2010年3月9日火曜日

近代科学史の中の自己組織性の設計科学の位置

三石博行


自己組織性の設計科学論・慾慟の社会構築主義


人間の欲望を極力抑制することに成功していた中世的世界では、個人による多様な自己意識は発達せず、個人はある集団や社会の共同主観性を共有し合い、そのため個人の意識は集団的表象に大きく依存することで成立していた。

そこで、現代社会での自己意識を中世社会のそれに置き換えて、当時の人々の生活行為や生活意識を理解することは難しい。例えば当時の自己意識は必然的に村や部落での生活を営む上で必要とされる意識、生活作法、習慣や生活様式で成立していたと思われる。

近代になって、欲望をばねに社会的活力を生み出す社会になって、多様な生活様式・生産様式(分業)・多様な商品・多様な生活要求が生まれた。それらの多様性が、中世社会から、近代を経て現代社会へと生活様式を変遷させてきた。

その社会経済規則(制度)を資本主義と呼び、その社会経済思想を民主主義と呼んでいる。民主主義を構成する自由と平等の世界観によって、現代社会の生活世界・観念形態は生産し再生産し続けている。

現代の社会科学の調査対象は、これまで社会学が扱っていた個人の社会制度やその社会的役割から、変化していると思われる。

多様な社会集合、同じ生活目標に対して社会には多様な生活行為が存在する。それらの多様な社会的行為の背景は、その社会集団のあり方やそれを構成する人々の集団表象(ある社会集団では同じような社会観、生活感覚、ものの見方が存在している)の形態の違いを意味することになる。

現代社会は、人々は生まれながらにして所属階級(つまり労働者階級と資本家階級)の制約から生涯束縛されていた19世紀型の階級社会から、義務教育と教育の自由によって、教育の機会を均等に得ることが出来ことによって生み出される新しい格差社会を生み出そうとしている。それは、科学技術文明社会による知的生産能力の所有・非所有者の格差社会である。知識(情報とスキル)の所有が社会生産力を生み出し、生産性を高める資源になる社会が、出現している。

それらの社会現象を分析する有効な人間社会科学理論の構築が必要となっている。20世紀になって、社会科学に新しい方法が持ち込まれた。

例えば、その代表的なものに、20世紀社会学の主流である社会の機能構造分析と行動主義が挙げられる。機能主義の基本には有機体としての社会の理解が前提となっている。また、構造主義の基本には文化記号とその関係式によって成立している自我や言語体系と同じ観念形態としての社会構造の理解がある。行為論は個人的行為を社会行動の基本要素とし、それらの集合関係を述べることになる。その基本には個体の生命を維持する生理的行動、衣食住を確保する行為などがある。

近代科学としての社会科学は、その形成期から生物学に影響されてきた。リンネの形態学やダーウインの進化論に影響を受けたスペンサーの社会学、免疫学に影響されたモランなど1970年代のフランス社会学、そして分子遺伝学に影響された1990年代からの吉田民人の提案する人工物システム科学、設計科学や人工物プログラム科学論などがある。

労働時間に代表される社会的物理時間を前提して社会学が展開した古典派経済主義社会学が終わりを告げると、社会的制度や役割の空間分析を展開した機能構造分析が登場した。勿論、時間概念は喪失したままである。それに対して機械的時間から社会要素の記号的時間を導入することで、社会システム論が展開し、またそれに精神言語的時間を持ち込むことでポスト構造主義が登場する。

そして、欲望や生命のシステムを対象とすることで、自己組織性のシステム論が形成される。つまり、吉田民人の自己組織性の情報学の原点は欲望や慾慟を行為の原点とした「生活空間の機能-構造分析」が前提となっている。

この理論的展開の延長上に、吉田民人の「自己組織性の設計科学」がある。それは、慾慟によって運動し機能する社会構築を意味する。そのことを社会構築主義は理解しる必要があるだろう。



参考
三石博行のホームページ 「人間社会科学」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02.html

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人工物プログラム科学論の役割

三石博行


科学性の検証作業としての科学哲学(人工物プログラム科学論)の役割

人間社会科学は科学である以上、それを研究する時代性や文化社会性をもつ研究者の行為(研究と呼ばれる生活行為)によって成立している。換言するば、人間社会科学研究も、時代性に限定された主体と対象、それを構成している様相と実在の時代的社会的文化的要素に関する調査研究である。

すなわち、生活者である人間の行為から時代性社会的文化性を分離することが出来ない以上、知的生産行為を担う人間社会科学行為も、同じように時代性や文化性に規定されていることになる。しかし、人間社会科学の研究者にとって、自己の社会的文化的、そして時代的な精神構造の分析が研究課題ではない限り、研究主体のその制約条件を理解することは難しいことである。

人間社会科学、知的生産活動を日々行う人々、それらの研究とよばれる生活活動の中で、その研究対象である人間社会や文化の中に含まれている研究者の世界観、または研究者が観察している世界の認識評価のあり方が、その観察している世界を構成している要素、時代精神に依拠することを、その生活活動としての研究の中で、対自化することができるだろうか。それは、鏡のない空間で、自分の顔が見えますかと質問していることと同じように、無理な認識を要求していることに似ている。

そもそも、科学行為・知的生産行為の最中に、その生産主体の精神構造を分析するように要求しているのである。一般に精神分析家は、患者のために精神分析しているので、精神分析をしている自分の精神分析までは気は回らないだろう。

人間社会科学の時代性や文化性を理解認識するために「人間社会科学に関する科学認識論や科学哲学」がある。その学問は科学哲学と呼び、その学問は人間社会科学の科学性に関する哲学的研究の方法論によって成立する。今日、それらの学問分野を人間社会科学哲学(基礎論)や人工物プログラム科学論と呼んでいる。

そのため、人間社会科学はそれらの時代性や文化社会性を、人間社会科学哲学(基礎論)や人工物プログラム科学論の研究に委ねる。時代性や文化社会性に束縛された研究者がその束縛条件を前提にして成立している人間社会科学の理論研究の自己限界性を了解する上で、それらの研究者は、その人間社会科学の科学性点検作業の必要性を認めるのである。

例えば、ある時代の歴史的事件を研究する歴史学では、過去の文献や資料収集とそれに基づいた分析が行われる。科学である以上、事実を裏付ける物的証拠を根拠にしなければ歴史分析も解釈作業も不可能である。厳密な科学として歴史学はこれまで築かれてきた。

しかし、歴史研究を行っている時代からそれよりも過去を了解する研究者の、その時代性(精神)を、その歴史研究の最中に対自化することは困難である。彼が文献や考古学的研究から調査した過去の世界が「客観的」であると主観的に了解するのは当然であるが、しかし、その了解を彼の(研究者の)時代性や社会文化性に相対化することは、彼の研究途上作業である歴史学の課題ではない。

それらの課題は、つまり歴史学に対する科学哲学の役割であるといえる。しかし、歴史学研究が歴史学に関する科学哲学を必要としているのだろうかという課題がある。例えば歴史学が用いる歴史解釈、歴史学方法論、歴史的遺跡や文献調査の方法、それらの解釈の仕方等々を批判的に検討する課題は、歴史学から要求されているだろうかということである。もし、そのような要求がなければ、哲学が勝手に、科学に対して、科学哲学の必要を説いているだけであると言えよう。

人間社会科学は、人間的行為とその産物によって形成された世界(社会文化構造や機能、制度や役割、文字や言語、価値や美意識等々)に関して調査分析研究する学問(これまた知識化という人間的行為とその産物)である。これらの課題は時代とともに変化してきた。今、人間社会科学が対象とする世界は「科学技術文明社会」である。これまでの人間社会科学の対象であった世界(社会文化構造や機能、制度や役割、文字や言語、価値や美意識等々)が科学技術文明社会という様相の中で、今までと異なる。

