深刻な問題であった。倭寇が与えた重要な役割は、政治的安定ということをアジア諸国の課題にさせたことであった。政治の混乱が海の民に大きな影響を与え、倭寇をつくり、それがまた大きな政治的混乱を生み出した。つまり、日本の国内政治の混乱、高麗の国内政治の混乱が平和に交易をしていた人々に大きな影響を与えた。それが大勢の倭寇を生み出した。

このことは現代の社会に共通する課題を問いかけている。政治的不安定さが大きな問題を引き起こしている。例えば、現代国際社会で複雑だと思われている中東問題やアフガニスタンのような状況を観ると、政治の安定の重要さがわかるとキム教授は述べた。


国際紛争を解決する方法としての境界領域の復権や境界を接する双方の国の努力

同時に、当時の境界人、現代の国境を境にして出来上がっている民族と異なる集団、二つの国の間の境界領域空間で生活している人々、という考え方から、当時は現代と違い、境界領域空間があり、どちらの国にも属さない人々がいた。しかし、近代になり境界は広がりをもった空間から線になり、二つの国のどちらかに属さなければならない状態になっている。そのことを考えてみようと村井教授は述べる。

そこで、二つの領域が境界地の所有をめぐって紛争している場合、近代以降はその解決方法は戦争であった。勝った国がその領域を所有するという選択しかなかった。しかし、これから先、それで紛争が最終的に収まり、問題が解決するだろうかと考えてみる。つまり、これからの時代、国際紛争によって核戦争が誘発される時代に、領土問題を解決しる手段として戦争が現実的な方法であるかを考える必要がある。

そこで、境界人や境界領域空間に関する考え方や、昔の境界を復権できないかということも考えられる。どちらにも属することのない空間、逆に言うとどちらにも属する空間を復権することで、問題を解決できないかと考える。そうすることで、境界を挟んだ両側が色々な事業を興し、双方が結果的に大きな利益が得られるのではないかと村井教授は述べている。

日本と韓国の境界を接する二つの国で考えるべき大切な課題がある。それは、倭寇の問題を平和的に解決しようとした人々が居たことは事実出である。境界を接する人々にとって大切なことは、まず倭寇による被害を受けた人々がいること、また、厳しい貧困によって倭寇が生まれたこと、つまり倭寇にならなければならなかった貧困に苦しんだ人々も居たこと、この両方を含めて方策を考える必要がある。立場の異なる双方で、安定化のための問題解決に挑む必要があるとキム教授は述べた。



テキスト批評(三石):境界人倭寇と東アジア圏の成立(自国に連動する他国の内政問題)

被害を受けた側と被害を与えた側の歴史解釈の違いの相互理解

ETV特集「日本と朝鮮半島」では、毎回、日本と韓国の専門家を呼んで、議論を挟みながら番組を進める。今回も、村井章介東京大学教授とキム・ムンギョン スンシル(宗実)大学名誉教授が番組に招待され、議論を展開した。

二人の専門家の話しから、同じ事件でも韓国と日本では理解の仕方が異なるという印象を受けた。この印象は、今までのこの番組の中でも感じられたのであったが、今回は、村井教授とキム教授の解釈の違いを鮮明に感じた。

前回の「元寇」も、日本側から見た場合と東アジアの他の国々の歴史も入れて解釈した場合では、大きな解釈の違いを感じたが、同様に、倭寇についても「倭寇の被害を受けた国の側」(キム教授の発言)と倭寇として周辺諸国(ここでは特に韓国)を襲った側からみた場合では、倭寇に関する解釈が異なった。

例えば、高麗史に記載してある500隻の大集団で西海岸を襲い、約100km内部のナンオン(南原)まで侵入した倭寇が将軍イ・ソンゲ率いる高麗軍との激戦を行った史実に関する解釈に関して、井村教授は、倭寇は当時高麗と戦っているモンゴル人等と倭人の多国籍軍であったのではと解釈したのに対して、キム教授は、騎馬軍団は九州の豪族であったのではないかと解釈している。

帝国主義の時代、1910年から始まった韓国併合(日韓併合)によって、朝鮮半島は事実上日本の植民地となった。1945年の第二世界大戦の終了まで、朝鮮半島での教育は日本語で行われた。植民地時代を知るキム教授にとって、倭寇の歴史も韓国併合時代と重なるのではないだろうか。

また、近年、前の戦争での戦争犯罪者を戦争犠牲者と共に合祀(ごうし)されている靖国神社で、日本には過去の戦争責任はないという集まりがなされた。また小泉総理大臣が率いる政府閣僚たちの8月15日の参拝に対して、韓国や中国は敏感に対応し、各地で反日デモが起こった。

この反日デモは経済的繋がりがますます深まる中国や韓国と日本との関係にまったく逆行するものであった。そこで、相互の歴史の共同研究に関する企画が提案された。

このNHKの「日本と朝鮮半島」はその企画を生かした番組であったといえる。当然、日本から解釈した東アジアの歴史と韓国からのその解釈は異なる。その違いを明確にしながら、史実を再度掘り返し、解釈し直す作業が行われることになる。そして、今回のように、倭寇に関する解釈の違いが生じることになる。その違いを相互に理解しながら、東アジアの中の日本、朝鮮半島の歴史研究が進むことが、相互理解の第一歩となる。


font size="4" color=#00008b">倭寇を生んだ社会情勢、国際社会の不安定さと境界人たち

元寇は13世紀の東アジアの最大の国際事件であった。海を越え大陸から日本を襲った二回の元寇が物語ることは、モンゴル帝国の発達した兵器、造船技術や航海術であった。それ以来、東アジアの沿岸には、これらの造船技術や航海術が定着したと思われる。そして、東アジアの海を舞台にして交易する人々が生まれたことは、一回目3万と二回目14万とも言われる大海軍を動かした元寇の歴史と切り離して考えるのは不可能である。

朝鮮半島と日本を考えるうえで、五島列島、壱岐、対馬、済州島や韓国沿岸の多くの島々で暮らす人々が、漁業以外に交易や水軍として活躍したことは推測できる。境界人の出現は、彼らがその海の孤島に住んで居たということではない。彼らがその島を根拠地として東アジアの海を舞台にして活躍していたと言う事である。その条件として、彼ら境界人と呼ばれる人々は、航海の技術と船舶を持っていた。航海能力を持ったが故に、境界人となったとも言える。

村井教授は、当時の国と国の間にあった境界領域やそこで暮らす境界人を現在の国家感覚から推測してはならないと述べている。国民国家、つまり国語と憲法をもって成立している近代国家と、封建領主時代の国は、基本的にそのあり方が異なる。対馬の民が日常的にプサン(釜山)に出かけ、交易をしていたとしても、彼らが現在の日本国民と同じような国家意識を持っていたとは思われない。

境界人たちの生活基盤は交易であった。もし、国が乱れ、交易活動が不可能になったなら、もともと食料や生活物資の生産力の少ない島では、飢饉や貧困が急速に進むだろう。そのことは境界人たちが倭寇に変身する契機となる。倭寇の襲撃を頻繁に朝鮮半島が受けた時期、特に1350年から倭寇は急激に増えたが、その年は日本では南北朝時代の真最中で、60年近い騒乱が続いており、日本が政治的軍事的に混乱した時代であった。

キム教授は、この1350年の東アジアでの出来事は現在の国際社会でも共通することで、一般に隣国の政治が乱れる場合、同時にその影響を隣国も受けると述べた。実際、中東、南アジアの例を引くまでもない。このことから、取り分け隣国の政治的不安をよその世界の出来事のように観ることは今の国際社会の関係から不可能である。北朝鮮と韓国の緊張は、そのまま日本や中国の安全の問題となる。そのために、隣国の国際紛争の解決に協力することは、自国の安全にとって大切な課題であると言える。

また、現在のような近代国家の傘の下で守られていない当時の境界人にとって、彼らの生活領域を守り、また彼らの生存を守るためには、境界人間の関係から成立する連合が出来上がっても不思議ではないと村井教授は推測する。倭寇は勢力を伸ばし、巨大の海賊集団となり、朝鮮半島内陸部に騎馬軍団で侵入したのは、当時、済州島で高句麗政府に抵抗していたモンゴル人との連合が可能であったからではないかと村井教授は述べた。

その上で、現代の日本を取り巻く近隣の国々との国境紛争問題、例えば、尖閣列島、竹島問題や北方領土を前提にしながら、国際紛争の解決手段として、以前あった境界領域とそこに住む境界人を現代の社会にも積極的に認める必要があるのではと提案している。国境問題で紛争が起こっている地域に積極的に二つの政府が共同で管理する境界領域を作ることで、現代の国際問題の解決の糸口を見つけられるのではと述べている。この考え方には、大きな可能性があると思われる。つまり、核をはじめとして大量破壊兵器や巨大な破壊力を持つ軍事力によって起こされる戦争を予測して、両方の国が領有権問題を争って失う利益とその領有権を共に管理する(半分の利益しか得られない)ことによって得る利益との比較をする必要がある。

倭寇の歴史を、キム教授も村井教授も、現代の日本と朝鮮半島の国際政治の課題として展開していた。歴史を学ぶということは、史実解釈を現代社会の課題解決の道具として活用することをその究極の課題にする事であるとも言える。


緊迫する東アジアの政治課題、東アジア連合案の展開と国際地域紛争の解決方法

2010年になって、韓国と北朝鮮の間で頻繁に軍事的衝突が発生している。2010年3月26日、黄海上で北朝鮮の魚雷によって韓国軍の哨戒艦「天安」が撃沈され、2010年11月23日に北朝鮮軍による韓国の延坪島(ヨンピョンド)に170発の砲撃がなされ、住宅地域に着弾し民間人2名を含む4名の犠牲者が出た。

中国や韓国の経済的発展と東アジア経済圏の世界的な位置の向上、それによって中国、韓国と日本は共に利益を得ている。良好で緊密な経済的関係が、韓国と北朝鮮の軍事的衝突や日本と中国の領海権問題によって危機に晒されようとしている。この時、私たちは元寇や倭寇の歴史を思い出し、それらの教訓を現在の課題に活かすことが必要になっている。

キム教授の提案、隣国の政治安定のための協力に関しては、日本は日米同盟の立場から韓米同盟への間接的支援を行うことを今回韓米軍事演習で確認し、また韓国も日米軍事演習にオブザーバー参加して相互に日米韓の軍事同盟の連携を図った。しかし、その反面、中国沿岸に接する黄海での軍事訓練や尖閣列島での有事を想定した軍事訓練に対して、中国は不快感を示した。今後の課題は、中国、韓国と日本が共に共同して、東アジアの政治的安定を作り出す努力がさらに検討されなければならないことである。

先ず、中国を必要以上に仮想敵国にしてはならない。つまり、日韓米は中国の政治的立場を理解することが必要である。北朝鮮は中国と外交的に深い関係があり、北朝鮮は中国の援助なくしては今後の国家の運営自体が危機的状況に陥るという状況は否定できない。そのため、中国が北朝鮮との関係を維持することは大切なことであり、北朝鮮で急激な政治的危機が生じることによる東アジアでの政治経済的リスクを計算して、中国の北朝鮮外交を支持しなければならないだろう。その上で、中国と共に北朝鮮の暴走を食い止める政治的交渉が必要となっている。

そこで問題となるのが、日中間の尖閣列島に関する領有権問題である。領有権問題の解決は非常に長い時間が必要となる。その領土上の明らかな解決策は、例えば1982年に勃発したフォークランド島の領土を巡るイギリスとアルゼンチンの戦争のような、局地戦争である。あるインターネットのニュース情報によると、世論調査によると現在の中国人の36パーセントの人が、尖閣列島問題は武力によって解決すべきだと答え、また話し合いによって解決すべきと答えたのが52パーセントであったと言う。これは、尖閣列島問題の展開次第では、予想もできないような日中間の武力紛争に発展する可能性を秘めていると言える。

村井教授の提案は、現実可能かどうか問題だといわれるかもしれないが、領土問題で紛争している二国間に紛争地域を新しく境界領域として位置づけ、双方の国が管理し、国際交易自由地域や関税の自由化を行い、さらに東アジアの経済発展に活用することは出来ないだろうか。例えば、ヨーロッパ連合の形成の段階で紛争地帯であったバスク、コルシカ、北アイルランド、アルザス等々の境界領域をヨーロッパという一つの国の地域として、二つの大きな紛争相手国に対して位置づけることで、問題解決の糸口を見つけたように、東アジア連合という大きな国際地域連合を目指すなら、村井教授の提案は、決して現実不可能なものではないと思われる。

コメント
2010年12月に文章を変更する。

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ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」

5. 日韓関係

5-1、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6656.html

5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る  東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html

5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html

5-4、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html

5-5、東アジア共同体構想の展開を進める日韓関係の強化
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_12.html



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受刑者の人権問題を考える

三石博行


1、累犯者が非常に多い日本社会


インターネットの検索エンジンで「犯罪加害者」と「人権」の二つのキーワードを入力すると、ほとんどのサイトで「犯罪加害者には人権はない」という内容の文章に出会う。もし、彼らに人権がないなら彼らは日本国民ではないと言っていることになる。何故なら、わが国の憲法によってすべての国民が基本的人権を擁護されているからである。

犯罪被害者が犯罪加害者に対する憎しみや怒りの感情は理解できる。しかも、第三者がその犯罪被害者の気持ちを痛感し、また自分が犯罪被害者になることへの恐怖から、犯罪加害者への批判や憎しみの感情があるのは理解できるし、そうした社会的反応が起ることも不思議ではない。

犯罪学の専門家として有名な菊田幸一氏の著書によると、累犯者(るいはんしゃ 繰り返し犯罪を犯す人々)は、男子の場合2000年の統計では刑務所の全収容者の52.5%に及んでいる。つまり、刑務所の「初入者より再入者が多い」ことになっている。(KIKUko02A p.i )

2、刑務所の社会的機能 受刑者の社会復帰

この事実から、二つの仮説が立てられる。一つは、最犯罪率が高いのは日本の犯罪者の特徴ではなく、犯罪者とはつねに犯罪を再び繰り返す傾向にあると言える。この仮説は世界の犯罪者の再犯率を調べることで検証できる。二つ目の仮説は、本来刑務所は受刑者の犯罪行為を反省させ、再び罪を犯さないように教育矯正する社会的機能を担っているが、日本の刑務所はその社会的役割を十分発揮していないというものである。この事も、前記した仮説と同様に世界の先進国の再犯罪率の統計を見ることで検証可能である。

犯罪加害者という名称を与えることで犯罪者が生涯償えない加害者としての履歴を背負うことになる。彼らが刑務所で刑の執行を受けたとしても、元犯罪者という呼び方は彼らに生涯、刑務所での刑罰に服し、被拘束生活と刑務作業を続けたとしても、一旦、罪を犯したものは再び社会が許すことはないという烙印(らくいん)を意味する。

この烙印は、江戸時代、窃盗などの犯罪者に入れ墨を入れ、三回入れ墨が入る死罪となる制度と似ている。中世社会までは、犯罪者が生れないようにするのでなく、犯罪者を社会から排除することが社会の犯罪対策として取られていた方法であった。しかし、現代の人権擁護を基本する憲法を持つ社会で、罪を犯した者を社会から徹底的に排除することは、人権問題となると言える。

人権の守られている社会とは、人々の生命と生活を守ることが出来る社会を維持するために、犯罪が発生しないように機能している社会である。そのために、犯罪者を逮捕し、裁判にかけ、刑務所に入れ、再び犯罪を繰り返さないよう矯正教育を行い、そして彼らの社会復帰を助けることが社会の大切な治安機能の一つである。防犯とは犯罪を未然に防ぐことであると同時に、犯罪者を出さないような社会を作ることを意味する。


3、市民の人権擁護・防犯と受刑者の人権擁護・社会復帰

また人権問題を考える以上、刑に服している人々を「犯罪者」と呼ぶのでなく「受刑者」と呼ぶことにする。受刑者が再び罪を犯し、累犯者となることを防ぐにはどうすべきか、それが、この社会の安全対策につながる。人権擁護と防犯は矛盾するとは思われない。もし矛盾するなら私たちの社会は人権擁護の思想を破棄し、江戸時代のように、罪を犯した人々を徹底的に社会から排除し、また死罪にして、抹殺し続けなければならない。

現代社会でも中国のように、麻薬を持っていたという理由で死刑になる国もある。その国では年間数千名の人々が死刑になっていると謂(い)われている。刑罰を強化しながら中国政府は国の治安を維持している。インターネットでも中国で行われていた公開の銃殺刑の写真が出回り、人権感覚のない国として悪評を買っている。

人権擁護を掲げる先進国では、受刑者の人権を考える法律や社会制度が存在している。つまり人権を守る社会では、極刑をもって犯罪者を抹殺するのでなく、犯罪者を出さない、累犯者にさせない社会のあり方を市民が積極的に考えなければならない。そのきっかけを裁判員制度は与えるだろう。市民生活の安全を守るために犯罪を防ぎ、犯罪者の社会復帰を助け、累犯者を出さない社会を構築していくために、もう一度、受刑者の人権問題を考えてみよう。


参考資料
(KIKUko02A)菊田幸一著『日本の刑務所』岩波新書794 2002年7月19日第1刷発行 205p

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NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評

三石博行


A-1、資料の出典紹介

NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」(6)「元寇蒙古襲来 三別抄(1)と鎌倉幕府」の映像 2009年に放映された資料   

司会    三宅民夫 
レポーター 笹部佳子(ささべ よしこ)
ゲスト   九州大学教授 佐伯弘次(さえき こうじ)
コンジュ(公州)大学校教授 ユン・ヨンピョク


A-2、資料の要約

2-1、世界を制覇した蒙古軍の日本襲来、元寇

 1206年、フビライの祖父ジンギスカンがモンゴル(カラコルムが首都)を統一、その後、帝国は拡大しわずか60年間で、帝国は極東から中央アジア、ヨーロッパにいたる巨大な領土を手に入れる。その絶頂期にクビライはモンゴル帝国第五代皇帝となる。1268年、クビライは日本に国書を遣(よこ)し、南宋と友好関係にあった当時の日本の外交政策の転換を丁重に求めながらも、実質はモンゴル帝国の支配を受け属国になることを命じるものであった。(2)

 日本は遣唐使以来、中国との国交の歴史はあったが、モンゴルとは誼(よしみ)を通じた歴史はなかった。武家政権鎌倉幕府は、クビライからの国書を日本への威嚇として受け止め、直ちに警備体制の強化を西国の守護や御家人に命じた。

 クビライの命に従わない日本に対する攻撃が始まる。13世紀後半の蒙古襲来で、日本は、1274年には2万6千(元軍2万、高麗軍6千)の兵によって、1281年には元と高麗の連合軍4万と元と旧南宋の連合軍10万、合計14万の兵によって、二度にわたって襲撃を受けた。

 長崎県松浦市にある鷹島(たかしま)は二度目の蒙古襲来、弘安の役の勝敗を決めた場所である。鷹島には700年経った今でも、その恐ろしさが庶民に伝っている。今でも、元軍の遺品が漁師の網に掛かる。水中調査で、兜や船の残骸の遺物が出てきた。元船の錨(いかり)は全長7mで、錨の重さは1トンで、それから推測して船の大きさは全長40m以上で、100人の人と馬を乗せていたとのではないかと言われている。

 海底から元の火薬を使った最新兵器「てつはふ」が見つかっている。硝石のない日本では火薬は作れない。火薬を使った兵器、「てつはふ」は殺傷能力を上げるために火薬と一緒に陶器の破片や鉄片などが混ぜられていていた。「てつはふ」には殺傷を目的とする炸裂弾(3)が用いられていたのである。


2-2、蒙古に屈服した高麗王朝と蒙古と高麗からの国書の背景

 1268年、クビライからの国書と同時に高麗からの国書も送られてきた。当時、高麗(朝鮮半島)は元の支配下にあった。その高麗の国書には蒙古が素晴らしい国であることや日本に蒙古と誼(よしみ)を結ぶことを勧め、日本も蒙古に使いを送ったらどうかと書かれていた。

 936年に後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一した建国された高麗(4)は、1268年、日本に国書を送る40年前から蒙古の激しい攻撃を受けていた。1231年、蒙古は朝鮮半島に侵攻した。蒙古軍団は瞬く(またたく)間に朝鮮半島各地を蹂躙(じゅうりん)し、高麗の首都である開城(ケジョン)に迫る。高麗史に、蒙古の攻撃への対抗策が記されている。蒙古侵入の翌年、1232年、高麗は開城(ケジョン)から南に20kmほど離れた島である江華島(カンファド)に遷都した。

 本土と1キロほどの狭い水路で隔てられ、しかも9mの干満の水位が生じる海流の流れも複雑な江華島(カンファド)の地の利を活かして蒙古の騎馬軍団の攻撃を防いだ。その結果、蒙古軍は30年間もこの島に攻め込むことはできなかった。 

 江華島(カンファド)の高麗宮の遺跡から、当時のカンファドを理解する上で貴重な出土品が多数発掘された。

 江華島(カンファド)は開城(ケジョン)への重要な入り口で、しかも、広い土地があり、自給自足が可能であった。高麗は安全な場所として江華島(カンファド)を新しい都とし、ケジョンの都と同じくらいの大きな宮殿や城を建てた。都(まち)を囲む城壁は全長13キロに及び、軍人、官僚や商人などが、新しい江華島(カンファド)の都に移り住んだ。ここで高麗王朝は30年間、蒙古に対して抵抗を続けたのである。

 朝鮮半島本土では、侵入してきた蒙古軍に対して、民衆や僧兵(そうへい)達が戦っていた。処仁城(チョインソン)の戦いでは、身分の低い奴婢(ぬひ)階級の人々が先頭に立って戦った。朝鮮半島は凄惨(せいさん)な戦場となった。蒙古の侵入は、30年間で11回に及んだ。 高麗史には、約20万人の男女が蒙古軍の捕虜となったこと、殺戮された人数は数え切れないことが記されている。このたび重なる侵略によって、朝鮮半島は荒廃して行った。

 そして、1259年、高麗は蒙古に降伏した。高麗の王子が蒙古に入城し、臣下の礼(蒙古の支配を受けることを認める儀式)を取った。1260年、兄弟間の相続争いに勝ったクビライが第五代モンゴル帝国皇帝に即位した。その四年後の1264年に、年号を中国風に「至元(しげん)」と定める。そしてモンゴル帝国の都を現在の北京、大都(だいと)と名称し、広大な宮城を持つ都を建てた。そこに典型的な中国様式の大明殿(だいめいでん)を造り、そこからさらに世界制覇に向けた活動を始める。

 当時の世界通貨は銀であった。その銀を求めて元は交易を興し、富を世界から集めようとした。フビライは黄金の国と呼ばれた日本「ジパング」(5)にも交易を求めた。1267年、フビライの使者は、日本を望む朝鮮半島南部の巨済島(コジェド)まで来た。しかし、使者は日本への渡航が極めて困難であるため日本には渡らず、そのことをフビライに報告した。フビライはそれに激怒し、高麗国王に対して、日本にフビライの国書を届けるように命令した。それが、1268年、クビライの国書と一緒に送られてきた高麗の国書であった。

 この国書の中で、高麗王は、蒙古の年号「至元(しげん)」を使っている。つまり、蒙古の攻撃に屈服させられた高麗から、フビライからと高麗からの二つの国書が送られてきたのである。


2-3、蒙古に反抗し続けた高麗軍、三別抄が送った国書の背景 

 蒙古襲来は朝鮮半島の歴史の中でも重要な事件として記録されている。人民の殺戮や国土の荒廃による飢饉などの被害が大きかった。そして、モンゴル帝国の支配によって、日本攻略の基地となり、そのため日本への軍艦製造や必要な食料等々、巨額の軍事費を使い、多くの兵を日本侵略のために派遣しなければならなかった。それまでの蒙古との戦争で荒廃した国家、高麗にとって、元寇に参加することは大変な負担であった。戦争の契機となるフビライの国書を日本に送るのは気が進まなかったと思われる。高麗は日本と戦争をしなければならない立場におかれることになった。

 一方、鎌倉幕府は、蒙古からの国書を日本への脅しとして受け止め動揺した。また、高麗と日本はもともと良好な関係であったのに、蒙古と共に高麗が日本に国書を送ってきたので、そのことも鎌倉幕府を疑心暗鬼にさせた。

 国土を蒙古に支配され、蒙古のためにさらに庶民を犠牲にすることになる日本攻略を進める高麗王国の中で、深刻な内部対立が生じる。

 モンゴル帝国の国書と一緒に送られてきた高麗の国書が日本に届く1268年から、3年後の1271年に再び、高麗から日本に国書が届いた。当時の公家である吉田経長(よしだつねんなが 1274-1302)の日記「吉続記(きちぞくき)」によると、二回目の高麗から国書の内容は一回目とは内容がまったく反対のもので、蒙古に対決するために食料と軍隊の支援を要請するものであった。それは、さながら日本への救助支援(SOS)のようであった。

 1970年代後半、この二つ目の国書の謎を解明する資料が発見された。この資料は、東京大学資料編纂所に眠っていた文書で、「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」である。これは、当時、二つ目の国書を読んだ人物が不審に思った点12箇所を列挙したメモであった。この資料の発見者、石井正敏中央大学教授は、当時勤務した東京大学で調査中にこの資料に偶然出会い、その重要性に気付いた。

