2010年8月26日木曜日

ブログとホームページの違い(日記と小説の違い、論文と著書の違い)


写真 カルフォルニア州の10パーセントの電力を供給する風力発電所群

A ホームページ作成が難しい理由


私は、誰もが当たり前にやっているホームページを今頃になって何とか作ろうとしている。

確かに、このブログを記載しているGoogleでホームページを作ってみたが、デザインの面で、満足いくものが出来なかった。それの理由は、私がGoogle ホームページの作り方を正確に理解していないためである。
つまり、ホームページをつくるためのソフト的、インターネット使用の技術がなかったことが、満足できるホームページを作ることが出来なかった理由となる。

しかし、ホームページ作ソフト使用の知識や技術の問題であれば、努力してその問題を解決して来たと思える。技術的スキル不足の理由だけではない。
それでは、他にどんな理由があるのだろうか。

ブログを書くことと、ホームページを書くことの違いは、
書きたいことを日常的に積み重ねる作業によってブログは出来る。
しかし、ホームページは、あらかじめ書く内容の構成(フレーム)を決めなければならない。

B ブログとホームページ そして、日記と小説

ブログは日記のように書ける。しかし、ホームページは著書のように編集能力、全体とそれを構成する各章を構成する企画力が必要となる。

つまり、ホームページは小説を書くように、あらかじめ物語を作り、その物語に即して、それぞれのホームページの内容を編集する必要が生れる。

勿論、小説ほどホームページは「物語性」を要求されないが、ブログは、日々、日常的に沸き起こる考えや日常生活の経験、課題を書き留めるための様式である。その点、日記と類似しているといえたのである。

私がブログを書くことに困難を感じなかったのは、もともと日記を書くことが好きだったからかもしれない。中学1年のはじめから書き始めた日記を50歳ぐらいまで続けていた。

日記と違って小説を書くためには、物語を作る力が必要である。
日記は、結果として物語になりえる。それは、あらかじめ構成され企画された物語でなく、日常生活のドラマチィクな流れが日記を物語的な内容に変えてしまうからである。それはある日常生活に生じる偶然結果として予期せぬ出来事の記録の結果として日記が物語り的になる。

しかし、小説は、その内容が日常的な生活風景を題材にしたとしても、あらかじめ企画され計算された出来事の連鎖や事件とよばれる物語によって構成されている。

小説は現実の日常生活に秘められた潜在的なドラマ性を引き出すことで、面白みを増すように思える。

また、まったく違う社会や時代の話を通じて、日常的な空間から読者を想像の世界に引き込むことが出来る。しかし、それらの異生活空間には必ず日常生活空間で共有されている感性や価値観が存在している。

つまり、小説は、一こま一こまの人間生活の場面の中で繰り広げられる物語性を、繋ぎ止め、関連させ、大きな流れの中で、それはブログの世界と異なる小説的時間の流れの中で、著者の主張の材料に構成されてゆく。その構成スキルを編集力と呼ぶのである。


C ブログとホームページ そして、論文と著書


それと異なる編集力を必要とする書き方として論文がある。論文の書き方では、与えられた課題を学術的・論理的に記述しながら、ある一定の結論を導く、もしくは提案する仮説や命題をこれまで認められてきた手法(論理や方法論)で証明することが一般的に取られている。研究活動の記録のようにして論文は出来る。

しかし、論文の集合が本になることはなかなか難しい。著書には課題を展開する物語性が必要である。この物語性は、個人の研究活動によって導かれるというよりも、それを含めて、研究者は著者の中心課題から他の領域への境界領域も含めなければならない。つまり、自分の専門的範疇のみで著書が出来るとすれば、それは研究専門書と呼ばれる部類の本となる。

しかし、大学の教科書のような本では、自分の専門領域との境界領域を含めて、専門領域の課題に大きな物語性をつける必要がある。

私の場合を例に取ると、長年研究生活を続けながら、論文は幾つか書いたが、単独で著書を出すことはなかった。単独で著書を書いたのは、フランスの大学で書いた博士論文を著書にした以外は、なかった。

そう考えると、私はフランスでの学位論文の時、苦労した事を思い出した。

つまり、学位論文や著書の企画をした場合、非常に理想主義的な方針を出すことによって、企画上はすごい話になるのだが、現実にそれらの企画を実現することが困難な場面に毎回出会い、ついには、中途でやめることになる経験をしてきた。

私が自覚しなければならないのは、自分にはそれほどの編集能力がないということだ。

論文を書くための構想と本を書くための構想とは、共通する部分とそうでない部分がある。
そうでない部分に関する理解が非常に不足しているのではないだろうか。


D、ホームページ作成に含まれて訓練


私の弱点、物語性の構築能力の不足、編集力の不足、酷評するなら想像力の不足(これは物書きとして致命的問題)を克服するために、ホームページを作りに挑もうと思う。

少し、大げさな挑戦状を、書いてしまったようである。

私のホームページのタイトルを「生活運動と思想運動の相補性」をした。
ブログのタイトルが「生活運動から思想運動へ」であるから、ホームページのタイトルもブログと殆ど同じであるといえる。

ホームページ「生活運動と思想運動の相補性」は5つの章によって構成されている。

ホームページ
序文 トップページ
第1章は研究で、この第1章は哲学、人間社会科学、政策論と研究会・学会活動の4つの節からなる。
第2章は教育で、この章は哲学系、人間社会学系とその他の3つの節からなる。
第3章の社会活動は国際交流活動、エコロジー運動と政策提案運動の三つの節からなる。
第4章は自己紹介でプロフィール、趣味、ブログなどの節からなる。
第5章のリンクは自分の研究、教育、社会活動や趣味などに関連するサイトの紹介を行う予定である。

以上が「生活運動と思想運動の相補性」という物語を示す私のホームページの構成である。


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2010年8月24日火曜日

庭の話をはじめよう

2011年5月5日の庭


三石博行






私の住んでいる区画は、建蔽率が40パーセントで、敷地の半分が庭になる。2004年から、この地区に移ってきて、少し余った土地を近所の人々に見習って、庭を造った。

私が庭をつくるとなると、どうしても、実用的な庭になる。
木は花と実のなるもの。植えるとすると食べられるもの、野菜かな。
妻とまったく見解が食い違う。そこで二人の領土を決めた。

私は野菜を植え、彼女は花を植え。
私は実のなる木を植え、彼女は花の咲く木を植える。



しかし、二人が同意したことは
畑らしくない畑、花壇らしくない花壇であった。

フランスやヨーロッパでたくさんの庭を観て来たので、
少しそのまねをしてみた。

雑草に悩まされないように、
庭仕事で転ばないように、
作業通路をレンガで覆った。



友人の会社、エコハウスを専門に造って来たライフプロジェクトにたのんで
難しい要求をして
彼らの工夫と苦労で
気に入った庭となった。

この小さな庭でエコライフの実験をしている。つまり、家庭生活で生じるすべての生ごみや枯葉や庭のごみをリサイクルし有機肥料を作り、それを使って野菜を作る。近所の人から、枯葉や庭からでたごみをもらいそれも有機肥料にする。さらに、近くの市営農場から牛糞を運ぶ、それを堆肥舎(縦4m、幅3m 深さ1.5)に入れて、すべての有機物と一緒に発酵させる。冬でも、湯気が出る。暖かいので、猫が堆肥舎のカバーの上で寝ている。

一年間にどれくらいの有機物が必要か、それらの有機物を入れることで、連作障害を防ぐ野菜作りは可能か、エコライフの多くの課題を考えながら、庭仕事をやる。果たして、我々は、最低どれくらいの庭と有機物があれば、野菜を自給できるのだろうか。これは、実に面白い課題である。

グーグル地図の衛星写真からも、我が家の庭の形が見える。

参考資料

株式会社 ライフプロジェクト
http://www.lococom.jp/tt/20830269394/


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大衆的な国際化社会のための大学教育の課題

A 高等教育の国際化の三つの段階

教育機能の中で、最も社会経済システムの国際化の影響を受けるのが高等教育である。何故なら、高等教育機能は、専門性の高い社会文化や産業事業に直接的に人的資源を提供し、また知的資源の開発を共同で行う等の社会発展のための機能を担っているため、国際化に必要な人的資源や知的資源を高等教育が提供しなければ、社会経済機能の国際化の振興は不可能だからである。

日本社会の国際化に大学は大きな役割を果たしてきた。国際化する企業活動を担うために専門教育、外国語教育、国際理解等々の、国際化社会のための人材教育を行ってきた。

グローバリゼーションに必要な知識の提供を行ってきた戦後の日本の高等教育を第一期の国際化のための高等教育の時代と考える。大学での外国語学部や経済学部なのでの国際経済専攻分野の設置が行われ、海外で活動する企業に人材を提供してきた。

世界経済の進展、1980年代以降、大企業のみでなく中企業も国際競争を前提にして経営戦略を立てる時代になって、大学での国際化社会に対応するための教育は、これまでの国際社会で活躍するエリート育成から、一般学生に対して国際社会で仕事をするための教育へと変化していく。多くの大学に国際の名のつく学部や学科が新設され、また国際と名のつく新設大学が全国津々浦々に創られる。
この時代を第二期の国際化のための高等教育の時代と呼ぶことができる。

今、国際化のための高等教育の新たな時代が到来しようとしている。それは、日本の国際化が市民生活にまで浸透し、国際化という文化がどの地方都市にも、またどの市町村にも行き通り、国際化の日常化が行われている時代を意味する。
国際化のための社会機能はどの市町村でも必要とされている。国際化のために活動する人々はエリートでなく一般の市民となる。大学では国際教育がどの学部でもおこわなれ、例えば英語での一般教養や専門教養科目の講義が行われるようになる。
この時代を第三期の国際化のための高等教育の時代と呼ぶ。現在の大学教育はこの第三期を迎えているといえる。


B 国際化のための教育課題

国際化社会で働くためには英語などの外国語教育は必要である。第三期の国際化のための高等教育の課題としえ、英語を学ぶのでなく英語で学ぶ教育が取り組まれる。しかし、語学能力は海外で働くための能力の入り口である。それ以上に、異文化理解能力、コミュニケーション能力、問題解決能力を身に付ける必要がある。

こうした能力は、これまでの講義形式の学習では身に付けることが出来ない。ゼミや実習での参加型の授業形式を取り入れて、学生が授業を運営しながら学ぶ方法が必要となる。

問題解決能力を身に付ける学習方法として、すでに欧米で取り入られているPBL(Problem basic learning )などを用いることが出来る。それ以外にも、多くの先進的な教育方法が検討され、また開発される時代を迎えているといえる。

第三期の国際化のための高等教育に関する研究が現代の大学教育法の課題となっているといえる。



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ブログ文書集 タイトル「大学教育改革への提案」の目次
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2010年8月23日月曜日

大学改革の新しい局面

三石博行


A 中小大学法人の大倒産時代をむかえて

JCASTニュースで、「大学全入時代を迎え、大学の“倒産”が現実のものになった。私大の定員割れは全体の47.1%に達し過去最悪の事態。国の教育方針を決める文部科学大臣の諮問機関、中央教育審議会(中教審)は大学の統合再編も視野に入れて本格的な議論に入った」(1)ことが報道された。

日本私立学校振興・共済事業団(私学事業団)2008年1月にまとめた私大の経営状況調査では、「521の大学法人のうち64法人が「経営困難状態」と判定され、9法人は「いつ、つぶれてもおかしくない状態」というショッキングな結果が」(1)報告されている。

2005年には同世代の約73%の人口が高等学校を卒業した後に大学短大や専門学校などの高等教育機関に入学している。つまり、日本では高等教育の大衆化が起こってる。

この日本の大衆化した高等教育を推し進めたのが国の政策、私立大学への補助金であり、それに援助された私立大学学校法人である。90年代の初めに国は大学設置基準を緩和し、その結果、大学、学部を簡単に設立できるようになり、高等教育機関は益々増え続けた。大学数は90年の507校から現在、227校増えて734校。少子化にもかかわらず大学を増やし続けてきた。

当時国は、大学間の競争を「市場経済原理」の即して促すために、これまで文部省の規制に縛られていた大学設置基準を緩和し、民間企業ですら大学設定が可能な状態にまで持ってきたのである。

その結果、大学は厳しい生存競争に晒される。つまり、潰れる大学と生き残れる大学が生れたのである。それが、国の方針であったともいえる。

つまり、中小大学では、「現実に、私大の経営状況は厳しくなっている。私学事業団が、08年1月にまとめた私大の経営状況調査では、521の大学法人のうち64法人が「経営困難状態」と判定され、9法人は「いつ、つぶれてもおかしくない状態」というショッキングな結果が出た。」(1)


B 大学間競争を生み出す市場原理のプラスとマイナスの側面

国際社会での日本の大学の競争力を付けるために国が持ち出した政策、市場原理で大学を淘汰する政策の結果を検証しなければならない段階に来ている。

大学間の競争に市場原理を取り入れたことのプラスの側面とは、日本の大学が国家の指導でなく、自らの力で世界の大学との競争を前提にして発展する機会を作ったことである。

日本の官製型の文部省指導型の大きな大学、例えば東京大学や京都大学など旧帝国大学や慶応早稲田なのの超有名私学など日本でトップクラスの大学が、大学法人の責任で大学内の制度改革を進めることが出来るようになった。そして、それらの改革の評価も自ら取らなければならない事態をつくった。
そのことによって、積極的に、大学独自の改革を進めれれるようになったともいえる。

当然、国の政策によって、日本の大学では大きく二極化が生じてきた。つまり、大学間の国際競争力に磨きを掛けて発展する大学と少子化の傾向以上に定員割れを起こす中小の大学が生れる。

市場原理に基づく国の大学淘汰を前提とした高等教育政策のマイナス面とは、この二極化の負の側面であるといえる。つまり、多くの倒産寸前の中小大学法人の出現である。

国際競争力のない大学つまり海外から留学生や研究委託の来ない大学、それどころか国内的にも存続の意味を持たない大学つまり入学者定員割れを起こしている大学、それらの大学は、確かに市場原理からすれば、その大学の存在意味を問われているのである。

そして、国が倒産寸前の大学法人の問題を考えないなら、それらの競争に負けた大学、企業であれば倒産は当然の結末であると言える学校法人の現在の姿に対して、当然倒産すべきであると国はおおぴらは主張しないが、同じことを言っていることになる。

大学の倒産によって引き起こる問題
1、在学生の教育の権利の保障
2、卒業生の卒業大学の保障
3、国が私立大学法人へ投入したこれまでの税金、その結果として私学法人が所有する財産の散財化

大まかに以上の問題が生じるのである。

株式会社と言えども銀行の場合にも、その社会的機能において公共性が高かった。ましては、つい10年前まで、税金を投入し私学補助金を支払ってきた国にとって、私学法人の財産が学校法人のものであると帰結するのは無責任な結果を生み出すことにならないろうか。


C 国は、負の側面をカバーする対策を持っているのか

国は、これまで進めてきた市場原理による大学改革に対して、その政策の検証段階をむかえている。

つまり、市場原理によって大学改革を進めることによって、より国際競争力を持つ大学が生れるかという検証が必要である。

言ってしまえば、大学の統廃合を行い、もっと国際競争力をもつ大学を日本にう来る必要はないかということを検討しなければならない。

旧帝国大学を中心とした大学、超有名私学などが、少なくともアジアにおいて高等教育機能として中心となっるために、個々の大学で、さらに競争力を獲得するためにもっとも必要な法律や政策を提案しなければならないだろう。勿論、それは、古い亡霊、つまり文部省、文部科学省の官僚指導という方法でない方法、大学法人、民間、地域社会を入れた方法を検討すべきである。

さらに、忘れてならない課題として、ニ極化の負の部分、つまり、日本の大学を淘汰の荒波に敗北していく大学法人への対策である。多数の倒産寸前の大学法人への対策とは何かと考えなければならない。

これらの中小大学法人の倒産とそれに対する国の対策への問題提起に類似する話は、すでに、1990年代に日本の金融機関の国際競争力を獲得するために、中小市中銀行の統廃合を経験している。その経験が、今回の中小弱小大学法人の倒産の時代に応用可能であるとも言える。

当然、倒産寸前の学校法人としては、国の援助を求めるであろうが、競争力を持たない中小銀行の救済によって失った血税投入の失敗の歴史を思い起こせば、それらの大学法人へ血税と投入して救済するという方法を取ることはできない。

D 今後の検討課題

小さな政府を目指す時代の流れの中で、これまでのように文部科学省の支援や国家指導型の対策を待つことはできない。
むしろ、地方分権化の流れにあった大学再編の道を模索する必要がある。

例えば

1、資金ショートを起こす危険性のある学校法人の経営に対して、民間の「破産管財人」的な制度を考える。
2、学校法人法を見直し、資金ショート寸前(エーローゾーン)の大学法人理事会に対して、その理事会に対して法的に強制的に理事会運営へ介入する制度を創る。
3、地方分権を前提にしながら、中小大学法人の地域ごとの再編を行う。その場合、競争力のある大学法人の指導を前提とする。また、地域ごとの大学コンソーシアムの指導を前提とする。


E 呼びかけ

この課題を、現実に破産寸前の中小大学法人に身を寄せる私個人の問題でなく、国際化する日本の高等教育の将来を考える多くの大学教職員に対して問題を投掛けたいと思う。
ここでは、問題解決のための、コミュニケーションを提案したい。

1、高等教育研究会での「大学法人倒産の時代への対策研究部会」の設定を呼びかける。
2、この問題はそこを職場にしている大学教職員の問題だけではない。教育は百年の計であり、国家の問題である。そのため、この議論を広く社会に呼びかける。将来の日本社会の持続可能な制度を模索し続けてきた「構想日本」に、問題提起する。



参考資料

(1) JCASTニュース 「私大の定員割れ5割弱 大学の「倒産」現実に」 2008年10月9日
http://www.j-cast.com/2008/10/09028154.html?p=all




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第三期国際交流運動を展開した歴史

A 仲井秀昭氏の試み・1990年代の奈良での「フランス語クラブ」

仲井氏が奈良でフランス語で喋る交流会・フランス語クラブを作ったのは今から20年ぐらい前のことである。そのフランス語クラブが奈良日仏協会を創る母体となり、奈良日仏協会は結成された。

私は1993年にフランスから帰国し、京都大学で短い期間の仕事を見つけた。そして仲井氏とお会いする機会があった。はじめて奈良日仏協会の集まりに参加したのが、フランス語クラブであった。約30名近い人々がフランス語で自己紹介し、一人ずつ何か喋ることになっていた。フランス語の得意な人、そうでない人、それぞれのレベルで話をした。確か、フランス人も参加していて、集まりは盛り上がっていた。

その集まりの中で、すごくよくフランス語の喋りたい人々が集まって、私の新しい職場、金蘭会学園で、めちゃくちゃレベルの高いフランス語での討論会をやった。


B 第三期国際交流運動のプロモーターとしての奈良日仏協会の活動(1990年代から2007年まで)

仲井氏が事務局長を勤めたいた奈良日仏協会では、新しい国際交流活動が起こっていた。それは国際交流活動が市民生活の中で日常化していく第三期の国際交流活動の始まりであるといえる。

彼は、フランス語、フランス文化への接点を奈良の市民生活の中に持ち込み、フランス映画や音楽を単にフランスを紹介するレベルから奈良での映画文化活動や奈良を紹介する(発信する)活動へと展開していた。
つまり、これまでの日仏協会の活動から一歩出た、奈良という地域性を同時にフランスに発信する活動であった。

その一つに「奈良の代表文化の一つ、仏像美術文化をフランスに紹介する活動」が取り組まれ、奈良日仏協会の国際交流のレベルの高さを国内は勿論国外にも示した。

C 引き継がれる市民生活運動としての国際交流活動 京都奈良EU協会

仲井氏は、奈良日仏協会をNPOにして、任意団体としての国際交流運動から一歩出た、新しい運動体にしたいと望んでいた。その希望は、当時の奈良日仏協会の理事会では理解不可能であったと思える。彼の考えは、当時の理事会の中では余りにも先を歩んでいたように思えた。

仲井氏と私は、そうして京都奈良EU協会を立ち上げることになった。その目的は、21世紀の益々国際化する市民社会での、国際交流活動を模索することであった。
今でも、私たちにその答えはないのであるが、なぜか、その方向に対する確信がある。

それは、市民生活活動の一つに融合化した国際交流運動のスタイルである。

そのスタイルは、すでに、若い人々に、市民の中に、存在しているように思える。

それを、私たちNPOは吸収し、その力を集める努力をしているのだと思う。


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2010年8月21日土曜日

街に生れるイングリシュカフェ文化の意味

生活空間でのグローバリゼーションとは

社会の国際化を推し進めた原動力は市場経済である。その具体的な現れが、工業国としてのわが国の場合、国内生産物の輸出と工業生産に必要な原料であった。
その結果が、日本製品、例えば日本製の電気器具や自動車が世界中の国々で使われ、また日本国内では海外から輸入したエネルギー、鉱物や食料資源に依存する社会や生活空間が登場してきた。
日本の国際化は、戦後、日本が高度経済成長期を迎えた時代から始まり今日に至っている。

社会経済活動が国際社会との関係、つまり海外からの輸入や輸出を抜きには成立しえない社会を国際化した社会と呼ぶことができる。一国経済体制では国家運営が成り立ったない社会がグローバリゼーションの進んだ社会である。その意味で、世界のほとんどの国々が、今やグローバリゼーションの影響を抜きに存立しないとといえる。例えば、経済鎖国状態の北朝鮮ですら、実際には経済の国際化の流れから孤立して、国家が存続している状態ではない。

経済活動の国際化が生じる状態を第一期の国際化社会と考えれば、その次に生じる国際化は社会現象の国際化である。つまり、第二期の国際化社会では国際政治情勢、社会文化等々に関する社会情報が豊富に提供される。例えば国際政治経済に関するニュース、番組が多く報道され、また海外のドラマや文化紹介がテレビを通じて頻繁になされる。