例えば、現在の社会が、今までと異なる社会機能によって運営展開されている。例えば、技術革新、知的労働、研究開発商品、研究研究者集団、科学ジャーナリズム、高等教育の大衆化等々。それらの新しい社会文化的現象に対して、社会学は単にこれまでの科学技術社会学を導入することで、この新しい社会文化を認識評価し、その社会が必要としている問題に答えを出すことができるだろうか。これまでの社会学で培われた理論、社会行為、制度や役割に関する蓄積は、科学技術社会学にどのように継承されるのだろうか。

こうした疑問に答えるには、一つ一つの社会学分野をそれぞれの具体的研究活動の最中で見つめることでなく、問われる社会的文化的課題から、俯瞰的に見つめる視点が必要となる。それを、吉田民人は人工物プログラム科学論と呼んでいた。人間社会科学の科学哲学の必要性は、科学技術文明社会での伝統的、つまりこれまでの人間社会科学の有効性が問題になっていることが前提となる。

参考
三石博行のホームページ 「人間社会科学」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02.html


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人間社会科学の目的(時代性、文化性社会性)

三石博行


時代的文化社会的な問題解決学としての人間社会科学の存在理由


人間社会科学は、生活者とその環境を構成する形相(情報性、例えば言語、価値、表象などの様式要素)と質料(実在性、身体とその生産物の素材的要素)に関する認識と理解を得るための知的生産活動であり、その目的は、それらの生活者とその環境をより改善し改革し、生活者と呼ばれる人間の個体保存(自我安定)と種族保存(社会的安定)を得るためのものである。

人間社会科学は、対象の認識、つまり人間社会のあり方(機能性や構造性)の認識、と同時にその評価、言換えると生活主体との関係を課題にしている。そして、その認識や評価は生活環境の改善のために活用されることを目的としている。
すなわち、人間社会の認識と評価から推定される生活世界の改善のための実践的な行動指針となるのである。

人間社会科学の合理性はその実現可能な知の力によって了解されるという意味で人間社会科学も明らかに近代科学の伝統を受け継いでいるのである。すなわち、近代科学精神の上に立つ人間社会科学は実践的な「問題解決学」の思想を持っている。

解決しなければならない社会的文化的問題に対して実践的な解決能力、知的生産性を持つことによって人間社会科学の理論の検証は可能になっている。

もし、人間社会科学研究が、時代的社会的要求と呼ばれる時代性や社会性文化性に対して感受性を失うなら、それらの研究は、同時にその科学性、つまり知的生産能力の評価機能から離脱することになるだろう。

しかし、同時に政治、経済、社会文化政策と呼ばれる生活環境に直接影響する行為に直結するそれらの関与は、無条件の問題解決学の成立を許すわけには行かないことに気付く。

人間社会科学が調査分析する対象は何か、その了解の方法はどのようにして選択されたのか、その選択の基準は何か、そしてその方法論によって何が解釈可能なのか、その可能性の中で何を重視したのか、等々、人間社会科学の行為を一つひとつ点検すれば、人間社会科学を探求する(学習する)人々の生活基盤と生活課題が前提になっていることに気付く。それらの人々の知的生産力の土台や背景は、それらの人々の生活世界の現実にある。

換言すると、客観的科学としての人間社会科学は存在しない。歴史や文化的環境に規定された社会的行為としての人間社会科学は予め仮定した問題解決方向に対するある志向性をもった組み立て(企画)を持ち込む思惟であることも理解しなければならない。

問題解決学の成立する条件、つまりその解決への志向性、時代性や社会文化性に規定され、また解決の方向性を持つ生活主体がその解決学探求者であることを前提として成立する科学として人間社会科学を了解しておかなければならない。
その了解とは、人間社会科学が、それを研究する生活者の生活思想によって形成される学問であることの理解である。問題解決学とは、そこに生きる人々のための生活改善にほかならない。その志向性が、科学性として登場することになる。

生活改善のための問題解決学としての人間社会科学の知的生産能力は、それを支える、そしてそれに依拠した人々、階層、集団のために用意された技術、政策、時代思想、実践的方法、合理性として、彼らの期待する新たな時代的社会的地平に向かって進むための武器なのである。

その武器は、決して客観的に成立している問題解決方法ではない。また、その解決による評価も、全ての人々にとって平等に成立するものでもない。
極論すれば、知的生産行為を担う階層、集団の利益、その時代性、文化性社会性を前提にして人間社会科学は成立している。それらの集団、階層の時代性や社会文化性を代表し、擁護し、それらの人々のための問題解決策として、知的生産技術として、その知的体系は機能することになる。



参考
三石博行のホームページ 「ブログラム科学論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_01_03.html

「人間社会学」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02.html



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生活世界の設計科学の成立条件

三石博行


生活世界の姿 生活主体と生活環境の相補依存性


自己(生活主体)とその環境(生活対象)は相互相補的、相互束縛的な関係にある。自己は生活環境を具体的に構成する生活対象によって造られ、生活対象は生活主体によって造られる。生活主体と生活環境の機能や構造を生活世界と言う。生活者の社会生活的役割(内的要素)や制度(外的要素)や生活意識(内的要素)や生活行為(外的要素)等々、生活主体と生活対象は不可分の関係にある。

例えば、社会(生活)的役割は、社会(生活)制度によって生活者に要求、期待された社会的観念であり生活者個人の生活意識である。しかし、生活者個人でなくある生活者の集団的行為の繰り返し、つまりある生活行為の社会化によって、社会(生活)制度は確立する。

その社会生活制度の成立によって、生活者の生活役割意識が生活者を規定し、その個人の生活環境と生活意識を形成する。生活役割に関する意識を根拠とする生活行為によって、社会制度は運営され維持される。

生活世界が成立しているのは、生活意識によって生み出される生活行為とその生産物(生活環境、生活対象)とそれによって形成される生活意識(役割やモラル等)の、限りない生活主体と生活対象の相互循環型の再生産、構築と脱構築、維持と改良の運動によるものである。


人工物化の過程、社会化、労働と生産過程

また、社会(生活)的生産行為によって生み出される生産物は、すでに、その目的を生産物の物質的形態の中に取り込んでいる。採石の例に取ってみよう。石は、特定の目的で採掘され活用されている。活用目的によって石の種類や採石の仕方は変わる。例えば、鉄道線路や舗装道路のバラスは、岩石の種類もバラスの大きさも異なるのである。

採掘時に、石はすでにその利用目的(役割を与えられ)で採掘加工される。バラスの役割(利用目的)によって採掘の方法や技術’生産過程の決まりやシステム)が異なる。同じ、「バラス」と呼ばれる人工物(生産物)も、その利用目的によって、バラスの大きさ、硬さが異なるのである。

つまり、その自然の石は、採掘という生産行為を通じて、バラスという人間生活や生産活動など社会的機能を担う人工物になる。

勿論、抽象名詞と呼ばれる素材的背景を持たない情報世界がある。しかし、例えば「論理」と呼ばれる抽象名詞ですら「数式」「論理式」「論理的記述」と少なくとも文字や数字、つまりは紙やデスクトップの電子素材を通じて物理的に現れる素材的世界(実在)を背景にしなければ、表現不可能である。

また、「愛」も恋人や家族というある個人の具体的な行為やその結果生じる生活世界の具体的事象を背景にしているのである。神への愛と呼ばれる最も抽象的な世界があるとしても、それは生きている個人の生命や生活との関係で語られるだろう。

その意味で、我々の観ている世界、関わり生活している世界は、その世界の名称性(名目性)とその世界の実在性(物質性)を前提にしているといえる。


生活世界のプログラム構造

生活主体と生活環境によって構成された世界を生活世界と言う。その世界は、生活主体の意識と生活環境の表象など生活情報と生活主体や環境の物質的、生物的、社会文化的、精神的様式や素材によって構成されている生活資源からなる。生活情報とは生活資源のパターン、つまり形相(情報)を意味する。