 「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」は、高麗から届いた二つの国書の内容の違いについて述べている。はじめの国書は蒙古の徳を褒(ほ)めていたが、二つ目は、蒙古兵の野蛮さを指摘している。その二つが矛盾することを指摘している。また、前の国書では蒙古の年号を使っていたが、新しい国書ではそれがないということも指摘されていた。つまり、後の国書は蒙古に従属していない勢力が送ったものであったことが明になる。

 蒙古に従属しない高麗の勢力とは何か。そのことを解く鍵は、「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」の第三条に記されていた、江華島(カンファド)から半島最南部の珍島(チンド)に遷都したという記述に、隠されていた。

 二度目の国書が届く1年前の1270年、江華島(カンファド)は大きく揺れていた。蒙古の支配を受けた高麗王朝では、高麗の都を江華島(カンファド)から元の都開城(ケジョン)に移るようにと蒙古から要請を受けていた。王とその周辺は蒙古のその要請に従おうとしたが、それに強く反対する勢力が現われことになった。その勢力とは、高麗王朝を守るために選別された軍事集団、右別抄と左別抄からなる夜別抄(よべつしょう)とモンゴルの捕虜になりながらも脱走して戦い続けた神義軍(しんぎぐん)の三つの先鋭部隊によって構成された三別抄と呼ばれる軍事集団であった。

 高麗史によると、三別抄(さんべつしょう)の指導者は将軍裴仲孫(テ・ジュンソン)であった。彼は、「蒙古兵が押し寄せ人民を殺戮している」ことや「国を守らんとするものは結集せよ」と呼びかけていた。三別抄は、高麗王室に関係する人物を擁立し、江華島(カンファド)から珍島(チンド)に移った。

 つまり、「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」で江華島(カンファド)から珍島(チンド)に遷都したという表現を使うのは三別抄以外にあり得ないのである。したがって、二つ目の国書「高麗牒状(こうらいちょうじょう)」の送り主は三別抄であったと考えられる。

 高麗史では、裴仲孫(テ・ジュンソン)は反逆者として記載されている。何故なら、彼が高麗政府の資料、人民の名簿や土地の台帳を焼き払ったからであると謂(い)われている。彼のこの行為は高麗王朝を支えた身分制度や経済基盤を否定する重大な反逆行為であった。そのため、彼は高麗政府の敵となった。

 三別抄は徹底的に蒙古に抵抗するために、新しい高麗王朝を珍島(チンド)につくろうとしていた。

 珍島(チンド)と本土を隔てる水路は、年貢を運ぶ船が通る重要な場所であった。そこを三別抄は軍事的に押さえようとした。三別抄はチンドに高麗の都として建設した。このことを物語る龍蔵城(ヨンチャンソン)の遺跡がチンドにある。この遺跡は高麗の都ケソンの王宮マンウォルデと立地が似ていることがわかった。また、その後(1988年)の大掛かりな発掘調査で、王宮と思われる高級な青磁(王族などしか使わないと思われる)や宮殿に使われたと思われる蓮の花の瓦などの出土品が発掘された。このことから三別抄の拠点が龍蔵城(ヨンチャンソン)であったことが裏づけられた。また、龍蔵城(ヨンチャンソン)の山城の発掘調査から、この山城は全長14キロに及ぶ龍蔵城(ヨンチャンソン)の宮殿を囲む巨大なものであったことも分かった。

 三別抄が日本に国書「高麗牒状(こうらいちょうじょう)」を送ったのはチンドからであった。その国書は朝鮮半島の正当な統治者であると自負したものあった。彼らは、来るべき蒙古との戦いに備えて、日本に食料と兵の援助を求めたのであった。

 三別抄は民衆、奴婢などの低い階級の人々によって構成されていた。一方、蒙古の要請で都を江華島(カンファド)から開城(ケジョン)に移すことを同意した高麗国王の主流派は貴族を中心とした勢力で構成されていた。その二つの勢力は、基本的に異なる勢力によって構成されていたと謂える。言い換えると、蒙古に屈した高麗政権の主流派と蒙古に抵抗する三別抄の支持する新興の高麗政権の勢力という根本的な違いがあった。これまで朝鮮半島本土で蒙古と戦った人々は農民であった。その民衆は三別抄を支持して来たのである。

 三別抄は高麗王朝と決別し、都をチンドに移すことで、蒙古と戦い続けよとした。そのため、彼らは蒙古と開城(ケジョン)にある傀儡政権(かいらいせいけん)の二つと戦わなければならなくなっていた。三別抄の立場は困難であった。そのため、新しい連帯の相手を見つけようとしていた。日本は次に蒙古に侵略される存在だったので、三別抄は日本と連帯しようとしたのだった。


2-4、日本への蒙古襲来に対する三別抄の役割と鎌倉幕府の反応 

 もっぱら中国(南宋)との貿易に興味を持っていた鎌倉政府は、朝鮮半島の動きに関心を持っていなかった。そため、三別抄の動きや高麗の情報を鎌倉幕府は知らなかった。そんな中、二つの国書が高麗から届いた。そして、それを分析したのが、「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」であった。この資料によると、当時の鎌倉幕府は三別抄の評価を正確に行わなかった。そのため、1271年、三別抄が必死の覚悟で日本に送った国書に対して鎌倉幕府は何の反応も示さなかったのである。

 平安時代には外交は朝廷が取り仕切っていた。鎌倉時代になると外交文書に関する取り扱いは朝廷だけでなく幕府も参画するようになる。時の執権北条時宗は、南宋の僧侶から蒙古の野蛮さを聞き及んでいたので、蒙古からの国書や蒙古に下った高麗にも一切の返書を出さなかった。朝廷も高麗王朝の分裂を把握することが出来ず、当時の資料では朝廷の中で意見が分かれたと記されている。そして、高麗の分裂を察知する者もいたが、しかし、朝廷は、鎌倉幕府と同様に、それらの意見を取りまとめることもせず、届いた国書に返書を出すこともしなかった。

 つまり、日本における東アジアの国際政治状況の不理解と情報不足、そして朝廷と幕府の外交の二重システムによる外交決定能力の低下によって、当時の日本は三別抄の支援要請を無視し、これから蒙古の攻撃を受けるにも関わらず、当時蒙古と戦い続けていた三別抄と連帯することも出来なかったのである。
 三別抄が送った救援要請は、鎌倉幕府からも朝廷からも無視され、そして日本の援助を得られなかった三別抄は苦戦し、島の東部に追いやられ、三別抄の指導者、将軍裴仲孫(テ・ジュンソン)の記録はここで消える。チンドで高麗再建を試みた三別抄は、済州島(チェジュド)に逃げる。

 高麗王朝時代そしてその後、三別抄は長く反逆者とされた。しかし、チンド(クルポ村)では裴仲孫(テ・ジュンソン)は英雄として扱われている。村人はこれまで将軍を大切に祀ってきた。村人は今でも裴仲孫(テ・ジュンソン)を親しく「おじさん」「おじいさん」とよんでいる。

 1271年、宋を制圧し中国北部を支配したクビライは国名を「大元」と制定し、中国と朝鮮を中心とし、インド、そしてアフリカをも含む海洋航路のネットワークを拡大しようとしていた。そして『黄金の国』日本を力ずくでも、このネットワークの中に組み込もうとしたのである。

 クビライは日本侵攻に備え、高麗に造船を命じ、韓国南部の天然の良港、合浦(ハッポ)で日本攻略のための造船工事が行われていた。

 しかし、当時の鎌倉幕府は同族同士の争いに明け暮れていた。1272年の二月騒動で、執権北条時宗は兄時輔を殺害し、蒙古の襲来に備える余裕は無かった。

 元の軍隊は、すぐに日本に攻め入ることは出来なかった。何故なら、三別抄(タンベルチョウ)の一部がチェジュドで激しく抵抗し続けていたからであった。チェジュドでの三別抄の拠点となったハンパドゥリ城の砦は全長6kmの及び、また、環海長城(かんかいちょうじょう)とよばれる海に面した側にも300里(約1176km?)の防壁(6)がつくられていた。粘り強く抵抗する三別抄にフビライは業を煮やし、日本攻略のために準備していた軍船団をチェジュドに向けるように命令した。

 三別抄はチェジュドから半島各地で攻撃を仕掛けていた。合浦(ハッポ)など三ヶ所の造船現場をことごとくゲリラ的に襲撃し、建造中の軍艦を焼いた。そして、1273年、チェジュドの三別抄に蒙古・高麗連合軍が総攻撃を掛けた。激しい戦闘の末、三別抄の首領が死亡し、足掛け三年に及ぶ三別抄の抵抗運動は終わりを告げた。こうして、フビライは三別抄を駆逐するために時間と戦力を費やすことになったのであった。そのため、第一回の日本への遠征計画は変更を余儀なくされたのであった。

 結果的に、鎌倉幕府にとって蒙古襲来の時期が遅れたのは幸いであった。二月騒動も収まり、御家人に西国警備の指令を発することが出来た。

 チェジュド攻めの翌年、1274年10月、蒙古・高麗連合軍は九州北部を襲撃した。この第一回の蒙古襲来を文永の役と呼んでいる。戦法の違い、強烈な兵器(毒弓や火薬をつかった砲弾)によって蒙古軍は一日にして圧勝し、箱崎や博多の町も戦火で消滅した。しかし、翌日、蒙古・高麗連合軍団は突然として姿を消した。その理由について、軍が整わず矢も尽きたと記されている。

 世界最新の武器を使った蒙古・高麗連合軍に対して、三別抄は足掛け三年も戦い続けた。そのために、日本への元寇襲来は遅くなった。このことが、日本にとっては災いを免れた点があったと思われる。つまり、1270年から1271年までのチンドでの戦い、そして1271年から1273年までのチェジュドでの戦い、三別抄の戦いが蒙古の日本襲来のタイミングを後ろ(1274年)にずらしたことになる。そのことが、日本への元寇の衝撃を緩和したのではないかと考えられている。

 本来、元は1274年5月に日本侵攻を考えていた。しかし、準備に時間が掛かり、また、1274年6月に高麗王、元宗が死亡したため、元の攻撃が遅れ、結果的に10月になった。そこで、元は日本への攻撃を行って、すぐに撤退することになったと考えられる。

 また、文永の役当時、元は南宋の勢力と対立していた。元は南宋の拠点、揚子江を越えた襄陽(じょうよう)にある難攻不落と謂われた襄陽城を攻めていた。そこでは、クビライは最新式の兵器で攻撃し、ついに襄陽城を攻め落とし、南宋を滅ぼしたのである。そうして、フビライはユーラシア大陸全域に及ぶ大帝国を完成させた。

 他方、文永の役以後、蒙古の再襲来に備えて、日本では急ピッチで、防塁(ぼうるい)の建設が進んでいた。高い所で3mからなる防塁は博多湾岸全域、20kmにわたって、造られた。この防塁工事は、わずか半年の突貫工事であった。この防塁を造るために、九州各地から御家人が集められた。

 1281年、フビライは、ついに日本への第二次遠征計画を実行した。再び海の彼方から現れた海の船団は兵力14万であった。これを弘安の役と呼んでいる。博多湾岸全域に造られた防塁の効果もあり、鎌倉武士は蒙古勢に対して奮闘した。そして、台風と思われる突然の暴風によって船団は壊滅したのであった。

 蒙古襲来に翻弄され続けた34年の生涯を終え、1284年、北条時宗は他界する。


2-5、日本への第三次蒙古襲来に対する大越国の対蒙古戦争の役割

 クビライは日本への野望をあきらめず、第三次の日本遠征の機会を窺(うかが)っていた。南宋を破りそれを元に接収したフビライの目は、日本と東南アジアの攻略に向けられていた。フビライは第二次日本攻略のわずか五ヶ月後の1279年7月に日本とベトナム北部の侵攻のために戦艦の造船を命じていた。

 ベトナム遠征は直ちに実行される。1288年のバクダン川の決戦、これは今のベトナム北部の大越国が民族の独立を掲げて戦った戦闘である。戦力で優る蒙古に対して大越軍は地の利を活かした戦いを展開した。潮の干満を利用し、川底に杭で仕掛けを作り、満潮を利用し侵入してきた敵の戦艦を身動きできないようにし、反撃し撃退した。大越軍はこの戦いで勝利を治めた。この戦いによって、蒙古軍は大きな痛手を受けた。蒙古軍のベトナム北部での2回の敗北を知ったフビライは激怒した。彼は、ベトナムに戦力を動員するために、日本に渡る予定であった軍勢をベトナム北部に呼び返した。その結果、第三次日本遠征はそのため中止されたと謂われている。

 大越の対蒙古戦の勝利は、13世紀の国際社会を考えるとき、大きな意味を持っている。つまり、日本の遥か南、ベトナム北部での戦いが、世界最強の帝国、モンゴル帝国の第三次対日本進攻を中止させるきっかけの一つになったのである。

 巨大帝国の夢を追いかけたクビライは日本を征服できないまま、1294年、80歳で生涯を閉じた。


2-6、元寇を世界史の中で理解することの意味

 元寇襲来とは、当時の小国日本が世界で最強のモンゴル帝国(後の元)と行った戦争を意味していた。この蒙古襲来は、日本にとってモンゴル帝国がそれまでに支配した国々と同じように、つまり、隣国朝鮮半島の高麗と同じように、帝国に支配される運命の瀬戸際(危機的状況)にあったと謂える。蒙古襲来という当時のモンゴル帝国がユーラシア大陸を支配下に置くための世界戦争の真っ只中に、同時の鎌倉幕府は投げ込まれることになったのである。

 しかし、日本、鎌倉幕府には、こうしたモンゴル帝国の世界制覇やモンゴル帝国に関する情報はなかった。そして、当時の鎌倉幕府は内紛に明け暮れていた。また、国家の外交も、天皇を中心とするこれまでの制度と鎌倉幕府の介入による新しい制度構築によって、混乱を来たし、高麗からの貴重な情報、例えば元に屈服した高麗王朝に反旗を翻(ひるがえ)した高麗軍、三別抄からの日本への支援要請を正確に分析し、対応することが出来なかった。

 皮肉なことに、日本は支援しなかった三別抄が行った対蒙古戦争で元寇の時期を遅らせたことによって、結果的に三別抄に助けられることになった。

 また、第三次日本遠征を断念させる契機をつくる遥か南の大越国の対蒙古戦の戦いの勝利によって、助けられるのである。

 このように、日本の元寇史を国内の社会や歴史のみで観るのでなく、国外の歴史との関係から観る事で、立体的に元寇が見えるのである。

 しかし、それと裏腹に、日本では、元寇から日本は神国であり、国家の危機的状況を救うために神風が吹くという神話が定着していくのである。それが第二次世界大戦まで続き、精神主義で戦局を乗り越える考え方や神風特攻機を生み出す風土を培っていくのである。太平洋戦争で悲惨な国民の犠牲と敗戦を導いた精神主義の起源は、元寇を日本の内部からのみで観ることによって、生まれたと言えよう。

 元寇を国際的視点から見ることによって、元が日本攻略に失敗した国際的要因を加味して理解しなければならないのである。



3、資料の評価

3-1、世界史と東アジア史の中での元寇

 この番組が示した課題は、日本史の史実を東アジアの視点から見ることであった。日本史の中で元寇とは、単に蒙古が日本を襲撃したという側面で理解されている。しかし、東アジアの視点では、朝鮮半島がまず蒙古(元)に襲われた。そして、朝鮮半島を支配したモンゴル帝国が、高麗王朝を使って日本を襲うのである。それが日本から見た元寇となる。

 モンゴル帝国は建国以来、領土の拡大を目的にした侵略戦争を続けてきた。日本への元寇の前に、遠くて中央アジア、スラブ諸国、近くてインドまで侵攻を続けていた。世界史から見ると、それら朝鮮半島や日本への元寇も世界制覇のためのモンゴル帝国の侵攻の一部に過ぎなかった。つまり、蒙古にとっては、朝鮮半島や日本への元寇は、モンゴル大帝国の構築の過程に過ぎなかったのである。


3-2、東アジア隣国の侵略に使われた神風神話と朝鮮半島での戦いで防げた日本への元寇の被害

 日本の神風神話は元寇に対する戦いの中で生れた。世界最強の帝国が日本を襲来しても、日本は神風によって守られるという神話が生まれ、それが太平洋戦争まで続くことになる。

 東アジアの歴史から、朝鮮半島での高麗の30年に及ぶ抵抗、さらに高麗屈服から3年におよぶ三別抄の抵抗運動が無ければ、日本への元寇の攻撃の時期は早く、内紛によって混乱していた鎌倉幕府は到底、元寇から日本を防衛することは不可能であったに違いない。つまり、高麗と三別抄の長年の蒙古への戦いがあった、日本は元寇から守られていたのである。

 蒙古軍は多分に日本への攻撃を5月にしたかったのは、日本の気象を理解していたからだろう。元寇にそれが出来なかったのは、やはり、高麗の都合によるものである。その意味で、蒙古の攻撃は、日本に台風が来る時期になってしまった。このことが、元寇の命取りになった。

 しかし、台風によって、2回も蒙古軍は壊滅することになる。そのことが神風神話の背景となる。皮肉なことにこの神風神話に乗せられて、20世紀初期の日本は東アジアに侵攻していくのである。そして、無謀な太平洋戦争を引き起こすのである。

 仮に、20世紀初頭の日本の歴史学研究が、東アジアの歴史、取り分け朝鮮半島の歴史学研究をその範疇に入れ、東アジア歴史学共同研究の中で、取り組まれていたなら、神風神話の間違いを指摘できただろう。

 また、ベトナム北部の大越が元寇と戦った歴史を知ることで、日本への第三次元寇が中止になる事実も理解できただろう。その歴史認識があれば、20世紀の東アジアへの日本の侵略戦争を引き起こした日本帝国主義イデオロギーを防ぐことが可能となったのではなかろうか。

3-3、世界史の中での日本史の史実解釈

 今回の番組での元寇に関する理解から、元寇だけでなく、日本史の史実を東アジアの視点から見ることで、見えない歴史的な背景が理解できる。日本史の正しい理解とは、日本を東アジアの中で理解し、また世界の中で理解しようとすることである。

 今までの日本史の史実を東アジアの視点では、朝鮮半島の歴史と関連付けて理解する作業が、日本史の学習の中で必要となるだろう。



(1) 三別抄、日本語ではさん「さんべつしょう」と発音し、ハングルでは「タンベルチョウ」と呼ぶ。高麗王朝の軍事組織で、「別抄」とは精鋭部隊を意味する。地方の反乱鎮圧のために臨時編成された軍事組織が、崔(チェ)氏政権の私兵軍団から、高麗の正規軍に発展した。高麗正規軍は「夜別抄(やべつしょう)」には「右別抄(うべつしょう)」と「左別抄(さべつしょう)」の2部隊があり、それに、モンゴルの捕虜から脱走した「神義軍(しんぎぐん)」の三つの軍事集団によって構成された蒙古軍への国内の抵抗組織を三別抄と呼ぶ。

(2)「蒙古国國牒状」東大寺所蔵 Wikipedea 「元寇と高麗」

(3)弾丸の中に火薬を入れ、着弾と同時に弾丸が炸裂する。また、さらに殺傷能力を上げるために、火薬と共に鉄片を混ぜる、ベトナム戦争で使用されたボール爆弾やパイナップル爆弾が有名である。

(4)朝鮮半島では、6世紀以来、高句麗、新羅、百済と長く続いた三国時代を、8世紀、新羅が朝鮮半島南部を統一し、統一新羅を建国し、北の渤海とで南北国時代を迎えた。その後、朝鮮半島は、後百済、新羅、後高句麗と渤海の四つの勢力に分断される。後高句麗の将軍であった王建が918年に高麗を興し、936年に後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一した。 Wikipedea の「高麗」を参照 

(5)マルコポーロの『東方見聞録』に、ジパングは、中国大陸の東の海上1500マイルにある島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金で出来ていると説明されていた。Wikipedea 参照

(6)チェジュドは火山島で、面積が1,845km2である。その面積から考えて、島周囲が300里、つまり、1176kmあるというのは不思議である。これは多分、間違いであろうか。

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ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」

5. 日韓関係

5-1、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6656.html

5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る  東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html

5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html

5-4、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html

5-5、東アジア共同体構想の展開を進める日韓関係の強化
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_12.html




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大学の大衆化と問われる大学の社会的機能

三石博行


大学の大衆化によって、多様な目的や要求をもった学生が入学し、学生も学部専門教育を終了したからと言って、必ずしもそれらの知識を直接活用できる企業や組織の就職できる訳ではないのが現実である。

大学の大衆化によって、学部教育は教養専門教育過程として位置づけられてい。大学への入学人口の増加により学生の大学教育への期待や希望も多様化している。大学もそれらの学生の多様な要求にあった教育環境を作ってきた。多種の専門教養科目の履修可能性、情報処理教育の充実、国際感覚を養うための海外提携校への留学、英語での教養や専門科目教育、インターンシップ等々、それらの教育課題を充たすカリキュラムが準備された。そして、これらの具体的な教育内容の変化によって、従来の大学教育の評価方法も大きく変化してきたのである。

大学は高等教育機関としての社会的機能を充たすために、国の制度、高等教育に関する法律に規定され、また文部科学省の高等教育局の管轄の基に運営されている。大きくは、進学基準や卒業要件で、習得科目やそれらの単位数がこと細かく決められている。それに即して、大学は学生にカリキュラムを提供している。同時に、科目担当者は、教育計画内容等を学生に示し、厳密に学生の評価を行い、その科目修了認可を与える。その認可は社会的に認められている。

もし、大学が社会に対して卒業して行く学生の学力に対して責任をもって保障するという立場を持つなら、科目習得条件から試験を取り除くことは出来ない。その場合の大学側の評価内容は学生の「知識の習得」と「技能の習得」に関するものである。つまり、それらの大学での単位認定が、社会的に評価され通用される基準でなければならない。もし、「統計学入門」のシラバスにそって、その単位を修得した学生が企業に就職して、「統計基本量の算出」が分からないということになれば、その企業は学生が卒業した大学に「統計学入門」科目の単位認定の基準に関してクレームを付けてもいいだろう。しかし、日本の社会ははじめから大学にその企業で必要とする知識や技能の教育を期待していなかった歴史的な経過があるために、大学にクレームをかける企業はない。

つまり、それだけ社会は現在の大学教育に期待をしていないと言える。しかし、それだけに、これまで多くの有名な大企業では、大学教育内容を評価するのでなく、大学入試の偏差値を評価して採用する傾向にあった。

しかし、最近、企業の雇用形態が変化し、終身雇用制度が廃止され、企業内での長期的視点に立った人材教育の余裕がなくなり、即戦力のある人材を、手っ取り早く人材派遣会社に委託してかき集める時代になった時、大学は、むしろ、社会からその教育内容に関する正当な評価の機会を得る可能性があるとも言える。



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ブログ文書集 タイトル「大学教育改革への提案」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html
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現在の三つの大学教育課題

三石博行



現在、日本の大学は、知識の修得、技能のスキルアップと積極的な学習姿勢を身に付ける、という三つの教育課題に取り組んでいる。

一つ目の課題、知識の習得は、これまで大学教育の課題として取り上げられてきたものである。

二つ目の「技能の習得」については、これまで理工系、応用科学系で重視されていた演習科目課題で取り上げられてきた。しかし、我々の社会機能や生活様式が、科学技術技能の大衆化や情報化社会によって、大きく変化してきた。つまり、国民の大半が日常的に情報機器や先端技術機器を活用している。この時代や社会の要請を受けて、すでに1980年代から人文社会科学系の学部でも表計算ソフトや情報処理技能の演習科目やプログラム入門の科目が取り入れられ、伝統的な理工学部の技能教育が全学部共通教育の課題になっている。

三つ目の「学ぶ姿勢の習得」は、上記した二つ目の「大学の大衆化」によって生じてきた課題である。1989年の我が国の高等教育機関(大学24.7%、短大11.7%、高専0.5%、専修学校16.0%)への進学率は高校卒業者の約52.9%であった。2004年では高等教育機関(大学42.4%、短大7.5%、高専0.8%、専修学校23.8%)への進学率は高校卒業者の74.5%になった。(Wikipedia) つまり、学校基本調査の資料から、2004年には3分の2の若者が高等教育を受けているのである。

高等教育が社会のエリート育成を目的にしていた時代、まじめに大学で「学ぶ姿勢」に関して問題にすることは、大学入学資格を得る以前の問題であると考えられていた。つまり、この初歩的な姿勢を持たない人間が社会のリーダーとなるはずがないので、「学ぶ姿勢の習得」に関しては、大学教育の課題として考えるというのでなく、個人的な学習意欲の問題という学生個人の大学生活に対する責任問題して語られてきた。



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構想日本への期待

三石博行


構想日本が出来てから、一般向けメールマガジンを送って頂いた。すでにあれから長い時間が経ている。

構想日本は、政党を超えて、政策議論を続けてきた。

政治の原則である政策の実現のための本来の活動を守るために、政党という組織のもつ、もう一つの一面、つまり、組織維持のために動き出す組織体の法則に政治が絡め取られないようにするために、純粋に政策研究を課題にした、超党派、すべての人々に門を開いた組織、政策研究機関の設定を構想日本は創り出して来た。

政策に政党が付属する時代には、よりよい政策(ある集団に取って)を実現させるために、政党支持を行うのである。そこで、よい政策を提案する政党への支援行為が、無条件な政党支持行為に置換される危険性を感じながらも、そのことを主観的に過小評価しながら、そして政党支持を行うことになる。

政治と金の問題が発生したとき、「昭和維新を実現しようとする民主党を絶対的に支援しなければならいあから」という理由から、政治と金の問題への民主党批判を我々は避けたと思う。