明治維新以来、欧米社会を見本としながら国家の体制を構築してきた時代、近代化の過程では、多くの欧米文化が紹介されることになる。しかし、これらの欧米文化化が伝統文化とぶつかり合った時代も生れた。そして、近代化への反動として国粋主義や反西洋文明主義を生んだ。これらのプラスマイナスのすべての社会文化の反応も国際化社会で自然に生じる社会文化現象である。

さらに、経済的にアジアとの交流が主流を占める中で、必然的に生み出されるアジアへ文化との交流も、例えば韓流ドラマの国民的人気や中国映画の流行を通じて生じる。これらの社会文化現象も、大きく第二期の国際化社会の一こまの現実である。

第二期の国際化社会では、交通機能、IT技術の爆発的進歩によって、物資のみんでなく人々や情報(社会文化情報)の流れも爆発的に流動化、交流化するようになった。

以上の国際化社会の発展によって、日常的に人々は海外の文化に接することができ、また海外へ旅行することも日常化し、海外から日本に来日する人々も増え、それまで第二期初期の時代の欧米からの指導的立場の人々とアジアや発展途上国からの低賃金労働者の入国ではなく、欧米から日本への留学生やアジアから知的エリート達の日本企業での就労も行われるようになる。

日本での国際関係が、欧米志向性からアジアや発展途上国との対等な国際交流関係へと変化する時代を迎えてきた。

日本では、21世紀を向かえ、新しい国際化社会が生まれ発展してきた。これを第三期の国際化社会と呼ぶことにする。
その特徴は、
1、生活空間で日常化する国際化
2、人々の生活意識の中で距離を失う海外文化 
3、多文化共存社会と呼ばれる地域社会の文化が生れる
以上を挙げることが出来る。


第三期の国際化社会での国際交流活動とは

第一期の国際化社会では、それ以前の先進国、つまり欧米社会文化の啓蒙活動として国際交流活動の流れを汲んだ活動、例えば米、英、仏、独、伊なのの欧米先進文化の紹介を通じて、ある意味の啓蒙活動としての国際交流運動が存続していた。そのため、国際交流では、それらの文化紹介活動となる。

第二期の国際化社会では、日本の国際交流運動に多様性が生じる。つまり、主流である欧米文化先進国との国際交流活動のみでなく、アジア、中南米、アフリカとの政治的視点でなく文化的視点からの交流活動が盛んに行われる。欧米中心の国際交流運動が相対的に小さくなる時代を意味する。

第三期の国際化社会の現象が今進行している。それは、日常生活の中で、国際交流が生み出されるという現象である。
その代表的な例として、町の喫茶店で自然発生的に生れるイングリシュカフェを挙げたい。
勿論、今まで、英語喫茶はあった。それは交流と言うよりも英会話の機会を喫茶店がつくり、その英会話チャンスを喫茶店の付加価値にしていた時代、70年代後半の次回の英語喫茶の姿である。しかし、現在では、英会話の勉強という教育的側面よりも、英語でシャベラナイト的な英語は交流のツールとなり、カフェの目的は日常的で人的な交流を目指している。

その点が、大きな違いを生み出すことは間違いないだろう。


2010年8月20日金曜日

書くという行為

私は、誰に伝えたくてブログを書いているのだろう。

いつも、書く行為の背景に存在している私の欲望、伝えたいという私の気持ちの対象が、抽象的な人物ではないように思える。

文章を書くごとに、誰かに、日常生活の中で出会った、そして関心を持った、または心に残った誰かに、書いているように思える。

私にとって書くという行為は、自分の心情を伝えたいという行為である。

伝えたいと思う人がいて、私は書くのだ。

それは、一方的な行為であり、ある意味で、片思いのようなものだ。


Aさんへ

今日も異常なくらい暑い。

友人たちのホームページをながめる。

私は今まで自分のホームページを作りかけては失敗してきた。
その理由は、勿論、私が怠慢であることに過ぎないのだが、
しかし、いつもそれなりの言い訳が用意されている。

「何のために書くのか」
「何のために自分を公開するのか」
「公開しなければならないものは何か」
と、その理由は続く。

人は、はたして抽象的な誰かに書いているのだろうか。
人は、自己の考え方を匿名の誰かに述べることが出来るのか。

そうした疑問というより、その行為への情念が湧かない。

私は、つねに、誰かへ話しかけたいと思う。
それは、具体的な誰かだと思う。

今日も異常に暑い。


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2010年8月12日木曜日

第一期吉田民人社会学理論 社会・生活空間の構造-機能分析

三石博行


第Ⅰ期吉田民人社会学理論とは

吉田民人は、『情報と自己組織性の理論』(東京大学出版会 1990年7月)のはしがきで1950年代から60年代の自らの研究生活を「第Ⅰ期」と分類している。吉田民人30代の研究、つまり1967年に吉田が人間社会科学としての「情報科学の構想」を提案し展開していくのであるが、自己組織性情報科学の前段階の吉田民人の人間社会学の問題関心によって構成されている研究を第Ⅰ期の吉田民人の人間社会学研究課題と呼ぶことにする。

これらの研究課題は、その後吉田民人の弟子達の協力を得て編纂された『情報と自己組織性の理論』と『主体性と所有構造の理論』」(東京大学出版会 1991年12月初版)に収録されている論文に代表されている。

この第Ⅰ期の研究課題の一つに、主体的実存者としての人間とその人間が構築し続ける社会に関する理論的解明を挙げることができる。

この研究課題を進めるために、まず社会構造機能分析に関する先行研究を調査し、それらの理論的課題を検討した論考が、以下の論文としてまとめられたと考えられる。

1、「A・G・I・L修正理論(その1)」
2、「動機の社会学的理論」
3、「力関係とモラール -組織動因の問題-」
4、「集団系のモデル構成 -機能的系理論の骨子 」
5、「社会関係の構造-機能分析 -伝統的テーマの再検討 」
6、「機能集団の一般理論 -その基本的骨子-」
7、「行動科学における〈機能)関連のモデル」

吉田民人にとって、アメリカ行動主義とその社会学的展開であるパーソンズ社会学は、社会学先行研究の中でも乗り越えなければならない大きな壁(課題)であった。

それらの理論的考察を経て、主体的実存者としての人間とその人間が構築し続ける社会に関する理論的解明を課題にした。「A・G・I・L修正理論(その1)」に中で、「パーソンズ教授への提言」いう副タイトルを付ているように、吉田は新しい構造機能分析を提案するにあったって、当時、日本の社会学研究に絶大な影響を与えたアメリカ機能主義・パーソンズとの対決を避けて通ることは出来なかったのであろう。
そして、吉田民人がたどり着いた機能-構造分析は、当時、日本には紹介もされなかった(ようやくヨーロッパで生れようとしていた)ポスト構造主義の展開に近い理論であった。

その新しい吉田社会学の理論が
8、「生活空間の構造-機能分析 -人間的生の行動学的理論- 」 
にまとめられることになる。

記号のもつ通時性の時間変化、それに影響されるシステムの自己組織性、確かに、吉田民人はポスト構造主義と同じ方向で、記号=情報概念を展開したが、ポスト構造主義のアンチ歴史主義でなく、むしろ汎進化論を持ち込むことで、記号の進化形態としての社会情報を問題にしていった。

つまり、言語や社会情報は情報概念の特殊形態として理解できる情報科学の概念の検討を始めることになる。その意味で、第Ⅰ期は、第Ⅱ期の吉田情報科学論の前哨段階でもあったといえる。

さらに、この第Ⅰ期の主体性に関する考察は、若い吉田民人の世代の呪縛であるマルクス主義からの脱却を試み展開であったともいえる。この世代、つまり1950年代から60年代のインテリにとってマルクス主義とソビエト社会主義や中華人民共和国は、特に人間社会学を研究する人々にとって大きな壁であったに違いない。

フランスで状況派が生れるように、日本で主体論が形成されていくのであった。その大きな流れの中に、つまり当時の社会運動や思想運動に影響受けながら、独自の人間社会学の地平を構築する闘いが、「生活空間の構造-機能分析 -人間的生の行動学的理論- 」の論文から始まる『主体性と所有構造の理論』」に収録されているのは偶然ではない。



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2010年8月4日水曜日

吉田民人社会学理論第一期前半の研究に関する検討

三石博行


第1回吉田ゼミナールの開催

2010年7月31日から8月3日の間、長岡科学技術大学工学部 経営情報系社会経済システム講座 綿引研究室で開催。

テーマは吉田民人著『情報と自己組織性の理論』 東京大学出版会 の第1章から第2章まで、「吉田民人社会学理論の第一期前半部分に関する検討」


吉田民人社会学理論の第一期とは

30代前半の吉田民人の研究資料
1、「生活空間の構造-機能分析 -人間的生の行動学的理論- 」 
2、「動機の社会学的理論」
3、「社会関係の構造-機能分析 -伝統的テーマの再検討 」
4、「A・G・I・L修正理論(その1)」
5、「集団系のモデル構成 -機能的系理論の骨子 」 
6、「行動科学における〈機能)関連のモデル」
7、「力関係とモラール -組織動因の問題-」
8、「機能集団の一般理論 -その基本的骨子-」

吉田民人論文リスト
http://sites.google.com/site/mitsuishihiroyukihomupeji/yoshida-min-jin-ronbun-risuto


以上

 
吉田民人の社会学理論第一期とは、30代前半の吉田民人が、これまでの(1960年代前期までの)社会学理論、特に行動主義から展開されてきた行為論を土台にしたパーソンズによって集約されるアメリカ社会学の潮流とドイツ(ヨーロッパ)社会学の流れ、関係論による機能-構造主義的展開を統一的に解釈し直し、吉田民人独自のミクロ社会学理論、つまり動態的機能-構造分析モデルを提案し、行為、関係、集団の伝統的な社か学の課題を一貫した理論的地平で解釈展開した時期であるといえる。

この理論的作業は、その後の吉田民人社会学、つまり自己組織系の情報科学としての社会学理論の黎明期をなし、また、その理論の前哨段階を構築したといえるだろう。


今回、第1回吉田ゼミナールでは、資料2と3に関して、会読を行い、それらの内容を理解、検討解釈した。つまり、「行為論」と「関係論」に関する学習会となった。


第1回学習会での議論内容

学習の方法

1、困難な文脈の理解の方法として、具体的な事例をもって説明する。特に、自分たちの研究活動のフィールドでの課題に当てはめ、吉田民人の述べている記述の内容を点検し、検証した。

2、吉田民人独自の用語、「吉田民人用語」の定義を明確にし、その定義に即して、吉田民人が展開する論理を検証した。まるで物理学のテキストを読むように作業を進めた。

3、理解不可能な文章に関しては、検討課題として置いた。つまり限られた研究時間の都合上、その解明に全力を注ぐことをやめた。


吉田民人社会学理論の第一期前半についての簡単な要約

1、吉田民人の社会学理論第一期は、その後の吉田民人社会学の理論である。つまり、この理論作業は、その後の吉田社会学の自己組織系の情報科学の前哨段階に当たるものである。

2、30代前半の若き吉田民人は、パーソンズの系(システム)理論の非ダイナミズムを乗り越えるために、独自の方法で、動態的構造-機能モデルを模索していた。その思考過程が、吉田理論第一期の理論作業の目的である。

3、これらの自己組織系情報科学(これまでの資源論的偏向性を乗り越え、情報概念をもつ社会学の構築を試みた吉田理論第二期の吉田民人独自の社会学の地平の構築をこの吉田理論第一期の分析から理解することが出来るだろう。

以上、簡単に、第1回吉田ゼミナールの私の感想を述べておく。

2010年7月15日木曜日

政治とは(4) 政治理論

三石博行


政治理論のない政策は、その政策を説明することが出来ない。

多分に、政策の説明が単純な集団や時代には、政治理論は、「誰々の利益のため」という簡単な文言で済んだかもしれない。

しかし、社会が複雑になり、国際化し、科学技術が進歩し、色々な階層が政治参加している時代には、これまあった大らかな村に政治理論は通用しなくなる。

専門的な知識を背景にして、政策を導き出さないとならない。

科学技術文明社会では、高度に専門化した分野によっての社会は機能する。

それらの専門的な社会分業の領域を理解し、横断的に融合化し、合理的で現実的な政策を検討実現できる職人としての政治家が必要となる。

政治理論とは、社会経済の発展に必要な現実的な政策を導くための知性と技能である。


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政治とは(3) 政治理念

三石博行


政治理念なき政治的策略は、私利私欲のために国民や国家の利益を食いつぶす政治行動を生み出す。

選挙で政策を語れない者は立候補すべきではない。

選挙で政治的職業意識とそのスキルを国民に提示できない者を候補者に選ぶべきではない。

国家や国民の利益でなく、自らの政治集団の利益、政治権力を確立が目的化された時、それらの集団はただ選挙に勝つに手段を選ばない行為をするだろう。

政治理念を持たない政党や政治家は、国民を犠牲にする政治行動と私利私欲の行動の峻別が不可なのだ。

彼らの謂う政治的行為はつねに、それが見事な政治的策略であったと自負しても、結局は国家と国民の財産を食いつぶす結果しか導かないだろう。

国民は、だから、よく彼らの態度や言動を観ておくべきである。

それにしても、あまりにも政治家の理念を理解する情報がない。

何故なら、彼らは「私は何をします」としか語らないからである。
何故なら、社会は彼らに「今まで何をしてきたのか」と問いかけないからである。

理念とは、未来への希望や夢を語ることではない。
理念とは、今まで実践してきた政治的言動を示すことである。

もし、社会が政治理念と点検する機能を持たないなら、この国は滅びるだろう。
もし、社会が政治理念を正しく認識する機能を持たないなら、能力ある人材に政治劇場の舞台に登用することは出来ないだろう。

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2010年7月14日水曜日

人間教育者、岩松弘先生

三石博行


教育者 私には、つねにこの言葉を考えさせ続けた人物がいる。

山川中学校の時の恩師、故岩松弘先生である。

私の生き方に大きな影響を与えた人物である。

先生のことを語らなければと思う。

それは、同時に、自分の教育について語ることになる。

それは、同時に、人間教育のあり方を語ることになる。

だから、岩松先生のことを語るには、もう少し、時間が掛かりそうだ。


岩松弘著 『貝がらの歌』高城書房 2002年1月 235p ISBN 9784887770218

政治とは(2) 大衆操作

三石博行


大衆と共にという言葉には落とし穴がある。

政治家は、大衆動員の多様な手法を理解しておかなければならない。

極論すると、大衆民主主義社会では、大衆操作かそれとも大衆運動かの二つの大衆動員がある。

大衆操作とは、大衆をとことんごまかすことに徹しなければならない。

大衆操作の最も便利な道具はマスコミである。
マスコミが騒げば、社会は動く。つまり、人々はその意見に同調し始める。

政治家はそのことの恐ろしさも便利さも知っている。

今日、ほとんどの大衆操作は、このマスコミの力で行われている。
情報化社会では、マスコミという巨大な権力が、官僚機構の次に、現れてきた。

これが、現代の大衆民主主義社会の一つの姿である。

しかし、いつまで、大衆をごまかし続けることが出来るだろうか。

いつまでも、ごまかせると信じる人々は、いつか大火傷をするだろう。


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政治とは(1) 策略

三石博行


策略としての政治

策略として理解されている政治の意味を見事に示した例が、今回の選挙であった。

選挙戦に入る前に、管直人氏は見事に自民党の「消費税を上げなければ健全な財政を確保できない」という正論の策略に乗った。
その結果、みごとに選挙前の国民の評価を落とした。

管直人氏の言動にさぞかし小沢一郎氏は苛立ったことだろう。そして、その挑発にまんまとはまった管直人氏の子供じみた対応に小沢氏はなす術もない自分にも残念がったことだろう。

何しろ小沢一郎氏は選挙前に、民主党を勝利させようと、自ら身を引いたのだから。

しかし、これは私の憶測である。

策略を政治とすれば、民主党の若手や市民運動上がりの政治家など、自民党のたたき上げ、百戦錬磨の政治家の足元にも及ばないだろう

真面目すぎた管直人氏、確かに国債漬けの日本のこれからを考えるなら、彼の言い分は正しいのだ。

むしろ、この問題を避けて、選挙に臨みながら、選挙後に消費税値上げを既成事実のように語る自民党政治家などは、実に、見事に国民感情を逆なですることなく、目的を果たそうとしているのだから、卑怯なやり方といえるだろう。

しかし、その卑怯さは、策略という視点からは見事というしかない。

その意味で、管直人氏は、自民党政治家の爪の垢を煎じて飲まなければ、政治家にはなれないと、民主党、特に自民党を良く知る、自民党を脱党した政治家は思っただろう。

まさか自分たちが自民党を支持したはずはないのだが、結果的には自民党の勝利を導いた選挙結果に国民も驚いたかもしれない。

そして、その策略に乗った自分たちよりも、もっと手厳しくその策略を見ぬけなかった民主党党首に対して、不平をこぼし、「策略に乗るようでは、大した政治家ではない」と国民も思っているだろう。

今回の選挙は、純粋な民主党を代表する管直人氏が、強かな自民党を代表する谷垣禎一氏に一本取られた。

それは自民党が遥かに民主党よりも「策略としての政治」の実力をもつことを我々に教えてくれた。


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NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評

三石博行


豊臣秀吉の朝鮮侵略、東アジア国際戦争

司会 NHK 司会者  三宅民夫 
レポーター 女優  大桃美代子
ゲスト 
九州大学大学院教授    中野等
ソガン(西江)大学校教授 チョン・ドゥフイ


1、戦国時代と東アジア国際戦争の勃発

 日本では、1392年の南北朝の合体から1467年の応仁の乱から戦国時代が始まる。朝鮮半島では、1392年に高麗が滅亡し朝鮮が建国した。中国では1368年元が滅び、明が建国した。その明にたいして朝鮮は「朝貢(ちょうこう)関係 」を結ぶ。事実上、朝鮮は明の属国となっていた。

 1590年、豊臣秀吉が天下を統一し、長い戦乱の続いた戦国時代を終えた。そしてその2年後の1892年から1598年に豊臣秀吉は文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役、朝鮮征伐(朝鮮侵略)をおこなう。この文禄・慶長の役を朝鮮では壬辰倭乱(イムジンウェラン)と呼んでいる。

 このイムジンウェラン(文禄・慶長の役)は、日本(豊臣秀吉政権)と明および朝鮮との間で行われた国際戦争である。秀吉は小田原城の北条氏を降伏させ天下統一を成し遂げた1590年から2年後の1592年から1593年に朝鮮半島に兵を送った。これを文禄の役と呼んでいる。また、朝鮮半島との戦争を一時休戦し、再び1597年から1598年まで朝鮮へ出兵し戦争を行った。これを慶長の役と呼んでいる。一般に、この二つの戦争、朝鮮侵略を文禄・慶長の役と呼ぶ。豊臣秀吉が主導する日本の軍と李氏朝鮮王朝との戦いは明をも巻き込み東アジア全体に広がる国際戦争となった。


2、秀吉の朝鮮侵略の爪あと 今でも残るイムジュンウェランの遺跡

 1592年に肥前名護屋城(なごやじょう 現在の佐賀県唐津市にあった城で、豊臣秀吉が文禄・慶長の役に際して築城したもの)から15万人以上の兵士がプサン(釜山)に上陸し朝鮮半島に渡る。この戦いは日本と朝鮮半島の歴史に大きな傷跡を残すことになる。 

 1592年4月13日、秀吉の軍隊1万2千人がプサン城を襲う。僅か(わずか)半日の戦いでプサン城は陥落(かんらく)した。朝鮮側の死者はおよそ3千人と伝えられている。その後、秀吉はこの地域の行政の中心である東菜(トンネ)に兵を移動する。数千名が命を落としたといわれるトンネ城の戦いの絵巻物、イムジンウェランの遺跡や記録がプサン博物館に残っている。また、トンネ(東菜)一帯で地下鉄の工事が行われたとき、トンネ城の戦いの遺跡が発掘された。日本側の圧倒ぶりを示すかのように、発掘されたのはほとんどが敗れた朝鮮人の刀や甲冑(かっちゅう)であった。

 また、多くの人骨が発掘され、女性や子供までが戦争の犠牲になっていた。秀吉軍は残虐な行為をすることで倭軍の恐ろしさをアピールしたのではないかと言われている。また、トンネの街中にこの戦い(トンネ城の戦い)を弔う(とむらう)墓所(ぼしょ)が町のいたるところにある。つまり今でも、トンネ城の戦い、イムジンウェランはプサンの人々に日常的に語り継がれているのである。


3、秀吉の野望の背景と敗北した朝鮮の原因

 秀吉は唐入りの野望を語る。つまり、天皇を北京に移し、中国皇帝にする野望を持っていた。

 戦争が始まる一年前、1591年、九州を中心とする西国の大名に号令を掛け、肥前名護屋に城(名護屋城 17万平方メートル以上で大阪城に次ぐ規模を誇る)を築城させた。築城は5ヶ月ほどの猛スピードで行われた。城の周辺には諸大名の陣屋(じんや)も建てられていた。そして、町人なども集まり、人口20万人ほどの城下町が突然として現れた。

 秀吉はこの名護屋城を軍事拠点として彼の軍事目標を「唐入り」と称した。つまり、秀吉は中国、明の征服を目指していた。そのためには朝鮮半島を通る必要があり、秀吉の命を受けて対馬藩主は朝鮮王朝に明への軍隊を送るための道を開けること、仮道入明(かとにゅうみん)を要求した。しかし、朝鮮の国王から拒否される。そこで秀吉は朝鮮に兵を送ることを決断する。まず、朝鮮を征服し、そこを拠点にして明の征服を試みた。

 この朝鮮への進軍の理由は三つあったといわれている。一つ目は、君主織田信長の遺志を継いでという説、二つ目は戦国時代に武士や足軽の人数が過剰になり将来の内乱や反乱の要因になることを避けるためという説、三つ目は国内の統一戦争の延長として朝鮮半島を征服しにいったという説である。