また、生活資源とは、生活主体や生活環境を構成する要素、それらの要素の関係、その関係の関係等々を総合的に表現したものである。要素の物質・エネルギー的側面を生活素材と考える。また、要素の情報的側面を生活様式と考える。

生活主体の身体や精神も生活世界を構成する要素である。それを生活世界の内的要素と考える。生活環境は生活主体を取り巻く要素であるので、それを生活世界の外的要素と呼ぶ。


自己組織性の設計科学としての生活(科)学の成立条件

吉田民人の人工物システム科学やプログラム科学論から、生活世界を構成している機能-構造を生活世界のシステムと呼ぶことが出来る。

また、その生活世界のシステムは、生活主体と生活環境を構成する生活素材と生活様式によって構成されており、それらの構成要素とその関係式を総称して生活世界のプログラムと考える。生活学は生活世界の認識科学として生活システム科学であり、生活世界の改良科学として生活設計科学であると言える。

それらの生活世界(人工物)の認識/設計科学を展開するために、物質的法則、生物学的(シグナル性プログラム秩序)、人間社会科学的(シンボル性プログラム秩序)の三つの拡大ディスプリンからの総合的(俯瞰的)解釈が要求されるのである。

人間社会科学の対象とする世界(人工物に関する様相と実在の世界)は、それらの存在の情報性と物質性、様式と素材、形相と質料が相補的に成立している世界である。その世界解釈の理論として「人工物システム論」「設計科学論」「人工物プログラム科学論」がある。


font size="4" color=#00008b">設計科学としての生活学の課題

人工物プログラム科学論的視点
生活資源論
生活情報論
生活改善の政策科学的視点
生活学教育論
科学技術文明社会の中の生活空間の機能構造分析
生活改良の構造分析



参考
三石博行のホームページ 「プログラム科学論」
hhttp://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_01_03.html


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2010年3月6日土曜日

春風社

三石博行


研究室に「春風社」の営業担当、大木さんが訪れた。
夕方6時過ぎに研究室の明かりがついていたのが理由らしい。

春風社という出版社は始めて聞いた。
出版物を見ると、売れそうにも無い思想や哲学、学術書が多い。

どんな人物が、売れそうも無い本ばっかしを出版しているのかと興味を持った。

それから1週間も経ったなある日、三浦衛著『出版は風まかせ』春風社 2009年 がO木さんから送ってきた。

この人が、この売れそうに無い本ばっかりを出版している社長らしい。

短くまとまった実に上手な文体。

彼は、本が三度も飯よりも、素敵な女性よりも好きで、好きで、生きてきたのだと、感激。

こんな人間がまだ生きているのだ。

まんざら、日本の出版界も捨てたものでない。

しかし、電子化するこれからの出版界で、この春風社は、春嵐に吹き飛ばされはしないか。

少し、気になるのである。


春風社 サイト http://shumpu.com/

2010年3月2日火曜日

失敗は成功の母(中国の言葉らしい)

三石博行


失敗学の成立条件


人は不完全な存在である。常に過ちを犯すものである。そのことを認めなければ、人が失敗を犯すことを許すことはできない。自分の経験を振り返っても、失敗のなかった毎日もなく、失敗の連続であったとも言える。失敗をすることを認めないということはとうていできない。

では、なぜ人は失敗を責めるのだろうか。つまり、不可避的な人間的行為を責めるのは、その結果によって多くの被害が生じているからだろう。他人に迷惑が掛からない自分だけの失敗であれば、おおらかに失敗したことを笑って済ませられるだろう。しかし、多くの場合、失敗とは少なくとも自分以外の誰かに迷惑を掛ける結果と結びつくのである。

失敗を責める心を持つことで、他者との関係を維持することができる。失敗を責める心の一つを倫理と呼んでいる。その基本は他者に迷惑を掛けないというこころである。しかし、失敗することが避けがたい人間的行為であるなら、倫理とは実現不可能な生き方の目標であるといえるだろう。

換言すれば、この実現不可能な目標を持つことで、人は現実の自分に立ち向かっていくことになる。失敗する人間性と失敗を許さない倫理性の狭間で、その矛盾の中で、つねにその問題を抱えながら、人は現実の自己と理想の自己に鍛えられながら「豊かに生きる」ことができる。それらの葛藤は、「生活の質」を向上するための生活運動として、その倫理観として、点検とよばれる人間的行為として、存在する。

失敗という経験を基にしながら、もっと豊かな生き方を見つけ出すことはできないか。「失敗は成功の母である」(知り合いの中国のお医者さんから聞いたのだが)という命題を成立させるために、「失敗学」という学問がある


失敗はみんなの財産、失敗点検という仕事

失敗を貴重な体験として位置づけ、その経験を個人の能力や技能の点検のみでなく、共に働く仲間と失敗の原因追求を共有しようとする試みである。

失敗学の問いかける思想は、企業利益を先行する現代社会の在り方を点検し、人が社会生産の資源であることを教え、それを実現する方法を教えるだろう。その第一命題が、個人の失敗経験を仲間で共有するという考え方である。

何故なら、自分の「生活の質」の向上(生きがいや生活経済の安定)と他者の生活の質を向上するための仕事(サービスの質)は同次元に存在している。そのことを理解する作業が労働である。労働の質を向上させるために存在しているのが失敗学である。不可避的失敗行為を前提にして、失敗頻度を最小限に食い止める努力は、失敗の反省を個人的行為からより社会化することによって可能になる。

つまり、失敗を労働と同次元に引き上げて、労働という社会的行為の地平で問題化することで、より効果的な解決を見つけ出すことが可能になる。

全ての仕事は、結果的には他人の生活や生命にかかわることになる。その仕事への責任を、個人の問題でなく、共に働き生活する全ての人々と分かち合うことで、失敗の反省が個人的モラル活動から社会生活運動に変化する機会を得るのである。そして、失敗の反省という仕事が成立する。それが失敗学の目指す課題である。


失敗を記録する生活・企業文化

失敗学は現実主義の人間観を前提にして成立している。失敗学は、同時に具体的な技術学である。失敗学が進歩するためには、色々な技術開発が必要となる。

その一つの例として、医療機関で取り組まれている失敗記録「ヒヤリハット」がある。この「ヒヤリハット」に関する理解が、失敗に対する始末書と理解されているなら、まさしく、事業主や経営執行部の失敗である。まず、「ヒヤリハット」を書くにあたって、上司は彼らの部下に対して、その意味を説明しなければならない。上司がその意味を理解していない限り、「ヒヤリハット」は「始末書」となる。

さらに、「ヒヤリハット」を書くために企業は従業員に対して、少なくともその意味を説明するだけでなく、「ヒヤリハット」を企業が悪用しないこと、書いた結果で不利を従業員が受けないことを契約しなければならないだろう。つまり、「ヒヤリハット」を書くことは従業員の信頼の上に成り立つのである。

「ヒヤリハット」は失敗学を現実に適用するための技術の一つである。「ヒヤリハット」には書き方の基準はなく、自分なりの失敗に対する姿勢が問題になるが、それを育てるのは組織である。失敗に対する姿勢を涵養することが企業の課題となり、企業モラルの形成に展開していく。

企業がそのことを事業の一つとして受取り、企業モラルを形成する活動を行うこと、その社風(企業文化)形成に投資することが、結果的に企業利益となることを理解しなければならないだろう。

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労働の質を高めることの意味

三石博行


人を育てられない企業は社会的評価を受けない


仕事は、自分が生き、家族を養うために賃金を得る手段である。と同時に、社会と自分との関係を作り出す手段である。前者は仕事の成立条件である。後者は仕事の達成条件である。

仕事と呼ばれる以上、社会的必要性が前提になって成立している。すべての仕事も社会的需要があって成立している。そうでなければ、作った製品やサービスを売ることはできない。社会的評価はお金で示される。その評価が高い製品とは、よく売れる、高く売れることを意味する。
  