こうした考えが、結局は、民主党という組織への間違った評価を与えていた。そして、世界と国を救う政策への真摯な取り組みへの願望が、民主党支持という考え方に置き換わるとき、私の思想の弱さを知ったのであった。

問題は、政党支持ではなく、持続可能な社会を形成するための政策(政治プログラム)を造ることではないか。

何故なら、今、日本や世界の政治経済、エネルギーや生態環境問題のすべてをみながら、急激な変動期に入っている。その中で、党利党略を前提にした政党支持の政治運動を行う余裕はない。変革が急がれているのである。もし、自民党がいい政策を出すならそれは歓迎すげきである。もし、社民党がよい政策を示すなら、それは賛成すべきである。問題は、この社会をよりよくするための現実的な政策(政治プログラム)を作り出すことだけである。

政局のあめに政策を犠牲にする。選挙に勝つために、大切な法案の成立を後回しにする。そうした政党は信頼できないのである。しかし、政党というものはそうした組織拡大と政局のために動く自然な組織形態である。

これからの政治に大きな変化を生み出したいなら、塘路党略の政党活動を超える、政策提案の政治運動を展開することだろう。それが新しい日本、世界の政治活動のスタイルをつくっていく。

何故なら、高度情報化社会、高度知識社会によって高度に進歩した民主主義社会での政治を考えるとき、政治のあり方が大きく変化しようとしているかれでる。

政治を行う力は、組織体としての政党でなく、政策の選択運動としての新しい集団、知識人たちに委ねられる。一つの政治課題を解決するために、国のすべての資源、官僚、大学研究者、シンクタンク、企業の専門家、市民活動家、ありとあらゆうる人々が参加し、その課題の解決に向けて、意見を交換し、調整し、最も実現可能な制度の提案、法案を検討する。

科学技術文明社会での高度に情報化した大衆民主主義は、一部の利益のために政治が動くことを益々許すことは無い。そして、益々、情報を公開することを要求し、政策検討過程を公開することを進めるだろう。

それが、これからの社会の姿である。
それが、これからの政治活動、つまり大衆的政治行動の基準になる。


その意味で、構想日本はすでにこれからの時代を予測し、このようなインターネットでの公開討論の場を提供し、構築してきた。


政治思想の貧困を超えれるための道具、大衆的検討機関を作ってきた。

政治を政党の利益を土台にして考える方法はこれから通用しない。

国民や市民の利益をそっちのけにして、政党(小さい組織)の犠牲にしてしまうことを許すなら、国は荒廃する。

地方自治体の政治は地域住民のためにあり、国政は国民のためにあり、国際政治は世界の平和と人類のためにあるのでしょう。その本来の意味を考えるとき、政党はその道具であり、政党政略はその技術である。

もっとも役立ちそうな道具を国民が選ぶ、それが選挙である。

だとすれば、その道具のあり方が、政党という集団でなく、もっとも有効な政策という、道具の使い方として理解されるなら、政治の効率はもっとよくなるのではないか。

最も大切なこと、それは政治が平和の維持や豊かな生活文化を作り出し、人々が安全、基本的人権を守れ、困窮することのない生活を得るためにあるという考え方だ。


問題は、最も有効な政策を提案する力である。それを官僚の方々にのみ依存するだけでなく、国民がそれぞれの知識と経験を活かしながら提案することが、政策中心主義の政治の土台となる。

高度知識社会の日本では、大衆的に政策議論を行うことが可能になるのだと思う。


その意味で、構想日本は、日本にこれからの日本での政治活動のあり方を示した。

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2010年6月28日月曜日

自称平成維新の志士たち

三石博行


平成維新の志士たちがいるなら


一般に金が入るとか、名誉をもらえるとかいう理由なら人が動くのだが、
厄介なことはその人たちは社会の常識で動かないだろう。

例えば、正義のためとか、国家、社会、人民のためとか、彼らは理解し難い抽象的な理由で動く。
これらの人々は、一般の人々には理解し難い存在である。

社会が安定している平成の世の中で、一般常識では信じがたい理由で動き出す人々は、やはり気が狂っているとしか言えないだろう。なぜなら、そんな理由でこの平成元禄時代を動き回る必要がないからだ。


社会が不安定で国家が危機的状況になっている場合は、社会や国家を救済するために、社会を変革するために、侵略者と闘うために、国民市民の悲惨な現状を解決するために、動く人々が生れる。

それをある人は志士と呼び、ある人々は過激派とかテロリストと呼ぶ。

何しろ、自分の命などどうでもいい、自爆しようが暗殺されようが、それを恐れることはない。彼らにとって最も恐れることは、それに立ち向かえない自分がいること、そして不正や邪悪な権力におびえる自分がいることである。

母国国家や人民の未来を信じて、自分の命も財産も家族的生活もすべて捨てた人々なのだ。聖人にして狂人である彼らは、時代の落とし子に違いない。


「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり。」西郷隆盛


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2010年6月22日火曜日

中世社会の人々の意識 感覚中心主義と魔女の存在

三石博行


魔女狩り裁判を起こす社会意識の理解、迷信の存在

▽ 人の思い込みという日常的な心の動きを、歴史の中で繰り返されてきた戦争や民族浄化(大虐殺)の起源として考えた。その思い込みが生じる精神構造について考えた。代表的な例として「魔女狩り裁判」を引き合いに出した。

▽ 魔女狩り裁判が起こった理由は、魔女迷信が信じられていたからである。その迷信は、科学技術の進歩した現代社会では消滅しているので、例えば今日の日本社会で「あの女が魔女と夜中に秘かに会って話をしていた」とか「あの女が魔女から毒を貰って井戸に入れたので、ペストが流行った」などという噂を信じる人はいない。つまり、現代社会では、中世社会で行われていた魔女狩り裁判と魔女と交信していた女(魔女の仲間)の火あぶりの刑は起こることはないのである。

▽ しかし、つい最近(今から20年前1990年に)、セルビア人によるクロアチア人虐殺が起こった。そして1994年にはアフリカのルワンダ共和国でラジオのデマ放送を信じたフツ族によって共存していたツチ族百万人が虐殺された。2003年には、アメリカによってイラク共和国が爆撃され、イラク戦争が始まる。それもイラクが大量破壊兵器を持っているという理由で、アメリカやイギリスなど日本を含める20カ国からなる連合国によって一方的にイラクへの攻撃が開始された。国連の安保理の反対を押し切っての戦争であった。すでに2008年までにアメリカ兵の死者は4千人を超え、イラク人治安部隊の死者は1万人とされ、国際保健機関は民間人の犠牲者は少なくとも15万人以上であると報している。このイラク戦争に見られるように、不確かな情報、デマやうわさを信じることで、一国を滅ぼすことが出来るという現代社会で繰り広げられた蛮行の起源を考えなければならないだろう。

▽ 魔女狩り裁判に関して言えば、中世社会では、迷信が信じられ、古代から続いた祈祷や占いが国家の政務として採用され、例えば、日本の古代社会は祈祷師である卑弥呼(175年から248年、邪馬台国の女王と思われている)が国を治め、また、それから600年後の平安時代(794年から1185年まで)でも天文観測や占いをする陰陽師(おんみょうじ)が中務省に勤め、国の業務の一部を司っていたのである。


中世社会の人々の意識 感覚中心主義と魔女の存在

▽ 中世社会では、世界は、人間の感覚・知覚できるものを基にして存在していると考えられていた。感覚・知覚された世界の姿を形相とアリストテレスは呼び、その形相の基になる物質世界を質料と呼んでいた。

▽ 中世の世界観では、幻覚や妄想も感覚された世界である以上、それは存在するのである。例えば、「あの女が魔女と夜に話をしているのを聞いた」という妄想も、魔女と話をしていたという錯覚を持った人間にとっては、そのリアルな感覚をもって現れる錯覚であり限り、その「魔女との密会」は現実の出来事として理解されるのである。その社会では、この妄想も、魔女の存在を信じている以上、「魔女と女が話をしていた」ということも実際に起きてもおかしくない話となる。そこで「あの女は魔女と密会をし、魔女から毒を貰っていた」という話に発展するのであろう。

▽ つまり、中世社会での魔女狩り裁判は起こるべくして起こる社会現象であった。科学的知識や世界観が存在していなかった。人間の感覚しか世界を了解(理解)するすべを持たなかった。そのため、幻想や幻覚であれ見えるものは全て存在しえたかった。


中世社会の世界観から近代社会への変化 天動説から地動説

▽ 2世紀に形成されたプトレマイオス天動説から17世紀の始めに形成されたケプラーの地動説への変換は、中世的な世界観から近代的世界観の変換を代表する事件であった。

▽ 現在でも、太陽が西に沈む光景を見て、「地球が動いている」と感じる人は誰も居ない。現代科学が活用する機器分析などのない肉眼で世界を観測調査していた中世の人々は、天体観測をして天動説を素朴に信じていただろう。その素朴な感覚経験主義が中世社会の世界観を支配していた。

▽ ケプラーは、これまでの中世社会から受け継がれた観測方法、望遠鏡を使用する天文観測を行っていたが、そのデータを数学的に整理した。つまり、中世の学問、スコラ学の自然学を理論的土台とするアリストテレスの世界観、人間的感覚を中心とした世界から、それを超越した世界(プラトンのイデアの世界)への変換の試みと、絶対的神の法則を信じるキリスト教神学の影響を受けた物理神学の立場から、神は世界(宇宙)を神のことば(数学)によって表現していると考えた。そして神のことばに近い数学を用いることで、宇宙の法則(神の法則)を見つけ出そうとしたのであった。

▽ 物理神学者であったコペルニクスやブルーノの地動説の先行研究を踏まえ、ケプラーは、1609年から1619年に掛けてケプラーの法則,惑星が太陽をひとつの焦点とする楕円軌道上を動くという第一法則、惑星と太陽とを結ぶ線分が短時間に描く面積は一定である(面性速度一定)と、惑星の公転周期の2乗は、軌道の長半径の3乗に比例するという第三法則を発表した。

▽ ケプラーの法則によって、地動説が成立したと同時に、その後、万有引力の法則を見つけ出すニュートンなどに大きな影響を与えることになり、古典力学の土台の一歩が形成されたといえる。つまり、ガリレオと共に、その後、デカルト、パスカル、ニュートンやライプニッツへと大きな影響を与え、近代科学の形成の土台を創ったといえる。




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冤罪防止と死刑廃止論

三石博行


▽ 本来、司法の民主的運営、つまり市民に開かれた裁判を目指して裁判員制度は導入された。その基本的目標は冤罪を防ぐことであった。冤罪が最も重大な裁判による人権問題である以上、それを防がなければ民主主義国家としての基本的理念、基本的人権擁護の社会思想を維持することは出来ない。

▽ もし、中世社会の「魔女狩り裁判」と同じように「冤罪」を犯す裁判が横行するなら、その社会は民主的社会でもなければ、国民主権を謳う(うたう)近代国家でもない。それはまるで宗教権力の恐怖国家と同じような検察や警察権力の恐怖国家であるといえるだろう。日本国憲法で基本的人権を守れている国民である以上、魔女狩りのように不当な冤罪被害を受けることは許されない。

▽ しかし、私たちは神でないので、間違いを犯す。その意味で私たちは冤罪を起こす可能性を否定することはできない。そうであればせめて、冤罪によって悲惨な結果になることを防ぐ必要はないだろうか。

▽ その意味で「死刑の廃止」は最低限の冤罪によって引き起こされる重大な誤りへの防波堤にもなる。

▽ しかし、これまで、冤罪による重大な失敗を食い止めるために、死刑廃止という考え方を述べたが、それに反対する意見もあった。何故なら、死刑廃止を行うことで重大犯罪が増加すると思われるからである。人は死刑を恐れて重大犯罪に走らないなら、死刑を廃止することは、社会に重大犯罪を起こす可能性を作ると考えるからである。

▽ これまで冤罪問題への解決を考えるために、色々な角度から犯罪による人権侵害、犯罪被害者とその家族の人権問題、犯罪加害者家族の人権問題、さらに犯罪者(服役中の犯罪者)の人権問題と異なる角度から、問題を考えてみる。



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公害と呼ばれる人権と生活権への被害

三石博行


産業有害廃棄物による生態系破壊の意味するもの 健康被害

▽ 企業の活動によって生産されるものは商品だけではない。商品にならないものつまり廃棄物も生産される。それらの廃棄物が有害である場合と無害な場合がある。企業が排出する廃棄物を産業廃棄物と呼ぶ。しかし、生活活動によっても廃棄物は生まれる。例えば、二酸化炭素である。火力発電、鉄鋼などの企業活動で多量の二酸化炭素が排出される。また、同様に生活活動(自動車を運転する、料理を作るなど)によって同じように多量の二酸化炭素は排出される。

▽ この二酸化炭素は一定濃度を超えない限り人体には有害ではない。しかし、その量が多くなると人体に害を及ぼす。Wikipediaの説明では、「空気中の二酸化炭素濃度が高くなると、人間は危険な状態に置かれる。濃度が 3~4% を超えると頭痛・めまい・吐き気などを催し、7% を超えると炭酸ガスナルコーシスのため数分で意識を失う」。

▽ 勿論、現在地球規模で進行している気象の温暖化現象はこの二酸化炭素によるものである。「2006年現在の大気中にはおよそ 381ppm(0.038%)ほどの濃度で二酸化炭素が含まれるが、氷床コアなどの分析から産業革命以前は、およそ 280ppm(0.028%)の濃度であったと推定されている」(Wikipedia)。つまり、この100年で大気中の二酸化炭素は約0.01%増加したと言われている。その意味で、やはり二酸化炭素は有害であるといえるだろう。

▽ 企業活動や生活活動によって廃棄物は生み出される。したがって、産業廃棄物のみが問題となっていた時代には、有毒廃棄物が生態系に流出して起こる環境問題とそれから生じた健康被害を公害と呼んでいた。


公害被害者への差別(奇病にされた公害病)

▽ 有毒な企業廃棄物によって生じる環境破壊(公害)は、そのまま、その有毒な物質を扱う企業内の勤労者にとって職業病の原因になる。エンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状態」の中で、当時のイギリスの労働者階級の劣悪な労働環境が述べられているが、それはそのまま、スモッグの町、ロンドンを意味しているのである。

▽ 20世紀の社会では、企業で働く人々は、彼らの企業活動によって引き起こされた環境破壊によってさらに引き起こされる住民の健康障害問題に関して、無神経になり、理解を示さない。何故なら、廃棄物処理による経営的な企業負担が増え、それが原因して企業倒産が起こるからである。企業廃棄物が引き起こす環境問題を考えることは、生活の場である職場を奪われることを20世紀の労働現場では意味していた。

▽ 水俣でも、水俣病に苦しむ人々を、「奇病」として差別してきた。そして多くの公害被害者が「奇病」に伴う差別を恐れ、公害被害を訴えなかった。その認定問題が半世紀を越えて問題となり続けたのである。


公害と労災職業病 (植田マンガンの例)

▽ 1970年代、大阪門真市に電池の素材になるマンガン鉱物を扱う植田マンガン株式会社が営業していた。大東市には松下電器の下請け企業が多くあった。植田マンガンもその一つであった。

▽ 当時、植田マンガンの近くに住んでいる住民から、「パーキンソン氏病」の原因となるマンガンを扱っている植田マンガンに対して公害反対運動が起こった。パーキンソン氏病とは新鮮麻痺(しんせんまひ)、つまり身体の震えがとまらない症状や歩行困難を引き起こす難病の一つにされていた。

▽ 近接住民の公害反対運動にもっとも激しく反抗したのは植田マンガンで働く労働者であった。かれらは公害反対運動の人々に体をはって抵抗した。植田マンガンで働く人々と近辺住民とが激しくいがみ合ったのである。

▽ 植田マンガンの会社は倒産した。その理由は、公害反対によるものでなく、電池産業の変化にあった。つまり、マンガン電池からアルカリ電池へと新しい性能の高い電池商品が開発されたからであった。その新たな産業の流れの中で公害企業植田マンガンは倒産したのである。

▽ 突然の会社倒産の知らせを受けてもっとも打撃を受けたのはそこで働く人々であった。彼らは、長年のマンガン鉱石を扱う労働によって、塵肺(じんぱい・肺に粉塵がたまり肺胞が硬く繊維化し、肺の機能が失われる病気)になり、またパーキンソン氏病(マンガン中毒)に罹っていた。

▽ 植田マンガンの労働者は組合を結成し、公害反対運動をしていた人々とも連絡を取り合って、マンガン中毒の職業病の認定と保障を獲得するために運動を起こした。


繰り返される問題、アスベスト粉塵問題の例

▽ 絶縁体で熱に強いアスベスト(石綿)は電気機器の中に、また耐熱材や建築材料として広く使われていた。しかし、アスベスト粉塵は肺気腫や肺がんを引き起こす物質であることが知られていた。1970年代のアメリカではアスベストの使用を禁止したが、日本ではその使用を2006年3月まで法律で禁止さることはなかった。そのため、アスベストによる被害は非常に広がった。

▽ 科学技術進歩によって、多くの化学物質が開発されてきた。そのことによって産業は発達し、多くの新商品が開発され、我々の社会は豊かになってきた。

▽ しかし、その反面、それら新しい素材の人体への影響に関する課題が生じる。例えば、ダイオキシンはもともと自然界に存在しないポリ塩素炭水化化合物である。その物質はごみの焼却(しょうきゃく)によっても生成される。その毒性は強く、ベトナム戦争時にアメリカ軍が枯葉剤として大量に使った。

▽ 我々は便利な化学物質を見つけ出し、また発明し合成している。それらの物質の毒性や環境負荷に関して知る必要がある。また、危険な物質の生産に関しては制限が必要となるだろう。

再生産するドグマ(固定観念)との終りない闘い

三石博行


近代合理主義から生まれた近代・現代科学技術

▽ デカルトが確立した近代合理主義、その思想によって開花し展開した古典物理学、古典物理学の形成によって近代科学は発展し、その科学の力によって新しい技術が形成され、生産道具から機械制生産様式が生み出され、その生産力の増大が資本主義文明を発展させる。強大な生産様式は工業生産に必要な資源の確保と大量生産物質の市場を求め動き出す。

▽ 資源確保のために資本主義生産様式を確立した国々は、未開の国々を征服し、植民地化していく、19世紀から20世紀前半に掛けて世界は列強(ヨーロッパ、アメリカとロシア)の植民地拡大政策の犠牲となってゆく。近代合理主義精神を土台にして形成された科学技術の力は、植民地確保のための武器となり、またユダヤ人の民族浄化のための道具(毒ガス)となって発展(?)し続けるのであった。

▽ もっとも近代科学の発達した国で民族浄化の毒ガスや核爆弾が開発され、正義のために使用されることになる。中世社会の話として忘れられていた「ユダヤ人が井戸に毒を入れた」という噂に挑発されたユダヤ人狩りと同じような行為が繰りかえされる。その「ユダヤ人狩り」を手伝ったのは、中世社会のケースと同じように一般の市民であった。彼らの民族愛や愛国精神の正義の行為が悲惨な虐殺の歴史を再び文明社会で繰り広げることになるのである。

▽ ユダヤ人虐殺や魔女狩り裁判で繰り広げられた中世末期の悲劇を繰りかえさないために15世紀のヨ
ーロッパでは中世の世界観への批判的検証がなされた。その一つにモンテーニュの人文主義運動があった。そのモンテーニュが展開する「懐疑論」は、中世の感覚主義的世界観を批判するものであった。この懐疑論は、その後、デカルトの方法的懐疑へと発展し、徹底的に感覚主義や素朴実在論の考え方は批判された。デカルトは方法的懐疑を通じ、近代合理主義を形成し、その近代合理主義は近代科学の形成の基礎となり、そこから古典物理学が形成され、科学は社会や経済の発展に寄与し、現代科学技術文明社会の形成の基礎が形成された。


現代科学技術文明の病理的側面

▽ そして、その現代科学技術文明の幕開けに化学工業の発展と化学兵器や物理学の進歩と核兵器が登場するのである。科学技術の発展は人類に豊かさをもたらしたという考え方と同時に一瞬にして人類を人類の力で破滅させる技術を開発したという考え方が生まれる。

▽ 魔女狩りやユダヤ人虐殺の背景にあった非科学的世界観は近代・現代科学の発展によって払拭された。しかし、ヒューマニズムを齎す(もたらす)とモンテーニュも信じたであろう科学的(合理的)な知識が、引き連れてきたのは人類を滅亡させる道具、核爆弾であった。確かに、科学の進歩は豊かな人類社会を実現したのであるが、同時に、核兵器と地球温暖化も作ってしまった。今、この科学技術文明社会の時代に起こった問題を解決するために何を考えるべきなのだろうか。

▽ デカルトは方法的に疑うことを教えてくれた。そのことで、日常生活で生じる色々な出来事、殆ど知覚的経験や感覚によって組み立てられている世界現象の核心に迫る知性の入り口、つまり、問題提起する力が身についたといえる。デカルトの業績は、日常生活で常に常識化している生活空間の構造や経験世界への疑問を方法的に組み立てることで、その世界の様相(ありさま)を本質的に理解しようとする力(知性)の入り口を教えたことである。


人間の全ての偏見(イドラ)の姿を理解するために ベーコンの四つのイドラとは

▽ しかし、デカルトの方法的懐疑だけでは、今日の問題に対応できないだろう。偏見や先入観は、感覚世界から齎される(もたらされる)だけでなく、科学的視点、社会的視点、文化的視点や人間的視点の中にも偏見や先入観は存在している。そこで、それらの偏見の姿を分析したフランシス・ベーコン(Francis Bacon, Baron、1561年-1626年)のイドラについて述べる。

▽ ベーコンは、「知は力なり」ということばで有名である。彼は16世紀から17世紀イギリスのキリスト教神学者、哲学者、法律家であり、「ノヴム・オルガヌム 新機関」(岩波文庫)という有名な書物を残した。この書物の中で、人間の偏見について4つのパターンを示した。その四つの姿をベーコンは4つのイドラ(イドラはアイドル(idol)の語源である)と呼んだ。

▽ 第一のイドラは「種族のイドラ」と呼ばれるもので、デカルトが方法的懐疑によって徹底的に点検した「感覚における錯覚」である。この種族のイドラは、一般に人間共通のものであり、すべての時代、社会、民族にわたって人々が持っている偏見や先入観である。

▽ 第二のイドラは「洞窟のイドラ」と呼ばれるもので、人は全て、その人の所属する家族、集団、共同体、社会、国家という狭い洞窟の中から世界を見ているようなものである。つまり、人は、その人が受けた社会の習慣や教育によって個性や性癖を持っている。知らず知らずのうちに、自分の所属する社会の常識や習慣による偏見や先入観を持つのである。

▽ 第三のイドラは「市場のイドラ」と呼ばれるものであり、「言葉が思考に及ぼす影響から生まれた偏見」である。つまり、口コミで伝わることば(口語)は、話し手の主観を抜きにして存在しないものである。語る人がいるので言葉が生まれる。その語り手がもつ主観的解釈が、伝えたい情報に混じることを防ぐことは出来ない。つまり、口頭で伝わる情報は情報発信者の解釈の混在を防ぐことが出来ない以上、それらの情報発信者のもっている主観的な偏見や先入観が必然的に情報に入り込むのである。

▽ 第四のイドラは「劇場のイドラ」と呼ばれるもので、知的生産を担う人々、現代社会なら知識人、ジャーナリスト、大学や研究機関(シンクタンク)の研究者たちである。これらの人々は、新しい学説、思想、理論を提案し、また評論を行う。社会の知的劇場の役者として、つねにある劇を演じているのである。その演じている劇の中で彼らが述べるセリフを庶民は聴いている。その台詞(せりふ)のシナリオを書く人と演じる人々とそれを聞く人々、聞く人々には彼らの台詞(せりふ)が世界の現実であり、新しい知識であると思われる。そして、ジャーナリズムに踊らされ、ベトナムやイラク爆撃を支援する市民が生まれる。彼らの偏見、場合によっては政治的先入観が市民の事実を見る判断を狂わせるのである。それが、大きな悲劇を生んできた。

▽ ベーコンの4つの先入観や偏見の原因に触れるまでもなく、魔術や占いの支配した中世社会ばかりでなく、科学技術の進歩した現代社会でも、多くの偏見が常に発生する余地がある。その偏見や先入観(思い込み)とどのようにして闘い続けるのかが、我々に問いかけられている問題であることに気付くのである。

中世的世界観の終焉 デカルトの方法的懐疑とその役割

三石博行


モンテーニュの懐疑論


▽ 1562年から1598年まで停戦を何度かはさんで続けられたフランスのカトリックとプロテスタントの宗教戦争・ユグノー戦争(Guerres de religion)で混乱するフランス・ヨーロッパ社会に対して、フランスの16世紀ルネッサンスを代表する哲学者であるミシェル・エケム・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne)は、宗教的正義を振りかざして闘う人々とその「正義」に対して懐疑の眼差しを向けた。彼の懐疑論はフランスのモラリスト(人文主義者)運動を呼び起こし、現実の人間を探求する思想を確立していった。

▽ モンテーニュの懐疑論は肯定的にも、否定的にもフランスの思想に大きな影響を与えた。懐疑主義に肯定的に影響された一人がルネ・デカルトであり、否定的に影響された一人がブレーズ・パスカルである。