 この侵略戦争の背景には、豊臣政権自体の問題があった。豊臣政権は、豊臣家臣の家禄(かろく)を増やすために新しい領土を広げなければならなかった課題を抱えていた。戦国時代の大名は、常に戦争をし、領地を拡大し、手柄のあった家臣(かしん)には給与として領地を与える知行(ちぎょう)という制度があった。そのため、つねに領地拡大のための戦争が必要であった。日本の国内を統一し家臣に領土を与える知行では不十分となってくる。そこで、戦争体制を外に向けることで、明を征服し、アジアを支配し、家臣たちに多くの知行地を与える(広い領地をあたえる)ことを考えた。

 それだけでなく、当時ヨーロッパの大航海時代の影響もあった。この大航海時代に影響され武器が変化した。つまり今までの武器に代わって鉄砲が用いられた。日本は戦国時代に鉄砲を自ら生産し、またそれを使った戦法を活用した。

 もう一つの理由は、世界観の変化にある。大航海時代の影響を受け、これまであった中国、インドと日本(三国)の世界観、中華世界観から、それ以外の世界が存在するという考え方が入ってくる。つまり、欧州勢力の出現によって中国の地位が相対的に弱体化した。

 秀吉は中国皇帝の出生伝説に習い自らを日輪の子(太陽の子)と称し、つまりアジア、大陸の覇者となることを宣言し、例えば高山国と呼ばれていた当時の台湾に日本への従属を求める書簡を送るなどして、周辺国家に従属を要求した。

 名護屋城から対馬が見える。その朝鮮侵略の拠点となる対馬から朝鮮半島までは僅か(わずか)50kmである。多くの日本兵が対馬を経由してプサンに渡った。プサンでの戦いから3週間後、一気に北上し朝鮮王朝の都、現在のソウルになる、ハンソン(漢城)を征服する。

 日本の勢力がハンソンに迫ると国王は都から脱出した。ハンソンの民衆は取り残され、絶望した。そして朝鮮は明に援軍を求めたが、明はわずか一ヶ月で日本が都まで攻め入るということを信じず、動かなかった。

 当時の朝鮮は建国から200年、平和が続いたため、官僚の腐敗も進み、軍事力は弱体化し日本への防衛も後手に回った。そして、朝鮮は戦国時代を経て日本が変化していった実態を把握していなかった。つまり戦国時代の日本は混沌とし、そのエネルギーが一旦朝鮮に向かうとどうなるか予想できなかった。

 1402年、朝鮮の支配者たちの作った地図からは、当時の朝鮮では、日本は殆ど無視、小さな国として理解されていた。つまり、中国を中心とする中華圏にも属さない国として扱っていた。つまり国として観ていなかった。

 秀吉の地図から、周辺の国王も戦国代大名のように扱っていた。例えば、対馬藩を通じて朝鮮王朝に対して、日本の朝廷に参内(さんだい 宮中に参上(さんじょう)すること)つまり日本の天皇に朝鮮の国王が訪問し頭を下げることを要求している。つまり、朝鮮国王に対して、国内の戦国大名に対するのと同じような要求を突きつけたのである。

 この戦争の影響は大きい。当時の儒教思想に土台をおく中国的世界秩序の崩壊が生じる。朝鮮半島は中国と許可なく外国との交渉はできなかったが、その後は、朝鮮は独自の外交が可能になった。それの例が朝鮮通信使であった。


4、朝鮮の反撃と明の参戦 秀吉の朝鮮侵略戦争の失敗

 ハンソンから日本勢はピョウンヤン(平壌)に侵攻する。しかし一方、朝鮮半島南部で反撃が始まる。1592年7月のオクポ(玉浦)沖の海戦で朝鮮水軍が藤堂高虎らの日本水軍を破る。

 韓国中部の町アサン(牙山)にオクポ(玉浦)沖の海戦で日本水軍を破った将軍 イ・スンシン(李舜臣 1545-98)の肖像がある。彼は、当時一地方の将軍であった。彼は亀甲船を作り、新しい戦法を考え、戦いを勝利に導いた。

 開戦から3ヵ月後、朝鮮と日本の戦局が逆転する戦いが、1592年7月7日のハンザンド(閉山島)沖での海戦、ハンザンド(閉山島)海戦が行われた。朝鮮水軍は侵攻する日本水軍を待ち伏せて、日本水軍を包囲し砲撃した。この戦いで日本水軍は60隻の軍艦を失い、壊滅的な打撃を受けて、制海権を失うことになる。

 陸でも地方の勢力によって義兵闘争の反撃が始まる。クァク・ゼウ(郭再祐)は私財を投げ売って民兵を組織化した。多くの犠牲者を出しながらそれでも抵抗する戦いは全国に広がる。イ・スンシンとクァク・ゼウの戦いで、秀吉の軍隊が朝鮮半島随一の穀倉地帯である半島南部のチョルラド(全羅道)に進軍することを防いだ。現地で食料を調達していた日本勢は、この地域に入れなかったので徐々に食料不足になっていった。

 明が参戦、日本勢が占拠していたピョンヤン城に攻撃をかける。明は4万の大軍を送り日本勢は不利に立つ。北部の朝鮮勢も参戦する。日本勢は敗走する。明は、抗倭援朝(つまり朝鮮を支援し日本勢と戦う)ために派兵した。しかし、本当の明の目的は、日本勢の明まで侵入を防ぐことであった。つまり明の参戦は自衛のための戦いであったと云える。

 イ・スンシンの水軍、クァク・ゼウの義兵闘争と明の参戦で日本勢は敗北して行き、秀吉の唐入りの野望は砕かれる。

 朝鮮全土に勢力を拡大した日本は朝鮮人民の反発を受けた。そして、明は自分たちの利益を守るために参戦した。換言すれば、朝鮮半島は中国にとって常に重要な戦略的な位置にあった。そして、朝鮮半島の国際戦略上の重要な位置をめぐって、中国と日本は再び日清戦争でも衝突するのである。つまり、朝鮮はつねに大国の狭間にあって、それら国が引き起こす覇権をめぐる戦争に巻き込まれる運命にあった。

 日本に侵略された朝鮮を救うために戦ったイ・スンシン(李舜臣)は、今でも救国の英雄と云われ、韓国の人々の敬愛を集めている。このイ・スンシン(李舜臣)を描いた本があるが、それを北朝鮮拉致被害者の蓮池薫さんが翻訳している。彼は、イ・スンシンについて、非常に人間らしい人であり、常に大国に蹂躙された国を守った英雄のシンポルとして理解している。北朝鮮でもイ・スンシンは英雄であるが、韓国のように評価されていないと彼は語っている。


5、慶長の役(二回目の朝鮮侵略戦争)の勃発と耳塚

 1593年5月、名護屋城に明の使節が訪れる。明は平壌での戦いで勝利を得た後、再びハンソンの北部で戦い、こんどは敗北した。明は日本との講和を求めていた。ピョンヤンを奪還(だっかん)した以上、日本が明本国まで侵入する可能性は低いと考え、また明は日本と最後まで戦い戦力を消耗するより、日本と講和を結び、朝鮮を分割する方がいいと考えていた。

 講和に際し、秀吉は朝鮮の王子を人質として出すことなどの7つの条件を出した。秀吉は明の支配をあきらめ、朝鮮の南四道の支配を考えた。そして全国の大名に朝鮮半島に築城を命じる。韓国ではこの城を倭城(わじょう)とよんでいる。代表的なものとして加藤清正の出城(でじろ)が有名である。

 明との講和交渉の最中でも、日本勢は倭城に駐留し続ける。交渉の場は日本から北京に移ったが、秀吉も明の皇帝万暦帝(まんれきてい)も相手が降伏して交渉を求めたという立場に立っていたので、交渉は進展しなかった。

 膠着(こうちゃく)のまま3年を経過した1596年9月、明から使者が名護屋城に訪れた。明の使者は皇帝の勅令(ちょくれい)を携(たずさ)えていた。その皇帝の勅令(ちょくれい)には、秀吉の出した要求にはまったく答えず、秀吉を皇帝より格下の日本王に奉じる(ほうじる、君主が家臣に何かを与えること)と記されていた。また明は朝鮮に築いた城の取り壊しと兵の撤退を要求した。

 そのため秀吉は激怒し、朝鮮に再び大軍を送ることを決意し、1597年、14万人の兵で朝鮮半島を再攻撃した。この二回目の朝鮮侵略戦争を慶長の役と呼んでいる。

 この慶長の役の目的は、「唐入り」ではなく朝鮮の南四道の支配にあった。そのため、仮道入明(かとにゅうみん)と呼ばれる朝鮮半島を明への道と位置づけていた文禄の役とは異なり、秀吉軍は朝鮮を徹底的に荒廃に導き、人民を殺率する戦術を取った。朝鮮半島での日本兵の行動は非常に残虐なものとなった。それを代表するものが「鼻切(はなきり)」であった。京都東山の方広寺(ほうこじ)には朝鮮征伐で戦利品として持ち帰った2万人分の耳や鼻が埋葬されている。


6、イムジンウェランの影響、東アジアの政治体制の変遷

 イ・スンシン(李舜臣)は慶長の役、二回目の朝鮮侵略の時も果敢に戦った。1597年9月、イ・スンシンはチョルラド(全羅道)の潮の流れが速いミョンリャン(鳴梁)で日本海軍と戦う。ミョンリャン海戦でイ・スンシンは勝利した。それを支えたのはこぎ手の役割であった。

 こぎ手は海の民や日本の兵で朝鮮に投降した兵、降倭(こうわ)がいた。長期化する戦争に疑問を持った日本の兵士が朝鮮に投降し降倭(こうわ)となり朝鮮海軍のこぎ手になった。

 ウルサン城の攻防戦、退路を立たれた日本勢の凄惨(せいさん)で悲惨な戦いが続く。

 この戦いについて、秀吉は明が使節を送ってたきので、勝ち戦と思っており、領土と人質を求めることを条件に入れた勝ち戦のとしての講和を結ぼうとした。つまり、まったく秀吉は状況を理解していなかったのである。

 慶長の役は、南四道を支配するための戦いであったので、地域の指導者や民衆を虐殺した。そのため、耳きり鼻切を行った。それが朝鮮民衆の心の中に怨恨が入り込むことになる。このイムジンウェランの記憶は今日まで韓国、朝鮮民衆の心に残る。

 その後、秀吉は死去する。日本勢は秀吉の死を隠して撤退を始めた。朝鮮軍と明軍は日本軍を追撃した。イ・スンシンはその戦いで戦死する。膨大な戦費と使ったことで豊臣政権は崩壊、戦場となった朝鮮は荒廃する。また多くの朝鮮人、特に高度な知識を持った人が拉致(強制的に日本に連れてこられる)された。これらの人々(被慮人 ひりょにん)の中には、儒学者などもいた。多くの被慮人は肉体労働をして日本で一生を終えた。

 江戸時代になって、朝鮮王朝は日本(徳川幕府)と講和を結び、被慮人を連れ戻そうとして朝鮮通信使が派遣する。しかし、朝鮮王国はそれらの被慮人を帰国させはしたものの、彼らの面倒を見ることはなかった。イムジンウェランは5万から20万と云われる朝鮮の人々の人生を翻弄(ほんろう おもいのままもてあそぶこと)し、被慮人として異国の地で生涯を終える運命を与えた。

 イムジンウェランで戦いに参加した明は国力を落とし、北方の満州族の後金の侵略を受け、満州族の後金が清王朝となり、明は1644年滅亡した。

 また、日本では豊臣政権が崩壊、朝鮮では朝鮮王国が弱体し中国では明が崩壊し清が成立した。東アジア国際戦争に発展したイムジンウェランは東アジア全体の政治体制を変えることになったのであった。この戦いは、結局は莫大な被害を及ぼした勝者なき戦いであったと云われている。

 つまり、イムジンウェランは日本の文化にも大きな影響を与えた。朝鮮半島から被慮人を連れてきたことで、新しい文化や技術が伝わった。例えば、有田焼や薩摩焼を含め、朝鮮半島から磁器の技術が伝わった。慣れない土地に連れてこられた朝鮮の陶工たちは、有田に磁器の焼きものできる土をみつけ、そして現代にまで続く有田焼の伝統陶芸を作ってきたのである。


参考資料

1、 南北朝とは、 1331年から1392年まで、天皇家が室町幕府・足利尊氏に支援された光明天皇北朝と鎌倉幕府の支援する光厳天皇(こうげんてんのう)の南朝(現在の京都以南にあった大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)に分裂した時代を意味する。

2、 朝貢(ちょうこう)とは、前近代の中国を中心とした貿易の形態で、中国の皇帝に対して周辺国の君主が進貢(しんこう 貢物を捧げること)し、これを皇帝は入貢し(にゅうこう 貢物を受け取ること)、その進貢(しんこう)に対して中国の皇帝側が恩賜(おんし)を与える形式を持って成立していた。(Wikipedea http://ja.wikipedia.org/wik )

3、 文禄・慶長の役 ( Wikipedea 資料参考 )

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ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」

5. 日韓関係

5-1、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6656.html

5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る  東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html

5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html

5-4、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html

5-5、東アジア共同体構想の展開を進める日韓関係の強化
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_12.html



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NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る  東シナ海の光と影」のテキスト批評

三石博行


資料
NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」(6)「倭寇(わこう)の実像を探る。東シナ海の光と影」の映像 2009年に放映された資料   

司会    三宅民夫 
レポーター ユンソナ
ゲスト 村井章介(しょうすけ) 東京大学教授
キム・ムンギョン スンシル(宗実)大学名誉教授

A 資料の要約
11世紀から14世紀の東アジアで盛んになる民間人の交易活動


新安沖の沈没船遺跡から見えて来た東アジアの交易活動

842年に遣唐使が停止して以来、日本は、明と国交を回復するまで約500年にわたって中国と国交を開いていなかった。その間、鎌倉時代に2度にわたって、蒙古(元)の襲来を受けた。一回目は1274年、二回目は1281年である。

日本と中国の間に正式な国交のない時代、そして二回に及ぶ蒙古襲来の時代に、日本、朝鮮と中国との間で民間人による盛んな貿易が行われていたことが、近年、解って来た。

韓国中西部に位置するテアン半島、そこの遺跡(沈没船)の発掘で、海底の泥の中から12世紀から13世紀の沈没船の遺物(青磁や白磁)が発掘される。韓国の国立海洋文化研究所のムン・ファンソク氏を中心として発掘が進んでいる。研究所のチームによって発掘された磁器は11世紀から17世紀のもので、朝鮮半島や宋、元、清の時代の中国で作られたものであった。そのことから、この地域が中国と朝鮮の貿易船の経由ルートであると判明した。

韓国南西部のモクポにある国立海洋文化財研究所に、新安沖で8年掛けて発掘した交易船の遺物が保管されている。この交易船は東シナ海で貿易を営んでいた商人たちが使っていたものである。全長34m幅8mを超える巨大な交易船は、14世紀の元の時代に中国で製造されたもので、遠洋航海に最適なV字型の船底をしていた。この船には磁器が2万3千点積まれていた。その中に素晴らしい磁器や青銅製品(青銅獅子形香炉)があった。

そしてまた、これらの荷物は慶元 (けいげん)現在の中国の寧波(ねんぱう、ねいは)から積まれたものであることが分かった。

さらに驚くことに、その中には、日本、京都の東福寺への荷物があった。1323年の木簡(もっかん、古代社会で使われていたもので、薄い木の板に文字が書かれている札)から船が出港した年も判明した。

東福寺の開山忌(かいざんき 寺を開いた僧侶たちの供養)の時にだけ開示される什宝(じゅうほう 家の宝として秘蔵されている器物 )の「八卦の香炉」(はっけのこうろ)と呼ばれる青磁がある。この八卦の香炉は中国元の時代に作られたもので、新安沖(しんあんおき)で引き上げられた遺跡とそのデザインはよく似ている。

この事実から、1319年、沈没船が就航した四年前、東福寺は火災に遭い、その再建費用を賄(まかな)う為(ため)に、中国で品物を仕入れて、日本で売ろうとしていたということが分かった。

また、当時日本人しか履かない下駄や日本人の遊び道具であった将棋の駒が、この沈没船から発見されている。つまり、日本人がこの船に乗っていて、日本に荷物を運んでいたことが判明した。

さらに、28トンもの中国の銅銭が積まれており、当時の日本では、これらの中国の銅銭が貨幣として使われており、経済の根幹を支えていた。つまり、この難破船は中国から日本に荷物を運ぶために運行されていたのではないかと推察されている。


交易活動で活躍していた人々の姿

11世紀以降、中国(宋、元)、朝鮮半島(高麗)と日本では多様な航海航路が開発され、交易が盛んに行われていた。日本の玄関口になったのは博多であった。福岡市埋蔵文化財センターには、博多で発掘された中国から運ばれた遺物が多数保管されている。出土品の中には元のものもあり、二度の蒙古襲来があり、元との外交関係が中断したにもかかわらず、民間人の間で盛んに交易が行われていたことを物語っている。

また、博多でも韓国のテアン半島で発見された遺物と同じものが2千点以上発掘されている。つまり、東シナ海を股に掛けて中国(元)、朝鮮半島(高麗)、そして日本で交易を行っていた国際的な商人も居たことを示している。つまり、倭寇が出没するようになった以前の東シナ海は民間貿易の盛んに行われていた地域であった。

この時代、海のシルクロードと呼ばれる航海航路が日本、朝鮮半島、中国、さらにはインドシナ半島を経て、インドからアラビア半島まで続いていたと謂(い)われていた。この航路は陶磁器が主要な商品であったことからセラミックロードとも呼ばれていた。

村井章介教授の解釈によると、当時、11世紀から14世紀、日本は主に砂金、水銀や武具(鎧や刀)を輸出し、主に陶磁器と銭を輸入していた。中国との大規模な交易は中国と日本を直行便で結び、小規模な交易では朝鮮半島を経由して行われていたといわれている。

高麗と日本との交易航路は、都、ケギョン(開京)に近い港から、朝鮮半島の西海岸を南に下り、朝鮮半島の南を回り、プサン(釜山)を出て、対馬を経て、九州に渡るルートが一般的だったと考えられている。

9世紀のはじめ朝鮮ではチャンボゴという有名な交易商人がいた。この時代活躍した交易商人は、もともと商売をしていた人でなく、平民や被差別民で新たに商人になった人々も居た。チャンボゴも被差別民階級の出身者であった。彼らは中国や日本と交易しながら莫大な富を蓄積し、中国に進出してきたイスラム商人たちとも交易をしていた。

日本では、当時使っていた船の様式が中国式で中国南部の木材を材料として使っていたので、船の所有者は中国人であったと解釈されている。船には日本人の乗組員がいた。交易でやってきた中国船に博多で雇われた日本人が乗り込んでいたと考えられる。


倭寇の起源とその正体

倭寇の出没によって疲弊する高麗

民間人による交易が盛んになる一方で、その影の部分とも言える倭寇(倭の国の盗賊という意味)が生れていく。倭寇の出現を示す最初の記録は「高麗史」の1223年の資料に倭寇が朝鮮半島の南部(金州)を襲い、船を200隻ほど焼き、女性を略奪したという記載がなされている。その後、倭寇は高麗を頻繁に襲撃し略奪を行っていた。

明を襲った倭寇の姿を中国人が書き残した倭寇図巻(わこうずかん)の資料から、倭寇は海賊として描かれていた。船で襲い、陸に上陸し、民家を襲い放火し、食料、財宝や婦女を略奪していることが描かれている。

九州北部や瀬戸内海からやって来た倭寇は、東シナ海を荒らしまわり、朝鮮半島を頻繁に襲った。時には数百隻の船団で高麗の沿岸部を襲撃した記録もある。倭寇に襲われた高麗の被害の例として、幾度も倭寇に襲われた韓国西海岸に位置する港町のチャンハンでは、海に面した小高い場所に城壁を築き、倭寇の侵略に備えていた。この城壁は倭寇の襲来が頻繁であった高麗末期に造られた。

当時(高麗末期)、高麗はすべての租税は、朝鮮半島の南から西海岸線を通って北の首都に運ばれていた。高麗政府は租税(米)を全国13箇所に集めて、それを北の首都ケジョンに船で運搬していたので、倭寇はその輸送路を狙って出没していた。頻繁な倭寇の略奪のために、沿岸部の農民たちは農地を放棄せざる得ない状態になっていた。山村部に農民が移住し、人々は流浪し、食料が不足し、飢餓が起こり、高麗政府は租税の収入を減らし、そのため高麗政府は疲弊して行った。


南北朝の戦乱と倭寇の出現

高麗の各地に爪あとを残した倭寇、彼らは九州の各地からやって来たと言われている。高麗を襲っていた倭寇の根拠地である長崎県対馬は韓国まで僅か50キロメートルの距離にある島である。九割が山地で、リアス式海岸に囲まれて、複雑に入り組んだ入り江をもつ対馬の地形は、海賊のアジトとしては絶好の場所であった。鎌倉時代、対馬は壱岐や松浦と共に倭寇の本拠地の一つであった。対馬では米の自給自足は不可能であり、食料の多くを島の外に依存していた。

倭寇の首領の子孫、早田(そうだ)さんの家には代々伝わる鎧冑(よろいかぶと)や日本刀が残されていた。倭寇は略奪行為のみをしていた海賊であったというだけでなく、水軍と貿易商人の面もあった。水崎(みずさき)遺跡から、倭寇が使っていた建物の跡が見つかり、その遺跡から数々の遺物が発掘され、高麗青磁や李朝の白磁等が大量に見つかった。

出土品の多くは14世紀から15世紀のものである。それらは非常に広いアジアの地域、例えばベトナム、タイなどの東南アジアで作られたもの、朝鮮半島で装身具として使われていた宝石、モンゴル帝国の文字の刻まれた銅銭(大元通宝)が発掘された。この膨大な遺物は、対馬の民がアジア全域と交易をしていたことの証である。またそのことから、彼らの活動範囲、活動力のすごさが理解できるのである。