これを市場原理と呼んでいる。仕事は市場原理によって社会的につねに評価され続ける。それが仕事の宿命である。その評価を前提にして、前者の手段(生活の手段)を得ることができる。
                      
社会的需要が少なくともあることが、後者の成立している条件である。それは沢山売れたということよりも、社会で必要とされている質を問題にして成立している。その意味で、仕事を通じて人は社会的存在となることができる。

企業は商品やサービスを社会に提供する事業を行っている。企業の評価はそこで働く人々の仕事の評価の総集合である。社会に評価される仕事をしている企業とは社会的評価を多く集める仕事人を多く抱えている企業であるといえる。

企業内で日常的に行われる一つ一つの作業の質、例えば医療受付業務、看護業務、レントゲン技師の技術、医師のスキル等々、一つの医療機関を例に取っても、それを構成している一人ひとりの仕事の質が、その医療機関の社会的評価となる。命を預ける患者の立場に立ち、精一杯の努力、質の高い医療サービスを日々目指す医療機関に対する評価が、その医療機関を活用する患者数となる。

どのような仕事でも、市場の原理が働き、社会的評価が日々に下されている。

つまり、企業は、職員に対して、社会が自分の仕事を必要とする関係を作り出すことが、自分が生きるため、家族を育てるために賃金を得る手段を成立させる条件であることを教育しなければならないだろう。

働いた結果の社会評価によって自分たちは生きることができるという企業教育が、利己性と利他性との矛盾関係を解消し、人々は労働によって社会化されるという企業の本来のあり方を教えるのである。


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科学技術文明社会での企業の危機管理

三石博行


科学技術文明社会と消費者意識


科学技術社会では「科学の大衆化」や「大学・高等教育の大衆化」が起こる。市民は、極めて高度な科学技術的知識にTVや雑誌、新聞等で日常的に触れる機会に恵まれており、先端科学技術の知識を理解することができる。

そのことによって、企業が開発した先端科学技術の知識も、また先端医療の発展で開発されてきた治療法に関しても、その原理から理解することができる。インターネット上ではそれらの技術に関する解説が数多く紹介されている。

こうした科学技術文明社会では、1960年代水俣で発生した公害病のように「感染するかもしれない奇病」とか「原因不明の祟り」とかいう中世的魔女狩り的な流言は通用しなくなる。公害と呼ばれた環境破壊による健康障害の原因の解明も専門家の公式見解を待つまでもなく、市民の力でその原因を分析調査することができる。そうなれば、チッソ水俣の企業のように、環境と健康破壊の責任を20年近く認めないという行動は不可能になる。

1990年代後半から2000年のはじめに、日本の経営者は三菱自動車、雪印、ミートボール等々、クレーム問題の解決方法を誤り、真摯に問題解決に努力しなかった企業は、社会から葬り去られることになる。この厳しい消費者の対応、消費者をごまかすことの恐ろしさを日本の企業は学んだ。


企業の危機管理としてのクレーム対策

現在の企業の危機管理の中に、クレーム対策が入っていなければ、その企業や経営体は存続条件を満たしていないと言われても仕方がないのである。

クレーム対策が経営にとって重大な経営戦略を意味する時代、それはそのクレームに学ぶという経営学的視点がなければならない。今回のトヨタの対応も、クレームを[アメリカのバッシング」だと言って済まされない状況を知ったと思う。企業内でのクレーム対応の点検やクレーム対策を企業文化とし得ない組織は、存続できない。

クレーム対応の仕方、それは原因を科学技術的な説明で明確に答え、それに対する対応、その解決策も専門的な視点から説明しなければならない。素人に専門的な問題を話して無駄だという企業は、その場で、淘汰されるかもしれない。

なぜ効果があるのか、なぜ価値があるのか、それらの科学的説明がなされなければならない。その情報公開を前提にしなければ、商品評価は得られない。そして、公開した説明に即した効果がない場合には、当然、消費者からクレームが掛かる。

これが現代の消費者社会の姿である。その消費者の要求を理解しない企業は、今後、存続できないだろう。それが、企業の問われる危機管理の一つとなるのである。


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経済性とは

三石博行


経済的であることは現実的であり、現実的であることが経済的である


持ち合わせの資金も資源も、しかも時間もない困難な状況の中で、問題を解決し、状況を切り開くためには、現状の力や資源を十分に活用する発想が必要である。

事業を成功させるためのマネージメント力とそれを実現するために必要な人的資源に関する、常に現実的な自己自身の理解に立ち、最も現実的な手段を選択することからはじめなければならない。

つまり、最小限の投資力で最大限の効果を生み出す戦略を持ち、現実の社会的文化的な状況を調査し、それに基づき具体的な対策や方針を考え、企画し、組織内部の人々の力を集める努力が必要となるだろう。

集団の中で常に自然に発生する異なる勢力、意見をプラスに活用する指導力がなければ、事業を成功させることは出来ない。

リーダーは、異なる意見を集め、異なる勢力のオープンな話し合いを組織し、それらの勢力が将来プランで大きく合意し合うために努力しなければならないだろう。

現実的な運営によって経済的な効果が生み出される。

その現実的な解決策を最後まで貫徹する強い意志と熱意を指導者は持たなければならない。

それによって、ようやくこの恐ろしく困難な事態の戸口に向かって、勇気と確信をもって進むことが出来るかも知れない。

困難な状況こそ合理的精神や経済的機能を生み出す環境となる。

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問題解決の思想

三石博行


実践的なものは理論的であり、理論的なものは実践的である


問題解決には、常に現実的な視点、目の前の状況や課題に対する問題解決力が必要となる。

と同時に、今後予測される現実に対する対応策を検討し準備する能力が一方で問われる。言換えると、最も現実的な回答を得るために、理念や思想と呼ばれる問題解決の方向や問題分析の視点が求められる。

現実的問題解決力は理念的課題分析力によって支えられ、社会や歴史の大きな流れを理解することで目の前の具体的な問題解決力の鍵を得る。

それは、あたかも険しい道を猛スピードで走るレーサーのように、命取りになる目の前の障害物を一つ一つ見逃さずにキャッチしながらも、少し遠くを眺め、道の流れを理解しておかねばならない運転と似ている。

一見異なる二つの理解力、極めて具体的な問題解決力と大きな時代や社会の流れを理解する俯瞰的な問題了解力、それらの二つの情報処理能力が、何をするにしても常に問われることになる。


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2010年2月17日水曜日

吉田民人先生を偲ぶ

三石博行


「先生、天から降りてきて、この文章の意味を説明いしてよ」


吉田先生にお会いしたのは関西大学で社会経済システム学会があった時だった。そして、2000年秋の同学会全国大会が奈良女子大学で開催され、大会シンポジュームの基調報告者3名の中に吉田先生と共に報告することになったとき、学会主催者からシンポジュームのために事前に報告者の報告文章が送られて来た。そのとくはじめて、先生の「プログラム科学論」「設計科学」の概念に触れることができた。それは、驚きであった。私が追い求めていた概念が、すでに体系化されて書かれてあった。
シンポジューム報告では、自分の理論の紹介よりも、吉田先生のプログラム科学論との関係での私の「生活資源論」の概念の紹介になったことを覚えている。

それから先生に連絡を取った。第1回目の先生の無償講義は東京市谷の私学会館だった。先生は若い時代、高校時代の思い出からお話された。京大文学部哲学科に入学され、社会学を専攻されたが、近所にご住まいの先生に分析哲学の講義を受けたお話、色々な若い時代の失敗談に至るまで、お話をされた。プログラム科学論の講義を受けに来ていた私は、録音をしながら、何一つ先生のお話を聞き漏らさない意気込みであったので、先生の個人的なあまり公にできそうもない失敗談まで録音し続けていることに戸惑いを感じていたが、当の先生は、そんなことはお構いなしで、あまり面識のない私にためらいもなく、お話を続けられた。
日本社会科学界の権威であり、当時、日本学術会議副議長をされている先生が、躊躇することなく、過去の失敗を話されることに私は、ただ驚くばかりであった。