デカルトの方法的懐疑とコギトの成立

▽ デカルトは感覚的世界の曖昧さを取り除く方法として「方法的懐疑」を展開する。デカルトは、まず疑えるものは疑える限り明確に確信できるものではないと考えた。そして、あらゆるものを疑った。例えば「自分が見ているものは本当に存在するのだろうか。もし、それが存在するかどうか疑うことが出来る限り、その存在を明確に確信立証できる根拠はない。」と考えた。その方法的懐疑を限りなく続けると、ほとんどものが疑う余地をもっている。全て、見えるもの、聞こえるもの、感じるもの、知っていたもの、理解していたこと、全てが疑う余地から逃れられない。その限りにおいて、それらのものは、全て明確に確信できるもの、明晰にして判明なものではないと考えた。

▽ ついにデカルトは「疑っている自分まで疑ってみた。」すると、疑っている限り、疑っていることを疑うことが出来ないことに達する。つまり、疑う自分は疑えないという結論に達するのである。この同義反復、疑う自分を疑う自分が疑っていることは矛盾であり、疑っている行為を疑うことは不可能であり、それ故に、疑う自分は疑えないと結論するのである。この結論「われ思う(疑う)故に、われ在り」の有名なデカルトの「ゴギト、エルゴースム」(コギト)の結論が導かれるのである。

▽ 中世の感覚中心主義の世界を否定すること、そのためには徹底的な懐疑が必要であった。それは自然な成り行きで疑うという手法でなく、徹底的に疑うために手段として疑う方法を用いることになる。これを「方法的懐疑」と呼び、デカルトは一生に一度ぐらい、こうして方法的に、徹底して疑う必要があると述べる。

▽ 疑うために疑うのは疑いの限界を見極めるためであった。そしてたどり着くのは「疑っている(考えている)自分は疑えない」という事実であった。その疑っている自分こそ明晰判明に了解(理解)していい存在であった。つまりものごとをあえて疑うことによって、思い込みの世界を意識的に破棄していく。そして明晰にして判明に存在している主観を、ただ「疑い続けている私のみが、疑うことができない」という結論に到達することになる。感覚や知覚を前提にして世界を了解している(世界があると理解している)自分のあらゆる明確でない意識をすべて否定して、それは疑える限りその感覚や意識が明確に疑いの余地もないものとして存在すると断言することはできないという論理から、唯一、疑っている私というものが、疑っている以上、それを疑うことは出来ないという結論に到達するのである。


デカルトの業績、感覚主義への批判と近代合理主義の設立

▽ 感覚主義を徹底的に退け、明確に確信できる世界は疑っている自己を疑がえない世界、1=1の世界であった。意識の最小の単位として「疑っている自己」を持込、その疑っている自己から全ての世界の認識を確立しようとした。デカルトの方法的懐疑は中世科学が根拠とする「感じている世界(形相界)は存在(質料界)している」という素朴存在論、感覚実在主義を否定することになる。明晰判明に存在していると言えることは、物事の存在を感じるか感じないかでなく、疑いもなくそれが成立していることを証明できているかであるとデカルトは主張するのである。つまり、デカルトの明晰判明な思惟の出発点がそこで成立するのである。

▽ デカルトから、「魔女狩り」の根拠である「魔女」と思う感覚は、そのうわさを信じている自分は、あまりにも不明確な物事を前提にして判断していることになる。つまり、その女が魔術をしていたと主張する人に、その見たものが本当に魔術であったかと疑いことで、それが疑える限り魔術であると断言することは出来なくなる。ましては、人のうわさをきいて、そのうわさに同感するものに対して、自分が見たこともない「その事実があるかを疑うことは最も簡単なことである」限り、まったく根拠のないうわさ話を信じることが間違いであることを説明できるのである。

▽ 天動説によると天体の運動は、地球を回っている惑星の運動、太陽の運動、恒星(星)の運動の三つがばらばらに説明されることになる。三つの異なる天体運動がそれぞれ独自に存在するなら、それらの天体運動を司る神の意思(法則)はどうなるのかという疑問が、当時の自然神学(物理神学)の中で生じる。 神はその僕である物質世界に色々な異なる決まりを作ったのだろうかという疑問から、一つの決まりで説明できる宇宙の解釈として地動説が展開されるのである。

▽ 1=1、1+1=2、故に1-1=0とするこれ以上単純化できない論理、その論理からなる体系としての数学、それは明晰にして判明なものからできあがった論理体系である。その明晰判明な論理体系を基にして世界を表現すること、神はこの明晰判明な論理体系を基にして世界を表現している。近代合理主義思想は、神の作った規則を説明できる言語として数学的表現で世界(物理運動)を説明する中で形成されるのである。

▽ 古典物理学を代表とする近代科学は、近代合理主義思想の形成を裏付けた。そして、感覚的経験から科学的経験、つまり知覚的経験主義から論理実証や科学的経験主義へと発展し、今日の科学技術思想の基礎を形成することになる。現代人の多くが「魔女」を信じないのは、その魔女の使うとされる魔術が本当に存在しているかが科学的に証明されないからである。その科学的に証明されない限り、それは確信できないことが今日の社会での世界観やものの見方、常識になっているのである。この今日、迷信を信じない現代人の考え方の第一歩を作ったのがデカルトの方法的懐疑であった。

「クローズアップ現代『犯罪“加害者”家族たちの告白』放映記録のテキスト批評

三石博行


1、資料の紹介

 ブログ 「sokの日記 初歩的疑問」、2010年5月9日記載 の中に、「クローズアップ現代『犯罪“加害者”家族たちの告白』」の番組を忠実に文字化した放映番組の紹介の資料があった。その資料を基にしながら、「クローズアップ現代(No2872)『犯罪“加害者”家族たちの告白』2010年4月7日(水曜日)」の放送番組の中で紹介され、討論された課題を使う。

 また、NHKホームページ クローズアップ現代 2010年4月7日放送 ジャンル社会問題 事件・事故「犯罪“加害者”家族たちの告白」も使う。

 テキスト批評と分析の方法に関しては、資料「レポート材料の作り方について」 を参考にする。


2,資料の要約

2-1、知られていない犯罪加害者家族の実態

 NHKは2010年4月7日(水曜日)にクローズアップ現代『犯罪“加害者”家族たちの告白』を放映し、犯罪加害者家族の人権問題を取り上げた。この番組の司会者は国谷裕子氏で、番組に参加した人は、人権NPOワールド・オープン・ハウス代表者の阿部恭子氏、犯罪被害者家族の浅野さん(仮名)、仙台青葉学院短期大学高橋聡美氏と常磐大学理事長の諸澤英道氏であった。

 キャスターの国谷裕子氏は「犯罪が社会に不安・恐怖をもたらす凶悪なものであった場合」、突然「加害者の家族になったことで」、家族は「申し訳ないという自責の念」をもっている。他方、社会で「犯罪に対する強い憤りが湧き上がる中で」、犯罪加害者家族は「身内が犯した罪に対して」、社会の「批判は家族やその親族にまで集中し易いため」、結果的に「加害者家族は事件で大きな影響を」受けることになる。

 特にインターネットによって、「家族の住所・勤務先・子供が通う学校なども情報が暴露され、匿名の第三者による厳しい社会的批判を、ますます受け易くなって」いる。さらに、「社会的制裁といった形に追い込まれ」、犯罪加害者家族は「仕事を辞めざるを得なくなった、自殺するケースも」あるという。

 犯罪被害者に対して、国は2002年に施行された犯罪被害者等基本法で、暫定的ではある支援制度が確立していった。しかし、加害者家族は社会の差別を避けるため身を隠すように生活している傾向があり、その実態はあまり知られていない。

 NHKのクローズアップ現代は、現在、日本社会で次第に問題化されつつある犯罪加害者家族の人権問題に触れた。


2-2、人権NPOワールド・オープン・ハウスの犯罪加害者家族の支援活動

 そこで、2009年8月、WOH 人権NPOワールド・オープン・ハウスが犯罪加害者の家族の調査を行った。全国規模でアンケート調査を実施した。「およそ1000名に呼びかけ、34人から回答が」あった。アンケートの結果、「安心して話せる人がいない 67%」、「被害者の遺族への対応に悩んだ 63%」、「報道にショックを受けた 58%」の回答が得られ、「多くの悩みを抱えていることが分か」った。

 人権NPOワールド・オープン・ハウスでは、家族が置かれている実態を知り、「心のケアを行う」ために、毎月1回加害者家族が集まり「普段、誰にも話せない悩みや不安を話し合う場を設け」ている。その会に参加した犯罪加害者家族が番組に匿名で登場し、人の多くいる場所、銀行や病院では「誰か知っている人はいないか」、「名前を呼ばれるのが厭(いや)だ」と告白していた。


2-3、子供への嫌がらせや自殺に追い込まれる犯罪加害者家族

 また、平成元年、4人の幼女が誘拐、殺害された事件で、犯人の家庭環境に問題があったとして、「その両親に非難が殺到し」た。「差出不明の「お前は死ね」とか、「娘も同じように殺してやる」という手紙や葉書が「山のように」来た。父親の弟は5つの会社の役員を辞職し妻とも離婚した。そして父親は自宅を売り払ったその代金を被害者遺族に支払う段取りをつけて自殺した。

 番組の取材に応じた犯罪加害者(夫が殺人事件を犯した)家族の浅野(仮名)さんは、子供を狙ってインタビューするマスコミ、見知らぬ人からの「人殺し」という電話、「殺人者の家」と玄関の横に書き、表札がはがされて割れていたことがあったと話した。また、インターネットで「子供の性別とか年令」とか「犯罪者の血をひいている子供も将来はそうなる(犯罪者になる)から、今のうちに抹殺したほうがいい」という書き込みがあった。「息子への書き込み」を見るのは辛かったと浅野さんは話していた。

 また、子供が非常に傷ついたのは学校での嫌がらせであった。転向を進められ、転向の際には今までの友達に別れを告げることも許されなかったという。


2-4、アジア的共同体社会(村落共同体)が生み出す連帯責任制度と犯罪被害者家族への批判

 犯罪学の専門家で犯罪被害者の問題を長年取り組んできた諸澤英道常磐大学教授は、加害者と加害者家族が一緒に批判される社会的風潮に関して「日本に限らず、アジアの近隣国も」犯罪加害者とその家族を一緒に非難する傾向があるのは似たようなもの、犯罪は、「家族とか地域とか、組織が生み出すという考え方」を持っていると分析している。

 この犯罪の連帯責任制度は、国家が、「家族や地域や職場から犯罪者を出さないように」犯罪の共同責任(連帯責任)を利用してきたもので、そのため「加害者も家族も」みんな犯罪責任者として「一緒だという見方が日本ではしっかりと」根づいて来たのだと諸澤教授は述べている。

 さらに、諸澤教授は、この日本の伝統的な村落共同体での連帯責任制度は、「犯罪をさせないという面では」「意味はあるのだと思」われるが、そのために、逆に、「犯罪者が抱える問題に目を瞑る(つむる)」ことになり、「犯罪者に対する、或いは、家族にたいするバッシングが起こってくる」と言っている。

 つまり、連帯責任を問題にする日本社会では、家族へのバッシング、人権侵害を「誰も止めようとしない」状態になり、さらに、最近ではインターネットの普及によって、犯罪者家族へのバッシングが「エスカレートしてくる」事態を引きここしている。そのため犯罪者家族の人権侵害を助長する「無責任な状態が起こることになると諸澤英道教授は述べている。


2-5、犯罪被害者と犯罪加害者家族の類似した実態と、将来、社会的承認される犯罪加害者家族支援運動の可能性

 諸澤英道教授はワールド・オープン・ハウスの行ったアンケート調査の結果を見て、犯罪「被害者遺族が抱える問題と、加害者の家族抱える問題」は「3分2は、少なくとも共通点がある」と述べている。

 例えば、「事件後、家族がみんなバラバラになってしまった。家族関係は悪くなった、人の目がきになる、近所の目が気になる、外出もできない」とか、第三者から「嫌がらせ」をうける」とか、また悩みや不安を安心して「相談できる相手がいない」という「たぐいの問題が加害者の家族にもある。これは、被害者の家族にもある」。

 つまり、犯罪被害者と犯罪加害者家族は共通した問題を抱えており、その共通した課題を抱えていることこそ、「社会が抱える大きな問題」ではないだろうかと諸澤教授は指摘している。
 また、長年、犯罪学の研究、犯罪被害者の人権を守るための社会運動に取り組んできた諸澤教授は、「15年前に」「被害者支援の組織を立ち上げて、それを動かすボランティアの養成講座をやってきた」。その15年間の活動を振り返り、そして犯罪被害者支援の会に「参加してくる人のほとんどが実は匿名であり、家族や職場に内緒で来て」おり、当然「マスコミ取材なんかも受けないという」という活動のスタイルであった。それが15年経って、現在、犯罪被害者支援の会はオープンに活動するようなった。会のメンバーは社会に堂々と自分の名前や活動を公開していると教授は述べている。

 このことを考えるなら、現在、犯罪加害者家族も15年前の犯罪被害者支援の会のメンバーのように、これから15年後は、犯罪加害者家族の支援の会もオープンに社会活動するように変化するのではないだろかと諸澤教授は述べている。そして彼は、犯罪加害者家族の支援活動も、今後は社会に認められ、支援者も社会的にオープンな活動を行うようになるだろうと語った。


3,資料テキスト批評と解釈

3-1、マスコミのあり方とその点検機能

 すでに本科目8回目の講義「犯罪防止と冤罪問題」で、冤罪事件の実例として取り上げた「松本サリン事件」でも、マスコミによって「(冤罪)犯罪被告者家族の人権」を侵害する問題が発生していた。

 まず、現実に起きている犯罪加害者の家族の人権問題を課題にする場合、犯罪の容疑を掛けられている犯罪被告人とすでに法廷で刑の執行を命令された犯罪加害者の場合を明確に峻別(しゅんべつ)しなければならない。社会もマスコミも犯罪被告人に対しては、犯罪者のように取り上げてはならない。

 つまり、特にマスコミは被告人を犯罪者として取り上げた場合、そこにすでにマスコミにおいて人権侵害が生じている。マスコミに人権侵害を点検する機能が不足している限り、マスコミは面白可笑しく、また興味本位で事件を報道し、犯罪被害者や犯罪被告人の人権を無視する可能性がある。

 ではどのようにしてマスコミによる人権侵害を防ぐことができるだろうか。マスコミの場合、報道を制約する法律や制度を設けられることを極力非難する。つまり、報道の自由を奪われることで民主主義社会の基本的骨組みにひびが入ると警告されることになる。マスコミは例え人権侵害の疑いありとういう理由によろうが、基本的には報道規制に関して敏感に対応する。報道規制は民主主義社会の批判精神を奪うことになり、社会報道規制によって、大きく市民の権利は奪われ、国家による大規模な人権侵害を引き起こすと考えるからである。

 それでは、マスコミが自ら作り出す「小さな人権侵害」は、「大きな人権侵害」のために容認されていいのだろうか。つまり犯罪被害者や犯罪加害者家族の人権問題は、表現の自由を奪う言論統制や報道規制によって、容認されて良いと言うのだろか。

 マスコミは、例えば松本サリン事件で毎日新聞やその他のマスコミが犯した誤報や人権侵害に対して、反省しなければならないのだが、その教訓から、マスコミは犯した報道上の誤りは、報道上の訂正で真摯に行う必要がある。また同時に、被害者への名誉毀損(めいよきそん)への損害賠償を支払うべきである。

 言い換えると、マスコミの誤報や人権侵害は今後も生じうる。そのため、そのマスコミの誤報や過剰報道による人権侵害の一つ一つをこまめに取り上げながら、その度ごとにマスコミの人権侵害の事実、それを書いた新聞記者や編集長の名前の公開、さらには、謝罪文章の記載のみでなく、その誤報や人権侵害への対応を具体的に報道する義務を負わなければならないだろう。

 また、マスコミも今回、NHKのクローズアップ現代が取り上げたように、犯罪被害者や犯罪加害者家族への人権侵害を取り上げた報道をもっとおこなうべきだろう。

 さらに人権侵害を犯すマスコミ報道に対しては、人権擁護法(違法者への罰則規定を含む)に基づいて、国、公共団体やNPOの機関に人権擁護委員会を設定し、被害者の訴えを受け、それらの機関で調査し、違法者に対して勧告や被害補償や謝罪要請を行えるようにしなければならない。もし、その勧告を無視した場合には、犯罪として刑事告訴できるようにする必要があるだろう。


3-2、人権擁護法の成立と人権擁護機関の設立の必要性

 人権侵害は多種多様な形態を持つ。多くの場合、社会的平等の権利を奪われ、不当に格差や差別を強いられることを意味する。例えば、在日外国人への差別、部落差別、身体障害者差別、雇用差別(臨時職員や派遣、パート職員への不当な雇用条件)、女性差別、民族差別、宗教上の差別、

 このような人権問題に対しては、2002年第154回国会に提出された「人権擁護法」があるが、2003年10月衆議院解散によって廃案となったままである。一日も早く、人権侵害の発生を防ぎ、また被害に対して適性かつ迅速な救済措置を取るための国の制度を確立しなければならない。

 犯罪被害者(家族)が犯罪加害者を気持ち的に許すには時間が必要である。犯罪被害者が持つ犯罪加害者への自然な感情としての恨みや憎しみは、それが復讐という犯罪行為として展開されない限り、その感情を抑制することは出来ないだろう。

 しかし、第三者が犯罪被害者の気持ちを代弁して、犯罪加害者の家族に対して嫌がらせをすることは犯罪である。被害者の気持ちを利用した犯罪行為として資料で紹介された第三者による犯罪加害者家族へ嫌がらせ、無言電話、インターネットでの書き込みを人権侵害、犯罪行為として訴える社会的機能、警察や第三者機関による人権侵害の告発機能が必要となるだろう。

 つまり、人権侵害を犯す人々に対しては、人権擁護法(違法者への罰則規定を含む)に基づいて、国、公共団体やNPOの機関に人権擁護委員会を設定し、被害者の訴えを受け、加害者を調査し、その違法行為に対して勧告や被害補償や謝罪要請を行えるようにしなければならない。またその行為が犯罪として認められる場合には、それらの機関が被害者の訴えに基づいて人権侵害者の刑事告訴が出来るように必要があるだろう。


3-3、犯罪被害者支援の会と犯罪加害者家族支援の会の交流の必要性

 犯罪学研究者で、今から15年前(1995年)に犯罪被害者支援の組織を立ち上げ、その支援組織でボランティア活動を行う人々を育ってきた常磐大学の諸澤英道教授は、犯罪被害者と犯罪加害者家族の抱えている問題が共通することを述べている。

 しかし、その双方の課題が共通していたとしても、犯罪被害者やその家族と犯罪加害者家族がお互いに話し合うには、双方の感情的問題が大きな支障となる。つまり、犯罪被害者は犯罪加害者家族と共通した問題を抱えていたとしても、相互にそれを解決する感情的立場や利害的立場を共有する土台がない。何故なら、被害者は加害者(その家族も含めて)に対して憎しみを持ち、また奪われた生活や生命に対する保障を要求する。しかし加害者家族は被害者への求める損害賠償や和解への要求をここで主張している訳ではない。むしろ加害者家族が受けている不当な扱い、つまり犯罪者本人でない家族が犯罪者と同じ社会的制裁を受ける理由が存在しないことを主張しているのである。それらの利害や感情の違いをここでは解決することは出来ないだろう。

 もし双方が同じ問題を抱えているならば、それらの解決は感情的に相容れない双方が共に取り上げるのでなく、むすろ、犯罪被害者を支援する会と犯罪加害者家族を支援する会が、お互いに第三者として被支援者の立場を理解するものとして、それらの共通する課題を考えることが可能である。

 (テキスト要約の中で)上記した、犯罪事件後、被害者家族も加害者家族も、「家族がみんなバラバラになってしまい」また、「家族関係は悪く」なった原因は何か。犯罪被害や犯罪加害者の家族という災難に遭遇することで、家族はそれぞれ苦しむ。それ故に、今まで以上に家族の中では十分な意思疎通が問われる。お互いの苦しみを分かち合い助けあう作業が問われる。もし、その作業に失敗したなら、当然の家族の絆は崩壊するのである。

 しかも、被害者(家族も含め)も加害者家族も、事件がマスコミで報道され、事件によっては世間の人々の関心や興味を誘い、またマスコミの取材のネタとなる。当然、双方、「人の目が気になる」、特に「近所の目が気になる」ために、「外出もできない」精神状態となる。また場合によっては、第三者の「嫌がらせ」に遭遇する。そうしたことを、「相談できる相手がいない」ため、ますます双方(被害者(家族も含め)も加害者家族)、世の中から遠ざかり、その分、話し相手を失う悪循環に入るのである。

 こういたたぐいの問題をよく理解しているのが、それぞれの支援の会の人々である。その意味で、支援の会が、被害者(家族)と加害者の家族の立場や解決しなければならない課題を理解していると思われる。その意味で、双方の支援の会が、双方の家族の人権を守るという点に関して議論をすることは問題解決の糸口を見つけ出すように思われる。


4,まとめ 

 以上、「クローズアップ現代(No2872)『犯罪“加害者”家族たちの告白』2010年4月7日(水曜日)」の放送番組の中で紹介され討論された内容の要約とその批評・解釈を行った。

 犯罪加害者の家族の人権擁護問題は、今、漸く(ようやく)、社会で取り上げられるようになり、また人権NPOが創られ、その支援運動が起こった。マスコミをはじめ、社会はこの問題に関して関心をもたないし、引き起こされる人権侵害に関する解決策を用意していない。

 その理由として、犯罪被害者との利害問題が発生すると考えるからである。つまり、犯罪加害者家族の人権擁護運動は、犯罪被害者擁護と対立すると考えるからである。

 それに対して、双方が抱えている課題や問題が現象的に極めて共通することが述べられている。そのことの解決が、犯罪加害者の家族の人権について考える契機を与えるだろう。

 双方の課題を引き起こしている基本的構造は、アジア的共同社会の伝統の中に、社会秩序維持機能として存在している「連帯責任制度」がある。裏を返せば個人主義思想の不在である。犯罪被害者やその家族にしても、それら被害の痛みを社会が共有する前提を失った場合、例えばレイプにあった女性に対する差別意識など、犯罪被害者も社会から排除されることになる。そして同様に犯罪加害者家族は犯罪者の罪の責任を担うことが当然のように主張されるのである。

 この問題の本質は、民主主義社会の基本になる人権思想が社会文化として、個々人の生活観や生活様式に浸透しない限り困難であることに気付かされるだろう。


5、参考資料

1、 ブログ 「sokの日記 初歩的疑問」、2010年5月9日記載 「クローズアップ現代『犯罪“加害者”家族たちの告白』」の資料、「クローズアップ現代(No2872)『犯罪“加害者”家族たちの告白』2010年4月7日(水曜日)放映番組の紹介」
http://sok-sok.seesaa.net/article/149336273.html

2、 NHKホームページ クローズアップ現代 2010年4月7日放送 ジャンル社会問題 事件・事故「犯罪“加害者”家族たちの告白」
http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=2872

3、 「WOH 人権NPO ワールド・オープン・ハウス」 公式サイト
http://www.worldopenheart.com/index2.html

4、 三石博行 教材「現代社会と人権問題 犯罪防止と冤罪問題」2010年5月、A4 4p.