対馬で最も大きな入り江、浅茅湾(あそうわん)は朝鮮半島を向いて開いている。この湾を出ると、すごい勢いで対馬海流が流れている。その流れを使って、倭寇たちは朝鮮半島、中国沿岸から東南アジアに向かった。

対馬の民たちはもともと交易を行っていたが、ある時期を経て倭寇としての活動が急激に増えた。高麗の資料から調べると、朝鮮半島を襲った倭寇は1350年から急激に増えたことが判明した。この時期の日本の歴史を振り返ってみる。1350年の日本は南北朝時代の真最中で、60年近い騒乱が続いており、日本が政治的軍事的に混乱した時代であった。南北朝の動乱で国が乱れた時代と倭寇が活発化する時期は一致する。特に九州では戦乱が多かった。

戦乱が起きることで、すぐに武力に訴える行為が安易に生じ、日本国内に武力紛争が頻発し、食料の供給ルートが絶たれ食料不足が起こり、庶民は生活の糧を失った。戦乱と食糧危機は常に密接な関係にある。対馬のように食料を外部に頼っていた人々は戦乱の結果、即食糧危機に襲われることになる。それらの人々が倭寇となり、目と鼻の先にある食料の倉庫、朝鮮半島に目を付けて襲うことになる。


境界人としての対馬の民、交易商人としての倭寇の姿

倭寇は略奪をしていた人々という側面だけでなく、交易商人や水軍の側面があった。このことから、対馬の人々を単純に倭寇、つまり倭(日本)の寇(盗賊)と意味する呼び方だけでなく、「境界人」と呼ぶことはできないかと村井教授は指摘する。つまり、対馬の人々は日本と朝鮮半島の狭間(はざま)に住んでいる。その狭間、その空間を生きる人々として様々な生活様式を持っていた。例えば魚を取って、それを両方の国に持っていって売るとか、品物のやり取り、交易をするなどの二つの国の境界領域の空間で生きていた。対馬の人々は朝鮮とも日本とも交易を行っていた。

しかし、ある条件で交易をしていた人々が、略奪に走ることも生じる。例えば、朝鮮半島に交易に行っていても十分な利益を得られない状態になる場合など、この境界人たちが通常の生活で生きることが出来なくなった場合に、彼らが倭寇化する場合が生じるとも言える。つまり、対馬の民が高麗と今までのような交易が出来なくなった場合に、彼らが倭寇に変身していったということが言える。

当時の高麗の国内事情は、北からモンゴル帝国の侵略を受け、政治的にその支配化にあった。また、モンゴルによる二度の日本出兵、元寇によって高麗は多くの出費をし、国は非常に疲弊していた。高麗は、沿岸の人々を内陸に移し、また島から村民を移し無人島化したこともあったが、積極的に有効な倭寇対策を打てなかった。


国際化した倭寇軍団と高麗の崩壊

倭寇は、次第に勢力を伸ばし、海賊集団として括(くく)れないほど大きな力を持つことになる。高麗史には500隻の大集団で朝鮮半島の西海岸を襲撃した倭寇の記録が残っている。彼らは1600頭の馬を連れていた騎馬軍団であった。彼らは沿岸部から内陸部深くまで侵入した。西海岸からおよそ100km内部の町ナンオン(南原)まで倭寇の侵入が続いた。そこで倭寇と高麗との最大の戦い、上陸後騎馬軍団に姿を変えた倭寇とそれと戦うために高麗政府から送られた将軍イ・ソンゲ率いる高麗軍の激戦があった。その跡が血の岩として残っている。その時の倭寇の将軍は若いモンゴルの兵士であったと思われる。

騎馬軍団を率いる倭寇とは、対馬などの海で活動する人々では組織不可能である。ここから済州島(チェジュド)でのモンゴル帝国支配の歴史が倭寇に与えた影響が浮かび上がる。高麗は100年間モンゴル帝国(元)の支配を受けていた。済州島(チェジュド)にはモンゴル帝国によって軍馬を育てる牧場があった。馬の面倒を見るために多くのモンゴル人が済州島(チェジュド)に移住していた。彼らは牧子(ぼっこ)とよばれ、モンゴル帝国が済州島(チェジュド)から撤退した後も島に残り、そこを拠点に高麗政府に抵抗していた。牧子(ぼっこ)は倭寇と連合して高麗政府と戦った可能性がある。

しかし、日本では元寇の記憶が生々しい時代に日本人とモンゴル人が連合できたのかと疑問が起こる。しかし、海の世界に生きる(移動する)人々は国境、民族は大きな格差ではない。つまり、対馬などの境界人にとっては、そうした元寇に関する平均的な日本人の持つ感覚はない。ある条件が整えれば、それらの境界人たちは違う立場の人々と容易に結びあうことができる。例えば高麗と敵対しているという相互の利益が合致するなら、その利益を求めて対馬の境界人は、済州島のモンゴル人と連合(結託)し高麗と戦うことが出来た。この対馬の民とモンゴル人牧子が倭寇として、朝鮮半島を略奪した可能性は十分あると思われる。

馬を巧みに操るモンゴル人と航海に長けた倭寇の連合軍と戦ったのがイ・ソンゲ将軍であった。激戦の末、イ・ソンゲは戦いに勝つ。そして、イ・ソンゲは倭寇対策を考え、弱体化した高麗を滅ぼし、新たな国・朝鮮を建国した。


倭寇と境界人(境界領域空間の人々)の世界

朝鮮半島の西南部の沿岸地域は潮の干満差が世界的にも大きく、その地形を日本から来た倭寇のみで自由に航行できたは思われない。つまり、それが可能だったのは、朝鮮半島沿岸部の人々、朝鮮半島の沿岸の漁民、つまり高麗人も倭寇に加わり協力していたのではないかと村井教授は指摘する。

しかし、それに対して、キム・ムンギョン スンシル(宗実)大学名誉教授は反論した。例えば、ナンオン(南原)まで侵入した騎馬軍団はモンゴル人でなく、九州の豪族などの兵力だと思われる。また、高麗人が倭寇に協力するとすれば、倭寇に捕らえられ協力させられていたと考えられる。そして、倭寇が内陸部まで侵略できたのは、朝鮮半島の情報を収拾していたためではないかと指摘した。

倭寇を考えるとき、現在の国家観で見ると間違う。つまり、現在の対馬の人は日本人で済州島(チェジュド)の人は韓国人という見方は、近代以降の国家観に基づいて言われることである。当時の生活の実態、言葉、身なり服装など、対馬人と済州島(チェジュド)人は、現代の日本や韓国と比較するなら、多くの共通の要素があったのではと思われる。

対馬人も済州島(チェジュド)人も、日本と高麗という二つの国にも所属さない境界人として存在していたのではないか。現在の我々が思うほどの違いはこの二つの島の人々には存在していなかったのではないだろうかと村井教授は指摘する。そして、境界領域の住人という共通要素で、異なる境界領域の人々が共同して海賊行為を行っていたのではないかという見方も可能である。

また、倭寇に対する現在の歴史解釈では韓国と日本ではかなり異なる。倭寇に襲われていた立場である韓国と倭寇であった側日本では歴史の捉え方が基本的に変わるのは当然である。
そして、大軍事集団となった倭寇によって朝鮮半島は変わっていった。倭寇による被害で高麗は滅びた。倭寇から国を守るために軍事勢力が生まれ、そこでイ・ソンゲは高麗を滅ぼし朝鮮王国を建国することになる。倭寇の影響を朝鮮半島は深刻に受けた。その理解、つまり倭寇として襲った立場と、倭寇によって襲われた立場では、倭寇に関する歴史の観かたが違うのではないかとキム・ムンギョン教授は述べた。


倭寇を生み、倭寇によって影響された東アジアンの政治

倭寇を防ぐための政治協定や方策

1368年に元が滅びて明が中国に誕生する。1392年に日本では南北朝が統一された。室町幕府の第三代将軍足利義満と明の洪武帝(こうぶてい)は国交を結び交易を始める。光武帝は日本、室町幕府との交易を求め、足利義満は倭寇の取締りを明に約束した。

また、日本で南北朝が統一された1392年に高麗が滅び、朝鮮王朝が成立した。初代国王のイ・ソンゲは日本との交流や交易を進めながら、倭寇の対策に力を注ぐ。イ・ソンゲは室町幕府や九州や対馬の領主に倭寇の取締りを強く要請した。倭寇の本拠地対馬でも倭寇の取り締まりが行われ、1418年までその効果があった。しかし、倭寇取り締まりに積極的だった宗貞茂(むねさだしげ)の死後、再び倭寇の被害が朝鮮半島で起こり始めた。そこで、朝鮮王国第四代国王 世宋大王(せじょんだいおう)による対馬征伐が行われた。朝鮮は1万7千の兵を対馬に送り、倭寇の撲滅を図った。朝鮮軍は倭寇の首領早田氏の根拠地を集中攻撃した。

しかし、その一方で、朝鮮王朝は倭寇に対する懐柔策もとった。それが、倭寇対策として効果を発揮した。つまり、朝鮮王朝は早田氏に国身と呼ばれる辞令書を出し、早田氏に将軍の官職を与え、正式な交易を認めた。その朝鮮王朝の懐柔策によって、早田氏は倭寇の活動から遠ざかっていった。倭寇の朝鮮半島の襲撃は急速に減って行った。正式な交易権を得た対馬の民は再び東シナ海での交易事業を始める。1431年に朝鮮王朝を訪ねた早田六郎次郎は商いの船に琉球国の使節まで乗せていた。琉球から対馬、朝鮮半島につながる広大な東アジア交易ルート、そこで、対馬の民は朝鮮と日本と交易の仲介者としての役割を果たすのである。


font size="4" color=#00008b">政治的軍事的不安定が生み出した倭寇と現代社会

倭寇問題を解決することが東アジアの国際関係にとって最大の課題であった。特に、明はその問題を解決しなければならなかった。明と日本の関係の中で、倭寇の問題は極めて重大な課題であったと村井教授は指摘した。

キム教授は、政治が安定したことで倭寇対策が出来たと述べた。倭寇はアジアにおいて深刻な問題であった。倭寇が与えた重要な役割は、政治的安定ということをアジア諸国の課題にさせたことであった。政治の混乱が海の民に大きな影響を与え、倭寇をつくり、それがまた大きな政治的混乱を生み出した。つまり、日本の国内政治の混乱、高麗の国内政治の混乱が平和に交易をしていた人々に大きな影響を与えた。それが大勢の倭寇を生み出した。

このことは現代の社会に共通する課題を問いかけている。政治的不安定さが大きな問題を引き起こしている。例えば、現代国際社会で複雑だと思われている中東問題やアフガニスタンのような状況を観ると、政治の安定の重要さがわかるとキム教授は述べた。


国際紛争を解決する方法としての境界領域の復権や境界を接する双方の国の努力

同時に、当時の境界人、現代の国境を境にして出来上がっている民族と異なる集団、二つの国の間の境界領域空間で生活している人々、という考え方から、当時は現代と違い、境界領域空間があり、どちらの国にも属さない人々がいた。しかし、近代になり境界は広がりをもった空間から線になり、二つの国のどちらかに属さなければならない状態になっている。そのことを考えてみようと村井教授は述べる。

そこで、二つの領域が境界地の所有をめぐって紛争している場合、近代以降はその解決方法は戦争であった。勝った国がその領域を所有するという選択しかなかった。しかし、これから先、それで紛争が最終的に収まり、問題が解決するだろうかと考えてみる。つまり、これからの時代、国際紛争によって核戦争が誘発される時代に、領土問題を解決しる手段として戦争が現実的な方法であるかを考える必要がある。

そこで、境界人や境界領域空間に関する考え方や、昔の境界を復権できないかということも考えられる。どちらにも属することのない空間、逆に言うとどちらにも属する空間を復権することで、問題を解決できないかと考える。そうすることで、境界を挟んだ両側が色々な事業を興し、双方が結果的に大きな利益が得られるのではないかと村井教授は述べている。

日本と韓国の境界を接する二つの国で考えるべき大切な課題がある。それは、倭寇の問題を平和的に解決しようとした人々が居たことは事実出である。境界を接する人々にとって大切なことは、まず倭寇による被害を受けた人々がいること、また、厳しい貧困によって倭寇が生まれたこと、つまり倭寇にならなければならなかった貧困に苦しんだ人々も居たこと、この両方を含めて方策を考える必要がある。立場の異なる双方で、安定化のための問題解決に挑む必要があるとキム教授は述べた。



テキスト批評(三石):境界人倭寇と東アジア圏の成立(自国に連動する他国の内政問題)

被害を受けた側と被害を与えた側の歴史解釈の違いの相互理解

ETV特集「日本と朝鮮半島」では、毎回、日本と韓国の専門家を呼んで、議論を挟みながら番組を進める。今回も、村井章介東京大学教授とキム・ムンギョン スンシル(宗実)大学名誉教授が番組に招待され、議論を展開した。

二人の専門家の話しから、同じ事件でも韓国と日本では理解の仕方が異なるという印象を受けた。この印象は、今までのこの番組の中でも感じられたのであったが、今回は、村井教授とキム教授の解釈の違いを鮮明に感じた。

前回の「元寇」も、日本側から見た場合と東アジアの他の国々の歴史も入れて解釈した場合では、大きな解釈の違いを感じたが、同様に、倭寇についても「倭寇の被害を受けた国の側」(キム教授の発言)と倭寇として周辺諸国(ここでは特に韓国)を襲った側からみた場合では、倭寇に関する解釈が異なった。

例えば、高麗史に記載してある500隻の大集団で西海岸を襲い、約100km内部のナンオン(南原)まで侵入した倭寇が将軍イ・ソンゲ率いる高麗軍との激戦を行った史実に関する解釈に関して、井村教授は、倭寇は当時高麗と戦っているモンゴル人等と倭人の多国籍軍であったのではと解釈したのに対して、キム教授は、騎馬軍団は九州の豪族であったのではないかと解釈している。

帝国主義の時代、1910年から始まった韓国併合(日韓併合)によって、朝鮮半島は事実上日本の植民地となった。1945年の第二世界大戦の終了まで、朝鮮半島での教育は日本語で行われた。植民地時代を知るキム教授にとって、倭寇の歴史も韓国併合時代と重なるのではないだろうか。

また、近年、前の戦争での戦争犯罪者を戦争犠牲者と共に合祀(ごうし)されている靖国神社で、日本には過去の戦争責任はないという集まりがなされた。また小泉総理大臣が率いる政府閣僚たちの8月15日の参拝に対して、韓国や中国は敏感に対応し、各地で反日デモが起こった。

この反日デモは経済的繋がりがますます深まる中国や韓国と日本との関係にまったく逆行するものであった。そこで、相互の歴史の共同研究に関する企画が提案された。

このNHKの「日本と朝鮮半島」はその企画を生かした番組であったといえる。当然、日本から解釈した東アジアの歴史と韓国からのその解釈は異なる。その違いを明確にしながら、史実を再度掘り返し、解釈し直す作業が行われることになる。そして、今回のように、倭寇に関する解釈の違いが生じることになる。その違いを相互に理解しながら、東アジアの中の日本、朝鮮半島の歴史研究が進むことが、相互理解の第一歩となる。


font size="4" color=#00008b">倭寇を生んだ社会情勢、国際社会の不安定さと境界人たち

元寇は13世紀の東アジアの最大の国際事件であった。海を越え大陸から日本を襲った二回の元寇が物語ることは、モンゴル帝国の発達した兵器、造船技術や航海術であった。それ以来、東アジアの沿岸には、これらの造船技術や航海術が定着したと思われる。そして、東アジアの海を舞台にして交易する人々が生まれたことは、一回目3万と二回目14万とも言われる大海軍を動かした元寇の歴史と切り離して考えるのは不可能である。

朝鮮半島と日本を考えるうえで、五島列島、壱岐、対馬、済州島や韓国沿岸の多くの島々で暮らす人々が、漁業以外に交易や水軍として活躍したことは推測できる。境界人の出現は、彼らがその海の孤島に住んで居たということではない。彼らがその島を根拠地として東アジアの海を舞台にして活躍していたと言う事である。その条件として、彼ら境界人と呼ばれる人々は、航海の技術と船舶を持っていた。航海能力を持ったが故に、境界人となったとも言える。

村井教授は、当時の国と国の間にあった境界領域やそこで暮らす境界人を現在の国家感覚から推測してはならないと述べている。国民国家、つまり国語と憲法をもって成立している近代国家と、封建領主時代の国は、基本的にそのあり方が異なる。対馬の民が日常的にプサン(釜山)に出かけ、交易をしていたとしても、彼らが現在の日本国民と同じような国家意識を持っていたとは思われない。

境界人たちの生活基盤は交易であった。もし、国が乱れ、交易活動が不可能になったなら、もともと食料や生活物資の生産力の少ない島では、飢饉や貧困が急速に進むだろう。そのことは境界人たちが倭寇に変身する契機となる。倭寇の襲撃を頻繁に朝鮮半島が受けた時期、特に1350年から倭寇は急激に増えたが、その年は日本では南北朝時代の真最中で、60年近い騒乱が続いており、日本が政治的軍事的に混乱した時代であった。

キム教授は、この1350年の東アジアでの出来事は現在の国際社会でも共通することで、一般に隣国の政治が乱れる場合、同時にその影響を隣国も受けると述べた。実際、中東、南アジアの例を引くまでもない。このことから、取り分け隣国の政治的不安をよその世界の出来事のように観ることは今の国際社会の関係から不可能である。北朝鮮と韓国の緊張は、そのまま日本や中国の安全の問題となる。そのために、隣国の国際紛争の解決に協力することは、自国の安全にとって大切な課題であると言える。

また、現在のような近代国家の傘の下で守られていない当時の境界人にとって、彼らの生活領域を守り、また彼らの生存を守るためには、境界人間の関係から成立する連合が出来上がっても不思議ではないと村井教授は推測する。倭寇は勢力を伸ばし、巨大の海賊集団となり、朝鮮半島内陸部に騎馬軍団で侵入したのは、当時、済州島で高句麗政府に抵抗していたモンゴル人との連合が可能であったからではないかと村井教授は述べた。

その上で、現代の日本を取り巻く近隣の国々との国境紛争問題、例えば、尖閣列島、竹島問題や北方領土を前提にしながら、国際紛争の解決手段として、以前あった境界領域とそこに住む境界人を現代の社会にも積極的に認める必要があるのではと提案している。国境問題で紛争が起こっている地域に積極的に二つの政府が共同で管理する境界領域を作ることで、現代の国際問題の解決の糸口を見つけられるのではと述べている。この考え方には、大きな可能性があると思われる。つまり、核をはじめとして大量破壊兵器や巨大な破壊力を持つ軍事力によって起こされる戦争を予測して、両方の国が領有権問題を争って失う利益とその領有権を共に管理する(半分の利益しか得られない)ことによって得る利益との比較をする必要がある。

倭寇の歴史を、キム教授も村井教授も、現代の日本と朝鮮半島の国際政治の課題として展開していた。歴史を学ぶということは、史実解釈を現代社会の課題解決の道具として活用することをその究極の課題にする事であるとも言える。


緊迫する東アジアの政治課題、東アジア連合案の展開と国際地域紛争の解決方法

2010年になって、韓国と北朝鮮の間で頻繁に軍事的衝突が発生している。2010年3月26日、黄海上で北朝鮮の魚雷によって韓国軍の哨戒艦「天安」が撃沈され、2010年11月23日に北朝鮮軍による韓国の延坪島(ヨンピョンド)に170発の砲撃がなされ、住宅地域に着弾し民間人2名を含む4名の犠牲者が出た。

中国や韓国の経済的発展と東アジア経済圏の世界的な位置の向上、それによって中国、韓国と日本は共に利益を得ている。良好で緊密な経済的関係が、韓国と北朝鮮の軍事的衝突や日本と中国の領海権問題によって危機に晒されようとしている。この時、私たちは元寇や倭寇の歴史を思い出し、それらの教訓を現在の課題に活かすことが必要になっている。

キム教授の提案、隣国の政治安定のための協力に関しては、日本は日米同盟の立場から韓米同盟への間接的支援を行うことを今回韓米軍事演習で確認し、また韓国も日米軍事演習にオブザーバー参加して相互に日米韓の軍事同盟の連携を図った。しかし、その反面、中国沿岸に接する黄海での軍事訓練や尖閣列島での有事を想定した軍事訓練に対して、中国は不快感を示した。今後の課題は、中国、韓国と日本が共に共同して、東アジアの政治的安定を作り出す努力がさらに検討されなければならないことである。

先ず、中国を必要以上に仮想敵国にしてはならない。つまり、日韓米は中国の政治的立場を理解することが必要である。北朝鮮は中国と外交的に深い関係があり、北朝鮮は中国の援助なくしては今後の国家の運営自体が危機的状況に陥るという状況は否定できない。そのため、中国が北朝鮮との関係を維持することは大切なことであり、北朝鮮で急激な政治的危機が生じることによる東アジアでの政治経済的リスクを計算して、中国の北朝鮮外交を支持しなければならないだろう。その上で、中国と共に北朝鮮の暴走を食い止める政治的交渉が必要となっている。

そこで問題となるのが、日中間の尖閣列島に関する領有権問題である。領有権問題の解決は非常に長い時間が必要となる。その領土上の明らかな解決策は、例えば1982年に勃発したフォークランド島の領土を巡るイギリスとアルゼンチンの戦争のような、局地戦争である。あるインターネットのニュース情報によると、世論調査によると現在の中国人の36パーセントの人が、尖閣列島問題は武力によって解決すべきだと答え、また話し合いによって解決すべきと答えたのが52パーセントであったと言う。これは、尖閣列島問題の展開次第では、予想もできないような日中間の武力紛争に発展する可能性を秘めていると言える。