それから、何回となく先生の無償の講義が続いた。その度ごとに、先生から論文を渡された。そして、その度ごとに、私の論文をまるで学生がレポート提出をするように、先生に渡した。
次の機会に、先生は私の論文の中で、よいと思えるところを述べた。
また、私の方は、先生の理論が新しい科学哲学の提案であると理解し始めた。

関西大学での大学院の講義や国際高等研の研究会に参加される時、こんどは私の自宅で、朝から夕方までの無償の講義をお願いすることになった。しかも、先生が肝臓の病気であることは知らなかった私は、長い時間の講義を続ける先生に対して身体的な心配などしたこともなかった。何時間でも理論上の議論をされる精力的な姿からは、重い病気をもっているとは到底思えなかった。
遺伝子免疫学の話になって、隣で聞いていた妻はその研究を続けていたために、話に加わる。そして、話はますます専門的になっていった。

先生にお会いして、勉強を続ければ続けるほど、先生の理論だけでなく、先生の人格、学者精神に触れる機会に出会えた。そして、ひたすらに学問好き、真理を追い求める謙虚な姿、学生のような(子供のような)精神の柔らかさに接し、感激した。今となって、先生の学問的理論を学ぶことへの幸運さと共に、いやそれ以上に、ひたすら学問を研究する、最後の最後まで研究者として生きている人間吉田民人に出会えた幸運を感じる。

それは尊敬の念を超え、これこそが自分が死を前にして、こうあってほしいと望む、生きている理想の姿ではないかと思えた。

先生はよく私に、「死ぬことは怖くない」と言われていた。しかしひとつだけやり残している仕事があるといわれていた。それは自分の理論を世界レベルで検証することであると言うことだった。
そうした思いを語った時、先生は「第一回国際システム研究会関連世界大会」で基調報告をすることになった。先生の理論を英訳し、それが出版された。大きな反響だった。また、先生のスピーチ、発音も素晴らしかった。英語のうまさは驚きであった。そして、多くの海外の研究者から、論文の依頼があった。しかし、先生の理論を英訳する時間は先生には残されていなかった。残念である。先生の理論は、おそらく、世界の社会科学、科学哲学の最先端であり、それがいち早く世界に紹介されないのは、多くの日本の優れた人間社会科学理論と同じように、日本語のローカル性によるものだ。

私が先生に理論的な面でもっとも感謝しなければならなかたのは、私の中でかくて批判学として成立していた概念がいつの間にか固定概念として、それ以上、新しい概念を受け入れないほどに保守化している現実を知った時であった。つまり、我々の世代、物理主義への批判から来る現象学的な世界認識、素朴実在論への批判、その極論としての存在論の否定、そうした世界観がいつのまにか私の固定概念を形成していた。そのため、吉田先生の進化論的存在論を理解するためには、非常に多くの時間が必要だった。物理主義を批判しながら、なぜ、哲学が自然存在論を語る権利をここで再び主張するのだろうかと疑問を投げる。しかし、その存在論は先生の情報概念の理解を前提にしていたし、それは資源概念を前提にしていた。しかも、その存在論はプログラム性、つまり、自己組織性をもっていた。そこで進化論的存在論と命名されていた。

吉田科学論(科学哲学)の概念を正しく理解するためには多くの時間が必要だった。私は、幸運にも、直接、先生へ質問する機会を得た。しかし、何とも不十分であった。もっと時間が必要だった。

現在、Eddy Van Drom氏(大阪大学理学博士)と吉田先生の論文をフランス語にし、英語に翻訳している。困難な概念に時間を費やされるたびに、「先生、天から降りてきて、この文章の意味を説明してよ」とEddyさんが叫ぶ。私も苦笑する。 そして私は必死になって文章の意味を、色々な具体例を取り出して、説明する。フランス語日本語が行き交う。 文章の意味に関する議論、解釈、具体例を引いて演習等々、我々の吉田理論の理解に関する検証作業を経ながら、4時間で僅か半ページの文章がフランス語訳される。はじめのころは、五分の1ページ進むだけで、時間が過ぎた。

私への無償講義の最中、先生も私に、色々な具体例を取って、理論の説明された。今、私が、それをしなければならない。 具体例を引くことで、まるで昔やった物理学や化学の演習問題を解いているような思いになる。 しかも、具体例で理論の検証をすることが、プログラム科学論の精神(科学哲学的意味)を持っていることを実感できる。

一緒にプログラム科学論研究会を立ち上げた槇和男氏(京大理学博士)が、吉田先生の論文や本を読みながら「まるで、物理の本を読んでいるようだ」と言ったことを思い出す。 それは、二つの意味がある。一つは、科学論理的厳密性を問われる学習であること。もう一つは、現実の人間社会の課題や問題の認識、解釈と解決に対して理論が力を持つことで、その理論の正しは検証されるということである。理論物理化学を研究し、それを企業で実際のシステムや商品開発に応用してきた槇氏であるからこそ、吉田先生のプログラム科学論の真意が理解できるのだと思えた。

私のプログラム科学論の学習は始まったばかりである。いい友に恵まれ、そして多くの仲間の参加を願いながら、吉田民人という個人に具現化した学者精神、つまり吉田民人先生個人が望んでやまなかった理論形成、これからの科学技術文明社会における人間社会学科学の科学基礎理論の形成、またそれに向かうための真摯な科学精神を身にした一学徒精神へ、吉田民人先生のこころを学び、受け継ぐことであろう。  

問われる現実の課題に立ち向かう研究者の真摯な姿を持ち続け、研究活動を続ける日常生活の中で、私たちは、つまでも、先生とともに生きることができ、先生は、私たちの研究活動や思想活動の中に生き続けるだろう。

合掌

参考


三石博行のホームページ 「哲学」「プログラム科学論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_01_03.html

吉田民人論文リスト
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_01_03/cYoshida_ronbunlist.pdf



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2010年1月28日木曜日

吉田民人先生の論文リスト完成

三石博行


昨年10月27日の不幸な知らせを受けて、急遽、吉田民人先生の論文リストの作成に取り掛かりました。

吉田民人先生が1959年から2008年までに発表されました論文を殆ど入手し、リストにしました。
リストは グループメール「プログラム科学論研究会」の「ファイル」に「吉田民人論文リスト(1958-2008)というPDFファイル名を付けて置いてありますので、誰でもダウンロードできます。必要な方は、活用してください。

プログラム科学論のサイトでは、ファイルを添付できません。
そこで 三石博行ホームページに「吉田民人論文リスト」のページを作ってあります。


三石博行のプログラム科学論研究
発表論文等記載
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_01_03.html

吉田民人先生の発表論文リスト
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_01_03/cYoshida_ronbunlist.pdf


プログラム科学論研究会
http://groups.google.co.jp/group/programeology?hl=ja


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プログラム科学論・自己組織性の設計科学に関する文書はブログ文書集を見てください。

ブログ文書集「プログラム科学論・自己組織性の設計科学」目次と文書リンク
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_3891.html