5、 Wikipedia 「人権擁護法案」 
http://ja.wikipedia.org/wiki/

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2010年6月21日月曜日

いじめるという行為の分析、いじめないということの困難さ

倫理問題(人間観の問題)としての虐めの課題


▽ 教育学者によると虐めには、子供社会にある「お山の大将を決める行動」に由来するもの、嫉妬によるもの、そして刑事事件的な暴力行為まである。その具体的な手口は、悪口を言う、笑いものにする、悪いうわさを立てるなどの言葉による暴力、無視する態度による暴力から集団暴行(暴力を振るう)、恥ずかしい行為を強制する、金銭を要求する、万引きなどの犯罪行為を強制するまである。

▽ 刑事事件の対象になる虐めに関しては発見した際に警察の協力が必要で、保護者も学校も警察に通告しなければならない。例えば自殺者を出すなど、重大な事件に発展し被害者の保護者の憤激を伴う場合、刑事事件として告訴しなければならない場合が生じる。それ以外に、こどもの喧嘩(暴力を振るう行為)によって傷害事件も発生するだろう。それらのすべての事件を刑事事件として告訴することは出来ない。暴力事件が起こったとしても、教育の立場から、学校での虐め対策を検討し、教育活動として虐め問題を考える機会を与え、予防対策をおこなう必要がある。

▽ また言葉や態度による虐めに対しても常に敏感に対応し、それ以上虐めがエスカレートしないように学校として(職場として)対策を行う必要がある。つまり、虐めた子供も虐められた子供も含めて文部科学省が提案しているマニュアルなどを活用し学校やクラス全体で虐めに対する対応をしなければならない。この課題はこれまで2回にわたって学習してきた。つまり、社会的対応と教育的な対応が必要である。

▽ ここで問題にしたいことは、虐めを倫理的問題として考えるために、虐めの構造を理解する必要がある。これまでの議論では、虐めたという自覚を持つこと、また虐めが暴力であるという意識を持つことの二つの点に関して問題を整理してきた。さらに、虐めの問題を人間性や倫理の課題として議論してみよう。


傷つけた」という思いと「いじめた」という思い

▽ アンケートで、クラスの学生に、「いじめられたことがあるか」という質問を出す。殆どの学生が「ある」と答える。その逆の「いじめたことがあるか」という質問には「ある」と答える学生は少ない。さらに、「人を傷つけたことがあるか」と問いかけると「ある」と殆どの学生が答える。

▽ 「いじめる」という行為は「ひとを傷つける」行為である。しかし、人を傷つけたと思う人でも、ひとをいじめたとは思っていない。何故なら、「人を傷つけてしまった」と思う現在の自分は、「傷つけるつもりで傷つけたからではなく、結果的に傷つけてしまった」ことを記憶している。「あのとき、あの人を傷つけたのだ」という思いが、「ひとを傷つけてしまった」という記憶として、心に留まり続けている。それがこの「人を傷つけたことがある」という答えの背景ではないだろうか。

▽ また、多くの学生が「傷つけたことがあった」が、「いじめたこと」はないという答え(過去の行為に関する自覚)を示したのは、「傷つける」行為と「いじめる」ということばのニュアンスの違いがあるからではないだろうか。

▽ 言換えると、「いじめる」という行為がはるかに「傷つける」行為よりも悪意に満ちた意図的な行為であり、その意味で、いじめる行為の方が暴力的に聞こえる。傷つけるとは家族、友人や恋人のこころを傷つけたというニュアンスが大きい。しかし、いじめるとはあるいじめの集団の一員として意図的に弱い人をターゲットにして陰湿な暴力行為を行ったというニュアンスに近い。その意味で、いじめると傷つけるは大きく主観的な意味が異なることになる。

▽ また、傷つけたと言うニュアンスには、その行為への罪悪感が匂う。すべての人が、何らかの形で、ひとを傷つけてしまったという罪悪感(良心)を持っている。特に自分の愛する人に対してこの感情を持つ。この感情が愛なのだろう。ある意味で、他者への愛が、人(友人)を傷つけたという気持ち(罪悪感と呼ばれる良心)として現れているのである。

▽ 例えば、「人を傷つけた」と答えた人に「あなたの傷つけた相手は誰ですか」と問うたとする。女子大の学生なら「母親」という答えが多く返ってくる。また、若い夫婦なら「自分のパートナー」、年を取った人々なら「過去に老いた両親の面倒をみてやれなかった」という答えが返ってくる。自分の行為の不十分さ、未熟さを省み、それを悔やんでいる場合に「不十分で未熟な自分の対応を受けた他者への思いが、何かもっとしてやりたかった。なにもあんなことを言わなくてもよかった。そうした悔恨の気持ちが「傷つけた」という感情として残り続けるのである。それは、悔恨と呼ばれる愛の姿、呵責という良心の姿ではないだろうか。

「人間には二種類だけしかいない。一は、自己を罪びとと思っている義人。他は自分を義人と思っている罪びと。」パスカル『パンセ』


暴力行為としての虐めの自覚

▽ 傷つけたという思いがあることはすでに虐めたと云う過去への反省が始まっていることを意味する。自分が人を虐めたことがあると言えるとき、そこから虐めに対して向き合う姿勢が生まれる。虐めたことを認めない場合よりも、虐めたこと、つまり人を傷つけたことを自覚していることが、虐めの問題を解決する鍵となる。

▽ 考えてみると「いじめ」と平仮名(ひらがな)で書かれると、子供たちや友達の間に生まれる遊びに近いニュアンスをもった「嫌がらせ」や「仲間はずれ」を意味する。実際、「いじめ」は言葉による嫌がらせから肉体的暴力や金銭を要求する恐喝行為まで含めた幅広い意味を持っている。ひらがなの「いじめ」をここではあえて漢字で「虐め」と書いたのは、この行為が「人を傷つけること」をそのことばの意味の中心におきたかったからである。その意味で「いじめ」が「ひとにいやな思いをさせる」という緩やかな、あそび心のある行為であったとしても、それは明らかに他者を「虐める」という暴力であることには変わりないのである。

▽ 暴力という言葉は明らかに他者を傷つけるという意味を持っている。しかも暴力は、ことばの暴力から肉体的暴力、また個人の暴力から集団の暴力、そして社会や国家による暴力まで、その種類も形態も多様である。つまり暴力という言葉には否定的な意味が強く含まれている。暴力という言葉を使い、その暴力の良さを語ることは非常に困難になる。そこで、虐めを暴力として理解することで、そのいじめが人を傷つけている行為であることを自覚する必要がある。

▽ 暴力を振るってはいけないという意味は、殆どの場合、肉体的暴力を意味している。何故なら暴力の「力」が具体的な行為を意味するので暴力という用語が肉体的な行為を意味するからである。言葉や態度で示す他者への嫌がらせを精神的暴力とか言葉による暴力と呼んでいるのは、もともと暴力は肉体的にダメージを与えるという意味が基本となっているからだ。

▽ 虐めを暴力として自覚していないことが、虐めへの反省が生まれない原因になっている。つまり、誰もが「きもい」と思っている奴に自分が正直に「気持ち悪い奴だ」と言ってやったという不特定多数の他者の意見や感情を代弁する立場に立って、虐めという行為が正当化されるのである。もし、「気持ち悪い奴」と言う事が暴力であるという自覚を持つなら、不特定多数を代表するという「皆が言いたいことを言った」という社会正義の錯覚や主観的イメージを持つことは苦しくなる。

▽ 自覚的に虐めが不当な行為であり社会的にも認められない暴力であると自覚することによって、虐めるという行為が卑劣であるという意味付けが可能になる。卑劣な行為は誰もやりたくないだろう。その意味で、虐めるという行為を恥ずかしく思えるだろう。つまり、虐めを行った人々が虐めを暴力として自覚することが虐めの問題を解決する糸口を与えると思われる。


最広義の暴力への抑制と無意識の自己中心的な自我の世界の自覚

▽ 暴力と呼ばれる行為を非常に広い意味(広義)に解釈すると人を傷つける行為と言えるのであるが、人を傷つける行為は人間の行為の中でまったく特別な行為ではない。何故なら日常的に人は何らかの形で人を傷つけているからである。しかし、この「人を傷つける行為」が意図して行われた場合と意図しないで行われた場合を分けるなら、暴力は意図して行われた人を傷つける行為であると解釈できるだろう。

▽ 意図しないで、つまり主観的には傷つける気持ちはまったくなかったのだが、結果的に人を傷つける行為をしてしまう場合もある。すなわち差別用語などの、言葉によって人を傷つける行為は、差別用語を使う人々は日常的にそのことばをつかっているので、別状取り立てて悪意をもって使っているわけではない。例えば、「片手落ち」という用語は「何かが足らない状態を意味する」のである。そこで上肢(じょうし)障害を持つ身体障害者にとっては、この「片手落ち」の国語表現は、自分の身体的状況を「不完全なもの」と一般解釈されていることになるため、上肢障害を持つ身体障害者にとっては特別な意味となる。つまり、身体的な状況をもった自分の存在は、一般的な意味で「不完全なもの」、「未熟な状態」という意味になるのである。

▽ 日常的に使われている日本語に含まれている意味を我々は深く考えもしない、そして用語としてそれらの単語や言い回しを使うのである。主観的にはまったく人を傷つける気持ちはないのであるが、結果的にはそのことばで誰かが傷ついている。この状況は、広義の暴力の定義に該当しないため、さらに最広義の暴力として位置づけてみよう。つまり、最広義の暴力とは、「主観的に意図して行われていない状態で人を傷つけていること」という概念である。こう考えると、日常生活の中で、非常に多くのことばや態度でまったく主観的に意図していないが人を傷つけていることは数々あることに気づく。

▽ 例えば、我々は、自然に自分の自慢をしている。人と話始めたら、決まって、自分の自慢話、子供の自慢話、兄弟の自慢、友達の自慢、恋人の自慢、になっている。人の自慢話ほど聞いていられない話はないが、その自分も口を開ければ、聞きたくない人の話と同じように自慢話をしている。他人の自慢話は聞きたくないものである。不愉快である。何故なら、その自慢に対してどこか自分が惨めになるように思われるからである。他人の自慢話を笑って聞ける人は、自慢話をしている人よりも少し優位に立っているようにおもえる。「あの人はあんなに自慢しなければ身が持たないのだ」とか「自慢は、コンプレックスの裏返しだらか、よっぽどコンプレックスを持っているのだろう」とか、非常に冷たく自慢話をする人を上から見下ろせば、きっと他人の自慢話も滑稽(こっけい)な話に聞こえる。そして、自慢話をしている人のその裏の心理を察しながら、どこかで同情したり哀れんだりできるのかもしれない。しかし、よっぽど自信家でない限り、他人の自慢話は我慢がならないものだ。

▽ 自慢話をしない偉い人、謙虚な人間として他の人々からの尊敬を集めている人が、まったく自分を自慢する気持ちがないのではなく、彼らは自慢話をされた人の気持ちが理解できているから自慢しないのである。彼ら(謙虚で偉いと言われた人々)は自慢話をされた人が持つ不愉快さと、自慢話をする人の滑稽さを知っているので、努めて自慢話をしないのである。決して彼らが自分を自慢したいことを持たないために、自慢話をしないのではなく、ただあえて自慢したいことを自慢しないだけである。その違いをもって、人は謙虚な偉人になれば、うぬぼれ屋の俗人にもなるのである。

▽ 人は自己中心的世界をもって生きている。それを自我とよんでいる。すべての人にとって他者や世界は自己の周りにあるもの、自己を取り巻くものであり、また自己によって認識されたものである。その意味で対象世界も他者も自我によって認識されて登場したものである。その状態を主観と呼ぶ。しかし、現実の世界は、自分が認めようと認めまいと、自分が生まれる前から存在したし、また自分に関係なく運動し存在している。現実の世界にとって自己がむしろ「存在をゆるされている」ものであり、「生かされているもの」である。しかし主観的世界からは世界が自分によって認められたもの解釈されたものとして存在している。

▽ 最広義の暴力を抑制するためには、自分に潜在的に存在し、そして無意識に湧き上がる自慢や自己愛というナルシシズムを抑える意識力を持たなければならないことになる。 意図しないで人を傷つけたことばや態度を意識的に拾い上げ自己分析、反省しながら、その行為(なんとなしに語る言葉や態度)を対自化(たいじか)、つまり自分の外に取り出して、自分の意識の対象にし、分析的に理解する作業に組み込まなければならないのである。

▽ この作業、最広義の暴力を引き起こさない作業は至難の業である。それ程、困難な作業、自己点検分析、反省の作業が必要とされているのだ。しかし、それを可能にすることは殆ど出来ないのではないだろうか。


残酷な自己中心的存在者としての人間、人間性の自覚

▽ 話しが飛ぶようだが、生物の世界では個体は生き延びるために他の生物を食べている。その生物の生存のための決まりは人間でも例外ではない。つまり、人は他の命を食らい生きている。もちろん、生きるために他の生物を食らうことは生命活動の自然な姿であり、生態学では食物連鎖と呼んでいる。人があらゆる生物、植物から動物までを食べるのは、人間が食物連鎖の最上段に位置しているからである。

▽ 動物愛護団体の活動、例えば捕鯨反対運動を行い哺乳動物・鯨を守る団体(シーシェパード・SS)のメンバーが、日本の捕鯨船に乱入するという事件が起こった。鯨の乱獲によってある種の鯨が絶滅しようとしている。その意味で捕鯨を制限しなければならない。乱獲を防ぐための国際的規制を作る必要がある。しかし、すべての鯨の種が絶滅種になっているわけではない。捕鯨に反対する人々の言い分は、鯨やイルカが海の哺乳動物ということで、動物愛護団体の立場から、イルカ漁や捕鯨に反対している場合もある。

▽ 動物愛護団体に参加し、捕鯨反対を唱(とな)えている人々は多くの場合、欧米先進国の人々である。彼らは鯨の肉やイルカの肉を食材に使ってきた歴史や伝統文化はない。欧米では、これまで鯨はナガス油(狭義の鯨油)と呼ばれる食料油とマッコウ油とよばれる工業用油の材料として使っている。ある少数民族を除いて伝統的に鯨を食べる習慣はない。その意味で、捕鯨の中止は、彼らの生活文化(食文化)に大きな影響を与えることはない。

▽ しかし、もし仏教国の動物愛護団体が豚や牛を殺すことに異論を唱え、豚肉や牛肉を食材とすることを動物愛護精神に反する残虐な行為であると批判するなら欧米の人々はどのように反応するだろうか。彼らの食文化から豚肉や牛肉を取り除くことが出来ない以上、鯨肉を食べる食文化圏の人々のように、屠殺(とさつ)(現在「屠殺・とさつ」と言うことばは差別用語とされている。)に反対されることは大変なことに違いない。

▽ 実際、屠殺は残酷である。例えば上等の豚肉は5ヶ月ぐらいの子豚を屠殺するのであるから、豚は屠殺されるために生まれてきたと言っても言い過ぎではない。そして、日常生活の風景として、屠場に運ばれ食肉に加工された牛肉や豚肉は、お肉屋さんやスーパーの食肉コーナーに並べられ、それを我々は買い求め、毎日の食材として使っている。

▽ 多くの人々が菜食主義者ではない。1970年代までは、屠殺はハンマーを使って豚や牛の脳天を叩き殺していた。一瞬にして豚も牛も死んでしまう。しかし、隣で殺される仲間を見ながら仔豚たちが叫び泣く声は悲痛であった。一回でも屠場に行ったことがあるものなら、あの泣き声を忘れることはできないだろう。しかし、それでも豚肉を食べるだろう。

▽ 日常生活を過ごす自分達の姿をリアルに観ることによって、そう深く考えなくても、人間のリアルな姿が少し正しく理解されるだろう。例えば子豚を食らう我々人間の姿から、人間の姿が見える。人は他の生命によって生かされている動物である。

▽ だが、そういう肉食という残酷な生活文化や生活習慣を自覚したとしても、やはり生きるためにその肉食を続けるだろうし、仔豚を屠殺し続けるだろう。

▽ 仏教文化を持つ日本では、長い期間肉食の文化がなかった。そのため屠殺行為は封建社会の士農工商の階級制度から除外された部落民の仕事になっていた。近代日本が始まり、西洋文化を取り入れ肉食文化が輸入され、食肉加工のために屠殺が行われるようになっても、屠殺にまつわる古い差別意識が残り、屠殺という言葉が差別用語に結びつくように、肉食をしながらも、屠殺行為を忌み嫌い、嫌悪し、屠殺を行う人々を非民の慣わしとして差別してきた。

▽ 豚肉や牛肉を食しながら、屠殺することで得られているそれらの食材の現実を認めないところに実は、人間が宿命として多くの動物の犠牲の上に生きている残酷でありながら宿命的な現実をも否定する意識の構造が隠されている。実は、この現実、つまり屠殺して他の動物を食らって生きている現実を直視しない現実こそが、最も問われなければならない問題である。

▽ 前節で自覚しないで人を傷つけている行為を最広義の暴力と定義をした。その最広義の暴力を振るわないようにするためには、例えば自慢話の例ではないが、無意識に行っている自己中心的な行為によって、自分の周りの人々の受ける気持ちを理解する作業が必要であった。しかも、それによって仮に自慢話をしなくなったとしても、本来、人は自分を最も愛している以上、自慢話をするようにできているために、自慢話を決定的に防ぐことは出来ないという自覚が必要であった。

▽ ある意味の逆説、つまり、人が本来自己中心的存在であり、自我という意識を持ち、世界を自分の周りに認識している以上(本来、世界によって自分は創られたのだが、意識的には世界は自分によって認識されて存在していると理解されている)、その意識中心主義が起こしている認識世界と存在世界のあり方の逆転を防ぐことは出来ない。そこで、もっとも現実の自分、世界によって生かされ、他の動物を食らうことで生かされ、他の人々の労働によって生かされ、家族という制度で生かされ、育てられ、社会という制度で育てられてきた人間としての自分を理解することからはじめなければならないのである。

▽ 最広義の暴力とは、自己中心的な意識をいかに現実の世界の中に正しく置き換えるかによって自覚的に抑えることが可能になるのではないだろうか。そして、他の生命、仔豚を食らう自分がいるなら、その肉を食い散らさない、捨てない、最後まで、きれいに食べてあげる親切さを忘れないことだろう。その努力に、最広義の暴力を理解する術が隠されていないだろうか。


「いじめるな」から「いじめない努力をしよう」という考え方の変換

▽ 虐めを無くするためにこれまで「いじめるな」と教育してきた。しかし、本来人間は、自己中心的な存在であるため、虐めるという行為は自然に現れる。意識的に虐めなくても無意識的に他者よりも優位に立ち、他者よりも立派だと評価されよと努力する。その努力がある意味で自分を高めながらも、同時に他人を傷つける結果となる。

▽ 自己中心的意識から生まれる行為や言語(認識)活動と他者より優位に立ち、自分をよりよく見せようとする行為は不可分の関係にある。それらは人間的行為の典型である。つまり、人は自己の利益を追い求め、自己を高めるというモラルと人は他者を助け、共に共存するというモラルの二律背反するモラルをもって生きている。その二つは互いに反しながら、そして自我の確立と社会性の確立の両方を同時に備えるために必要とされている。

▽ 虐めるなという行為要求は、その意味で自己に自己中心性よりも他利中心性の大切さを解く論理から導かれている。つまり、人は自己中心的であってはならない。そこで「虐める」ことは悪であり、もし虐めるという行為があるならそれを悪として徹底的に否定しなければならない。

▽ だが、果たして「いじめるな」という説教が虐めに対して、虐めない人間の内面性や倫理感を育てることができるだろうか。最広義の暴力を防ぐ力を与えるだろうか考えてみたい。

▽ そこで、まったく発想を変えて「虐めるな」でなくて、逆に自覚的に「虐めないように努力する」ことを課題にしてはどうか。何故なら、人は自己中心的存在であり、その意味で人は自然に他人を傷つける存在(虐める存在)である。無意識の自己中心的な存在、自然と他者を無視する存在、その限りにおいて他者を傷つけずにはいられない存在、そうした人間の性(さが)、自我のあり方を自覚的に理解する方法として、せめてこれ以上「虐めない」ように努力をし続けること、虐めを予防する対応として理解する必要はないだろうか。

▽ 虐めない努力をするという対応がいじめるなという対応よりも、より現実的な対応ではないだろうか。つまり、人が自己中心的存在であることを自覚的に受け止めているから、虐めないための最低限の努力をするのである。この「虐めない」努力をすることは、虐めの対策を自己中心的人間性の自覚の上にたったそれ以上傷つけないという倫理的目標として提案されたものである。

▽ 「いじめない努力をする」ということを考えるとき、中学2年だったころの思い出が浮かぶ。それは、中学2年の担任の先生のことばだった。中学の周りに生えていた松の木が春になると、すっと細長い小枝を伸ばす。その小枝は柔らかく、棒で叩くと、まるで刀にすっぱりと切られた枝のように簡単に折れる。その快感を味わいながら、パクパクとようやく待ち望んだ春に力いっぱい伸びる松の枝を切っていた。担任の先生が「君、その枝はまっすぐと伸びようとしているではないか。何故、そんな可哀そうなことをするのだ」と私に注意した。

▽ その時、はじめて松が必死になって生きようとしている生命であることに気付いた。想像力のなさ。子供であるということを一言でいうと、想像力のなさだろう。そして無邪気な残酷さだろう。

▽ いじめとはその無邪気な残酷さ、想像力のない子供じみた行為のように思える。いじめないということは、その無邪気で残酷な子供らしさから抜け出て、大人になること、想像力を持つこと、によって獲得される人間性ではないだろうか。

▽ 他者への共感は、自己にある他者という共通する存在を自覚した経験を前提にして生まれる。もっと高く伸びたかった先生には、まっすぐと高く伸びようとする松の若芽が美しく見えたのだ。その伸びようとする生命を残酷に切り落とす私の行為を見過ごすことは出来なかったのだろう。

▽ いじめないという行為の困難さを教える。否、共に自覚しあうことが、いじめに対して大人が子供に語らなければならない作業かもしれない。今は、あの担任の先生のように、諭す大人や教師がいないのだろうか。それとも、大人もこともと同じくらい陰湿ないじめにあっているのだろうか。


引用資料
ブログ「生活運動から思想運動へ」2008年1月 三石博行
http://mitsuishi.blogspot.com/2008/01/blog-post_9938.html

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2010年6月16日水曜日

犯罪被害者の人権問題

守られていない犯罪被害者の人権

▽ 2008年6月8日、東京、秋葉原で起こった無差別殺人事件「秋葉原通り魔事件」(7人死亡、10人負傷)のように無差別な凶悪犯罪が次々に起こってきた。それだけでなく快楽殺人のように人を殺すことに快感を覚え、特に若い女性を強姦し殺害する事件も後を絶たない。また、松本サリン事件や地下鉄サリン事件のようにテロによる凶悪犯罪も起こっている。

▽ このように私たちは犯罪に巻き込まれない保障はない。つまり、ある日突然、人に恨まれることをした訳でもない、また法律違反をした訳でもない善良な市民が犯罪に巻き込まれ、命を落し、負傷し、そのために重い後遺障害を負うことになる場合もある。

▽ また犯罪被害者とその家族(遺族)は、犯罪によって肉体的や精神的被害を受けるだけでなく、その犯罪被害によって受けた心身の傷害の治療やケアーに必要となる経済的負担、さらには仕事の継続が不可能になって退職し、生活が破綻してしまう場合もある。


刑事犯罪被害者と刑事犯罪被告人の権利 

▽ 被告人は刑が確定するまで犯罪加害者であると断定することは誤りであるが、現行犯逮捕された犯罪加害者の場合でも、刑事犯罪で告訴されている被告人の人権を守ることに社会は取り組んできた。例えば、裁判では経済的に弁護人を雇うことの出来ない被告人に対して国家は憲法第37条3項「刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護を依頼することができる。被告人が自ら依頼することができないときは、国がこれを附する(ふする)。」という条文に基づき、国選弁護人制度を設けてあり、被告人の人権は擁護されている。しかし、犯罪被害者(告訴人)の人権についてはこれまで社会が取り上げてきたことはなかった。

▽ もちろん、刑事事件の被告人の人権を守ることと犯罪被害者の人権を守ることは矛盾しているわけではない。むしろ、同じ立場にあるといえる。つまり、犯罪事件の被告と犯人を峻別し、犯罪加害者以外の人々の人権が守られることに社会は厳しい制度を設けている。そのため、被告人が正当に裁判を受け、冤罪の被害を受けず、真犯人が社会に放置されることのないようにしなければならない。そうした公正立場に立った社会正義と人権擁護の立場(人の命と生活を大切にする思想や制度)は犯罪被害者の人権を守ることを主張することになる。犯罪被害者の人権を守ること(人権思想を持っていること)は、他方で、犯罪被害者の人権を守ることを意味しないだろうか。

▽ しかしながら、社会はこれまで犯罪被害者の置かれている現実に理解を示してきたとは思われない。むしろ逆に、犯罪被害者を差別し、彼らの傷ついた心をさらに傷つけ、彼らを差別してきた。

▽ 特に性犯罪の被害者など男性の警察官に相談することは精神的な苦痛を伴う。しかも、「被害者にも何かすきがあった」という意味合いの発言に出会うなど、被害者の苦痛を理解する社会的風土がないため、結果的に被害者は被害を訴えることができない。また勇気をもって被害を訴えた場合でも、性犯罪被害者は社会的差別や間違った報道、興味本位(面白半分)の報道番組のネタにされるなど、名誉を深く傷つけられる場合も多く発生してきた。

▽ その逆に、痴漢冤罪によって、社会的名誉はもちろんのこと職も失ってしまった人々がいる。報道は、痴漢冤罪者を興味本位で書きたて、例えば2006年4月に東京、小田急線で起こった痴漢犯罪被告人は防衛医大教授であった。彼は「強制わいせつ罪」に問われ、警察から自宅と大学研究室の捜査を受け、さらに大学から無期休職処分を受けた。被告人の犯罪を裏付ける物的証拠はなく、被害者の女子高生の証言のみが有罪判決の決め手になっていた。あくまでも無罪を主張する被告人は最高裁判所まで争った。その結果、彼の無罪が成立した。

▽ しかし、この女子高生が痴漢に遭ったことは事実であろう。それが冤罪を引き起こしたために、痴漢被害を受けた彼女は、冤罪加害者になってしまった。そして、彼女が見誤って告訴した冤罪被害者と同様に、彼女も痴漢被害者であることは忘れてはならない。

▽ 痴漢事件は報道が面白半分に取り上げる傾向がある。特に、社会的地位のある人々が被告人になった場合、彼らが今までもっていた社会的地位が痴漢行為をやったという嫌疑を掛けられ、そのことで一瞬の内に崩落(ほうらく)することは社会のある人々の興味を誘う。そのため、報道は痴漢事件を大きく取り上げる。ワイドショーのテーマにこれほどぴったりとするものはない。面白半分の憶測が飛び交い、痴漢被害者も痴漢犯罪被告人もテレビ番組の餌食となるのである。

▽ 過熱した面白半分の報道によって、被害者も加害者も社会のトップ記事に踊り出ることになる。単に自分への許しがたい痴漢行為を訴えたかっただけの女子高校生もマスコミの餌食となり、ましては、その犯罪が冤罪ともなれば、こんどは冤罪加害者となってマスコミに追われる人生を送るのである。

▽ すべての犯罪被害者はすでに加害者によって被害を受け人権を無視されている。その上、さらに社会によって、被害者という興味ある人々として傷つけられ、また被害者として生活を奪われ、人権を無視されることになる。冤罪問題を語ることが犯罪被害者の人権を守ることと矛盾するというのは、犯罪を被害者と加害者の対立として理解する社会の偏見が生み出したものではないだろうか。