村井教授の提案は、現実可能かどうか問題だといわれるかもしれないが、領土問題で紛争している二国間に紛争地域を新しく境界領域として位置づけ、双方の国が管理し、国際交易自由地域や関税の自由化を行い、さらに東アジアの経済発展に活用することは出来ないだろうか。例えば、ヨーロッパ連合の形成の段階で紛争地帯であったバスク、コルシカ、北アイルランド、アルザス等々の境界領域をヨーロッパという一つの国の地域として、二つの大きな紛争相手国に対して位置づけることで、問題解決の糸口を見つけたように、東アジア連合という大きな国際地域連合を目指すなら、村井教授の提案は、決して現実不可能なものではないと思われる。

コメント
2010年12月に文章を変更する。

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ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」

5. 日韓関係

5-1、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6656.html

5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る  東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html

5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html

5-4、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html

5-5、東アジア共同体構想の展開を進める日韓関係の強化
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_12.html



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受刑者の人権問題を考える

三石博行


1、累犯者が非常に多い日本社会


インターネットの検索エンジンで「犯罪加害者」と「人権」の二つのキーワードを入力すると、ほとんどのサイトで「犯罪加害者には人権はない」という内容の文章に出会う。もし、彼らに人権がないなら彼らは日本国民ではないと言っていることになる。何故なら、わが国の憲法によってすべての国民が基本的人権を擁護されているからである。

犯罪被害者が犯罪加害者に対する憎しみや怒りの感情は理解できる。しかも、第三者がその犯罪被害者の気持ちを痛感し、また自分が犯罪被害者になることへの恐怖から、犯罪加害者への批判や憎しみの感情があるのは理解できるし、そうした社会的反応が起ることも不思議ではない。

犯罪学の専門家として有名な菊田幸一氏の著書によると、累犯者(るいはんしゃ 繰り返し犯罪を犯す人々)は、男子の場合2000年の統計では刑務所の全収容者の52.5%に及んでいる。つまり、刑務所の「初入者より再入者が多い」ことになっている。(KIKUko02A p.i )

2、刑務所の社会的機能 受刑者の社会復帰

この事実から、二つの仮説が立てられる。一つは、最犯罪率が高いのは日本の犯罪者の特徴ではなく、犯罪者とはつねに犯罪を再び繰り返す傾向にあると言える。この仮説は世界の犯罪者の再犯率を調べることで検証できる。二つ目の仮説は、本来刑務所は受刑者の犯罪行為を反省させ、再び罪を犯さないように教育矯正する社会的機能を担っているが、日本の刑務所はその社会的役割を十分発揮していないというものである。この事も、前記した仮説と同様に世界の先進国の再犯罪率の統計を見ることで検証可能である。

犯罪加害者という名称を与えることで犯罪者が生涯償えない加害者としての履歴を背負うことになる。彼らが刑務所で刑の執行を受けたとしても、元犯罪者という呼び方は彼らに生涯、刑務所での刑罰に服し、被拘束生活と刑務作業を続けたとしても、一旦、罪を犯したものは再び社会が許すことはないという烙印(らくいん)を意味する。

この烙印は、江戸時代、窃盗などの犯罪者に入れ墨を入れ、三回入れ墨が入る死罪となる制度と似ている。中世社会までは、犯罪者が生れないようにするのでなく、犯罪者を社会から排除することが社会の犯罪対策として取られていた方法であった。しかし、現代の人権擁護を基本する憲法を持つ社会で、罪を犯した者を社会から徹底的に排除することは、人権問題となると言える。

人権の守られている社会とは、人々の生命と生活を守ることが出来る社会を維持するために、犯罪が発生しないように機能している社会である。そのために、犯罪者を逮捕し、裁判にかけ、刑務所に入れ、再び犯罪を繰り返さないよう矯正教育を行い、そして彼らの社会復帰を助けることが社会の大切な治安機能の一つである。防犯とは犯罪を未然に防ぐことであると同時に、犯罪者を出さないような社会を作ることを意味する。


3、市民の人権擁護・防犯と受刑者の人権擁護・社会復帰

また人権問題を考える以上、刑に服している人々を「犯罪者」と呼ぶのでなく「受刑者」と呼ぶことにする。受刑者が再び罪を犯し、累犯者となることを防ぐにはどうすべきか、それが、この社会の安全対策につながる。人権擁護と防犯は矛盾するとは思われない。もし矛盾するなら私たちの社会は人権擁護の思想を破棄し、江戸時代のように、罪を犯した人々を徹底的に社会から排除し、また死罪にして、抹殺し続けなければならない。

現代社会でも中国のように、麻薬を持っていたという理由で死刑になる国もある。その国では年間数千名の人々が死刑になっていると謂(い)われている。刑罰を強化しながら中国政府は国の治安を維持している。インターネットでも中国で行われていた公開の銃殺刑の写真が出回り、人権感覚のない国として悪評を買っている。

人権擁護を掲げる先進国では、受刑者の人権を考える法律や社会制度が存在している。つまり人権を守る社会では、極刑をもって犯罪者を抹殺するのでなく、犯罪者を出さない、累犯者にさせない社会のあり方を市民が積極的に考えなければならない。そのきっかけを裁判員制度は与えるだろう。市民生活の安全を守るために犯罪を防ぎ、犯罪者の社会復帰を助け、累犯者を出さない社会を構築していくために、もう一度、受刑者の人権問題を考えてみよう。


参考資料
(KIKUko02A)菊田幸一著『日本の刑務所』岩波新書794 2002年7月19日第1刷発行 205p

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NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評

三石博行


A-1、資料の出典紹介

NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」(6)「元寇蒙古襲来 三別抄(1)と鎌倉幕府」の映像 2009年に放映された資料   

司会    三宅民夫 
レポーター 笹部佳子(ささべ よしこ)
ゲスト   九州大学教授 佐伯弘次(さえき こうじ)
コンジュ(公州)大学校教授 ユン・ヨンピョク


A-2、資料の要約

2-1、世界を制覇した蒙古軍の日本襲来、元寇

 1206年、フビライの祖父ジンギスカンがモンゴル(カラコルムが首都)を統一、その後、帝国は拡大しわずか60年間で、帝国は極東から中央アジア、ヨーロッパにいたる巨大な領土を手に入れる。その絶頂期にクビライはモンゴル帝国第五代皇帝となる。1268年、クビライは日本に国書を遣(よこ)し、南宋と友好関係にあった当時の日本の外交政策の転換を丁重に求めながらも、実質はモンゴル帝国の支配を受け属国になることを命じるものであった。(2)

 日本は遣唐使以来、中国との国交の歴史はあったが、モンゴルとは誼(よしみ)を通じた歴史はなかった。武家政権鎌倉幕府は、クビライからの国書を日本への威嚇として受け止め、直ちに警備体制の強化を西国の守護や御家人に命じた。

 クビライの命に従わない日本に対する攻撃が始まる。13世紀後半の蒙古襲来で、日本は、1274年には2万6千(元軍2万、高麗軍6千)の兵によって、1281年には元と高麗の連合軍4万と元と旧南宋の連合軍10万、合計14万の兵によって、二度にわたって襲撃を受けた。

 長崎県松浦市にある鷹島(たかしま)は二度目の蒙古襲来、弘安の役の勝敗を決めた場所である。鷹島には700年経った今でも、その恐ろしさが庶民に伝っている。今でも、元軍の遺品が漁師の網に掛かる。水中調査で、兜や船の残骸の遺物が出てきた。元船の錨(いかり)は全長7mで、錨の重さは1トンで、それから推測して船の大きさは全長40m以上で、100人の人と馬を乗せていたとのではないかと言われている。

 海底から元の火薬を使った最新兵器「てつはふ」が見つかっている。硝石のない日本では火薬は作れない。火薬を使った兵器、「てつはふ」は殺傷能力を上げるために火薬と一緒に陶器の破片や鉄片などが混ぜられていていた。「てつはふ」には殺傷を目的とする炸裂弾(3)が用いられていたのである。


2-2、蒙古に屈服した高麗王朝と蒙古と高麗からの国書の背景

 1268年、クビライからの国書と同時に高麗からの国書も送られてきた。当時、高麗(朝鮮半島)は元の支配下にあった。その高麗の国書には蒙古が素晴らしい国であることや日本に蒙古と誼(よしみ)を結ぶことを勧め、日本も蒙古に使いを送ったらどうかと書かれていた。

 936年に後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一した建国された高麗(4)は、1268年、日本に国書を送る40年前から蒙古の激しい攻撃を受けていた。1231年、蒙古は朝鮮半島に侵攻した。蒙古軍団は瞬く(またたく)間に朝鮮半島各地を蹂躙(じゅうりん)し、高麗の首都である開城(ケジョン)に迫る。高麗史に、蒙古の攻撃への対抗策が記されている。蒙古侵入の翌年、1232年、高麗は開城(ケジョン)から南に20kmほど離れた島である江華島(カンファド)に遷都した。

 本土と1キロほどの狭い水路で隔てられ、しかも9mの干満の水位が生じる海流の流れも複雑な江華島(カンファド)の地の利を活かして蒙古の騎馬軍団の攻撃を防いだ。その結果、蒙古軍は30年間もこの島に攻め込むことはできなかった。 

 江華島(カンファド)の高麗宮の遺跡から、当時のカンファドを理解する上で貴重な出土品が多数発掘された。

 江華島(カンファド)は開城(ケジョン)への重要な入り口で、しかも、広い土地があり、自給自足が可能であった。高麗は安全な場所として江華島(カンファド)を新しい都とし、ケジョンの都と同じくらいの大きな宮殿や城を建てた。都(まち)を囲む城壁は全長13キロに及び、軍人、官僚や商人などが、新しい江華島(カンファド)の都に移り住んだ。ここで高麗王朝は30年間、蒙古に対して抵抗を続けたのである。

 朝鮮半島本土では、侵入してきた蒙古軍に対して、民衆や僧兵(そうへい)達が戦っていた。処仁城(チョインソン)の戦いでは、身分の低い奴婢(ぬひ)階級の人々が先頭に立って戦った。朝鮮半島は凄惨(せいさん)な戦場となった。蒙古の侵入は、30年間で11回に及んだ。 高麗史には、約20万人の男女が蒙古軍の捕虜となったこと、殺戮された人数は数え切れないことが記されている。このたび重なる侵略によって、朝鮮半島は荒廃して行った。

 そして、1259年、高麗は蒙古に降伏した。高麗の王子が蒙古に入城し、臣下の礼(蒙古の支配を受けることを認める儀式)を取った。1260年、兄弟間の相続争いに勝ったクビライが第五代モンゴル帝国皇帝に即位した。その四年後の1264年に、年号を中国風に「至元(しげん)」と定める。そしてモンゴル帝国の都を現在の北京、大都(だいと)と名称し、広大な宮城を持つ都を建てた。そこに典型的な中国様式の大明殿(だいめいでん)を造り、そこからさらに世界制覇に向けた活動を始める。

 当時の世界通貨は銀であった。その銀を求めて元は交易を興し、富を世界から集めようとした。フビライは黄金の国と呼ばれた日本「ジパング」(5)にも交易を求めた。1267年、フビライの使者は、日本を望む朝鮮半島南部の巨済島(コジェド)まで来た。しかし、使者は日本への渡航が極めて困難であるため日本には渡らず、そのことをフビライに報告した。フビライはそれに激怒し、高麗国王に対して、日本にフビライの国書を届けるように命令した。それが、1268年、クビライの国書と一緒に送られてきた高麗の国書であった。

 この国書の中で、高麗王は、蒙古の年号「至元(しげん)」を使っている。つまり、蒙古の攻撃に屈服させられた高麗から、フビライからと高麗からの二つの国書が送られてきたのである。


2-3、蒙古に反抗し続けた高麗軍、三別抄が送った国書の背景 

 蒙古襲来は朝鮮半島の歴史の中でも重要な事件として記録されている。人民の殺戮や国土の荒廃による飢饉などの被害が大きかった。そして、モンゴル帝国の支配によって、日本攻略の基地となり、そのため日本への軍艦製造や必要な食料等々、巨額の軍事費を使い、多くの兵を日本侵略のために派遣しなければならなかった。それまでの蒙古との戦争で荒廃した国家、高麗にとって、元寇に参加することは大変な負担であった。戦争の契機となるフビライの国書を日本に送るのは気が進まなかったと思われる。高麗は日本と戦争をしなければならない立場におかれることになった。

 一方、鎌倉幕府は、蒙古からの国書を日本への脅しとして受け止め動揺した。また、高麗と日本はもともと良好な関係であったのに、蒙古と共に高麗が日本に国書を送ってきたので、そのことも鎌倉幕府を疑心暗鬼にさせた。

 国土を蒙古に支配され、蒙古のためにさらに庶民を犠牲にすることになる日本攻略を進める高麗王国の中で、深刻な内部対立が生じる。

 モンゴル帝国の国書と一緒に送られてきた高麗の国書が日本に届く1268年から、3年後の1271年に再び、高麗から日本に国書が届いた。当時の公家である吉田経長(よしだつねんなが 1274-1302)の日記「吉続記(きちぞくき)」によると、二回目の高麗から国書の内容は一回目とは内容がまったく反対のもので、蒙古に対決するために食料と軍隊の支援を要請するものであった。それは、さながら日本への救助支援(SOS)のようであった。

 1970年代後半、この二つ目の国書の謎を解明する資料が発見された。この資料は、東京大学資料編纂所に眠っていた文書で、「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」である。これは、当時、二つ目の国書を読んだ人物が不審に思った点12箇所を列挙したメモであった。この資料の発見者、石井正敏中央大学教授は、当時勤務した東京大学で調査中にこの資料に偶然出会い、その重要性に気付いた。

 「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」は、高麗から届いた二つの国書の内容の違いについて述べている。はじめの国書は蒙古の徳を褒(ほ)めていたが、二つ目は、蒙古兵の野蛮さを指摘している。その二つが矛盾することを指摘している。また、前の国書では蒙古の年号を使っていたが、新しい国書ではそれがないということも指摘されていた。つまり、後の国書は蒙古に従属していない勢力が送ったものであったことが明になる。

 蒙古に従属しない高麗の勢力とは何か。そのことを解く鍵は、「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」の第三条に記されていた、江華島(カンファド)から半島最南部の珍島(チンド)に遷都したという記述に、隠されていた。

 二度目の国書が届く1年前の1270年、江華島(カンファド)は大きく揺れていた。蒙古の支配を受けた高麗王朝では、高麗の都を江華島(カンファド)から元の都開城(ケジョン)に移るようにと蒙古から要請を受けていた。王とその周辺は蒙古のその要請に従おうとしたが、それに強く反対する勢力が現われことになった。その勢力とは、高麗王朝を守るために選別された軍事集団、右別抄と左別抄からなる夜別抄(よべつしょう)とモンゴルの捕虜になりながらも脱走して戦い続けた神義軍(しんぎぐん)の三つの先鋭部隊によって構成された三別抄と呼ばれる軍事集団であった。

 高麗史によると、三別抄(さんべつしょう)の指導者は将軍裴仲孫(テ・ジュンソン)であった。彼は、「蒙古兵が押し寄せ人民を殺戮している」ことや「国を守らんとするものは結集せよ」と呼びかけていた。三別抄は、高麗王室に関係する人物を擁立し、江華島(カンファド)から珍島(チンド)に移った。

 つまり、「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」で江華島(カンファド)から珍島(チンド)に遷都したという表現を使うのは三別抄以外にあり得ないのである。したがって、二つ目の国書「高麗牒状(こうらいちょうじょう)」の送り主は三別抄であったと考えられる。

 高麗史では、裴仲孫(テ・ジュンソン)は反逆者として記載されている。何故なら、彼が高麗政府の資料、人民の名簿や土地の台帳を焼き払ったからであると謂(い)われている。彼のこの行為は高麗王朝を支えた身分制度や経済基盤を否定する重大な反逆行為であった。そのため、彼は高麗政府の敵となった。

 三別抄は徹底的に蒙古に抵抗するために、新しい高麗王朝を珍島(チンド)につくろうとしていた。

 珍島(チンド)と本土を隔てる水路は、年貢を運ぶ船が通る重要な場所であった。そこを三別抄は軍事的に押さえようとした。三別抄はチンドに高麗の都として建設した。このことを物語る龍蔵城(ヨンチャンソン)の遺跡がチンドにある。この遺跡は高麗の都ケソンの王宮マンウォルデと立地が似ていることがわかった。また、その後(1988年)の大掛かりな発掘調査で、王宮と思われる高級な青磁(王族などしか使わないと思われる)や宮殿に使われたと思われる蓮の花の瓦などの出土品が発掘された。このことから三別抄の拠点が龍蔵城(ヨンチャンソン)であったことが裏づけられた。また、龍蔵城(ヨンチャンソン)の山城の発掘調査から、この山城は全長14キロに及ぶ龍蔵城(ヨンチャンソン)の宮殿を囲む巨大なものであったことも分かった。

 三別抄が日本に国書「高麗牒状(こうらいちょうじょう)」を送ったのはチンドからであった。その国書は朝鮮半島の正当な統治者であると自負したものあった。彼らは、来るべき蒙古との戦いに備えて、日本に食料と兵の援助を求めたのであった。

 三別抄は民衆、奴婢などの低い階級の人々によって構成されていた。一方、蒙古の要請で都を江華島(カンファド)から開城(ケジョン)に移すことを同意した高麗国王の主流派は貴族を中心とした勢力で構成されていた。その二つの勢力は、基本的に異なる勢力によって構成されていたと謂える。言い換えると、蒙古に屈した高麗政権の主流派と蒙古に抵抗する三別抄の支持する新興の高麗政権の勢力という根本的な違いがあった。これまで朝鮮半島本土で蒙古と戦った人々は農民であった。その民衆は三別抄を支持して来たのである。

 三別抄は高麗王朝と決別し、都をチンドに移すことで、蒙古と戦い続けよとした。そのため、彼らは蒙古と開城(ケジョン)にある傀儡政権(かいらいせいけん)の二つと戦わなければならなくなっていた。三別抄の立場は困難であった。そのため、新しい連帯の相手を見つけようとしていた。日本は次に蒙古に侵略される存在だったので、三別抄は日本と連帯しようとしたのだった。


2-4、日本への蒙古襲来に対する三別抄の役割と鎌倉幕府の反応 

 もっぱら中国(南宋)との貿易に興味を持っていた鎌倉政府は、朝鮮半島の動きに関心を持っていなかった。そため、三別抄の動きや高麗の情報を鎌倉幕府は知らなかった。そんな中、二つの国書が高麗から届いた。そして、それを分析したのが、「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」であった。この資料によると、当時の鎌倉幕府は三別抄の評価を正確に行わなかった。そのため、1271年、三別抄が必死の覚悟で日本に送った国書に対して鎌倉幕府は何の反応も示さなかったのである。

 平安時代には外交は朝廷が取り仕切っていた。鎌倉時代になると外交文書に関する取り扱いは朝廷だけでなく幕府も参画するようになる。時の執権北条時宗は、南宋の僧侶から蒙古の野蛮さを聞き及んでいたので、蒙古からの国書や蒙古に下った高麗にも一切の返書を出さなかった。朝廷も高麗王朝の分裂を把握することが出来ず、当時の資料では朝廷の中で意見が分かれたと記されている。そして、高麗の分裂を察知する者もいたが、しかし、朝廷は、鎌倉幕府と同様に、それらの意見を取りまとめることもせず、届いた国書に返書を出すこともしなかった。

 つまり、日本における東アジアの国際政治状況の不理解と情報不足、そして朝廷と幕府の外交の二重システムによる外交決定能力の低下によって、当時の日本は三別抄の支援要請を無視し、これから蒙古の攻撃を受けるにも関わらず、当時蒙古と戦い続けていた三別抄と連帯することも出来なかったのである。
 三別抄が送った救援要請は、鎌倉幕府からも朝廷からも無視され、そして日本の援助を得られなかった三別抄は苦戦し、島の東部に追いやられ、三別抄の指導者、将軍裴仲孫(テ・ジュンソン)の記録はここで消える。チンドで高麗再建を試みた三別抄は、済州島(チェジュド)に逃げる。

 高麗王朝時代そしてその後、三別抄は長く反逆者とされた。しかし、チンド(クルポ村)では裴仲孫(テ・ジュンソン)は英雄として扱われている。村人はこれまで将軍を大切に祀ってきた。村人は今でも裴仲孫(テ・ジュンソン)を親しく「おじさん」「おじいさん」とよんでいる。

 1271年、宋を制圧し中国北部を支配したクビライは国名を「大元」と制定し、中国と朝鮮を中心とし、インド、そしてアフリカをも含む海洋航路のネットワークを拡大しようとしていた。そして『黄金の国』日本を力ずくでも、このネットワークの中に組み込もうとしたのである。

 クビライは日本侵攻に備え、高麗に造船を命じ、韓国南部の天然の良港、合浦(ハッポ)で日本攻略のための造船工事が行われていた。

 しかし、当時の鎌倉幕府は同族同士の争いに明け暮れていた。1272年の二月騒動で、執権北条時宗は兄時輔を殺害し、蒙古の襲来に備える余裕は無かった。

 元の軍隊は、すぐに日本に攻め入ることは出来なかった。何故なら、三別抄(タンベルチョウ)の一部がチェジュドで激しく抵抗し続けていたからであった。チェジュドでの三別抄の拠点となったハンパドゥリ城の砦は全長6kmの及び、また、環海長城(かんかいちょうじょう)とよばれる海に面した側にも300里(約1176km?)の防壁(6)がつくられていた。粘り強く抵抗する三別抄にフビライは業を煮やし、日本攻略のために準備していた軍船団をチェジュドに向けるように命令した。

 三別抄はチェジュドから半島各地で攻撃を仕掛けていた。合浦(ハッポ)など三ヶ所の造船現場をことごとくゲリラ的に襲撃し、建造中の軍艦を焼いた。そして、1273年、チェジュドの三別抄に蒙古・高麗連合軍が総攻撃を掛けた。激しい戦闘の末、三別抄の首領が死亡し、足掛け三年に及ぶ三別抄の抵抗運動は終わりを告げた。こうして、フビライは三別抄を駆逐するために時間と戦力を費やすことになったのであった。そのため、第一回の日本への遠征計画は変更を余儀なくされたのであった。