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2010年1月7日木曜日

コルカタ

コルカタ

三十年ぶりのコルカタ。
昔のリキシャはタクシーに代わって、すごい排気ガスを出しながら走っている。

必死になってその日を生きている人々。

明日という幻想でなく、これから1時間後に生きていられるという幻想を痛いほど理解さす街。

それでも、人々は激しい喧騒の呼びかけ合いの中に、私の理解をはるかに超えたやさしさをもっていた。

それは理解を超えた文法と意味からなるクラクションのメロディーだった。

生きることに執着することは美しいのだとドロだらけのアスファルトから、
もうもうと湯煙を上げて、壊れた陶器のかけらが騒ぐ。

これは限界の世界だ。
これは狂気の世界だ。

それでも、人々の生はあまりにも軽く湯煙のように散っていく。

もし、明日があれば、それは奇跡だ。
もし、君と明日出会えれば、それも奇跡だ。

それは、寛容の世界だ。
それは、了解の世界だ。

しかし、もう私は眠い。

2009年10月29日木曜日

東アジア共同体構想と日本のEU協会運動の役割

22世紀を迎えるとき評価される壮大な試みとしての東アジア共同体構想

The social role of the Kyoto・Nara EU Association and the idea of anEast Asia Community (EAC)

Hiroyuki Mitsuishi

We hope to create a plan for the establishment of the EAC, however,this formation could be difficult because of the different politicalsystems in Japan, Korea and China. Because of the different economicgoals of these countries, the EAC should begin the first step byworking towards friendly relations between the three countries, whichis the goal of the EAC. And, these improved relations will help thecivic cultural exchange in East Asia which willl also help theserelationships to develop. In addition, the credit transfer systembetween universities in East Asia countries, which the Japanesegovernment is planning, will also help to encourage talented peopleto help establish the EAC.


現政権が打ち出した東アジア共同体構想は実現して欲しい課題である。これまでの歴史の中で、国際的な国家の連合の枠組みを決定していたものは共通する政治的立場や利害であった。例えば、55年体制を代表するソ連を中心とする社会主義国家連合とアメリカを中心とする自由主義(資本主義)国家連合の二つの国家連合があった。同様に、欧州石炭鉄鋼共同体設立から出発したヨーロッパ共同体も共通する政治経済の立場にたった自由主義国家の連合である。

その共同体を共通の政治文化理念として支えていたのはヨーロッパ評議会である。「人権、民主主義と法の支配」を理念とし、人権裁判所設置、死刑廃止などの人権擁護、ヨーロッパ文化アイデンティティの保護とその文化的多様性の推進など欧州地域の少数民族言語の保護、環境問題、教育問題、スポーツ推進、青少年の保護、共同司法制度、麻薬や組織犯罪などの撲滅、文化財保護、ヨーロッパ内の格差廃止、開発資金の設置などにヨーロッパ評議会は取り組んできた。

日韓中を中心とする東アジア共同体構想はヨーロッパ共同体の違い、必ずしも自由主義国家の連合体ではない。その意味でEU形成の政治文化思想基盤を均すための役割であったヨーロッパ評議会に相当する共同体形成のための推進機能を準備することは困難であろう。しかし、鳩山政権の推進するこの構想は、当時不可能と言われていたEUへの長く困難な試みと同じように、21世紀半ばを過ぎ、22世紀を迎えるとき、評価される壮大な試みであると言える。


まず、東アジア共同の経済的利益を前提として出発

アジア周辺国の近代化は必ずしも欧米型近代国家の形成と類似した形態を取るとは限らない。ソ連や社会主義中国の形成は、明治維新によって成立した大日本帝国と同じように、欧米列強の帝国主義植民地政策から自国を防衛するための、つまり近代工業化を国家主義的に推進するための手段であった。その意味で、東アジア共同体の中で、自由経済を推進する社会主義中国と自由主義国家日本と韓国がそれぞれの国家の政治経済の利益を共有することが可能であると言える。

東アジアの平和と安全を保障するために、ソ連崩壊や中国の改革開放以後、日米同盟には仮想敵国として民主主義ロシアや現在の現代中国を位置付ける必要はない。その意味で、基本的に日米同盟と東アジア共同体構想が対立することはない(勿論、日本は東アジアの政治的安定のためにロシアとも和平条約を提携する必要があるのだが)。

しかし、人権問題や国内政治のあり方でも異なる政治制度を持つ中国と東アジア共同体構想を育て形成していくためには、共通する政治文化を性急に要求し合うことは出来ない。そのことがまず、東アジア共同体構想が出発するための第一公理である。そして、この構想が展開していくための第二公理は、東アジア共同体構想の基本に経済的共通の利益を置く、東アジア経済共同体形成の構想が展開されることである。例えば、東アジア経済共同体では、未来型産業の共同研究、省エネ・資源再利用型産業、農工産業の形成、第四次産業(研究開発型産業)育成等々の課題が緊急に検討されるだろう。


東アジア文化アイデンティティの形成に向けた交流と日韓中大学間単位互換制度の確立の意味とEU協会の役割


数年前の韓流ブームは、日本に近くて最も遠い国であった韓国を本来の地理的位置に戻した。多くの日本人がハングル語を学び、今や大学で多くの学生が第二外国語としてハングル語を選択している。そして、NHKのEV特集「日本と朝鮮半島2000年」の番組に観られるように日韓間の緊密な歴史が大衆的に検証・了解されようとしている。この数年の日韓関係の改善に韓流ブームを起こした韓国ドラマの功績は大きい。

韓国や日本の文化は中国文明の影響を抜きには語れない。この三つの国に共通する文化は、2000年以上前から続いてきた東アジアの文化・人的交流によって形成された。東アジアには儒教や仏教を中心とした生活文化アイデンティティが存在する。自然観や芸術文化、建造物、生活感覚など東アジア独自の文化、その文化的多様性が、2000年の時を経て得られた我々の生活文化の基底を構成する。そして、ここ150年間で、私たち東アジアの文化は、経済発展に必要な近代工業化社会建設の中で共に変貌しようとしている。

共通する経済的利益を前提に発展する東アジア共同体の流れを根底から支える力は、東アジアの人々が文化アイデンティティを共有することである。しかし、わが国は、過去の戦争の過ちに対して、十分に向き合っていると被害国の国民に思われていない。まず、そのことを解決しなければならない。再び悲惨な戦争を東アジアで起こさないために、東アジア市民間の文化・人的交流を創らなければならない。

すでに、現政権は日韓中三国の大学間単位互換性制度を具体的に提案している。EUのエラスムス・プログラムによってヨーロッパの大学ではEU内の学生が共に学び交流する機会を得ている。EU大学間の共同研究や良い意味の大学間競争も起こり、EUの将来を担う若者がそこで育っている。EUの大学コンソーシアムに学ぶことは多い。また大学コンソーシアム京都の経験は、東アジア高等教育単位互換制度を確立するときに具体的に役立つと思われる。京都・奈良EU協会は、日欧学術教育文化交流活動でヨーロッパ学研修プログラム等を企画し活動している。これらのプログラムを、将来、東アジア共同体を担う人々の教育として位置づけ、活動を続けなければならない。何故なら、我々がEUに学びEU市民と交流する目的は、我々東アジア生活文化圏の平和と共存のためにあるからだ。

KNEU-No4 京都・奈良EU協会 会報No4 記載


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6. EU関係及びEU協会運動

6-1、生活運動としての国際交流運動

http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_14.html

6-2、日欧学術教育文化交流委員会ニュース配信
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_8507.html

6-3、文化経済学的視点に立った国際交流活動
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_26.html

6-4、新しい国際交流活動のあり方を模索して
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/06/blog-post.html

6-5、我々はEUに何を学ぶのか
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/07/eu.html

6-6、東アジア諸国でのEU協会運動の交流は可能か
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/09/eu.html

6-7、東アジア共同体構想と日本のEU協会運動の役割
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/10/eu.html

6-8、欧州連合国の成功が21世紀の国際化社会の方向を決める
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/21.html

6-9、Eddy Van Drom 氏のインターネット講座 ヨーロッパ評議会の形成史
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/10/eddy-vandrom.html
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」 から