▽ いずれにしろ、犯罪被害者の人権を守ることは、犯罪被告人や犯罪加害者の人権を守ることと矛盾するはずがないのである。それは、すべての日本国民が憲法によって保障された権利・基本的人権である。


犯罪被害者の人権を擁護する取り組み

▽ 1995年3月20日、オーム真理教によって引き起こされた地下鉄サリン事件の被害者は、生命や生活を破壊され、心身に深い傷を受け、現在でもサリン中毒の後遺症に苦しんでいる。また交通事故によって一年間に1万人近くが死亡している。その中に、違反運転によって引き起こされる交通犯罪被害者も多く発生している。

▽ 犯罪被害者は団結することで自分たちの人権を守ろうとしてきた。我が国には数多くの犯罪被害者団体が存在し、地下鉄サリン事件被害者の会、交通事故被害者、少年犯罪被害者の会などがある。

▽ 1999年10月31日、犯罪被害を受けた人々が集い、被害者の悲惨な現状を語り合った。その現状を社会に訴え、犯罪被害者の人権を守るために2000年1月23日、第一回シンポジューム「犯罪被害者は訴える」を開催し、岡村勲(かおる)弁護士を中心にして「全国犯罪被害者の会」が結成された。

▽ 政府は2002年12月に犯罪被害者基本法を制定し、被害者の家族を守りその基本的人権を擁護するための法律を作った。
▽ 平成1年から現在までの日本での性犯罪(強姦)被害者数(表に表れた数字)は2千件以内で(10万人中約2人から3名である)である。大阪府の人口は約884万人でそのうちの半数が女子とすれば、年間132.名の女性が被害に遭っていることになる。警察は性犯罪被害者の人権を擁護するため、被害者への対応を女性警察官が行っている。

▽ 犯罪被害者の人権を守るためには、四つの課題がある。一つは被害を受ける治療行為による医療費や就労困難による休職や失業等による経済的負担に対する支援である。事故のショックから来る精神的トラウマなど精神科、神経内科、カウンセラーによる治療の支援、マスコミなどの報道機関によって引き起こされる人権侵害から犯罪被害者を守る対策、犯罪加害者に対する気持ちを整理し納得いくような社会的対応を求める社会心理カウンセラーの対応、被害者同士のコミュニケーションのサポートなどである。

▽ 現在、ネットワーク社会ではインターネットを通じて、コミュニケーションが可能になっている。この場合、犯罪被害者のサイトへ面白半分にアクセスしてくる傍観者を防ぐために、犯罪被害者に限定した会員制のサイトを立ち上げ、その人々の中での十分な意見交換を可能にすることもできる。


参考

1、「全国犯罪被害者の会」
http://www.navs.jp/

2、「犯罪被害者支援とは? -内閣府に聞く- 」政府インターネットテレビ 
http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg980.html

3、[犯罪被害者等施設] 内閣府 共生社会政策統括官ホームページ
http://www8.cao.go.jp/hanzai/index.html

4、「犯罪被害者白書」内閣府 内閣府 共生社会政策統括官ホームページ
http://www8.cao.go.jp/hanzai/kohyo/whitepaper/whitepaper.html

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犯罪防止と冤罪問題

三石博行


犯罪防止のための冤罪防止

 犯罪は社会を不安にする。それは人命や生活を奪う憎むべき人権侵害を引き起こすものである。犯罪のない安心した社会を作り、また維持したいと願う市民のために警察は日々犯罪防止、また犯罪者逮捕のために闘っている。

 犯罪防止とは人権擁護のためのもっとも基本的な行為である。司法も犯罪者に対して厳しく対応し、重大犯罪に対しては死刑を含む重い刑罰を科している。

 その反面、これらの予防や対策にも過失が付き物である。過失とは、罪を犯していない人を犯罪者として裁くことである。その結果、市民はだれでも冤罪を被る(こうむる)被害者となる。また、真犯人を見逃してしまい、犯罪が再び起こる可能性を社会に残してしまうことである。

 冤罪問題を、二つの立場、冤罪被害者と犯罪被害者の立場から考える。


冤罪(えんざい)とは

 冤罪とは、捜査の過程で無実であるのに犯罪容疑者とされ、裁判で犯罪者として判決を受け、無罪である人を犯罪者にしてしまうことを冤罪(えんざい)と呼んでいる。テレビドラマなどでは、冤罪にあうことを「濡れ衣(ぬれぎぬ)を着せられる」と表現している。

 冤罪事件の犯す被害は、無実の人を犯罪者にしてしまうため、その人の人権を剥奪し、また人生を破壊することになる。そればかりか、冤罪者の家族も社会から犯罪者の家族としての差別を受け、生活を破壊されるケースが多い。さらに、重大な問題として、冤罪を犯すことで、実際の犯罪者(真犯人)を取り逃がしてしまう結果となる。そのため、真犯人が、犯罪を繰り返す機会を防げないことになるとこともあり得る。


なぜ冤罪が発生するのか

1、 強引な調査と自白強要

2、 報道機関の誤報、作為的な編集や誇張による偏向報道



二つの冤罪事件から

1、松本サリン事件「松本市内における毒物使用多数殺人事件

 松本サリン事件(まつもとサリンじけん)は、オウム真理教によって引き起こされたテロ事件である。1994年6月4日、オウム真理教関係の裁判を行っていた司法関係者をねらって、裁判所官舎に神経ガス猛毒のサリンが散布され、死者8人・重軽傷者660人を出した事件である。

 しかし、事件直後は使用された毒ガスの成分は判定出来ず、「謎(ナゾ)の毒ガス」による犯罪として新聞は報道した。同年6月28日、事件の第一通報者であった河野義行さんに疑いを持ち、自宅を捜査する。河野さんの自宅から薬品類(農薬)を数点押収し、さらに河野さんを重要参考人として連日取調べを行った。その間、マスコミによる報道が過熱し、7月3日に毒ガスが猛毒サリンであることが判明した。

 サリンを農薬から簡単に製造することが不可能であるという専門的知識のない捜査員やマスコミによって、一方的に河野さんは犯人扱いされた。地元の信濃毎日新聞は「農薬からサリンが生成できるという誤った免罪報道を続けた。また、週間新潮は、「毒ガス事件発生源の怪奇家系図」と題した記事で河野家の家系図を掲載し」(Wikipedea)、河野さんの人権を著しく侵害し、免罪を助長する報道を行った。

 河野さんが逮捕され10ヶ月過ぎて、1995年3月20日、東京都の地下鉄でサリン散布のよる事件、死者13名、負傷者6300名(現在でも後遺症の苦しむ人々多数)が発生した。松本サリン事件で冤罪を犯していた警察は、結果的に、重大な過失、つまり事件の再発を防ぐことができなかったのであった。


2、足利事件

足利事件(あしかがじけん)とは、1990年5月12日、日本栃木県足利市にあるパチンコ店の駐車場から女児(4歳)が行方不明になり、翌朝、近くの渡良瀬川の河川敷で遺体となって発見された事件。犯人とされて服役していた菅家利和(すがや としかず、1946年10月11日-、同県出身)と、遺留物のDNA型が一致しないことが2009年5月の再鑑定により判明し、冤罪であったことが発覚。すぐに菅家は釈放され、その後の再審で無罪が確定した。」Wikipedea

 菅家さんは、釈放後の記者会見で、逮捕された当時の取調べの状況について警察が自白を強要したことを述べた。彼がうその自白をしたのは刑事達の過酷な取調べで、肉体的に追い詰められていた。その苦しさから逃れるために自白したとのことであった。

 彼の言葉によると、刑事たちは菅家さんに「菅家さんがやった証拠はあるので、早く自白しろとか、そうしたら気持ちが楽になる」と言われた。しかし菅家さんは、始終無実を主張していた。それでもその主張は聞いて貰えず、警察はただ菅家さんに「自分がやりました」と認めるようにと同じ事を繰り返し強要したそうである。

 菅谷さんがその自白を拒否すると、殴る蹴るの暴行のみならず、頭髪を引きずり回まわし、体ごと突き飛ばされる等の拷問に等しい暴行を加えながら取調べを続けた。しかも取り調べは連続で15時間近くにも及び、肉体的限界に達していたと菅家さんは述べていた。(Wikipedea)

 また、事件当日、被害者の女の子を連れて歩いていた男性の姿を目撃したという証言(買い物途中の主婦やゴルフ練習をしていた数人の男性の証言)は無視された。そして、唯一検察が有罪判決の決定的証拠として用いたDNA鑑定も、1990年当時の方法では不正確であるため、新しい精度の高い分析方法で再鑑定することを要求してきた弁護側の主張を受け入れず、菅家さんへの刑(無期懲役)の執行は続いた。

 逮捕から17年目の2008年12月にDNA鑑定を行うことが決定し、その結果、東京高等裁判所の嘱託鑑定(しょくたくかんてい)で菅家さんのDNAと女児(じょじ)の下着に付着していた体液のDNAのタイプは一致しないことが判明した。その結果、菅家さんを有罪とした唯一の証拠はなくなったのである。

 DAN鑑定の結果は、真犯人を特定するための有力な証拠になるのだが、事件から17年を経過しており、すでに事件の公訴時効が成立しており、真犯人を逮捕起訴する機会は法的に失われていた。



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いじめるという行為に沁(し)みこんでいる日本社会の文化と歴史

三石博行


「いじめ」に混入する社会的制裁のニュアンス

▽ 「いじめる」ということに、なぜ日本社会は鈍感であるだろうか。この問いかけは「いじめる」という行為が何らかの形で社会から認められているからではないだろか。また、「いじめる」ということばに関連する他のことば、例えば「排除する」、「戒める」、「懲らしめる」等々、「いじめ」には処罰的意味合いが含まれている。それらの処罰的意味には、つねに誰かが誰かに対して、ある決まりの下に、ある理由をもって発動されるというニュアンスが付着している。社会的処罰的意味は、つねに社会や共同体的決まりから発動される、秩序を乱す者への戒め処罰というニュアンスを持つ。つまり、もし「いじめ」が「戒める」という意味を付着するなら、同時に、また暗黙の裡に(うちに)共同体の秩序を乱す者への懲罰を意味し、その上で、「いじめ」がその正当性や存在理由を主張しているように思われる。

▽ では、なぜ個人的な私怨(しえん)や妬みから発生した「いじめる」という行為が、社会的な制裁のニュアンスを漂(ただよ)わすのだろうか。そして、極めて個人的な負の感情がどのようなカラクリを使って「社会的正義」の紋章を付けることに成功しているのか。それらの疑問を解明し、その原因を知る必要がある。その疑問を紐解くために、まず「いじめ」に連想し思い浮かび上がる言葉を考えてみよう。

▽ 例えば、「村八分」という言葉がある。村八分は村の多数者がある少数者へ行う制裁行為であり、その制裁行為が強い者(多数者)によるよわい物(少数者)への行為と解釈される。その限りにおいて、村八分は「いじめ」と同じように集団からある人間を排除し、人間としての権利を奪い、名誉を剥奪する行為であると解釈されるだろう。その行為の現象面から観て、村八分といじめが同次元の行為、同義語として理解されることになる。

▽ 村八分は中世日本社会、取り分け村落共同体で行われていた共同体の秩序維持のための慣わしであり、村民は村の長(おさ)の私怨によって村八分にあったのでなく、村の秩序を破壊したために、二分の権利、葬式と火事に対して村の協力を得られる権利を除いて、村の八分の権利を失うことになったのである。中世社会の村落共同体の秩序を維持するための掟が村八分であった。

▽ 国民主権と民主主義によって成立している現代日本社会での社会秩序の根本は日本国憲法によって定められている。日本国憲法に則して、犯罪者を取り締まる刑法が決まっている。村ごと、村にあったように懲罰規則を決めているわけでない。どのような集団、社会や組織であっても、その中でしか適用できない規則を決めて、集団の多数の人々といえどもそれを遵守しない少数の人にいかなる制裁も加えてはならないのである。日本国憲法に違反しないこと、違反者に対して刑罰を科すことは国家以外にはできないこと等が、組織が懲罰規定を設ける条件となる。会社であれば就業規則は、憲法、労働基準法に違反してはならないし、また違反者を、牢獄の代わりに会社の倉庫に閉じ込めるとか、死刑に代わりに上司が平手打ちをすることは出来ない。就業規則上の懲罰規定は、会社へ損失を与えた職員に対して最も重い処分として、会社に所属している身分を奪う、解雇処分である。

▽ ところが小学校のクラスで起こるいじめは、クラスの5、6人の小さな集団がある特定の個人に行う暴力行為である。いじめにあっている子供がクラス(共同体)の秩序を破壊している訳でもなく、またその子供への制裁をクラス会で決めたわけでもないし、クラス全員が制裁に参加している訳ではない。いじめを行っている少数のグループの子供たちが、同じクラスのある子供に対して、個人の主観的な感情によって引き起こされている暴力行為、ある特定の個人を陰惨に痛めつける暴力行為である。

▽ 私怨による暴力が社会的制裁のニュアンスを獲得していく過程について、古い日本社会の伝統にある村八分や村落共同体意識について理解を深めなければならない。


中世社会での村落共同体の制裁としての村八分

▽ 人間が社会的存在であると言うことは、社会なしには個人が成立していない人間的存在様式の基本を物語っている。つまり、どの時代でもどの文化社会でも、その人間的存在様式は変化していない。例えば、家族という制度なくしては人類は種を保存することができなかっただろう。つまり、人間がこの地球上で活動し始めてから現代まで人間個人と社会文化を切り離すことはできない。

▽ その限りにおいて、社会はつねに社会自体の保存のために社会制度を作りそれを維持してきた。ある意味で、社会とは人類が存続するための装置として、人間個人にその装置の維持管理を委ねてきたのである。個人は社会制度の中で、自分の社会的役割を理解し、それを果たすことで、人類が長年かけて作り上げてきた人類の保存装置の維持管理に貢献しているのである。

▽ 社会機能が祈祷や占いによって運営された古代社会から、律令制をもって運営していく社会への転換は時間をかけて行われた。日本でも7世紀の大化の改新以降、当時の先進国である唐を真似て律令制を導入する。

▽ しかし、中世前期(平安末期~鎌倉中期)までは、民衆(百姓など)の生活を維持管理するための法律、国家的な法令はない。当時の律令(法律)は公家や武家に対して定められた法令・公家法・本所法・武家法など支配者により定められたものしか存在していなかった。そして、民衆に対する司法権・警察権の行使(検断沙汰)も支配者である荘園・公領領主や地頭武士に限られていた。(Wikipedia)つまり中世前期の社会では、国家として村落共同体の運営管理を行う規則はなかった。

▽ 鎌倉後期ごろから室町前期にかけての中世日本社会の村落共同体では、強い自治意識と連帯意識に支えられた惣村を形成する。その惣村では惣掟(そうおきて)と呼ばれる村落共同体での掟(おきて)を独自に作った。

▽ 惣掟とは、中世日本社会での百姓の自治的共同体である惣村(そうそん・多くは地縁的結合によって作られる共同組織)において、その共同体の秩序を維持するための掟とそれに違反するものへの制裁を惣村の全構成員による寄合で決議したものである。そのため、惣村構成員に惣掟は厳しく適用された。特に、共同体秩序を崩壊させるような行為(窃盗、放火、殺人など)に対する罰則は、ほとんどの場合、死刑とされた。

▽ 中世前期の社会では、現代社会のように国民全体に適応される憲法や刑法があったわけではなく、村民は村の掟を独自に作り、その掟に従って村の運営と管理、政(まつりごと)と治安を行っていた。その意味で、村八分はこの惣掟に中に含まれる共同体独自の刑法である。

▽ 中世社会では、国民という概念がなく、封建身分制度社会の秩序を維持するために律令(法度)しかなかった。そのため村落では惣掟の制定以来、村独自に掟が定められ、それに従い、村の秩序に従わないものを処罰し排除してきた。村八分という制度は、村落共同体の十の共同行為の中で、葬式と火事以外の結婚式、出産、病気の世話などをしないという習慣を示すものである。江戸時代では、村八分にあったものは村落共同体で共有する土地の使用も禁止されるために、共同山林での薪炭(しんたん)・用材(ようざい)・肥料用の落葉の採取が不可能となり、事実上生活が不可能になる。

▽ 村八分は、中世の村落共同体で成立していた掟に従って執り行われた刑罰の一つであり、その目的は村の秩序維持であった。今日、現代法治国家では、村落独自の刑法は存在しないため、村八分行為は憲法及び法律違反となる。

▽ 戦前まで村八分の習慣は根強く古い習慣を維持してきた村落共同体に残存してきた。しかし、現在では、それらの村八分の習慣は、村の有力者による脅迫や人権侵害行為として法律上認められていない行為として理解されている。この村八分は戦後も続き、例えば「2004年の新潟県関川村(せきがわむら)で起こった村の有力者による「お盆の行事」に参加しない人たちへの村八分にするという発言は裁判にまで発展したことが記録されている」(Wikipedia)


法律違反としての村八分

▽ 社会秩序の維持機能としての中世社会での村八分を、現代社会で古き伝統を守る村落共同体でも行うなら明らかに法律違反となる。中世社会では、民主主義社会や国民主権国家は成立していない。そのため、村の掟が村民に適用されることに対して、その是非を問う社会的機能(司法制度)はない。村民の同意が村の掟とその執行を決めていた。しかし、現代社会では、憲法がありそれに基づく刑事訴訟法や民事訴訟法があり、訴訟された罪状を法律に基づいて認否評価する司法制度があり、個人への刑の判断と執行が決定するのである。

▽ ある集団がその集団の利害を損するという理由から、その集団が独自に作っている刑法を被疑者に適用することはできない。それらの罰則規定は憲法や法律に違反する場合、無効となる。法律に違反しない範囲で、企業や法人の就業規則における罰則規定が成立している。

▽ 当然ながら、団地の集まり、自治会、学校、クラスでもし村八分が生じるなら、その村八分こそ基本的人権を守る日本国憲法に違反することになる。いかなる集団も勝手に人を罰することはできない。それらの集団が集団構成員に対する懲罰規定を作るなら、その条項は法律違反をしていないか国家によって検証される。例えば就業規則での罰則規定に関しても、労働基準法に触れないか労働監督所によって点検される。もし就業規則(罰則規定)が法律違反と判断されるなら、直ちに就業規則改善命令が企業に出されることになる。

▽ 民主主義と国民主権で運営される現代社会では、どのような理由があっても村八分は法律違反となる。


虐め(集団的暴力)を是認する傍観者の存在

▽ 村八分は民主主義社会では認められない人権侵害行為であるが、我々日本人が深層心理にもつ「村落共同体意識」には、村八分を正当化する、正当化しないまでも、それが行われていることを無言のうちに了承している意識がある。

▽ クラスで数人の子供がある子供を虐めているとする。クラスの多くの子供たちは、いじめっ子によって絶好のターゲットが決まり、虐めが行われていることを理解している。しかし、大半の子供たちは、その虐めには参加してはない。ただ、それを傍観しているだけである。虐めているグループにあえて虐めをやめるように忠告する訳でなく、もし虐めをやめろといえば逆に自分が虐めの対象にされる危険性があることを知っている。だから、ただその虐めの現実にかかわりたくないと決め込んでいるのである。それがクラスの大半の子供たちの姿である。

▽ これらの傍観者の存在によって、つまり虐めを認めている人々の存在があることが、虐めている人々にとっては、自分たちの行為の承認者として映る。その消極的な承認者を得ることで、私怨(しえん)や個人的鬱憤行為(うっぷんこうい)も社会的存在理由を見つける。もはや、私怨による行為でなく、皆が認めている皆と共同してやっている行為に変貌するのである。

▽ このクラスの大半の子供たち、不特定多数の傍観者の存在によって、いじめっ子の暴力は、社会的制裁行為の意味付けをもらい、伝統的に村の中で繰り広げられた村八分的行為に変貌するのである。

▽ 傍観者の存在は、伝統的な村落社会の無言の協同者を意味する。その存在は、古い村落共同体の社会運営に関する慣わし、つまり日本人の深層心理にしっかりはまり込んでいる「暗黙の同意」によって運営される村の掟を呼び覚ます。

▽ いじめっ子が堂々とクラスで暴力を振るためには、傍観者の存在が必要なのだ。もし彼らがいなければ、その行為の主観性は見破られるのである。彼らは堂々と暴力を振るうことは難しくなるだろう。それだけでも、虐めはクラスの中で公然と起こらないだろう。

▽ そして、クラスの大多数の子供が、傍観者から虐めを批判する側に立つなら、つまりクラスの多くの子供たちが、「弱いもの虐めをやめよ」というなら、いじめっ子の中で正当化したい暴力の公共性は忽ち(たちまち)崩れ去り、虐めという行為が露に(あらわに)社会(クラス)の中に露呈(ろてい)するだろう。個人的感情によって生まれた自分の行為としての虐めに含ませたかった「社会的」制裁の意味合いを失うだろう。

▽ 私怨によって生じる暴力「いじめ」に、社会的制裁にニュアンスの混入を防ぐためには、虐めが暴力であると明確に意識する契機を得るためには、その虐めを見て見ぬ振りをする大多数の傍観者達のモラルを問いかけ、彼らの協力を得る以外にないのである。

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2010年5月20日木曜日

倫理と規範の関係

三石博行

社会的存在としての人間に関する研究にとって、
1、人間の社会的行為を形成している精神構造
2、社会の人間的行為を規制する社会文化的構造
この二つの構造とそれらの関係を解明しなければならない。

2の法律や社会制度は、それを了解する社会構成員の倫理やモラル、つまり1によって成立している。
1の倫理やモラルによる内的な規範のない状態で、2の法律が機能することはない。しかし、だからと言って、法律の規定したものがモラルや倫理の内容にそのままなるわけではない。

2の法律や社会制度は人間社会が継続するために用意された外的世界に準備された道具である。と同時に、その道具を動かす技能が必要となる。それが内的世界に準備される道具としての1のモラルや倫理である。

現代の社会学、構造主義、現象学社会学や構築主義はこのことについて語ってきた。


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2010年5月18日火曜日

吉田民人研究のために1

三石博行


前期から始まった新しい三つの科目の教材作成に追われながら、吉田民人理論の研究に関して3つの課題を進めている。

1、Van Drom Eddy さんと吉田論文のフランス語訳や英語訳を進めている。フラン誤訳を終えて、吉田民人用語の説明をしなければならない。そのため、1990年以降の「プログラム概念」を形成していこうとする先生の論文の全てを読まなければならない。

2、綿引宣道さんと『情報と自己組織性の理論』を資料にして、吉田理論の研究会を始めようとしている。長岡先端科学技術大学院大学での公開ゼミとして綿引先生が企画されたもので、研究会の進め方を今検討している。

3、槇和男さんと一緒に「プログラム科学論研究会」を開いている。現在、槇博士は統計学の学習とその医学研究への応用に専念。多分、統計学の学習から得られた知識と思索がプログラム科学論研究に大切な役割を果たすことと信じている。

吉田民人論文の研究方法について理解したことは、先生の著書や論文は、物理学理論の説明のように書かれている(槇和男氏のことば)。だから、その勉強をするためには、物理学の学習のように進めなければならない。文章を一つひとつ、まるで数式の物理的意味を理解しなければならない。しかも、その一つひとつの文脈の流れを全体の科学思想の中で体系的に理解しなければならない。

多分、吉田民人の理論は、戦前の三木清、戦後の廣松渉に続く、人間社会学基礎論を確立した日本を代表する科学者であろう。
その理論に立ち向かうためには、こちらも何一つ妥協することを許されないのである。
それを覚悟しなければならない。

1、本文を、一つひとつの文脈をすべてこまなく正確に理解すること。
2、その理解を進めるために、必ず、演習問題として、自分のことばで自分が理解したことを具体的に記入し記録すること。
3、理解したと思ったことを具体的な例を用いて説明すること。

まるで、物理学の学習、演習問題をするよに。

以上3点の作業が必要である。

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吉田民人先生を偲ぶ2

三石博行


私の自宅に吉田民人先生が着て下さって、何回か講義をして下さった。
その録音をまた聞きなおす。

懐かしい先生の声がMedia Player から流れてくる。
先生の講義を聴きなおしながら、新鮮な感動を感じる。

何一つ妥協のない論理展開
学生のような真剣な議論
学問への謙虚な姿勢。

そんな研究者の基本的姿勢を死ね直前まで貫かれた
思い出す度に、静かな感動と尊敬の念に襲われる。

私のへの講義に時間を割くよりも、最後の仕事を本にする時間に使えばよかったのに。

先生は、きっと「プログラム科学論」をまとめる時間が欲しかっただろう。

2010年5月17日月曜日

今を維持する力を与えよ

三石博行



自分の人生は自分のもの。
だから、自分が納得して生きるしかない。
それが、自分らしいという自分の姿をつくる。

自分の姿は、将来のイメージにはない。
自分の姿は、自分の足跡によって作られたものだ。

自分らしいということは、自分の足跡への自分なりの納得にすぎない。

これから未来に、創ろうとしているものでなく、
今までつくられたものとして、自分が存在する。




全ての人に、それぞれの自分があるのは、それぞれの足跡があるからだろう。

予め(あらかじめ)用意された自分はない。

自分が昨日何をして、
その前の日に何をして、
そして一ヶ月前に何をしたのかということが自分なのだ。

だから、もっと自分に正直に生きるしかない。
だから、もっと自分の現実を受け止めるしかない。

そこに、納得という自分がつくられた自分に対する理解が生まれる。




そして、もし明日があれば、それは今日の自分の姿の現れ。
そして、もし未来があれば、それは今まで過去の生き方の方向。

だから、未来という自分を生み出すものは今という時間しかない。
自分を変える可能性を持つものは、今という時間でしかない。

過去はもう返らない時間のことだ。
過ぎ去った時間は、今の自分を作ってはいるが
明日の自分へとその過去をつなぎとめることは保障できない。
明日の自分へ過去の自分をつなぎとめるものは、唯一今の自分だけなのだ。