 結果的に、鎌倉幕府にとって蒙古襲来の時期が遅れたのは幸いであった。二月騒動も収まり、御家人に西国警備の指令を発することが出来た。

 チェジュド攻めの翌年、1274年10月、蒙古・高麗連合軍は九州北部を襲撃した。この第一回の蒙古襲来を文永の役と呼んでいる。戦法の違い、強烈な兵器(毒弓や火薬をつかった砲弾)によって蒙古軍は一日にして圧勝し、箱崎や博多の町も戦火で消滅した。しかし、翌日、蒙古・高麗連合軍団は突然として姿を消した。その理由について、軍が整わず矢も尽きたと記されている。

 世界最新の武器を使った蒙古・高麗連合軍に対して、三別抄は足掛け三年も戦い続けた。そのために、日本への元寇襲来は遅くなった。このことが、日本にとっては災いを免れた点があったと思われる。つまり、1270年から1271年までのチンドでの戦い、そして1271年から1273年までのチェジュドでの戦い、三別抄の戦いが蒙古の日本襲来のタイミングを後ろ(1274年)にずらしたことになる。そのことが、日本への元寇の衝撃を緩和したのではないかと考えられている。

 本来、元は1274年5月に日本侵攻を考えていた。しかし、準備に時間が掛かり、また、1274年6月に高麗王、元宗が死亡したため、元の攻撃が遅れ、結果的に10月になった。そこで、元は日本への攻撃を行って、すぐに撤退することになったと考えられる。

 また、文永の役当時、元は南宋の勢力と対立していた。元は南宋の拠点、揚子江を越えた襄陽(じょうよう)にある難攻不落と謂われた襄陽城を攻めていた。そこでは、クビライは最新式の兵器で攻撃し、ついに襄陽城を攻め落とし、南宋を滅ぼしたのである。そうして、フビライはユーラシア大陸全域に及ぶ大帝国を完成させた。

 他方、文永の役以後、蒙古の再襲来に備えて、日本では急ピッチで、防塁(ぼうるい)の建設が進んでいた。高い所で3mからなる防塁は博多湾岸全域、20kmにわたって、造られた。この防塁工事は、わずか半年の突貫工事であった。この防塁を造るために、九州各地から御家人が集められた。

 1281年、フビライは、ついに日本への第二次遠征計画を実行した。再び海の彼方から現れた海の船団は兵力14万であった。これを弘安の役と呼んでいる。博多湾岸全域に造られた防塁の効果もあり、鎌倉武士は蒙古勢に対して奮闘した。そして、台風と思われる突然の暴風によって船団は壊滅したのであった。

 蒙古襲来に翻弄され続けた34年の生涯を終え、1284年、北条時宗は他界する。


2-5、日本への第三次蒙古襲来に対する大越国の対蒙古戦争の役割

 クビライは日本への野望をあきらめず、第三次の日本遠征の機会を窺(うかが)っていた。南宋を破りそれを元に接収したフビライの目は、日本と東南アジアの攻略に向けられていた。フビライは第二次日本攻略のわずか五ヶ月後の1279年7月に日本とベトナム北部の侵攻のために戦艦の造船を命じていた。

 ベトナム遠征は直ちに実行される。1288年のバクダン川の決戦、これは今のベトナム北部の大越国が民族の独立を掲げて戦った戦闘である。戦力で優る蒙古に対して大越軍は地の利を活かした戦いを展開した。潮の干満を利用し、川底に杭で仕掛けを作り、満潮を利用し侵入してきた敵の戦艦を身動きできないようにし、反撃し撃退した。大越軍はこの戦いで勝利を治めた。この戦いによって、蒙古軍は大きな痛手を受けた。蒙古軍のベトナム北部での2回の敗北を知ったフビライは激怒した。彼は、ベトナムに戦力を動員するために、日本に渡る予定であった軍勢をベトナム北部に呼び返した。その結果、第三次日本遠征はそのため中止されたと謂われている。

 大越の対蒙古戦の勝利は、13世紀の国際社会を考えるとき、大きな意味を持っている。つまり、日本の遥か南、ベトナム北部での戦いが、世界最強の帝国、モンゴル帝国の第三次対日本進攻を中止させるきっかけの一つになったのである。

 巨大帝国の夢を追いかけたクビライは日本を征服できないまま、1294年、80歳で生涯を閉じた。


2-6、元寇を世界史の中で理解することの意味

 元寇襲来とは、当時の小国日本が世界で最強のモンゴル帝国(後の元)と行った戦争を意味していた。この蒙古襲来は、日本にとってモンゴル帝国がそれまでに支配した国々と同じように、つまり、隣国朝鮮半島の高麗と同じように、帝国に支配される運命の瀬戸際(危機的状況)にあったと謂える。蒙古襲来という当時のモンゴル帝国がユーラシア大陸を支配下に置くための世界戦争の真っ只中に、同時の鎌倉幕府は投げ込まれることになったのである。

 しかし、日本、鎌倉幕府には、こうしたモンゴル帝国の世界制覇やモンゴル帝国に関する情報はなかった。そして、当時の鎌倉幕府は内紛に明け暮れていた。また、国家の外交も、天皇を中心とするこれまでの制度と鎌倉幕府の介入による新しい制度構築によって、混乱を来たし、高麗からの貴重な情報、例えば元に屈服した高麗王朝に反旗を翻(ひるがえ)した高麗軍、三別抄からの日本への支援要請を正確に分析し、対応することが出来なかった。

 皮肉なことに、日本は支援しなかった三別抄が行った対蒙古戦争で元寇の時期を遅らせたことによって、結果的に三別抄に助けられることになった。

 また、第三次日本遠征を断念させる契機をつくる遥か南の大越国の対蒙古戦の戦いの勝利によって、助けられるのである。

 このように、日本の元寇史を国内の社会や歴史のみで観るのでなく、国外の歴史との関係から観る事で、立体的に元寇が見えるのである。

 しかし、それと裏腹に、日本では、元寇から日本は神国であり、国家の危機的状況を救うために神風が吹くという神話が定着していくのである。それが第二次世界大戦まで続き、精神主義で戦局を乗り越える考え方や神風特攻機を生み出す風土を培っていくのである。太平洋戦争で悲惨な国民の犠牲と敗戦を導いた精神主義の起源は、元寇を日本の内部からのみで観ることによって、生まれたと言えよう。

 元寇を国際的視点から見ることによって、元が日本攻略に失敗した国際的要因を加味して理解しなければならないのである。



3、資料の評価

3-1、世界史と東アジア史の中での元寇

 この番組が示した課題は、日本史の史実を東アジアの視点から見ることであった。日本史の中で元寇とは、単に蒙古が日本を襲撃したという側面で理解されている。しかし、東アジアの視点では、朝鮮半島がまず蒙古(元)に襲われた。そして、朝鮮半島を支配したモンゴル帝国が、高麗王朝を使って日本を襲うのである。それが日本から見た元寇となる。

 モンゴル帝国は建国以来、領土の拡大を目的にした侵略戦争を続けてきた。日本への元寇の前に、遠くて中央アジア、スラブ諸国、近くてインドまで侵攻を続けていた。世界史から見ると、それら朝鮮半島や日本への元寇も世界制覇のためのモンゴル帝国の侵攻の一部に過ぎなかった。つまり、蒙古にとっては、朝鮮半島や日本への元寇は、モンゴル大帝国の構築の過程に過ぎなかったのである。


3-2、東アジア隣国の侵略に使われた神風神話と朝鮮半島での戦いで防げた日本への元寇の被害

 日本の神風神話は元寇に対する戦いの中で生れた。世界最強の帝国が日本を襲来しても、日本は神風によって守られるという神話が生まれ、それが太平洋戦争まで続くことになる。

 東アジアの歴史から、朝鮮半島での高麗の30年に及ぶ抵抗、さらに高麗屈服から3年におよぶ三別抄の抵抗運動が無ければ、日本への元寇の攻撃の時期は早く、内紛によって混乱していた鎌倉幕府は到底、元寇から日本を防衛することは不可能であったに違いない。つまり、高麗と三別抄の長年の蒙古への戦いがあった、日本は元寇から守られていたのである。

 蒙古軍は多分に日本への攻撃を5月にしたかったのは、日本の気象を理解していたからだろう。元寇にそれが出来なかったのは、やはり、高麗の都合によるものである。その意味で、蒙古の攻撃は、日本に台風が来る時期になってしまった。このことが、元寇の命取りになった。

 しかし、台風によって、2回も蒙古軍は壊滅することになる。そのことが神風神話の背景となる。皮肉なことにこの神風神話に乗せられて、20世紀初期の日本は東アジアに侵攻していくのである。そして、無謀な太平洋戦争を引き起こすのである。

 仮に、20世紀初頭の日本の歴史学研究が、東アジアの歴史、取り分け朝鮮半島の歴史学研究をその範疇に入れ、東アジア歴史学共同研究の中で、取り組まれていたなら、神風神話の間違いを指摘できただろう。

 また、ベトナム北部の大越が元寇と戦った歴史を知ることで、日本への第三次元寇が中止になる事実も理解できただろう。その歴史認識があれば、20世紀の東アジアへの日本の侵略戦争を引き起こした日本帝国主義イデオロギーを防ぐことが可能となったのではなかろうか。

3-3、世界史の中での日本史の史実解釈

 今回の番組での元寇に関する理解から、元寇だけでなく、日本史の史実を東アジアの視点から見ることで、見えない歴史的な背景が理解できる。日本史の正しい理解とは、日本を東アジアの中で理解し、また世界の中で理解しようとすることである。

 今までの日本史の史実を東アジアの視点では、朝鮮半島の歴史と関連付けて理解する作業が、日本史の学習の中で必要となるだろう。



(1) 三別抄、日本語ではさん「さんべつしょう」と発音し、ハングルでは「タンベルチョウ」と呼ぶ。高麗王朝の軍事組織で、「別抄」とは精鋭部隊を意味する。地方の反乱鎮圧のために臨時編成された軍事組織が、崔(チェ)氏政権の私兵軍団から、高麗の正規軍に発展した。高麗正規軍は「夜別抄(やべつしょう)」には「右別抄(うべつしょう)」と「左別抄(さべつしょう)」の2部隊があり、それに、モンゴルの捕虜から脱走した「神義軍(しんぎぐん)」の三つの軍事集団によって構成された蒙古軍への国内の抵抗組織を三別抄と呼ぶ。

(2)「蒙古国國牒状」東大寺所蔵 Wikipedea 「元寇と高麗」

(3)弾丸の中に火薬を入れ、着弾と同時に弾丸が炸裂する。また、さらに殺傷能力を上げるために、火薬と共に鉄片を混ぜる、ベトナム戦争で使用されたボール爆弾やパイナップル爆弾が有名である。

(4)朝鮮半島では、6世紀以来、高句麗、新羅、百済と長く続いた三国時代を、8世紀、新羅が朝鮮半島南部を統一し、統一新羅を建国し、北の渤海とで南北国時代を迎えた。その後、朝鮮半島は、後百済、新羅、後高句麗と渤海の四つの勢力に分断される。後高句麗の将軍であった王建が918年に高麗を興し、936年に後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一した。 Wikipedea の「高麗」を参照 

(5)マルコポーロの『東方見聞録』に、ジパングは、中国大陸の東の海上1500マイルにある島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金で出来ていると説明されていた。Wikipedea 参照

(6)チェジュドは火山島で、面積が1,845km2である。その面積から考えて、島周囲が300里、つまり、1176kmあるというのは不思議である。これは多分、間違いであろうか。

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ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」

5. 日韓関係

5-1、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6656.html

5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る  東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html

5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html

5-4、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html

5-5、東アジア共同体構想の展開を進める日韓関係の強化
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_12.html




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大学の大衆化と問われる大学の社会的機能

三石博行


大学の大衆化によって、多様な目的や要求をもった学生が入学し、学生も学部専門教育を終了したからと言って、必ずしもそれらの知識を直接活用できる企業や組織の就職できる訳ではないのが現実である。

大学の大衆化によって、学部教育は教養専門教育過程として位置づけられてい。大学への入学人口の増加により学生の大学教育への期待や希望も多様化している。大学もそれらの学生の多様な要求にあった教育環境を作ってきた。多種の専門教養科目の履修可能性、情報処理教育の充実、国際感覚を養うための海外提携校への留学、英語での教養や専門科目教育、インターンシップ等々、それらの教育課題を充たすカリキュラムが準備された。そして、これらの具体的な教育内容の変化によって、従来の大学教育の評価方法も大きく変化してきたのである。

大学は高等教育機関としての社会的機能を充たすために、国の制度、高等教育に関する法律に規定され、また文部科学省の高等教育局の管轄の基に運営されている。大きくは、進学基準や卒業要件で、習得科目やそれらの単位数がこと細かく決められている。それに即して、大学は学生にカリキュラムを提供している。同時に、科目担当者は、教育計画内容等を学生に示し、厳密に学生の評価を行い、その科目修了認可を与える。その認可は社会的に認められている。

もし、大学が社会に対して卒業して行く学生の学力に対して責任をもって保障するという立場を持つなら、科目習得条件から試験を取り除くことは出来ない。その場合の大学側の評価内容は学生の「知識の習得」と「技能の習得」に関するものである。つまり、それらの大学での単位認定が、社会的に評価され通用される基準でなければならない。もし、「統計学入門」のシラバスにそって、その単位を修得した学生が企業に就職して、「統計基本量の算出」が分からないということになれば、その企業は学生が卒業した大学に「統計学入門」科目の単位認定の基準に関してクレームを付けてもいいだろう。しかし、日本の社会ははじめから大学にその企業で必要とする知識や技能の教育を期待していなかった歴史的な経過があるために、大学にクレームをかける企業はない。

つまり、それだけ社会は現在の大学教育に期待をしていないと言える。しかし、それだけに、これまで多くの有名な大企業では、大学教育内容を評価するのでなく、大学入試の偏差値を評価して採用する傾向にあった。

しかし、最近、企業の雇用形態が変化し、終身雇用制度が廃止され、企業内での長期的視点に立った人材教育の余裕がなくなり、即戦力のある人材を、手っ取り早く人材派遣会社に委託してかき集める時代になった時、大学は、むしろ、社会からその教育内容に関する正当な評価の機会を得る可能性があるとも言える。



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ブログ文書集 タイトル「大学教育改革への提案」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html
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現在の三つの大学教育課題

三石博行



現在、日本の大学は、知識の修得、技能のスキルアップと積極的な学習姿勢を身に付ける、という三つの教育課題に取り組んでいる。

一つ目の課題、知識の習得は、これまで大学教育の課題として取り上げられてきたものである。

二つ目の「技能の習得」については、これまで理工系、応用科学系で重視されていた演習科目課題で取り上げられてきた。しかし、我々の社会機能や生活様式が、科学技術技能の大衆化や情報化社会によって、大きく変化してきた。つまり、国民の大半が日常的に情報機器や先端技術機器を活用している。この時代や社会の要請を受けて、すでに1980年代から人文社会科学系の学部でも表計算ソフトや情報処理技能の演習科目やプログラム入門の科目が取り入れられ、伝統的な理工学部の技能教育が全学部共通教育の課題になっている。

三つ目の「学ぶ姿勢の習得」は、上記した二つ目の「大学の大衆化」によって生じてきた課題である。1989年の我が国の高等教育機関(大学24.7%、短大11.7%、高専0.5%、専修学校16.0%)への進学率は高校卒業者の約52.9%であった。2004年では高等教育機関(大学42.4%、短大7.5%、高専0.8%、専修学校23.8%)への進学率は高校卒業者の74.5%になった。(Wikipedia) つまり、学校基本調査の資料から、2004年には3分の2の若者が高等教育を受けているのである。

高等教育が社会のエリート育成を目的にしていた時代、まじめに大学で「学ぶ姿勢」に関して問題にすることは、大学入学資格を得る以前の問題であると考えられていた。つまり、この初歩的な姿勢を持たない人間が社会のリーダーとなるはずがないので、「学ぶ姿勢の習得」に関しては、大学教育の課題として考えるというのでなく、個人的な学習意欲の問題という学生個人の大学生活に対する責任問題して語られてきた。



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構想日本への期待

三石博行


構想日本が出来てから、一般向けメールマガジンを送って頂いた。すでにあれから長い時間が経ている。

構想日本は、政党を超えて、政策議論を続けてきた。

政治の原則である政策の実現のための本来の活動を守るために、政党という組織のもつ、もう一つの一面、つまり、組織維持のために動き出す組織体の法則に政治が絡め取られないようにするために、純粋に政策研究を課題にした、超党派、すべての人々に門を開いた組織、政策研究機関の設定を構想日本は創り出して来た。

政策に政党が付属する時代には、よりよい政策(ある集団に取って)を実現させるために、政党支持を行うのである。そこで、よい政策を提案する政党への支援行為が、無条件な政党支持行為に置換される危険性を感じながらも、そのことを主観的に過小評価しながら、そして政党支持を行うことになる。

政治と金の問題が発生したとき、「昭和維新を実現しようとする民主党を絶対的に支援しなければならいあから」という理由から、政治と金の問題への民主党批判を我々は避けたと思う。

こうした考えが、結局は、民主党という組織への間違った評価を与えていた。そして、世界と国を救う政策への真摯な取り組みへの願望が、民主党支持という考え方に置き換わるとき、私の思想の弱さを知ったのであった。

問題は、政党支持ではなく、持続可能な社会を形成するための政策(政治プログラム)を造ることではないか。

何故なら、今、日本や世界の政治経済、エネルギーや生態環境問題のすべてをみながら、急激な変動期に入っている。その中で、党利党略を前提にした政党支持の政治運動を行う余裕はない。変革が急がれているのである。もし、自民党がいい政策を出すならそれは歓迎すげきである。もし、社民党がよい政策を示すなら、それは賛成すべきである。問題は、この社会をよりよくするための現実的な政策(政治プログラム)を作り出すことだけである。

政局のあめに政策を犠牲にする。選挙に勝つために、大切な法案の成立を後回しにする。そうした政党は信頼できないのである。しかし、政党というものはそうした組織拡大と政局のために動く自然な組織形態である。

これからの政治に大きな変化を生み出したいなら、塘路党略の政党活動を超える、政策提案の政治運動を展開することだろう。それが新しい日本、世界の政治活動のスタイルをつくっていく。

何故なら、高度情報化社会、高度知識社会によって高度に進歩した民主主義社会での政治を考えるとき、政治のあり方が大きく変化しようとしているかれでる。

政治を行う力は、組織体としての政党でなく、政策の選択運動としての新しい集団、知識人たちに委ねられる。一つの政治課題を解決するために、国のすべての資源、官僚、大学研究者、シンクタンク、企業の専門家、市民活動家、ありとあらゆうる人々が参加し、その課題の解決に向けて、意見を交換し、調整し、最も実現可能な制度の提案、法案を検討する。

科学技術文明社会での高度に情報化した大衆民主主義は、一部の利益のために政治が動くことを益々許すことは無い。そして、益々、情報を公開することを要求し、政策検討過程を公開することを進めるだろう。

それが、これからの社会の姿である。
それが、これからの政治活動、つまり大衆的政治行動の基準になる。


その意味で、構想日本はすでにこれからの時代を予測し、このようなインターネットでの公開討論の場を提供し、構築してきた。


政治思想の貧困を超えれるための道具、大衆的検討機関を作ってきた。

政治を政党の利益を土台にして考える方法はこれから通用しない。

国民や市民の利益をそっちのけにして、政党(小さい組織)の犠牲にしてしまうことを許すなら、国は荒廃する。

地方自治体の政治は地域住民のためにあり、国政は国民のためにあり、国際政治は世界の平和と人類のためにあるのでしょう。その本来の意味を考えるとき、政党はその道具であり、政党政略はその技術である。

もっとも役立ちそうな道具を国民が選ぶ、それが選挙である。

だとすれば、その道具のあり方が、政党という集団でなく、もっとも有効な政策という、道具の使い方として理解されるなら、政治の効率はもっとよくなるのではないか。

最も大切なこと、それは政治が平和の維持や豊かな生活文化を作り出し、人々が安全、基本的人権を守れ、困窮することのない生活を得るためにあるという考え方だ。


問題は、最も有効な政策を提案する力である。それを官僚の方々にのみ依存するだけでなく、国民がそれぞれの知識と経験を活かしながら提案することが、政策中心主義の政治の土台となる。

高度知識社会の日本では、大衆的に政策議論を行うことが可能になるのだと思う。


その意味で、構想日本は、日本にこれからの日本での政治活動のあり方を示した。

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2010年6月28日月曜日

自称平成維新の志士たち

三石博行


平成維新の志士たちがいるなら


一般に金が入るとか、名誉をもらえるとかいう理由なら人が動くのだが、
厄介なことはその人たちは社会の常識で動かないだろう。

例えば、正義のためとか、国家、社会、人民のためとか、彼らは理解し難い抽象的な理由で動く。
これらの人々は、一般の人々には理解し難い存在である。

社会が安定している平成の世の中で、一般常識では信じがたい理由で動き出す人々は、やはり気が狂っているとしか言えないだろう。なぜなら、そんな理由でこの平成元禄時代を動き回る必要がないからだ。


社会が不安定で国家が危機的状況になっている場合は、社会や国家を救済するために、社会を変革するために、侵略者と闘うために、国民市民の悲惨な現状を解決するために、動く人々が生れる。

それをある人は志士と呼び、ある人々は過激派とかテロリストと呼ぶ。

何しろ、自分の命などどうでもいい、自爆しようが暗殺されようが、それを恐れることはない。彼らにとって最も恐れることは、それに立ち向かえない自分がいること、そして不正や邪悪な権力におびえる自分がいることである。