2009年10月8日木曜日

批判的にも共存する方法

三石博行


自己制御プログラムの形成の必要性

誰でも、ある不当な扱いを受けたとき、その不当さに憤りする。人から受けた不当な扱いや暴力に対して異議を申し立て、また反撃に出るのは至って当然の行為である。その限り、人々の相互の行為は「やってはやられる」ことを繰り返し、その繰り返しを続けながら、あるときは仲良くなり、あるときは決定的な敵対関係に発展する。それが人々のコミュニケーションのあり方であり、人の生き方であり、人が人に対する考え方であり、それが人々の人生の姿となっていることは疑えない。

どんなシステムでも、そのシステムの運用を間違い、結果的に誤りを犯すことが必然的に生じる。間違いはシステムの必然的現象であるともいえる。システムと呼ばれるプログラムの運用機能が、そのプログラムの運用を必然的に間違うのである。つまり、間違いを犯すことまで、システムプログラムの組み込まれているかのようである。例えば、遺伝子のコピーの誤りから、モラル的誤り、社会秩序の混乱など、誤りはシステムの運動の中で必然的に生じる現象であると言える。システム上の問題は、それらの誤作動によって生じたバグやごみを処理する機能があるということで、誤りの結果、誤りの過程に学ぶ機能があるということだ。そして、その誤りの結果を修正する機能がなければ、システムは崩壊するので、その優秀な機能があることが最大の問題になる。

例えば、一国主義の国際外交政策でさんざん失敗を重ねてブッシュ政権の誤りを、オバマ政権が修正することが出来るのも、民主主義国家としてのアメリカの政治的機能である。アメリカの政治というシステムが過去の外交政策の誤りを修正できる機能を持つということが、アメリカへの信頼となるだろう。そして、日米同盟を考える上でも、そうした相互の国際政策の誤りや正しさを評価し修正しあえる関係こそが、政治的システムの中で求められている。日本の民主党の言う「日米間の対等な関係」とは、日米同盟が健全な姿、つまり国際平和と共生の政治的立場に共に立ちながら、お互いの政策に関して相互に点検する機能を持つことと、同時に共同で平和と共存の国際世界を構築することである。それらの考えは一国家の政治的利益を前提にしている以上、アメリカのブッシュ政権も日本の鳩山政権も同じ政策を打ち出すことはない。当然のこととして、お互いの国家的利益を前提にした政策が提案されるだろう。しかし、その違いや生じる利害、もしくは批判や受け入れ不可能な相互の立場を前提として、理念として共有した「国際社会の平和と共存」の立場に立ち戻りながら会話を続け、また共通した政策を共に実行すること以外にない。

個人的な人間関係にしろ、人々はそれぞれ意見や感性の異なるもので、相互に批判や意見の違い、感情の違いを持つものである。そのため、他者への批判や異議は当然生じるものである。大切なことは、他者へ率直な意見を言わないことでなく、言ったとしても、そして過去に批判しあった関係や敵対した関係が合ったとしても、それを修復する精神的や生活文化的機能があるということだ。

しかし、こうしたことは、簡単なようで、非常に難しいことだ。何故なら、人は他者に対して優位に立っている場合のみ、他者の批判をおおらかに受け入れることが出来るもので、もし、批判した人にたいして少なくとも何らかの劣勢な感覚を持つ場合には、その批判にたいしておおらかに、「彼の言っていることも一理あるかもしれない」などといえないものである。

批判されたことが心底こたえる場合は、それがあまりにも的を得ている場合が多いのである。その意味で、批判され批判する関係のあり方は、批判する側よりも、批判される側に、考えなければならない問題が多く存在しているように思える。

批判を不当な非難や不当な扱いとして感じる自分(批判されている側の主観的現実としての論理)を分析するために、もう一歩進んで、その不当さと判断した自分を自己分析し、不当な批判や扱いと思う自分と向き合うことの大切さ、必要性が理解できている(そうした自己制御プログラムを持っている)ことである。

しかし、理屈では分かっていることが、実際には、なかなか困難な作業である。そこで、その困難な作業をもっと分かりやすく、簡単な方法になければならない。

1、例えば、不当な行為を受けたと思う自分に対して、その理由の一端が自分の側にあるのではないかと仮説を立てってみる。なかなかそう思えないので「仮説」と立って、その理由をあれこれと探してみる。

2、過去に、自分も同じくらい彼らに不当と思われる行為をしたのではないか。そう仮説を立ってみる。

3、不当な行為の問題は、受けている場合には自覚でくるが、行っている場合には自覚し難いものであると仮説を立てる。自覚しないまま不当な行為を行っていたと仮説を立ててみる。

以上の、他者からの非難や不当な仕打ちに対する自覚のための制御プログラムが出来上がった。しかし、この制御プログラムも自然に機能することはない。それを機能させるための強い意志が必要であることは言うまでもない。


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2009年9月17日木曜日

提案 「高速道路の無料化と地球温暖化対策」

三石博行


高速道路の無料化と地球温暖化対策は可能か


鳩山総理の地球温暖化対策に対する具体的な方針は世界に日本の政治的リーダーシップを示すすばらしいものでした。現在の人々の生活と100年後の世界を考えるのが政治の姿勢であると確信しています。

1、高速道路の無料化の意味は大きいと思います。

現在、週末高速道路が値下がりしたでけでも、ETCの利用者は増え、週末家族で都会から地方へと遊びに行く人々は増えました。その経済効果はあると思います。その意味で、高速道路の無料化の方向は決して間違いではないとおもいます。しかし、この政策が一番民主党のマニフェストの中で不人気ではないでしょうか。なぜか、それは、利益を受ける国民ですら、高速道路が混雑すること、また、それによって二酸化炭素を多量に排出する現在の自動車社会が継続することを懸念しているのではないでしょうか。

2、エコカーに対する高速道路料金の値下げ

そこで、高速道路料金をエコカーに対して、もしくは環境基準を守っている車に対して、下げるということは出来ませんか。例えば、ジーゼルエンジンのトラックですが、発がん性物質である浮遊粉塵の対策をしていない車は、高速料金を無料にしてはいけません。逆に、ハイブリッド車や電気自動車などは優遇すべきだと思います。エコ対策を進めることと、高速道路無料化を一本化すると、おそらく、企業も民間もその対策を取るでしょう。その経済効果も大きいと思います。そして、高速道路周辺で起こる公害問題に対しても、説明がつくと思います。

3、高速道路無料化に対する専門委員会を開いて、幅広い人々の意見を聞きながら、マニフェストを実行してください。

昨夜の諸大臣の所信表明演説を聞きました。すばらしいに一言。これまでになかったことが起こると確信をしました。しかし、明治以来続いてきた、しかも戦後もそのまま引き継がれた官僚主導の国家運営を改革することは大変だと思います。日本の近代化に貢献してきた官僚制度だけに、それが今日、まったく機能せず、また弊害を起こしていても、伝統の強さは恐ろしいものがあると思います。そのことに挑戦できるのは民主党だけです。がんばってください。
問題は、いかに多くの専門家を集め、豊かな知識と多様な意見を取り入れて政策に活かすかということです。過去の貧しい日本社会では民間に多くの専門家が居なかったため、官僚がそれを支えていたのだと思います。科学技術文明社会では、大学、研究機関、企業、NPO,NGOに多くの専門家がいます。それらの人々(国民)を活用することが、多分、官僚主導型の国家運営から国民主導型の国家への変換を生み出すと思えます。
この高速道路無料化でも、多くの専門家を集めて議論してください。これまでは官僚が自分の意見を通すために、言いなりになるような人々を集めて、専門委員会を作りました。それではだめです。民主党は、政策を検討する時に、幅広い専門家を集めてください。高速道路無料化に対しても、交通工学、流通経済、環境問題、地域経済、観光開発、家庭経済等々の専門家の参加が必要でしょう。そして、すべての専門委員会のメンバーの業績を公開してください。その上で、高速道路無料化と意中温暖化防止が両立できる政策、法案、システム改革を提案作成してください。

最後に

何事も成果しか見ない社会になっています。確かに、成果も大切です。しかし、ものごとを成し遂げるまでの、また失敗したとしても、その過程を理解し共有することも大切です。つまり、どのようにして高速道路無料化と地球温暖化防止を両立するための政策が検討されたか、その努力がどのようにして払われてきたのかの過程を大切にすることが必要です。マニフェストは実現しなければなりません。そしてその成果を国民に示めさなければなりません。その上で、その努力の過程、手段、方法も示すことが大切です。何故なら、必ずしも100パーセント成功しないからです。しかも、その不成功に学ぶことが多くあり、それを国民と共有することだと思います。それが国民による国民のための国民の政治であり、そして、それしか官僚主導型国家運営から脱却することが出来ないと思います。その理念、つまり国家の改革に参画することを国民に訴え続けてください。
その民主主義の理念が日本の文化とするときに、鳩山首相のいう「友愛」が日本の伝統文化になると信じます。

2009年9月1日火曜日

東アジア諸国でのEU協会運動の交流は可能か

三石博行


東アジア諸国でのEU協会運動の交流は可能か
Is the integration of association in an EU styled movement among East Asian countries possible?