だから、今しかない。
今しか、自分は存在しない。

問われていることは、
今をどう生きるか、どう今に生きているか、
ということだけである。

明日は、今の自分によってしか創れないのだから。
未来に逃げることはできない。
過去に逃げることもできない。

だから、自分の現実を受け止め
だから、自分らしく生きることだ。

もう、未来に逃げることも過去に逃げることもできない。

だから、今の自分の志向性は昨日の自分から継続されたのか。
だから、今の自分の志向性は明日の自分へと継続されようとしているのか。
それのみが問われるのだ。

2010年5月13日木曜日

自己を罪びとと思っている義人と自己を義人と思っている罪びと

三石博行


何故、自分の失敗を認めることが大切なのだろうか。何故、失敗をしないために、失敗を否定するのでなく、それを受け止めることが自分に必要なのか。


逆説的に成立する人間性のあり方(真実)

▽ 理性と情欲の二つの異なるベクトルをもつ生命力、一方は快楽を満たそうとし、他方はそれを抑制しようとする力からなる人間性、それらの闘争状態として人間の生命や生活活動が展開される。

▽ その活動は、いずれにしても失敗、絶望、敗北、悪、違反、撹乱、錯乱、狂気等々の否定的精神状態と、成功、希望、勝利、正義、遵守、維持、安定、冷静等々の肯定的精神状態が明確に異なる境界線や境界領域を有しているのでなく、その否定側面と肯定的側面が相互に関連しながら、一方が他方の原因となり、また逆にその結果となるという現実を生み出すのである。

▽ 例えば、人は心の安定を求めながら、不安定さの要因を作る。その逆に不安定さを受入れながら精神を安定させることが出来る。

▽ また、成功を目指しながら失敗の原因を作る。その逆に失敗を受け入れることで成功の道筋を見つけ出すことも出来る。

▽ 勝利に酔いながら敗北の原因を作り、敗北を噛み締めることによって勝利への準備を整えることも出来る。

▽ うまく物事が運ぶとき、もっとも恐れなければならないのはその状況(うまくいっている)に安心する自分である。困難な道が現れたとき、それにひるむことなく進む自分がいるなら、その困難さは貴重な経験となるだろう。しかし順調な時には、その状況から学ぶことは少ない。何故なら、その順調な状況は、改革し改良し状況に立ち向かう機会を得ることがないからである。困難な状況こそ最も素晴らしい人生の教師であると良くいわれるのはそのためである。

▽ このような「人間的なそしてあまりにも人間的な」生命・精神・生活活動の現実を受け止めることが課題となる。そのことは、人間の理性や思惟の有限性を理解すること、人間が神のような完全な存在でもなく、またその逆のまったく自然や宇宙の法則に支配され、それを完全に受け入れる他の生命体のような存在でもないこと。その中間にある存在、つまり、不完全な理性や知性を持つ存在者であることを自覚する以外にない。

▽ 言い換えると、人間は、その生命が有限であり、必ず死という生命活動の終わりを持つ存在である。しかも、宇宙の中では微細な塵に等しい存在である。その人間の悲惨な存在形態(実存)を知ることが、人間に与えられた思惟活動(生命の進化によって異常に発達した脳による生命活動)の中で、最も偉大なことであると理解できるのである。

▽ つまり、人は自らその知性の活動において、自らの存在とそれを創った大自然・宇宙のあり方を理解できるのである。つまり、有限な肉体を持つ生命がその生命を形成した宇宙の存在を理解することが出来るのである。それは、他の生物には不可能な認識活動である。その無限の存在・宇宙と有限の存在・自分の理解が人間の知性の最高の結果といえよう。パスカルはこの了解(理解)を人の偉大である理由として挙げた。

▽ つまり、それは、人が常に、宇宙の無限性と同時にその人間の知性や思惟の有限性を知ることを意味する。そして、それは、また人の理性が不完全なものであることを知ることを意味する。つまり、最高の理性とは、理性の限界を知る理性であるという結論に達するのである。

▽ 前節でのべた結論、「人間は理性的な存在(天使)でもないし、また欲望のみで生きている存在(禽獣)でもない」というパスカルの帰結は、逆説的に成立している人間性の現実に結びつくのである。人が偉大であることの理由は、人が自分の悪(罪)を知ること、自分の敗北を認めること、自分の失敗を知ることであるといえる。

▽ その理解は、前節でのべた「理性の限界を知る理性を確立」や「人間の悲惨さを理解する思惟」の理解こそ、我々が求める道徳や徳の基本であり、逆に人間の偉大さを示すものであるといえる。つまり、その知性と理性の活動が唯一残された不完全な人間の最も高度な理性的活動を意味するのである。

▽ そのことは、これから考える反省活動の限界を知ることが人の反省する最後の姿であるという意味に繋がる。


罪びと

▽ パスカルの「罪びと」の概念は、キリスト教の原罪の概念から来ている。キリスト教では人は生まれながらにして罪びととしての宿命を負っている。

▽ キリスト教における原罪は「神が人間に禁止していた善悪の知識の木の実(りんご)」を食べる禁断を破ったことを意味する。つまり、人が動物でなく神の知識、善悪の知識を持ったこと、裸でいることを恥ずかしいとも思わない動物から、裸(自然の姿)を恥ずかしいと感じる反自然的な感性を持つようになったことを意味する。

「そもそも原罪の概念は『創世記』のアダムとイヴの物語に由来している。『創世記』の1章から3章によれば、アダムとイブは日本語で主なる神と訳されるヤハウェ・エロヒム(エールの複数形)の近くで生きることが出来るという恵まれた状況に置かれ、自然との完璧な調和を保って生きていた。主なる神はアダムにエデンの園に実る全ての木の実を食べることを許したが、中央にある善悪の知識の木の実だけは食べることを禁じた。しかし、蛇は言葉巧みにイヴに近づき、木の実を食べさせることに成功した。アダムもイヴに従って木の実を食べた。二人は突然裸でいることが恥ずかしくなり、イチジクの葉をあわてて身にまとった。主なる神はこれを知って驚き、怒った。こうして蛇は地を這うよう定められ呪われた存在となった。」(Wikipedia)



「罪びと」(悪人)と「義人」(善人)の成立条件

▽ パスカルの「罪びと」は、人間本来の姿としての原罪を背負う人間の姿である。また、パスカルは、その原罪を受入れた人、その原罪への自覚を持つ人を「義人」と呼でいる。この考えはキリスト教の原罪論から来たものである。

▽ パスカルによれば、人間は本来原罪を背負う存在(罪びと)であり、またその原罪への自覚を持つことが出来る存在(義人)にもなり得る。従って、その二つのあり方が人間の存在の仕方であると考えた。そこでパスカルは「人間には二種類だけしかいない」と述べているのである。

▽ しかし、もし、罪びとである自覚をもって義人となることができれば、罪びとはすべてその罪を自覚することで義人になることが出来るだろう。この論理からは、キリスト教の教えにそって生きることで人々は救われそうである。しかし、ここで矛盾が生じる。つまり、キリスト教の教えに従って原罪を認め「自己を罪びとと思っている義人」となる。罪びとから救われた義人は、原罪から決定的に救われたのだろうか。もし、「自己を罪びとと思っている義人」として救われるなら、もはや「罪びと」はいない。その罪びととしての原罪も存在しえない。すると、原罪を自覚しない「義人」が登場する。このことから、この「義人」は原罪を自覚しえない人間、キリスト教の教義を理解していない人間として「義人」は変貌することになる。言換えると、「自分を義人と思っている罪びと」が登場するのである。

▽ 「自己を罪びとと思っている義人」は、永遠に自分を義人と思っていることでは成立しない逆説の論理が成立し続ける。もし、「自分を義人と思っている」なら「義人」は原罪を自覚しない「罪びと」になるのだ。

▽ この論理から成立している「義人」つまり善人は、「罪びと」の自覚を持ち続けることによって成り立っている。この考え方は、前節でのべた逆説的に成立している人間性の姿、つまり、「理性の限界を知る理性の確立」や「人間の悲惨さを理解する思惟」の理解こそが道徳や徳の基本であるという理論に繋がる。

▽ 人は生きている以上、何らかの誤りや失敗をし続けている。そのことは人の基本的な誤りではない。それは仕方のないこと、つまり、人間という不完全な理性をもつ存在者の宿命である。問題は、それに対する自分の理解とそれへの対応である。失敗を認め、それを直そうとする努力が、反省の姿である。反省は次回必ず失敗しないということを意味しない。それは何回も失敗を続けるであろうが、しかし、失敗をしないように前向きに生きる生き方を示している。不完全な自分に諦めずに向き合うことを「反省」していると呼んでいいのではないだろうか。

▽ このパスカルの原罪に関する解釈から、人の狂気や原罪が、人が本来持つ宿命的な姿である。何故なら、人は快楽を追い求める存在者であり、それゆえに理性を働かす存在であるからだ。そうした現実の自分(人間)への自覚を持ち続けることを、道徳や倫理の基本とした。つまり、つねに休むことなく、考え続けなければ、思考し続けなけなければ、倫理的な思惟は成立しないのである。
 
▽ 人(自分)は、必ず失敗を犯すものである。問題は、その現実を受け止め、理解することが問われている。その理解によって、致命的に失敗から身を滅ばされない可能性が生まれる。それが唯一の失敗への手立てではないか。

「人間には二種類だけしかいない。一は、自己を罪びとと思っている義人。他は自分を義人と思っている罪びと。」パスカル『パンセ』(534)


諦め(あきらめ)という最高の安定したこころの世界

▽ しかし、人は果たして、「その悲惨な宿命、有限の生命、一滴の水によって滅びる生命体である自分の姿」について、休むことなく思考し続けられるのだろうか。人は救われるのだろうか。否(いな)。パスカルの問い掛けは続く。

▽ 人間が日常生活を平穏に過ごすために用意したのが良識であり、倫理であり、道徳であり、徳であった。その徳は、休むことなく人間の本性としての原罪を点検し続けなければ得られないものだろうか。それに対するパスカルの答えは、「人間の徳」は「その人の平常によって測られなければならない」と言うことであった。

▽ 何故なら、「人は天使でもなく禽獣でもない」。人が天使になろうとすることに無理があり、それは不可能な望みである。何故なら、人間の理性は不完全であり、その不完全な理性によって、人間本来の生命力である快楽を求める欲望を抑制しなければならない。つまり、他人の要求には厳しい人も、自分の欲望には鈍感なのが我々の当たり前の姿である。そのため、他人からの親切をありがたいとも思わないが、他人へ施した親切は忘れることはない。人の理性にもその人の主観性が持ち込まれる。科学的思惟はそれを極力排除したのであるが、結果的には人類を滅ぼす技術を作り出した。

▽ 人間の不完全さを変えることは出来ない。それを受入れ、むしろそれを自覚する方法が必要である。過去の歴史を解釈することは現代社会の価値観で過去を勝手に位置づけることであると歴史学者が語るなら、歴史問題は、少しは解決するかもしれない。また、他の社会への理解は常に誤解から始まるのだと理解しているなら、異文化の衝突も少なくなるかもしれないし、自分達の社会の制度を異なる文化を持つ人々に押し付けることはない。つい最近でも、世界の最大の文明国の大統領が、人類社会の最高の到達点としてアメリカ民主主義を考え、それをイラクに押し付けるのである。

▽ 人間には理性と情欲の全く異なるベクトルをもった生命活動が同時に共存し、互いに争いながら、人間性を形作り、人間の営みを形成している。人の徳(善行)は、理想に向かい、目標を得るために努めることによって可能になるのでなく、むしろ、人間に与えられている現実(パスカルの言う悲惨さ)を受け入れて、可能になるのではないだろうか。

▽ その意味で、人(自分)は、必ず失敗を犯すものであり、失敗をまったく犯さないように努力することも不可な試みであることも同時に理解しなければならない。つまり、残された失敗を避けるための対策は、本来、失敗をしないためにあるのではなく、最低限、致命的な失敗から身を滅ぼされないためにあるともいえる。そうだとしても、致命的な失敗で身を滅ぼすかもしれない。その現実を受け入れる以外に手立てがないのである。そのことを理解する以外に失敗から身を守る道はないのかもしれない。

▽ 失敗しないように常に反省し努力することと共に、そのことを受け入れる(諦める)ことが問われる。そして、それによって、他の人々への優しさ(悲哀)は生まれるのではないだろうか。

「一人の人間の徳がどれほどのものであるかは、その人の努力によってではなく、その人の平常によって測られなければならない」パスカル『パンセ』(351)


参考文献

1、 パスカル著 松浪信三郎訳 『パンセ(抄)』旺文社文庫、1970年10月、442p
2、 野田又夫 『パスカル』 岩波新書143 1953年10月、217p
3、 三木清 『パスカルにおける人間の研究』 岩波文庫 1980、231p
4、 甲斐潔信 「パスカルの『パンセ』における「人間の不均等」概念の研究
 http://members.ld.infoseek.co.jp/pascaliankk/r0hajimeni.htm
5、 後藤嘉宏 「 『パスカルにおける人間の研究』にみられる三木清の弁証法について」 図書館情報メディア研究第4巻2号 2006年 pp19-32 


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理性と情念の両方を持つ人間の姿 パスカルから

三石博行


理性と情欲の間に生じる内的闘争(人間的な精神構造)

▽ パスカルは、人間の性は本来悪でもなければ善でもないと言っている。もし、人の悪の起源が欲望であるとするなら、欲望を持たない人間はいないので、全ての人が悪人となる。また、その逆に人の善の起源が理性であるとするなら、理性を持たない人はいないので、全ての人は善人となる。しかし、人は欲望と理性の両方をもつために、悪人であり善人でもある。人の性を本来悪とすることも、また逆に善とすることも、あまりにも単純な人間観であると言えないだろうか。

▽ しかし、その二つ、欲望と理性を持つことで、人はその二つの要求に引き裂かれ、その二つの力のぶつかり合いを日常生活の中で経験し続けなればならない存在になったとパスカルは言うのである。

▽ 前回の講義で、理性と情念「両方をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない」というパスカルの文章から、人間のあり方について考えた。今回、もう一度その課題に立ち返り、議論を深めたい。


「理性と情欲のあいだにおける人間の内的闘争。
もし人間が情欲をもたず、理性だけをもっていたとするなら…。
もし人間が理性をもたず、情欲だけをもっていたとするなら…。
だが、両方をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない。というのも、一方と闘わずには、他方と平和を得ることができないからである。かくして、人間はつねに分裂し、自己自身に反抗する。」パスカル『パンセ』(412)


快楽を追い求める力・欲望 とそれを抑制する力・理性

▽ 前回の学習を簡単に復習すると、以下のパスカルが述べた四つの人間に関する課題があった。一つ目は、人間の欲望に関する理解であるが、人は本来快楽を求めて生きているため、禁欲主義は非現実的であること。二つ目は、人間が宇宙の中で一滴の水で生命を落とす小さな悲惨な存在であること、人間がその「人間の悲惨さを理解できる知性」思惟を持っている存在であることが人間の偉大さであるとパスカルは考えた。三つ目は、「思惟(人間の偉大さの理由)」や「理性(人間が善人であるために必要なもの)」が在ったとしても、「人間が狂気(きょうき)じみていることは避けがたい」事実であると考えた。そして、四つ目は、人間の生(生命や生活)とは、理性(思惟によって形成された)と情念(欲望によって噴出している)の二つの避けがたい闘争状態であるとパスカルは帰結した。

「人間は自然のうちで最も弱い葦(あし)に過ぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくでも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶしたときにも、人間は、人間を殺すものよりいっそう高貴であるであろう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれについては何も知らない。
それゆえに、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆえに、われわれはよく考えるようにつとめよう。そこに道徳の根源がある。」(347)


▽ パスカルの一つ目の主張は、人が欲望を持ち、それを満たすために行動することは人の自然の姿であるということである。人間は快楽を求めながら生きている。快楽を満たそうとする生命力を欲望と呼んでいる。その欲望が理性(思惟)によって、一時的(刹那的)快楽から将来の人生の希望や夢へと昇華される。人はその欲望を実現するために努力をしている。その希望の実現することで得られるものが利益と呼ばれる高度な(社会的に認められた)快楽であることを知っている。例えば、人に尊敬される立派な人になりたいという名誉欲、お金持ちに成りたいという金銭欲、偉い人や強い人に成りたいという権力欲、ハンサムな男や美人と一緒になりたいという性欲等々、それらの欲望を満たすことによって快楽を手に入れることが出来るのである。

▽ その意味で、快楽を求めること、つまり欲望を悪と決めつけるのであるなら、人間本来の姿を無視することになる。よりよく生きようとする生命力を否定し、それを悪いこととして禁止することになる。愛することも、結婚し子育てをし、幸せな家族をつくることも、友達と楽しく過ごすことも、すべて禁止する極端な禁欲主義者になってしまう。人が快楽を求めて生きている、つまり人が情欲(欲望)を持っていることを否定することは出来ない。

▽ しかし、手段を選ばす(社会的決まりを無視して)快楽を求める行為をしたなら、社会や他者の非難に出会うだろう。自分の夢(社会が高く評価している理想的な姿)を実現するためには、社会の認める規則(法律や道徳)に従い、その夢を獲得しなければならない。欲望を満たす目的の為に手段を選ばない行為をすることは社会から認められない。もし、その手段を選ばないで欲望を満たす行為が社会で横行するなら、社会には犯罪が多発し、大混乱が発生するだろう。

▽ つまり、社会的ルールに即して欲望を満たすための人々が取る行為を「理性的行為」と呼んでいる。人間は本来快楽を追い求めて生きている。その人間の本性を理解し、それを社会の規則(法律や倫理)に即して強制・制御する力を理性と呼んでいる。パスカルは人が欲望だけの存在でないことを人が知っている。 つまり、人は本来快楽を求めて生きる存在であるが、その欲望が引き起こす結末を理解する知性や思惟(考える行為)が人に備わっていると主張した。それが二つ目の例である。


人は善的存在でもなければ悪的存在でもない、その両者が同時に共存している

▽ 人間は本来快楽を求める存在であること、また人間は思惟する能力を持つ存在であること、その二つの生命活動によって生じた、理性と情念の闘争状態を生活と呼んでいる。生きている限り、その二つの力、快楽を求める力と快楽を抑制する力が衝突し続ける。

▽ 言い換えると、理性と情欲の二つの人間性の衝突によって、人間性は作り上げられている。その一方の存在を否定することは出来ない。それらの二つの要素、理性と情欲(欲望)が互いに反発し、互いにその存在理由(それがあることの意味)を見つけ出している。

▽ その意味で、人は単に理性的な存在でもなければ、情欲的な存在でもない。人が理性的な存在であろうと思うとき、その力は理性を生み出す情念によって支えられる。つまり、理性の背後には現実的に生きようとする欲望があるのである。

▽ また、人は欲望を満たすために色々な行動を模索する。その模索は、理性という手段によって可能になる。現実的な手段をもちいることによってしか、欲望を満たすことは出来ない。

▽ しかし、欲望や快楽を現実的に(合理的に)、つまり社会と衝突しないで(他人に迷惑を掛けないで)上手に抑制する力である筈の思惟や理性も決して完全なものではない、むしろ非常に不完全なものであるといえる。不完全な制御装置を装備し、欲望を燃やし続けながら動く生命機械である人間とは結果的には失敗(悪)を作り出す運命にある。その失敗を最小限に防ぐためには、より高い理性(社会制度を発展させ、刑罰を重くし、科学技術を発展させ人間の欲望を抑制する道具や装置を開発する)を求めること、もしくは欲望を最小限に押さえつけること(厳しい禁欲主義を貫き通すこと)では解決しないかもしれない。

▽ 残された道はなにか、それはその人間存在の宿命を受け入れること、つまり人間の悲惨さを理解する思惟を持つこと、また理性の限界を知る理性を確立することではないかとパスカルは問いかける。
▽ そして、完全な存在、悪を犯すことのない善人の存在(イエス・キリスト)を理性や思惟によって理解しながらも、悪を犯さざるを得ない存在者としての自分を理解することではないかとパスカルは考えた。

▽ 歴史を振り返ると人類は正義の名において戦争(悪)を行い、宗教の教義(神への信仰)の名において異なる宗教に属すという理由の基に異教徒とよばれる人々を迫害してきた。これらの史実から、その逆転劇(正義の名において殺害を行い、他の悪を駆逐した素晴らしい人間の歴史)の結末やその矛盾を批判し乗り越えるために、もう一度、善や道徳の概念を考えなければならないのである。つまり、「理性の限界を知る理性を確立」や「人間の悲惨さを理解する思惟」の理解こそ、我々が求める道徳や徳の基本であると考えたのである。

▽ 以上の議論から、人間は理性的な存在(天使)でもないし、また欲望のみで生きている存在(禽獣)でもないとパスカルは帰結したのである。


「人間は天使でもなければ禽獣(きんじゅう)でもない。天使になろうとするものが禽獣になるのは、不幸なことである。」パスカル「パンセ」(358)



人間的理性の限界を知ることそえが最後の理性の姿である

▽ 人を偉大にした思惟(知性)・理性について知らなければならないこと、それは理性の限界である。我々は無限の宇宙に対する有限な、そして悲惨な(水一滴で消滅する生命体である)人間を知る力(思惟)があったとしても、無限の宇宙を知ることは出来ない。その意味で、人間の思惟(知性)や理性は限界を持つものである。有限な人間である以上、有限な能力(思惟)しか持ち合わせていない。それを理解することが、理性の最後の姿、理性を超えることを知っている理性(もはや科学的知でなく、祈りにも近いもの、パスカルの信仰)のあり方が問われる。

▽ もし、人が自己の理性(科学的知)を知らなければ、自然に支配され、猛獣の脅威に慄き、生きるために逃げまとい、恐怖心から逃れるためにひたすら祈祷しつづける、今日の科学技術文明社会の住民から見れば卑屈な生き方になるだろう。しかし、もし人が自己の理性の限界を知らなければ、あらゆる問題、地球規模の気候変動すら人間の知識、科学技術によって完全に解決できると信じ、さらに新しい、そして強力な生産体制を確立し、多くのエネルギーを消耗し続けるかもしれない。この行動は、古代人から見れば、あまりにも自然の力を見くびった、その結果として人間が受けている災害に感じられるだろう。つまり、傲慢な知性の過信によって、人々は益々生態系を破壊し続けるかもしれない。

▽ つまり、理性と欲望の闘争、人間的思惟の作り出すその結果、人間社会は発展し続けてきた。豊かな生活をしたいという欲望を満たすために、人々は知的活動を行い、理性を磨き上げてきた。つまり、その結果、猛獣や自然の脅威に晒(さら)されていた時代を克服し、それらを逆に支配活用し、今日の科学技術文明社会を形成し、人間の偉大さを確立してきた。

▽ すなわち、人間は豊かさ(快楽)を追い求めて、それを可能にするために社会を発展させ、道具や装置を発明し改良してきた。人類は社会的分業を考え出し、専門的職業を形成し、社会制度を高度に発展させ、巨大な生産力を生み出し、科学技術を発展させ、合理的な生産ラインを作り出し、短時間労働で大量生産を可能にしてきた。

▽ 人類は、狩猟活動から、農耕活動、そして工業活動や高度な知的活動へと、次から次へと生産効率を上げながら社会経済制度を作り上げてきた。社会は、石器時代、土器時代、青銅器時代、鉄器時代、人工物素材時代へと文明構造を変化させてきた。より便利で効率の高い道具、生産手段を見つけ出しながら、社会制度や生活様式は変化してきた。つまり、より豊かに生活したいという人の欲望こそが歴史や社会を動かす原動力なのである。

▽ 考えること、思惟、つまり知性によって何十万年も支配され続けてきた猛獣達を駆逐し、自然を支配し、その自然の法則やエネルギーを逆に活用し、豊かな人間社会を構築し続けてきた。その豊かさは、人間がこの地球上の生命体の長であり、もっとも進化していることを自覚させた。それは逆に、人間が「水一滴によって滅びる悲惨な生命体」であること、つまり悲惨な人間の実存形態(姿)を忘れさせることになった。

▽ 言い換えると、人類は生活を豊かにするために努力し続けながら、一方で多くの人間を殺害する道具も開発し続けてきた。それが人類の現実の歴史である。豊かな生活をしたいという欲望によって個人の生活も豊かになる。人々が夢や理想とする世界に近づこうとする努力によって社会は豊かになる。そして、毒ガス、化学兵器、生物兵器、大陸弾道弾や核兵器が作られた。最近では、無人のロボット偵察機が敵(テロリスト)の根拠地を爆撃できるようになった。そのテロリスト撲滅のための新兵器開発は人類にとって進歩と呼ばれているのである。

▽ この人間の悲惨さを忘却することを「不完全な理性の証」と逆にパスカル考えた。「傲慢」さとは、本来人が持っている不完全な理性によって必然的に人に生じる自然な姿なのかもしれない。

「自己の悲惨さを知らずに神を知ることは、傲慢を生む。神を知らずに自己の悲惨さを知ることは、絶望を生む。イエス・キリストを知ることは中間をなす。というのも、われわれはそこに神とわれわれの悲惨さとを見いだすからである。」パスカル『パンセ』(527)