母国国家や人民の未来を信じて、自分の命も財産も家族的生活もすべて捨てた人々なのだ。聖人にして狂人である彼らは、時代の落とし子に違いない。


「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり。」西郷隆盛


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2010年6月22日火曜日

中世社会の人々の意識 感覚中心主義と魔女の存在

三石博行


魔女狩り裁判を起こす社会意識の理解、迷信の存在

▽ 人の思い込みという日常的な心の動きを、歴史の中で繰り返されてきた戦争や民族浄化(大虐殺)の起源として考えた。その思い込みが生じる精神構造について考えた。代表的な例として「魔女狩り裁判」を引き合いに出した。

▽ 魔女狩り裁判が起こった理由は、魔女迷信が信じられていたからである。その迷信は、科学技術の進歩した現代社会では消滅しているので、例えば今日の日本社会で「あの女が魔女と夜中に秘かに会って話をしていた」とか「あの女が魔女から毒を貰って井戸に入れたので、ペストが流行った」などという噂を信じる人はいない。つまり、現代社会では、中世社会で行われていた魔女狩り裁判と魔女と交信していた女(魔女の仲間)の火あぶりの刑は起こることはないのである。

▽ しかし、つい最近(今から20年前1990年に)、セルビア人によるクロアチア人虐殺が起こった。そして1994年にはアフリカのルワンダ共和国でラジオのデマ放送を信じたフツ族によって共存していたツチ族百万人が虐殺された。2003年には、アメリカによってイラク共和国が爆撃され、イラク戦争が始まる。それもイラクが大量破壊兵器を持っているという理由で、アメリカやイギリスなど日本を含める20カ国からなる連合国によって一方的にイラクへの攻撃が開始された。国連の安保理の反対を押し切っての戦争であった。すでに2008年までにアメリカ兵の死者は4千人を超え、イラク人治安部隊の死者は1万人とされ、国際保健機関は民間人の犠牲者は少なくとも15万人以上であると報している。このイラク戦争に見られるように、不確かな情報、デマやうわさを信じることで、一国を滅ぼすことが出来るという現代社会で繰り広げられた蛮行の起源を考えなければならないだろう。

▽ 魔女狩り裁判に関して言えば、中世社会では、迷信が信じられ、古代から続いた祈祷や占いが国家の政務として採用され、例えば、日本の古代社会は祈祷師である卑弥呼(175年から248年、邪馬台国の女王と思われている)が国を治め、また、それから600年後の平安時代(794年から1185年まで)でも天文観測や占いをする陰陽師(おんみょうじ)が中務省に勤め、国の業務の一部を司っていたのである。


中世社会の人々の意識 感覚中心主義と魔女の存在

▽ 中世社会では、世界は、人間の感覚・知覚できるものを基にして存在していると考えられていた。感覚・知覚された世界の姿を形相とアリストテレスは呼び、その形相の基になる物質世界を質料と呼んでいた。

▽ 中世の世界観では、幻覚や妄想も感覚された世界である以上、それは存在するのである。例えば、「あの女が魔女と夜に話をしているのを聞いた」という妄想も、魔女と話をしていたという錯覚を持った人間にとっては、そのリアルな感覚をもって現れる錯覚であり限り、その「魔女との密会」は現実の出来事として理解されるのである。その社会では、この妄想も、魔女の存在を信じている以上、「魔女と女が話をしていた」ということも実際に起きてもおかしくない話となる。そこで「あの女は魔女と密会をし、魔女から毒を貰っていた」という話に発展するのであろう。

▽ つまり、中世社会での魔女狩り裁判は起こるべくして起こる社会現象であった。科学的知識や世界観が存在していなかった。人間の感覚しか世界を了解(理解)するすべを持たなかった。そのため、幻想や幻覚であれ見えるものは全て存在しえたかった。


中世社会の世界観から近代社会への変化 天動説から地動説

▽ 2世紀に形成されたプトレマイオス天動説から17世紀の始めに形成されたケプラーの地動説への変換は、中世的な世界観から近代的世界観の変換を代表する事件であった。

▽ 現在でも、太陽が西に沈む光景を見て、「地球が動いている」と感じる人は誰も居ない。現代科学が活用する機器分析などのない肉眼で世界を観測調査していた中世の人々は、天体観測をして天動説を素朴に信じていただろう。その素朴な感覚経験主義が中世社会の世界観を支配していた。

▽ ケプラーは、これまでの中世社会から受け継がれた観測方法、望遠鏡を使用する天文観測を行っていたが、そのデータを数学的に整理した。つまり、中世の学問、スコラ学の自然学を理論的土台とするアリストテレスの世界観、人間的感覚を中心とした世界から、それを超越した世界(プラトンのイデアの世界)への変換の試みと、絶対的神の法則を信じるキリスト教神学の影響を受けた物理神学の立場から、神は世界(宇宙)を神のことば(数学)によって表現していると考えた。そして神のことばに近い数学を用いることで、宇宙の法則(神の法則)を見つけ出そうとしたのであった。

▽ 物理神学者であったコペルニクスやブルーノの地動説の先行研究を踏まえ、ケプラーは、1609年から1619年に掛けてケプラーの法則,惑星が太陽をひとつの焦点とする楕円軌道上を動くという第一法則、惑星と太陽とを結ぶ線分が短時間に描く面積は一定である(面性速度一定)と、惑星の公転周期の2乗は、軌道の長半径の3乗に比例するという第三法則を発表した。

▽ ケプラーの法則によって、地動説が成立したと同時に、その後、万有引力の法則を見つけ出すニュートンなどに大きな影響を与えることになり、古典力学の土台の一歩が形成されたといえる。つまり、ガリレオと共に、その後、デカルト、パスカル、ニュートンやライプニッツへと大きな影響を与え、近代科学の形成の土台を創ったといえる。




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冤罪防止と死刑廃止論

三石博行


▽ 本来、司法の民主的運営、つまり市民に開かれた裁判を目指して裁判員制度は導入された。その基本的目標は冤罪を防ぐことであった。冤罪が最も重大な裁判による人権問題である以上、それを防がなければ民主主義国家としての基本的理念、基本的人権擁護の社会思想を維持することは出来ない。

▽ もし、中世社会の「魔女狩り裁判」と同じように「冤罪」を犯す裁判が横行するなら、その社会は民主的社会でもなければ、国民主権を謳う(うたう)近代国家でもない。それはまるで宗教権力の恐怖国家と同じような検察や警察権力の恐怖国家であるといえるだろう。日本国憲法で基本的人権を守れている国民である以上、魔女狩りのように不当な冤罪被害を受けることは許されない。

▽ しかし、私たちは神でないので、間違いを犯す。その意味で私たちは冤罪を起こす可能性を否定することはできない。そうであればせめて、冤罪によって悲惨な結果になることを防ぐ必要はないだろうか。

▽ その意味で「死刑の廃止」は最低限の冤罪によって引き起こされる重大な誤りへの防波堤にもなる。

▽ しかし、これまで、冤罪による重大な失敗を食い止めるために、死刑廃止という考え方を述べたが、それに反対する意見もあった。何故なら、死刑廃止を行うことで重大犯罪が増加すると思われるからである。人は死刑を恐れて重大犯罪に走らないなら、死刑を廃止することは、社会に重大犯罪を起こす可能性を作ると考えるからである。

▽ これまで冤罪問題への解決を考えるために、色々な角度から犯罪による人権侵害、犯罪被害者とその家族の人権問題、犯罪加害者家族の人権問題、さらに犯罪者(服役中の犯罪者)の人権問題と異なる角度から、問題を考えてみる。



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公害と呼ばれる人権と生活権への被害

三石博行


産業有害廃棄物による生態系破壊の意味するもの 健康被害

▽ 企業の活動によって生産されるものは商品だけではない。商品にならないものつまり廃棄物も生産される。それらの廃棄物が有害である場合と無害な場合がある。企業が排出する廃棄物を産業廃棄物と呼ぶ。しかし、生活活動によっても廃棄物は生まれる。例えば、二酸化炭素である。火力発電、鉄鋼などの企業活動で多量の二酸化炭素が排出される。また、同様に生活活動(自動車を運転する、料理を作るなど)によって同じように多量の二酸化炭素は排出される。

▽ この二酸化炭素は一定濃度を超えない限り人体には有害ではない。しかし、その量が多くなると人体に害を及ぼす。Wikipediaの説明では、「空気中の二酸化炭素濃度が高くなると、人間は危険な状態に置かれる。濃度が 3~4% を超えると頭痛・めまい・吐き気などを催し、7% を超えると炭酸ガスナルコーシスのため数分で意識を失う」。

▽ 勿論、現在地球規模で進行している気象の温暖化現象はこの二酸化炭素によるものである。「2006年現在の大気中にはおよそ 381ppm(0.038%)ほどの濃度で二酸化炭素が含まれるが、氷床コアなどの分析から産業革命以前は、およそ 280ppm(0.028%)の濃度であったと推定されている」(Wikipedia)。つまり、この100年で大気中の二酸化炭素は約0.01%増加したと言われている。その意味で、やはり二酸化炭素は有害であるといえるだろう。

▽ 企業活動や生活活動によって廃棄物は生み出される。したがって、産業廃棄物のみが問題となっていた時代には、有毒廃棄物が生態系に流出して起こる環境問題とそれから生じた健康被害を公害と呼んでいた。


公害被害者への差別(奇病にされた公害病)

▽ 有毒な企業廃棄物によって生じる環境破壊(公害)は、そのまま、その有毒な物質を扱う企業内の勤労者にとって職業病の原因になる。エンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状態」の中で、当時のイギリスの労働者階級の劣悪な労働環境が述べられているが、それはそのまま、スモッグの町、ロンドンを意味しているのである。

▽ 20世紀の社会では、企業で働く人々は、彼らの企業活動によって引き起こされた環境破壊によってさらに引き起こされる住民の健康障害問題に関して、無神経になり、理解を示さない。何故なら、廃棄物処理による経営的な企業負担が増え、それが原因して企業倒産が起こるからである。企業廃棄物が引き起こす環境問題を考えることは、生活の場である職場を奪われることを20世紀の労働現場では意味していた。

▽ 水俣でも、水俣病に苦しむ人々を、「奇病」として差別してきた。そして多くの公害被害者が「奇病」に伴う差別を恐れ、公害被害を訴えなかった。その認定問題が半世紀を越えて問題となり続けたのである。


公害と労災職業病 (植田マンガンの例)

▽ 1970年代、大阪門真市に電池の素材になるマンガン鉱物を扱う植田マンガン株式会社が営業していた。大東市には松下電器の下請け企業が多くあった。植田マンガンもその一つであった。

▽ 当時、植田マンガンの近くに住んでいる住民から、「パーキンソン氏病」の原因となるマンガンを扱っている植田マンガンに対して公害反対運動が起こった。パーキンソン氏病とは新鮮麻痺(しんせんまひ)、つまり身体の震えがとまらない症状や歩行困難を引き起こす難病の一つにされていた。

▽ 近接住民の公害反対運動にもっとも激しく反抗したのは植田マンガンで働く労働者であった。かれらは公害反対運動の人々に体をはって抵抗した。植田マンガンで働く人々と近辺住民とが激しくいがみ合ったのである。

▽ 植田マンガンの会社は倒産した。その理由は、公害反対によるものでなく、電池産業の変化にあった。つまり、マンガン電池からアルカリ電池へと新しい性能の高い電池商品が開発されたからであった。その新たな産業の流れの中で公害企業植田マンガンは倒産したのである。

▽ 突然の会社倒産の知らせを受けてもっとも打撃を受けたのはそこで働く人々であった。彼らは、長年のマンガン鉱石を扱う労働によって、塵肺(じんぱい・肺に粉塵がたまり肺胞が硬く繊維化し、肺の機能が失われる病気)になり、またパーキンソン氏病(マンガン中毒)に罹っていた。

▽ 植田マンガンの労働者は組合を結成し、公害反対運動をしていた人々とも連絡を取り合って、マンガン中毒の職業病の認定と保障を獲得するために運動を起こした。


繰り返される問題、アスベスト粉塵問題の例

▽ 絶縁体で熱に強いアスベスト(石綿)は電気機器の中に、また耐熱材や建築材料として広く使われていた。しかし、アスベスト粉塵は肺気腫や肺がんを引き起こす物質であることが知られていた。1970年代のアメリカではアスベストの使用を禁止したが、日本ではその使用を2006年3月まで法律で禁止さることはなかった。そのため、アスベストによる被害は非常に広がった。

▽ 科学技術進歩によって、多くの化学物質が開発されてきた。そのことによって産業は発達し、多くの新商品が開発され、我々の社会は豊かになってきた。

▽ しかし、その反面、それら新しい素材の人体への影響に関する課題が生じる。例えば、ダイオキシンはもともと自然界に存在しないポリ塩素炭水化化合物である。その物質はごみの焼却(しょうきゃく)によっても生成される。その毒性は強く、ベトナム戦争時にアメリカ軍が枯葉剤として大量に使った。

▽ 我々は便利な化学物質を見つけ出し、また発明し合成している。それらの物質の毒性や環境負荷に関して知る必要がある。また、危険な物質の生産に関しては制限が必要となるだろう。

再生産するドグマ(固定観念)との終りない闘い

三石博行


近代合理主義から生まれた近代・現代科学技術

▽ デカルトが確立した近代合理主義、その思想によって開花し展開した古典物理学、古典物理学の形成によって近代科学は発展し、その科学の力によって新しい技術が形成され、生産道具から機械制生産様式が生み出され、その生産力の増大が資本主義文明を発展させる。強大な生産様式は工業生産に必要な資源の確保と大量生産物質の市場を求め動き出す。

▽ 資源確保のために資本主義生産様式を確立した国々は、未開の国々を征服し、植民地化していく、19世紀から20世紀前半に掛けて世界は列強(ヨーロッパ、アメリカとロシア)の植民地拡大政策の犠牲となってゆく。近代合理主義精神を土台にして形成された科学技術の力は、植民地確保のための武器となり、またユダヤ人の民族浄化のための道具(毒ガス)となって発展(?)し続けるのであった。

▽ もっとも近代科学の発達した国で民族浄化の毒ガスや核爆弾が開発され、正義のために使用されることになる。中世社会の話として忘れられていた「ユダヤ人が井戸に毒を入れた」という噂に挑発されたユダヤ人狩りと同じような行為が繰りかえされる。その「ユダヤ人狩り」を手伝ったのは、中世社会のケースと同じように一般の市民であった。彼らの民族愛や愛国精神の正義の行為が悲惨な虐殺の歴史を再び文明社会で繰り広げることになるのである。

▽ ユダヤ人虐殺や魔女狩り裁判で繰り広げられた中世末期の悲劇を繰りかえさないために15世紀のヨ
ーロッパでは中世の世界観への批判的検証がなされた。その一つにモンテーニュの人文主義運動があった。そのモンテーニュが展開する「懐疑論」は、中世の感覚主義的世界観を批判するものであった。この懐疑論は、その後、デカルトの方法的懐疑へと発展し、徹底的に感覚主義や素朴実在論の考え方は批判された。デカルトは方法的懐疑を通じ、近代合理主義を形成し、その近代合理主義は近代科学の形成の基礎となり、そこから古典物理学が形成され、科学は社会や経済の発展に寄与し、現代科学技術文明社会の形成の基礎が形成された。


現代科学技術文明の病理的側面

▽ そして、その現代科学技術文明の幕開けに化学工業の発展と化学兵器や物理学の進歩と核兵器が登場するのである。科学技術の発展は人類に豊かさをもたらしたという考え方と同時に一瞬にして人類を人類の力で破滅させる技術を開発したという考え方が生まれる。

▽ 魔女狩りやユダヤ人虐殺の背景にあった非科学的世界観は近代・現代科学の発展によって払拭された。しかし、ヒューマニズムを齎す(もたらす)とモンテーニュも信じたであろう科学的(合理的)な知識が、引き連れてきたのは人類を滅亡させる道具、核爆弾であった。確かに、科学の進歩は豊かな人類社会を実現したのであるが、同時に、核兵器と地球温暖化も作ってしまった。今、この科学技術文明社会の時代に起こった問題を解決するために何を考えるべきなのだろうか。

▽ デカルトは方法的に疑うことを教えてくれた。そのことで、日常生活で生じる色々な出来事、殆ど知覚的経験や感覚によって組み立てられている世界現象の核心に迫る知性の入り口、つまり、問題提起する力が身についたといえる。デカルトの業績は、日常生活で常に常識化している生活空間の構造や経験世界への疑問を方法的に組み立てることで、その世界の様相(ありさま)を本質的に理解しようとする力(知性)の入り口を教えたことである。


人間の全ての偏見(イドラ)の姿を理解するために ベーコンの四つのイドラとは

▽ しかし、デカルトの方法的懐疑だけでは、今日の問題に対応できないだろう。偏見や先入観は、感覚世界から齎される(もたらされる)だけでなく、科学的視点、社会的視点、文化的視点や人間的視点の中にも偏見や先入観は存在している。そこで、それらの偏見の姿を分析したフランシス・ベーコン(Francis Bacon, Baron、1561年-1626年)のイドラについて述べる。

▽ ベーコンは、「知は力なり」ということばで有名である。彼は16世紀から17世紀イギリスのキリスト教神学者、哲学者、法律家であり、「ノヴム・オルガヌム 新機関」(岩波文庫)という有名な書物を残した。この書物の中で、人間の偏見について4つのパターンを示した。その四つの姿をベーコンは4つのイドラ(イドラはアイドル(idol)の語源である)と呼んだ。

▽ 第一のイドラは「種族のイドラ」と呼ばれるもので、デカルトが方法的懐疑によって徹底的に点検した「感覚における錯覚」である。この種族のイドラは、一般に人間共通のものであり、すべての時代、社会、民族にわたって人々が持っている偏見や先入観である。

▽ 第二のイドラは「洞窟のイドラ」と呼ばれるもので、人は全て、その人の所属する家族、集団、共同体、社会、国家という狭い洞窟の中から世界を見ているようなものである。つまり、人は、その人が受けた社会の習慣や教育によって個性や性癖を持っている。知らず知らずのうちに、自分の所属する社会の常識や習慣による偏見や先入観を持つのである。

▽ 第三のイドラは「市場のイドラ」と呼ばれるものであり、「言葉が思考に及ぼす影響から生まれた偏見」である。つまり、口コミで伝わることば(口語)は、話し手の主観を抜きにして存在しないものである。語る人がいるので言葉が生まれる。その語り手がもつ主観的解釈が、伝えたい情報に混じることを防ぐことは出来ない。つまり、口頭で伝わる情報は情報発信者の解釈の混在を防ぐことが出来ない以上、それらの情報発信者のもっている主観的な偏見や先入観が必然的に情報に入り込むのである。

▽ 第四のイドラは「劇場のイドラ」と呼ばれるもので、知的生産を担う人々、現代社会なら知識人、ジャーナリスト、大学や研究機関(シンクタンク)の研究者たちである。これらの人々は、新しい学説、思想、理論を提案し、また評論を行う。社会の知的劇場の役者として、つねにある劇を演じているのである。その演じている劇の中で彼らが述べるセリフを庶民は聴いている。その台詞(せりふ)のシナリオを書く人と演じる人々とそれを聞く人々、聞く人々には彼らの台詞(せりふ)が世界の現実であり、新しい知識であると思われる。そして、ジャーナリズムに踊らされ、ベトナムやイラク爆撃を支援する市民が生まれる。彼らの偏見、場合によっては政治的先入観が市民の事実を見る判断を狂わせるのである。それが、大きな悲劇を生んできた。

▽ ベーコンの4つの先入観や偏見の原因に触れるまでもなく、魔術や占いの支配した中世社会ばかりでなく、科学技術の進歩した現代社会でも、多くの偏見が常に発生する余地がある。その偏見や先入観(思い込み)とどのようにして闘い続けるのかが、我々に問いかけられている問題であることに気付くのである。

中世的世界観の終焉 デカルトの方法的懐疑とその役割

三石博行


モンテーニュの懐疑論


▽ 1562年から1598年まで停戦を何度かはさんで続けられたフランスのカトリックとプロテスタントの宗教戦争・ユグノー戦争(Guerres de religion)で混乱するフランス・ヨーロッパ社会に対して、フランスの16世紀ルネッサンスを代表する哲学者であるミシェル・エケム・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne)は、宗教的正義を振りかざして闘う人々とその「正義」に対して懐疑の眼差しを向けた。彼の懐疑論はフランスのモラリスト(人文主義者)運動を呼び起こし、現実の人間を探求する思想を確立していった。

▽ モンテーニュの懐疑論は肯定的にも、否定的にもフランスの思想に大きな影響を与えた。懐疑主義に肯定的に影響された一人がルネ・デカルトであり、否定的に影響された一人がブレーズ・パスカルである。


デカルトの方法的懐疑とコギトの成立

▽ デカルトは感覚的世界の曖昧さを取り除く方法として「方法的懐疑」を展開する。デカルトは、まず疑えるものは疑える限り明確に確信できるものではないと考えた。そして、あらゆるものを疑った。例えば「自分が見ているものは本当に存在するのだろうか。もし、それが存在するかどうか疑うことが出来る限り、その存在を明確に確信立証できる根拠はない。」と考えた。その方法的懐疑を限りなく続けると、ほとんどものが疑う余地をもっている。全て、見えるもの、聞こえるもの、感じるもの、知っていたもの、理解していたこと、全てが疑う余地から逃れられない。その限りにおいて、それらのものは、全て明確に確信できるもの、明晰にして判明なものではないと考えた。

▽ ついにデカルトは「疑っている自分まで疑ってみた。」すると、疑っている限り、疑っていることを疑うことが出来ないことに達する。つまり、疑う自分は疑えないという結論に達するのである。この同義反復、疑う自分を疑う自分が疑っていることは矛盾であり、疑っている行為を疑うことは不可能であり、それ故に、疑う自分は疑えないと結論するのである。この結論「われ思う(疑う)故に、われ在り」の有名なデカルトの「ゴギト、エルゴースム」(コギト)の結論が導かれるのである。

▽ 中世の感覚中心主義の世界を否定すること、そのためには徹底的な懐疑が必要であった。それは自然な成り行きで疑うという手法でなく、徹底的に疑うために手段として疑う方法を用いることになる。これを「方法的懐疑」と呼び、デカルトは一生に一度ぐらい、こうして方法的に、徹底して疑う必要があると述べる。