道徳とは人間の傲慢さへの戒め

▽ パスカルによると道徳の根源は人間の思考力にある。人が偉大なのは、その思考によって人が「人の悲惨さを知っている」ことが出来るからである。有限の存在者・人間が、無限の存在・宇宙、その運動法則、惑星運動などを知ることが出来る。この人間の知性を導く力、理性的な思惟こそ人間が最も偉大であることを示すものである。

▽ 人類は宇宙の運動を観測し、これらの知識は宇宙の法則である天体運動の法則を見つけ出し、力学の法則を打ち立て、それらはさらに物理学として発展し、現代の科学技術の知識の基礎を創った。そして、現代科学技術文明社会は人間の思考の勝利を意味する。

▽ だが、人間はその人間の悲惨さを知らない思考によって、傲慢になる。その結果、自ら開発した知識によって自らを崩壊させる。例えば、人類は自然の法則を解明した。そして質量の意味、エネルギーとの物理的関係を見つけ出す。光速の二条に質量を掛けることによって宇宙のエネルギー量を導き出すことが出来た。つまり、そのことが核分裂や核融合によって得られるエネルギーであることを発見した。その偉大な発見は、そのまま人類を滅ぼす核兵器を開発に繋がった。

▽ 言い換えると偉大なる人間の思考力、理性の勝利が人類の消滅の道具を作ったのである。科学的思惟によって人間を豊かにしたかった志は、人間の消滅の玩具(おもちゃ)を天使(無邪気な人間、自分に悪意がないことを良く知っている人間)に与えたのである。

▽ 人間がその知性を展開しなければ自然に支配される他の動物のように猛獣にそして川の流れにもおびえながら生きなければならないだろう。そして、人間は知性によってその恐怖を克服した。と同時に、人間は自ら手に入れた知性の限界を知らない。そのために、その知性によって、自ら滅びる道を選んでしまった。それは、その知性が宇宙の存在にくらべて有限なものであること、また人間という生命体が有限な存在であること、そして人間が悲惨な存在者(死という存在の終わりを持つもの)であることを忘れるためである。このことをパスカルは「傲慢」と呼んでいた。


人間的行為と呼ばれる狂気

▽ 傲慢さとは、人間の本来の姿である悲惨さを知らずに例えば神を知ることであるとパスカルは述べた。この意味は、人類が本来人間の救済のために考え出した宗教の名の下に戦争や殺戮(さつりく)を繰り広げた宗教戦争、知性の勝利とも言うべき科学研究によって人類消滅の技術を開発してしまった歴史を意味している。

▽ 人間の偉大さの象徴とも言うべき思惟(考えること)、そしてその結果得られる理性(知性)によって、人は最良の存在者(天使)になろうとしながら最悪の存在者(禽獣)になってしまっている。このことの原因は、人間の悲惨な状態を救うために考えられた知性、科学的思惟、その応用、技術が結果的にたどり着く「大量破壊兵器」や「地球温暖化」の現実を受け止めることで納得できるだろう。

▽ もし、人間の理性の限界を理解することが理性に問われる最後の闘いであるなら、科学的知に問われる最後の科学的知識は、その科学的知の限界を理解することではないだろうか。

▽ つまり、パスカルが求めた最も高度な科学的理解とは「傲慢さ」を作り出す科学的知識でなく、むしろ、「人間の悲惨さの理解」するための科学的知ではないだろうか。
▽ しかし、あらゆる世界を理解するために前進的に進む科学的知によって、人が人の知の限界を理解することは可能なのか。もし可能なら、すでに科学的知性と呼ばれるものでない異質の知のあり方が登場するかもしれない。科学的知は「力」である以上、必然的に人間の傲慢さを生み出すのだ。しかも、その傲慢さを自覚することもできないぐらい、危機的な状況に来ているのが科学技術文明社会と呼ばれる現代社会の一面の姿である。

▽ 地球規模の生態系の危機的状況や人類を破滅させる核兵器所有とは、人間の傲慢さによって作り出されたもの、それは征服したと勘違いしている自然の逆襲であるともいえる。人間を生み出した自然、地球の生態系を支配し、それを制御できると錯覚した人間の姿こそ、自らの開発した核兵器によってその存在の危機を迎える姿なのかもしれない。つまり、それが人間の悲惨な、ある意味で滑稽な姿なのだろう。

▽ 正義を行うために悪を滅ぼす戦いをする。正義の名において殺戮(さつりつ)が許される。一人を殺すことを殺人とよび、敵を撲滅することを英雄と呼ぶ。殺戮行為には、正当な理由と不当な理由が歴史社会の中では常につけられる。その荷札をつけた屍(しかばね)の山を歴史は聖戦と呼び、あるいは大虐殺とも呼んできた。

「人間が狂気じみているのは避けがたいことなので、狂気じみていないことも、別種の狂気からいえば、やはり狂気じみていることになるであろう。」パスカル『パンセ』(414)



人に道徳を守らすには社会の規則が必要である。そのため政治学が研究された。

▽ 人間のこうした狂気じみた行為は避けがたいものであるとパスカルは言う。

▽ それでは、この避けがたい狂気、人間性に含まれる狂気をこれ以上増幅させないために、我々はこの精神病院の規則を作らなければならなかった。それが政治学であり、国際紛争を解決するための安保理事会の規則や国連軍であった。

▽ しかも、狂気を抑えるために、狂気を用いなければならないのである。

▽ 例えば、イラクの核兵器開発や生物兵器など大量殺戮兵器の開発を阻止するために、より強大な大量殺戮兵器をもった連合国、特にアメリカの軍隊が活躍する。核戦争を抑制するために、核軍備を行う。

▽ これが現実の狂気としての人間性が暴走しないための、最も有効な方法である。人類は、狂気を狂気によって抑制する方法を見つけ出したのである。その抑制の規則、それは気の狂った人々が混乱を起こして自分達で自分達に危害を加えないようにと作られた精神病院の規則のようなものなのだ。

▽ 狂気は人間の宿命であり、その狂気による混乱を防ぐために、社会や国家が必要とされ、法律や規則が作られ、軍隊や警察が作られ、場合によっては核爆弾や死刑台まで用意されているのである。


「彼ら(プラトンやアリストテレス)が政治について書いたのは、いわば精神病院の規則を作るためである」パスカル『パンセ』(331)


参考文献

1、 パスカル著 松浪信三郎訳 『パンセ(抄)』旺文社文庫、1970年10月、442p
2、 野田又夫 『パスカル』 岩波新書143 1953年10月、217p
3、 三木清 『パスカルにおける人間の研究』 岩波文庫 1980、231p
4、 甲斐潔信 「パスカルの『パンセ』における「人間の不均等」概念の研究
 http://members.ld.infoseek.co.jp/pascaliankk/r0hajimeni.htm
5、 後藤嘉宏 「 『パスカルにおける人間の研究』にみられる三木清の弁証法について」 図書館情報メディア研究第4巻2号 2006年 pp19-32 


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中世社会の世界観の崩壊 ケプラーの地動説の影響

三石博行


中世的世界観から近代的世界観の転換 天動説からケプラーの地動説へ


▽ 中世西洋社会の人々は魔女や魔術を信じ、また人のうわさを批判的に検討する知性を持っていなかったのだろうかという問いに答えるために、逆に、魔女や魔術などの迷信を信じない、また不確かなうわさを聞いてもすぐにそれを信じない現代の我々の意識がどのようにして形成されたか、つまり、迷信を信じ、うわさを鵜呑みにしていた中世社会の人々の意識から、どのようにして脱皮してきたのかということに考えてみる。

▽ 現代社会から中世社会の人々の考え方や意識を観(み)ると、中世の人々が「魔女狩り裁判」をまじめに行っていたことが理解できない。そこで、この問題を考えるために、逆に当時の人々の世界観や社会常識に立って考えることにする。当時の人々の世界観について考えてみよう。

▽ 中世までの世界観の中で代表的な「天動説」について考えてみる。天動説はすべての天体が地球の周りを公転しているという説で、古代ギリシャのエウドクソス(紀元前4世紀)やアリストテレス(紀元前384年-322年)によって宇宙の中心に地球を置き、その周りを天体が同心円上に公転しているという説である。アリストテレスは「天体は永遠に運動している」という考えをもっていた。そして、その後天動説は、紀元後2世紀にクラウディウス・プトレマイオスによって体系化されたのである。アリストテレスに影響される中世ヨーロッパ社会の学問(スコラ学)では、天動説が採用されることになる。

▽ この天動説に対して古代ギリシャのピタゴラスは地球が自転し、太陽の周りを公転しているという宇宙観である地動説を提案していた。このピタゴラスの地動説は15世紀にキリスト教神学者であるコペルニクス(1473年から1543年)によって復活する。コペルニクスの地動説は、確かに現代の天文学の理論である太陽を中心にその周りを地球を含めた惑星が公転しているという説であったが、地球を含めた諸惑星は太陽の回りで完全な円運動をしており、現在の理論(地動説)とは異なるものであった。つまり、コペルニクスの地動説も、アリストテレスの自然学における自然運動(同心円運動)と同じ考え方に立っていたので。

▽ コペルニクスの地動説はジョルダーノ・ブルーノによってその後継承される。ブルーノはイタリアの哲学者、宗教家・神学者である。彼はヨーロッパを放浪しながら、フランスのパリのソルボンヌ大学や当ルーズ大学、オックスフード大学で教鞭を取る。ブルーノはスコラ学派(中世ヨーロッパ社会でキリスト教神学者・哲学者によって確立し、当時の大学で教えられていた文献学と弁証法的討論を方法とする学問)の権威たるアリストテレスの自然学を批判し120のテーゼを書いた。そのことが問題となり裁判に巻き込まれ、最後はローマで7年間もの獄中生活を送ることになる。そして最後は、彼は地動説を唱えたことで異端審問に掛けられ1600年に火あぶりの刑に処せられた。

▽ コペルニクスやブルーノの地動説は太陽の回りを地球や他の惑星が同心円運動をしているというもので、今日の天体運動と異なるものであり、精密なものではなかった。その後、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラー(1571年-1630年)は天体望遠鏡による観測と惑星運動の数学的裏付けを行いながらケプラーの法則を打ち立て、ガリレオやニュートンを経て成立する古典物理学の基本を提唱した。ケプラーによって、今日の惑星運動、つまり楕円軌道をえがく惑星運動の説明(地動説)が確立した。

▽ 2世紀にクラウディウス・プトレマイオスによって唱えられた天動説は1609年に「新天文学」の中でケプラーが唱えた「ケプラーの法則」によって、体系的に乗り越えられる。中世ヨーロッパ社会の基本的な世界観であった天動説(地球を中心とした天体運動、キリスト教スコラ哲学の世界観)が崩壊するのである。現代の地動説の理論は緻密な天体観測に基づいてケプラーによって唱えられたものである。この天動説からケプラーの地動説への変換の意味は新しい天文学理論の形成という意味以上に世界観の変化を意味する。つまり、科学史の中で語られる「パラダイム変換」を意味する。天動説からケプラーの地動説の変換によって、中世の科学(スコラ学)が崩壊し、アリストテレスの世界観が終焉し、その世界観を基にして出来上がっていた中世社会の支配構造が崩壊していったことを意味するのである。
▽ 例えば、感覚的に星や太陽が東から昇り西に沈む天体の運動を観ているなら、素朴に太陽が東から昇り西の空に沈むと言っている。その限り、人々は朝日や夕日を見ながら「地球が動いている」と感じることはない。感覚的には「太陽が動いている」と思い、「星が動いている」と感じているのである。

▽ アリストテレスの自然哲学(自然観)を簡単に説明するなら、現象として我々の感覚に見える、感じる世界(形相)があって、その世界の存在は物質(質料)によって出来ている。つまり、世界の存在は感じられるものである。感じられるように世界は存在している。そのため、肉眼で感じる世界、天体の存在が天体の本質的な姿を示している。知覚観測によって存在している世界のあり方が理解される。言い換えると、太陽が動いていると感じる以上、太陽は我々の地球(大地)の上を動いていることになる。その視点が天動説の根拠になる。誰も、太陽や星の観測をしながら「今日も地球は動いている」と感じる人はいない。天動説は素朴な人間的感覚を土台にした最も分かりやすい天体運動の理論(説明)なのである。

▽ 現代の社会で、太陽が西の沈む光景を誰が見ても、「地球が動いている」と感じる人は一人もいないだろうが、しかし、義務教育を受けた人なら、誰一人として、太陽が地球の周りを回っていると説明する人もいない。しかし、小中学で太陽系の学習をして地動説を理解していても、我々は、夕日を眺めながら「日が沈む」と確かに言っているのである。では、どうして「日が沈む」と言いながら、頭の中で「地球は自転している」と理解するのだろうか。

▽ ケプラーは望遠鏡(肉眼)で観測して得られた情報(データ)を数学的に整理する手法で、天体運動の理論をまとめた。つまり、それまでも望遠鏡で感覚的に観測しているのであるからケプラーの観測方法とそう変わらないのである。しかし、ケプラー以前は、天体観測のデータを数学的に整理することはしなかったのである。ケプラーは数学という論理の世界で観測データを整理してみた。何故なら、ばらばらの惑星運動を一つの法則で説明するために(神の法則は一つである以上、一つの法則が宇宙を支配している筈であると信じていたので)、人間的な感覚の入る余地のない厳密な計量的方法、数学的方法によって整理したのである。その視点が、それまでの天体観測の方法と基本的に異なることになる。

▽ つまり、自然観測から得られたデータを、数学という道具を用いて再度解釈する、現代科学の基本がそれによって確立するのである。アリストテレスの世界観、人間的感覚を中止とした世界から、それを超越した世界(イデアの世界)を理解する方法として神のことば(数学)を用いることで、宇宙の法則(神の法則)を見つけ出そうとしたのであった。コペルニクスやブルーの物理神学の思想を継承しながら、観測データの数学的解釈という新たな世界を切り開いたのである。ケプラーの法則は、ガリレオの落下の法則と共に、その後、デカルト、パスカル、ニュートンやライプニッツへと大きな影響を与え、近代科学の形成の土台を創ったのである。

▽ アリストテレスの自然学を基礎付けた感覚世界(感覚的経験主義)が根本から否定され、論理(数学)的経験主義へと変化したのが、天動説から地動説への世界観の変化、つまり、中世社会の世界観から新しい近代合理主義社会の世界観の変化を意味するのである。


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魔女狩り裁判を引き起こす世界観

三石博行


思い込みを生み出す人間と社会の思想的背景

▽ 我々人類が歴史の中で繰り返される虐殺行為、ユダヤ人虐殺、魔女狩り、民族浄化、在日朝鮮人虐殺、クロアチア人虐殺、ツチ族虐殺等々、戦争行為以外に、多くの人々が犠牲になってきた。これらの虐殺を、私達は自分の日常生活と無縁の世界で行われた蛮行(ばんこう)であると考えた。

▽ しかし、現実は私たちの日常生活の中で発生している普通の人々が繰り広げた行為なのである。戦争という極限状態の中で繰り広げられる殺戮と違い、自分達の生活を守るため、それを破壊する者を取り締まり、未然に被害を防ぐために行った(人間的な)行為なのである。それだからこそ、これらの虐殺は過去の歴史や他国の話ではなく、いつでも将来、我々の社会に起こる現実なのである。そのことを理解しなければならない。

▽ 前回、こうした虐殺の背景と日常生活の中で生じる「いじめ」や「排除」が、その被害の規模は違っても、共通する原因によるものであると考えた。つまり、我々が「うわさ」や「他人への間違った思い込み」によって、他人に対して間違った行動を取ることがある。その間違った判断や行動の原因を徹底的に理解し、それを防ぐ対策(生きたかの技術)を身に付けなければならないことが課題となっている。

▽ 今回は、中世社会の世界観に深く関係している「魔女狩り裁判」を引き起こす社会観念(社会全体に共通して存在している意識)について考え、その考え方の何が「魔女狩り」の引き金になったのかを考える。そして、その考え方を批判し、点検するために、西洋社会では何が行われたのか。それは、現代どのように継承されているかを考える。



魔女狩り裁判の起こった中世ヨーロッパ社会の人々の意識(迷信と思い込みの起源)

▽ 「魔女狩り裁判」を引き起こす社会での人々の意識とはどのようなものなのか考えてみよう。「あの人は魔女だ」という「うわさ」を信じるためには、「魔女が存在する」ということと、人のうわさを疑わないという二つの要素が挙げられる。

▽ まず、「ひとのうわさを(簡単に)信じる」意識であるが、その意識は、今の時代でも、今の日本でも、つまり我々が日常的に何の疑いもなくよくやっている行為である。つまり、我々は日常生活の中でいつの間にかそう思い込んでいる。そう思い込んでいる根拠は「誰かがそう言っていた」とか「何となくそう思っていた」という主観と呼ばれる意識である。この思い込みを起こす主観的な意識は何も特別な意識ではなく誰でも持っている。どこの社会でも人々は自然にこの意識を持っている。つまり、そう思っているという主観的な意識は、全ての人々の生活の中に自然に存在している人間的な意識であると言える。

▽ しかし、現代の科学技術の発達している私達の社会で、もしある人が誰を「魔女だ」と言っても、誰もその人の言っていることを信じないだろう。何故なら、「魔女が現実に存在する」とまじめに信じる人は殆どいないからである。「魔術」もそれを使う「魔女」も非現実的な世界の話であり、迷信だと受け止められるだろう。そもそもこの社会では「魔女がいる」とか「魔術をつかって病気を流行らしている」ということはあり得ないこと、成立しない出来事である。私達の社会では、まじめに「魔女」の存在を信じる人がいない以上、「魔女狩り」は起こらないのである。

▽ 魔術を使い、ほうきに乗って空を飛ぶなどというのは「魔女の宅急便」(宮崎駿の漫画、1989年7月に東映で上映された。)や家庭の主婦として優しいご主人を助けるために魔法を使う可愛い奥様の話し「奥様は魔女」(1942年アメリカで上映された映画、1964年から1972年テレビドラマのシリーズでアメリカや日本で上映される。2004年にTBSで日本版のテレビドラマが放送される。)のように漫画や映画の話として存在する。

▽ 現代社会で、魔女が存在しないと我々が確信しているのは、魔女が使う超能力が「科学的な根拠」を持たないからである。つまり、現代人は「魔術」という非科学的な考え方を信じていないことになる。そして、魔女狩りをしていた中世の人々は「魔術」を信じていたことになる。その意味で、ヨーロッパ中世社会で行われた「魔女狩り裁判」は、現代社会では起こりようのない話となる。

▽ 従って、西洋中世社会での「魔女狩り」と同じような誰かを「魔女だと信じて」危害を加える歴史は、さすがに現代社会では起こらないのであるが、もう一つの原因である「うわさを信じてしまう」ことによって起こる虐殺行為は、前回説明したように、ユダヤ人虐殺、在日朝鮮人虐殺、クロアチア人虐殺、ツチ族虐殺等々と、魔女狩り裁判以降も、我々の社会の歴史の中で繰り返される。

▽ しかし、仮に現在、つい60年前に行われたナチスドイツのユダヤ人虐殺と同じような民族浄化がバルカン半島(クロアチア人虐殺)やアフリカ(ツチ族虐殺)で起こるなら、国際社会は「うわさを流し民族浄化をおこなう」蛮行(ばんこう)を許さないだろう。その意味で、21世紀の我々の社会は、魔女狩り裁判を行い多くの無実の人々を殺害した時代、異教徒や異民族を虐殺した時代とは異なるのである。そして、意図されて流れる「うわさ」や悪意をもった「うわさ」に対して、批判的に対応できる社会となっている。

▽ 例えば、前回説明した今から87年前の1923年9月1日におこった関東大震災時の在日朝鮮人(韓国人)虐殺事件、「在日朝鮮人が暴徒化し」「井戸に毒を入れて、放火し回っている」というデマや噂が立って、6415名の人々(在日朝鮮人や在日中国人)が(当時の司法省は233名と発表したが)殺害された事件のような在日外国人への迫害事件は、1995年1月14日の阪神淡路大震災時では起こらなかった。確かに、阪神淡路大震災直後に「在日外国人が反倒壊した家に侵入して窃盗を働いている」といううわさが立った。しかし、そのうわさを新聞は批判した。1923年から72年を経て、民主主義国家に成長した日本社会の良識ある市民が得た人権思想がその蛮行(ばんこう)を食い止めることが出来たのである。

▽ 「迷信を信じない科学的精神」と「噂などのような不確かな情報を簡単に信じないで、それを検証する批判精神」の二つが、魔女狩りとそれに類する悲惨な歴史を繰り返さないための力となっていることを理解できる。


中世社会の人々の意識 感覚中心の世界と魔女の存在

▽ 中世社会の世界観、古代社会から自然災害に対する恐怖、その対応を祈祷によって行っていた時代、占いや祈祷が政務として存在した時代、日本でも古代社会は祈祷師である卑弥呼が国を治め、また平安時代にも陰陽師(おんみょうじ)が政務(古代日本の律令制の下で中務省に陰陽寮(おんみょうりょう)という国の業務を司る官職)が大きな役割を果たしていた。

▽ 科学技術の進歩した現代社会から見れば、自然災害、例えば地震の原因もプレートの移動によって生じる現象であると理解され、その予知も研究されている。また台風の原因もその到来の予知も気象衛星によって正確に可能になっている。

▽ つまり、科学技術が進歩した社会では、ペストの原因はペスト菌であり、その感染経路はねずみと蚤であることや、旱魃(かんばつ)やエルニーニョ現象(南方振動とも呼ばれ、インドネシア付近と南太平洋東部では大気圧が異なることによって、赤道太平洋の海面水温や海流が変動しそれが気象へ影響を与える現象、日本では梅雨が長引き冷夏(れいか)と暖冬(だんとう)傾向になる気象現象で異常気象ではない)も科学的に解明されている。

▽ しかし、「現在でもアジア・アフリカ・南北アメリカの近代化の遅れた社会、例えばインディオやインディアンやニューギニアの原住民社会では祈祷や占いが重要な社会的役割を持ち、部族長や酋長と呼ばれる人々の多くは祈祷師である場合も多い。日本を始め先進国でも、伝統行事として五穀豊穣(ごこくほうじょう)や大漁追福(たいりょうついふく 大漁を願って仏事を営むこと)から天候や個人の吉凶(きっきょう)を占う事や、「払い清め」や呪術(じゅじゅつ)が社会に残っている。」(Wikipedia) これらの神事、占いや祈祷は古代社会からの名残であり、科学技術の進歩した社会でも、市民は縁起を担ぐために活用している。しかし、古代や中世社会では、この行事が国の政務として執(と)り行われていた。

▽ 祈祷や占いが社会で大きな影響力をもっていた社会では、魔術が信じられ、恐れられていた。そのため、「あの女は夜に魔女と話をしていた」という噂もありえる事実となる。「その女が、魔女から渡された毒を井戸に入れた」ので「ペストが流行った」という話もその時代の人々の意識からは決してあり得ない話ではなかった。

▽ 魔術や占いを信じる世界は、一言で言えば、科学的な考え方や理論がないのであるが、そもそも、我々の語る科学的な考え方も17世紀に西洋社会で芽生え、18世紀にヨーロッパで発展し、19世紀に生産制度に応用され社会化し、20世紀に巨大な産業システムを作ることで社会制度の中心となったのである。つまり、科学的な考え方がこの人類の歴史に登場したのは、精々(せいぜい)400年間未満なのである。それまでの社会は占いや祈祷によって社会が動いていたのであった。

▽ 近代・現代社会以前の社会での人々の意識では、世界の理解は、現在のように科学的機器があったわけでなく、直接人が観たもの、感じたものが世界であった。その意味で天動説が成立していた。現在のように、X線解析で物質の構造を調べ、スペクトル分析で分子構造を調べ、またクロマトグラフィーで分子を判明することもできないのである。

▽ 人間の直接見えるものが世界であった。見えるもの(形相)をもとにしてものの本質(存在)を理解する、謂わば(いわば)直接観察が中世までの科学(神学や哲学)の世界を知る方法であった。そのために中世では天体観測用の望遠鏡や占星術(せんせいじゅつ)用の道具が開発された。

▽ 世界を見ている感覚を前提にして成立している自然学が中世までの自然科学の姿であった。そのため、感覚を疑うことはなかった。つまり、感覚を疑うことは、自然観測を唯一の手段を疑うことになるのである。

▽ 感覚した世界を絶対条件に成立している世界、中世までの世界観では、幻覚や妄想も感覚された世界である以上、その存在を否定することは出来ない。つまり、「あの女が魔女と夜に話をしているのを聞いた」という妄想も、その本人にとってはリアルな出来事(妄想の多くがリアルである)である以上、現実の出来事として理解されるのである。その社会では、この妄想も、魔女の存在を信じている以上、「魔女と女が話をしていた」ということも実際に起きてもおかしくない話となる。そこで「あの女は魔女と密会をし、魔女から毒を貰っていた」ことが現実の話になっていくのである。

▽ つまり、中世社会での魔女狩り裁判は起こるべきして起こる社会現象であった。科学的知識や世界観が存在していなかった。人間の感覚しか世界を了解(理解)するすべを持たなかった。そのため、幻想や幻覚であれ見えるものは全て存在しえた。

▽ 例えば、皆さんが子供のころ、闇が怖くなかったかを考えてみよう。あの闇の中から登場する恐ろしい化け物や幽霊(ゆうれい)は、自分の持っているイメージであるにもかかわらず、子供はそれを怖がっていた。彼らの意識は、中世社会の人々の意識と同じなのかもしれない。



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