▽ 疑うために疑うのは疑いの限界を見極めるためであった。そしてたどり着くのは「疑っている(考えている)自分は疑えない」という事実であった。その疑っている自分こそ明晰判明に了解(理解)していい存在であった。つまりものごとをあえて疑うことによって、思い込みの世界を意識的に破棄していく。そして明晰にして判明に存在している主観を、ただ「疑い続けている私のみが、疑うことができない」という結論に到達することになる。感覚や知覚を前提にして世界を了解している(世界があると理解している)自分のあらゆる明確でない意識をすべて否定して、それは疑える限りその感覚や意識が明確に疑いの余地もないものとして存在すると断言することはできないという論理から、唯一、疑っている私というものが、疑っている以上、それを疑うことは出来ないという結論に到達するのである。


デカルトの業績、感覚主義への批判と近代合理主義の設立

▽ 感覚主義を徹底的に退け、明確に確信できる世界は疑っている自己を疑がえない世界、1=1の世界であった。意識の最小の単位として「疑っている自己」を持込、その疑っている自己から全ての世界の認識を確立しようとした。デカルトの方法的懐疑は中世科学が根拠とする「感じている世界(形相界)は存在(質料界)している」という素朴存在論、感覚実在主義を否定することになる。明晰判明に存在していると言えることは、物事の存在を感じるか感じないかでなく、疑いもなくそれが成立していることを証明できているかであるとデカルトは主張するのである。つまり、デカルトの明晰判明な思惟の出発点がそこで成立するのである。

▽ デカルトから、「魔女狩り」の根拠である「魔女」と思う感覚は、そのうわさを信じている自分は、あまりにも不明確な物事を前提にして判断していることになる。つまり、その女が魔術をしていたと主張する人に、その見たものが本当に魔術であったかと疑いことで、それが疑える限り魔術であると断言することは出来なくなる。ましては、人のうわさをきいて、そのうわさに同感するものに対して、自分が見たこともない「その事実があるかを疑うことは最も簡単なことである」限り、まったく根拠のないうわさ話を信じることが間違いであることを説明できるのである。

▽ 天動説によると天体の運動は、地球を回っている惑星の運動、太陽の運動、恒星(星)の運動の三つがばらばらに説明されることになる。三つの異なる天体運動がそれぞれ独自に存在するなら、それらの天体運動を司る神の意思(法則)はどうなるのかという疑問が、当時の自然神学(物理神学)の中で生じる。 神はその僕である物質世界に色々な異なる決まりを作ったのだろうかという疑問から、一つの決まりで説明できる宇宙の解釈として地動説が展開されるのである。

▽ 1=1、1+1=2、故に1-1=0とするこれ以上単純化できない論理、その論理からなる体系としての数学、それは明晰にして判明なものからできあがった論理体系である。その明晰判明な論理体系を基にして世界を表現すること、神はこの明晰判明な論理体系を基にして世界を表現している。近代合理主義思想は、神の作った規則を説明できる言語として数学的表現で世界(物理運動)を説明する中で形成されるのである。

▽ 古典物理学を代表とする近代科学は、近代合理主義思想の形成を裏付けた。そして、感覚的経験から科学的経験、つまり知覚的経験主義から論理実証や科学的経験主義へと発展し、今日の科学技術思想の基礎を形成することになる。現代人の多くが「魔女」を信じないのは、その魔女の使うとされる魔術が本当に存在しているかが科学的に証明されないからである。その科学的に証明されない限り、それは確信できないことが今日の社会での世界観やものの見方、常識になっているのである。この今日、迷信を信じない現代人の考え方の第一歩を作ったのがデカルトの方法的懐疑であった。

「クローズアップ現代『犯罪“加害者”家族たちの告白』放映記録のテキスト批評

三石博行


1、資料の紹介

 ブログ 「sokの日記 初歩的疑問」、2010年5月9日記載 の中に、「クローズアップ現代『犯罪“加害者”家族たちの告白』」の番組を忠実に文字化した放映番組の紹介の資料があった。その資料を基にしながら、「クローズアップ現代(No2872)『犯罪“加害者”家族たちの告白』2010年4月7日(水曜日)」の放送番組の中で紹介され、討論された課題を使う。

 また、NHKホームページ クローズアップ現代 2010年4月7日放送 ジャンル社会問題 事件・事故「犯罪“加害者”家族たちの告白」も使う。

 テキスト批評と分析の方法に関しては、資料「レポート材料の作り方について」 を参考にする。


2,資料の要約

2-1、知られていない犯罪加害者家族の実態

 NHKは2010年4月7日(水曜日)にクローズアップ現代『犯罪“加害者”家族たちの告白』を放映し、犯罪加害者家族の人権問題を取り上げた。この番組の司会者は国谷裕子氏で、番組に参加した人は、人権NPOワールド・オープン・ハウス代表者の阿部恭子氏、犯罪被害者家族の浅野さん(仮名)、仙台青葉学院短期大学高橋聡美氏と常磐大学理事長の諸澤英道氏であった。

 キャスターの国谷裕子氏は「犯罪が社会に不安・恐怖をもたらす凶悪なものであった場合」、突然「加害者の家族になったことで」、家族は「申し訳ないという自責の念」をもっている。他方、社会で「犯罪に対する強い憤りが湧き上がる中で」、犯罪加害者家族は「身内が犯した罪に対して」、社会の「批判は家族やその親族にまで集中し易いため」、結果的に「加害者家族は事件で大きな影響を」受けることになる。

 特にインターネットによって、「家族の住所・勤務先・子供が通う学校なども情報が暴露され、匿名の第三者による厳しい社会的批判を、ますます受け易くなって」いる。さらに、「社会的制裁といった形に追い込まれ」、犯罪加害者家族は「仕事を辞めざるを得なくなった、自殺するケースも」あるという。

 犯罪被害者に対して、国は2002年に施行された犯罪被害者等基本法で、暫定的ではある支援制度が確立していった。しかし、加害者家族は社会の差別を避けるため身を隠すように生活している傾向があり、その実態はあまり知られていない。

 NHKのクローズアップ現代は、現在、日本社会で次第に問題化されつつある犯罪加害者家族の人権問題に触れた。


2-2、人権NPOワールド・オープン・ハウスの犯罪加害者家族の支援活動

 そこで、2009年8月、WOH 人権NPOワールド・オープン・ハウスが犯罪加害者の家族の調査を行った。全国規模でアンケート調査を実施した。「およそ1000名に呼びかけ、34人から回答が」あった。アンケートの結果、「安心して話せる人がいない 67%」、「被害者の遺族への対応に悩んだ 63%」、「報道にショックを受けた 58%」の回答が得られ、「多くの悩みを抱えていることが分か」った。

 人権NPOワールド・オープン・ハウスでは、家族が置かれている実態を知り、「心のケアを行う」ために、毎月1回加害者家族が集まり「普段、誰にも話せない悩みや不安を話し合う場を設け」ている。その会に参加した犯罪加害者家族が番組に匿名で登場し、人の多くいる場所、銀行や病院では「誰か知っている人はいないか」、「名前を呼ばれるのが厭(いや)だ」と告白していた。


2-3、子供への嫌がらせや自殺に追い込まれる犯罪加害者家族

 また、平成元年、4人の幼女が誘拐、殺害された事件で、犯人の家庭環境に問題があったとして、「その両親に非難が殺到し」た。「差出不明の「お前は死ね」とか、「娘も同じように殺してやる」という手紙や葉書が「山のように」来た。父親の弟は5つの会社の役員を辞職し妻とも離婚した。そして父親は自宅を売り払ったその代金を被害者遺族に支払う段取りをつけて自殺した。

 番組の取材に応じた犯罪加害者(夫が殺人事件を犯した)家族の浅野(仮名)さんは、子供を狙ってインタビューするマスコミ、見知らぬ人からの「人殺し」という電話、「殺人者の家」と玄関の横に書き、表札がはがされて割れていたことがあったと話した。また、インターネットで「子供の性別とか年令」とか「犯罪者の血をひいている子供も将来はそうなる(犯罪者になる)から、今のうちに抹殺したほうがいい」という書き込みがあった。「息子への書き込み」を見るのは辛かったと浅野さんは話していた。

 また、子供が非常に傷ついたのは学校での嫌がらせであった。転向を進められ、転向の際には今までの友達に別れを告げることも許されなかったという。


2-4、アジア的共同体社会(村落共同体)が生み出す連帯責任制度と犯罪被害者家族への批判

 犯罪学の専門家で犯罪被害者の問題を長年取り組んできた諸澤英道常磐大学教授は、加害者と加害者家族が一緒に批判される社会的風潮に関して「日本に限らず、アジアの近隣国も」犯罪加害者とその家族を一緒に非難する傾向があるのは似たようなもの、犯罪は、「家族とか地域とか、組織が生み出すという考え方」を持っていると分析している。

 この犯罪の連帯責任制度は、国家が、「家族や地域や職場から犯罪者を出さないように」犯罪の共同責任(連帯責任)を利用してきたもので、そのため「加害者も家族も」みんな犯罪責任者として「一緒だという見方が日本ではしっかりと」根づいて来たのだと諸澤教授は述べている。

 さらに、諸澤教授は、この日本の伝統的な村落共同体での連帯責任制度は、「犯罪をさせないという面では」「意味はあるのだと思」われるが、そのために、逆に、「犯罪者が抱える問題に目を瞑る(つむる)」ことになり、「犯罪者に対する、或いは、家族にたいするバッシングが起こってくる」と言っている。

 つまり、連帯責任を問題にする日本社会では、家族へのバッシング、人権侵害を「誰も止めようとしない」状態になり、さらに、最近ではインターネットの普及によって、犯罪者家族へのバッシングが「エスカレートしてくる」事態を引きここしている。そのため犯罪者家族の人権侵害を助長する「無責任な状態が起こることになると諸澤英道教授は述べている。


2-5、犯罪被害者と犯罪加害者家族の類似した実態と、将来、社会的承認される犯罪加害者家族支援運動の可能性

 諸澤英道教授はワールド・オープン・ハウスの行ったアンケート調査の結果を見て、犯罪「被害者遺族が抱える問題と、加害者の家族抱える問題」は「3分2は、少なくとも共通点がある」と述べている。

 例えば、「事件後、家族がみんなバラバラになってしまった。家族関係は悪くなった、人の目がきになる、近所の目が気になる、外出もできない」とか、第三者から「嫌がらせ」をうける」とか、また悩みや不安を安心して「相談できる相手がいない」という「たぐいの問題が加害者の家族にもある。これは、被害者の家族にもある」。

 つまり、犯罪被害者と犯罪加害者家族は共通した問題を抱えており、その共通した課題を抱えていることこそ、「社会が抱える大きな問題」ではないだろうかと諸澤教授は指摘している。
 また、長年、犯罪学の研究、犯罪被害者の人権を守るための社会運動に取り組んできた諸澤教授は、「15年前に」「被害者支援の組織を立ち上げて、それを動かすボランティアの養成講座をやってきた」。その15年間の活動を振り返り、そして犯罪被害者支援の会に「参加してくる人のほとんどが実は匿名であり、家族や職場に内緒で来て」おり、当然「マスコミ取材なんかも受けないという」という活動のスタイルであった。それが15年経って、現在、犯罪被害者支援の会はオープンに活動するようなった。会のメンバーは社会に堂々と自分の名前や活動を公開していると教授は述べている。

 このことを考えるなら、現在、犯罪加害者家族も15年前の犯罪被害者支援の会のメンバーのように、これから15年後は、犯罪加害者家族の支援の会もオープンに社会活動するように変化するのではないだろかと諸澤教授は述べている。そして彼は、犯罪加害者家族の支援活動も、今後は社会に認められ、支援者も社会的にオープンな活動を行うようになるだろうと語った。


3,資料テキスト批評と解釈

3-1、マスコミのあり方とその点検機能

 すでに本科目8回目の講義「犯罪防止と冤罪問題」で、冤罪事件の実例として取り上げた「松本サリン事件」でも、マスコミによって「(冤罪)犯罪被告者家族の人権」を侵害する問題が発生していた。

 まず、現実に起きている犯罪加害者の家族の人権問題を課題にする場合、犯罪の容疑を掛けられている犯罪被告人とすでに法廷で刑の執行を命令された犯罪加害者の場合を明確に峻別(しゅんべつ)しなければならない。社会もマスコミも犯罪被告人に対しては、犯罪者のように取り上げてはならない。

 つまり、特にマスコミは被告人を犯罪者として取り上げた場合、そこにすでにマスコミにおいて人権侵害が生じている。マスコミに人権侵害を点検する機能が不足している限り、マスコミは面白可笑しく、また興味本位で事件を報道し、犯罪被害者や犯罪被告人の人権を無視する可能性がある。

 ではどのようにしてマスコミによる人権侵害を防ぐことができるだろうか。マスコミの場合、報道を制約する法律や制度を設けられることを極力非難する。つまり、報道の自由を奪われることで民主主義社会の基本的骨組みにひびが入ると警告されることになる。マスコミは例え人権侵害の疑いありとういう理由によろうが、基本的には報道規制に関して敏感に対応する。報道規制は民主主義社会の批判精神を奪うことになり、社会報道規制によって、大きく市民の権利は奪われ、国家による大規模な人権侵害を引き起こすと考えるからである。

 それでは、マスコミが自ら作り出す「小さな人権侵害」は、「大きな人権侵害」のために容認されていいのだろうか。つまり犯罪被害者や犯罪加害者家族の人権問題は、表現の自由を奪う言論統制や報道規制によって、容認されて良いと言うのだろか。

 マスコミは、例えば松本サリン事件で毎日新聞やその他のマスコミが犯した誤報や人権侵害に対して、反省しなければならないのだが、その教訓から、マスコミは犯した報道上の誤りは、報道上の訂正で真摯に行う必要がある。また同時に、被害者への名誉毀損(めいよきそん)への損害賠償を支払うべきである。

 言い換えると、マスコミの誤報や人権侵害は今後も生じうる。そのため、そのマスコミの誤報や過剰報道による人権侵害の一つ一つをこまめに取り上げながら、その度ごとにマスコミの人権侵害の事実、それを書いた新聞記者や編集長の名前の公開、さらには、謝罪文章の記載のみでなく、その誤報や人権侵害への対応を具体的に報道する義務を負わなければならないだろう。

 また、マスコミも今回、NHKのクローズアップ現代が取り上げたように、犯罪被害者や犯罪加害者家族への人権侵害を取り上げた報道をもっとおこなうべきだろう。

 さらに人権侵害を犯すマスコミ報道に対しては、人権擁護法(違法者への罰則規定を含む)に基づいて、国、公共団体やNPOの機関に人権擁護委員会を設定し、被害者の訴えを受け、それらの機関で調査し、違法者に対して勧告や被害補償や謝罪要請を行えるようにしなければならない。もし、その勧告を無視した場合には、犯罪として刑事告訴できるようにする必要があるだろう。


3-2、人権擁護法の成立と人権擁護機関の設立の必要性

 人権侵害は多種多様な形態を持つ。多くの場合、社会的平等の権利を奪われ、不当に格差や差別を強いられることを意味する。例えば、在日外国人への差別、部落差別、身体障害者差別、雇用差別(臨時職員や派遣、パート職員への不当な雇用条件)、女性差別、民族差別、宗教上の差別、

 このような人権問題に対しては、2002年第154回国会に提出された「人権擁護法」があるが、2003年10月衆議院解散によって廃案となったままである。一日も早く、人権侵害の発生を防ぎ、また被害に対して適性かつ迅速な救済措置を取るための国の制度を確立しなければならない。

 犯罪被害者(家族)が犯罪加害者を気持ち的に許すには時間が必要である。犯罪被害者が持つ犯罪加害者への自然な感情としての恨みや憎しみは、それが復讐という犯罪行為として展開されない限り、その感情を抑制することは出来ないだろう。

 しかし、第三者が犯罪被害者の気持ちを代弁して、犯罪加害者の家族に対して嫌がらせをすることは犯罪である。被害者の気持ちを利用した犯罪行為として資料で紹介された第三者による犯罪加害者家族へ嫌がらせ、無言電話、インターネットでの書き込みを人権侵害、犯罪行為として訴える社会的機能、警察や第三者機関による人権侵害の告発機能が必要となるだろう。

 つまり、人権侵害を犯す人々に対しては、人権擁護法(違法者への罰則規定を含む)に基づいて、国、公共団体やNPOの機関に人権擁護委員会を設定し、被害者の訴えを受け、加害者を調査し、その違法行為に対して勧告や被害補償や謝罪要請を行えるようにしなければならない。またその行為が犯罪として認められる場合には、それらの機関が被害者の訴えに基づいて人権侵害者の刑事告訴が出来るように必要があるだろう。


3-3、犯罪被害者支援の会と犯罪加害者家族支援の会の交流の必要性

 犯罪学研究者で、今から15年前(1995年)に犯罪被害者支援の組織を立ち上げ、その支援組織でボランティア活動を行う人々を育ってきた常磐大学の諸澤英道教授は、犯罪被害者と犯罪加害者家族の抱えている問題が共通することを述べている。

 しかし、その双方の課題が共通していたとしても、犯罪被害者やその家族と犯罪加害者家族がお互いに話し合うには、双方の感情的問題が大きな支障となる。つまり、犯罪被害者は犯罪加害者家族と共通した問題を抱えていたとしても、相互にそれを解決する感情的立場や利害的立場を共有する土台がない。何故なら、被害者は加害者(その家族も含めて)に対して憎しみを持ち、また奪われた生活や生命に対する保障を要求する。しかし加害者家族は被害者への求める損害賠償や和解への要求をここで主張している訳ではない。むしろ加害者家族が受けている不当な扱い、つまり犯罪者本人でない家族が犯罪者と同じ社会的制裁を受ける理由が存在しないことを主張しているのである。それらの利害や感情の違いをここでは解決することは出来ないだろう。

 もし双方が同じ問題を抱えているならば、それらの解決は感情的に相容れない双方が共に取り上げるのでなく、むすろ、犯罪被害者を支援する会と犯罪加害者家族を支援する会が、お互いに第三者として被支援者の立場を理解するものとして、それらの共通する課題を考えることが可能である。

 (テキスト要約の中で)上記した、犯罪事件後、被害者家族も加害者家族も、「家族がみんなバラバラになってしまい」また、「家族関係は悪く」なった原因は何か。犯罪被害や犯罪加害者の家族という災難に遭遇することで、家族はそれぞれ苦しむ。それ故に、今まで以上に家族の中では十分な意思疎通が問われる。お互いの苦しみを分かち合い助けあう作業が問われる。もし、その作業に失敗したなら、当然の家族の絆は崩壊するのである。

 しかも、被害者(家族も含め)も加害者家族も、事件がマスコミで報道され、事件によっては世間の人々の関心や興味を誘い、またマスコミの取材のネタとなる。当然、双方、「人の目が気になる」、特に「近所の目が気になる」ために、「外出もできない」精神状態となる。また場合によっては、第三者の「嫌がらせ」に遭遇する。そうしたことを、「相談できる相手がいない」ため、ますます双方(被害者(家族も含め)も加害者家族)、世の中から遠ざかり、その分、話し相手を失う悪循環に入るのである。

 こういたたぐいの問題をよく理解しているのが、それぞれの支援の会の人々である。その意味で、支援の会が、被害者(家族)と加害者の家族の立場や解決しなければならない課題を理解していると思われる。その意味で、双方の支援の会が、双方の家族の人権を守るという点に関して議論をすることは問題解決の糸口を見つけ出すように思われる。


4,まとめ 

 以上、「クローズアップ現代(No2872)『犯罪“加害者”家族たちの告白』2010年4月7日(水曜日)」の放送番組の中で紹介され討論された内容の要約とその批評・解釈を行った。

 犯罪加害者の家族の人権擁護問題は、今、漸く(ようやく)、社会で取り上げられるようになり、また人権NPOが創られ、その支援運動が起こった。マスコミをはじめ、社会はこの問題に関して関心をもたないし、引き起こされる人権侵害に関する解決策を用意していない。

 その理由として、犯罪被害者との利害問題が発生すると考えるからである。つまり、犯罪加害者家族の人権擁護運動は、犯罪被害者擁護と対立すると考えるからである。

 それに対して、双方が抱えている課題や問題が現象的に極めて共通することが述べられている。そのことの解決が、犯罪加害者の家族の人権について考える契機を与えるだろう。

 双方の課題を引き起こしている基本的構造は、アジア的共同社会の伝統の中に、社会秩序維持機能として存在している「連帯責任制度」がある。裏を返せば個人主義思想の不在である。犯罪被害者やその家族にしても、それら被害の痛みを社会が共有する前提を失った場合、例えばレイプにあった女性に対する差別意識など、犯罪被害者も社会から排除されることになる。そして同様に犯罪加害者家族は犯罪者の罪の責任を担うことが当然のように主張されるのである。

 この問題の本質は、民主主義社会の基本になる人権思想が社会文化として、個々人の生活観や生活様式に浸透しない限り困難であることに気付かされるだろう。


5、参考資料

1、 ブログ 「sokの日記 初歩的疑問」、2010年5月9日記載 「クローズアップ現代『犯罪“加害者”家族たちの告白』」の資料、「クローズアップ現代(No2872)『犯罪“加害者”家族たちの告白』2010年4月7日(水曜日)放映番組の紹介」
http://sok-sok.seesaa.net/article/149336273.html

2、 NHKホームページ クローズアップ現代 2010年4月7日放送 ジャンル社会問題 事件・事故「犯罪“加害者”家族たちの告白」
http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=2872

3、 「WOH 人権NPO ワールド・オープン・ハウス」 公式サイト
http://www.worldopenheart.com/index2.html

4、 三石博行 教材「現代社会と人権問題 犯罪防止と冤罪問題」2010年5月、A4 4p.

5、 Wikipedia 「人権擁護法案」 
http://ja.wikipedia.org/wiki/

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