At the 50th anniversary commemorative lecture for the establishment of the European Coal and Steel Association of Japan and France held in Nara October 12, 2003, Dr. Johannes Preisinger, then Consul general of Federal Republic of Germany, said that the EU looked to Japan as the one country in East Asia that could lead an East Asia alliance endeavor for peace and coexistence similar to the one developed by EU.
However, when viewed against the long history behind the establishment of the EU, the present conditions vis-a-vis Japan's insufficient postwar neighbourhood community building activities and mutual understanding efforts throughout East Asia make it currently seem impossible for Japan to play any such key role in the region involving federation building initiatives among its East Asian neighbours.
We therefore wonder that a trial of association be possible if working alongside the EU to establish such a community committed to these idealistic and lofty goals। One that would similarly promote protection for the myriad indigenous community and country cultures, whilst developing the new federation concept. This could be one step on the path to realizing the suggestion of Dr. J. Preisinge.


EUに学ぶとは日本が「東アジアの平和と共存のための連合」を目指すこと



プライジンガー博士は、EUと日本との未来の関係について壮大な構想をお話された。つまり、博士はEUが日本に望むことは日本が東アジアでEUと同じような平和と共存のための連合、例えば「東アジア連合」を創ることであると述べたのである。


困難な東アジアの平和と共存のための連合国家形成の現実


EUは長い歴史を経て形成された。中世以来の戦争の歴史が前提になっている。例えば、ヨーロッパでの戦争は、13世紀から15世紀に2回、16世紀に3回、17世紀に4回、18世紀に6回、19世紀に12回、20世紀に27回と増加の一途を辿り、20世紀には二つの世界大戦が勃発、7000万人以上の犠牲者を出した。

その反省に立ってヨーロッパ統合(チャーチルの欧州合衆国構想)の考えが生まれ、1946年5月のロンドン条約によって欧州評議会が10ヶ国の加盟で発足した。欧州評議会は、17世紀以来、ヨーロッパから始まる民主主義国家の基本理念(人権、民主主義、法の支配)を普及するために活動し、現在47ヵ国が参加している。欧州評議会の活動をバックに、ヨーロッパ経済共同体(EEC)からヨーロッパ共同体(EC)を経ながら、EUは、ヨーロッパがより国際社会で政治的影響力を持ち豊かな経済圏を維持するために1993年に発足した。現在27ヶ国が加盟しているEUは、欧州憲法、司法、政治、経済、行政、通貨、治安警察、軍隊等々の統一機構の形成に取り組んでいる。

このEU建国の長い歴史を顧みるなら、EUと同質の東アジアの平和と共存を目指す連合の構築はそう簡単でないことが分かる。東アジアの国々では、これまでの長い紛争の歴史は勿論のこと、先の戦争の歴史事実も共有されていない。日本の戦争責任に対する国民的な取り組み 隣国で起こる反日運動、多くの課題が解決されないまま残されている。東アジア諸国がEUのように平和と共存を課題にして国家間の枠に囚われない連合を創り出すまでには非常に長い時間が必要であると思われる。


EU協会でなければ出来ない21世紀の国際交流


日本が東アジアの国々との平和と共存のための連合形成に努力することが、EUが日本に望むこと、そして日本がEUに学ぶことであると言うプライジンガー博士の提案を、我々のEU協会は受け止めたい。何故なら、EU協会活動の基調として、EUの建国の理念、つまり一つの国民国家の利益を超えて平和と共存のために広域共通文化圏の平和的共存が述べられているからである。その意味で、EU協会は今までの二国間の国際交流活動と明らかに異なる課題を我々に問いかけている。

また、欧州評議会の目的の一つである「欧州文化アイデンティティ保護と文化多様性の推進」は、そのままEUに引き継がれている。日本のEU協会でも、それぞれの地域社会文化に即した活動を尊重した運動が行われ、国内での交流が起こるだろう。そして、同じ地平で、 東アジアの国々、ロシア極東地域や北朝鮮も含むかもしれないが、韓国、中国や台湾の地域でのEU協会活動との連携や交流も可能になるだろう。我々は、まず地域文化多様性を認め合った国内、東アジアのEU協会相互の交流もEU協会の活動に入れたい。そこから、プライジンガー博士の提案にむけた地道な努力を積み重ねたいと思う。


KNEU-No3 京都・奈良EU協会 会報No3 記載

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6. EU関係及びEU協会運動

6-1、生活運動としての国際交流運動

http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_14.html

6-2、日欧学術教育文化交流委員会ニュース配信
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_8507.html

6-3、文化経済学的視点に立った国際交流活動
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_26.html

6-4、新しい国際交流活動のあり方を模索して
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/06/blog-post.html

6-5、我々はEUに何を学ぶのか
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/07/eu.html

6-6、東アジア諸国でのEU協会運動の交流は可能か
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/09/eu.html

6-7、東アジア共同体構想と日本のEU協会運動の役割
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/10/eu.html

6-8、欧州連合国の成功が21世紀の国際化社会の方向を決める
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/21.html

6-9、Eddy Van Drom 氏のインターネット講座 ヨーロッパ評議会の形成史
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/10/eddy-vandrom.html
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」 から
欧州石炭鉄鋼共同体設立50周年を記念するために、2003年10月12日、欧州アルザス日本学研究所のアンドレ・クライン所長を講師に招き、奈良日仏協会、奈良日独協会、奈良日仏文化交流会の共催により「フランスとドイツの午後」が行われた。来賓として招待されたドイツ連邦共和国総領事ヨハネス・プライジンガー博士が挨拶のスピーチを行った。

2009年8月4日火曜日

プログラム科学論の研究課題

三石博行

プログラム科学論と人間社会学基礎論の課題

A, 問題提起としてプログラム科学論の展開のための研究課題

1、 自己組織系の情報科学とその情報概念に対自している実在概念の展開の必要性 

2、 情報性と実在性の一般概念を、人間社会学のレベルに落とすと、「知識」と「資源」の概念にならないか。

3、 自己組織系の情報科学に含まれる「狭義の情報概念」としての「知識」から、知識社会学を位置付けなおす必要はないか。

4、 狭義の資源概念としての社会や生活資源はマルクスのいう資本の概念と同義語であるなら、資源論は資本論の上位概念として展開できるのではないか

5、 人間社会学のレベルでの自己組織系の情報―資源科学は、知識社会学と社会文化生活資源論の二つの相補的学問領域として展開されないか。

6、 それらの自己組織系の情報-資源科学の科学哲学として、プログラム科学論が位置するのではないだろうか。


B.人工物プログラム科学論の課題

1、 人工物プログラム科学論の領域内に含まれる学問分野として人間社会学が挙げられる。その学問分野での中心課題は、人間社会情報と人間社会資源である。

2、 人間社会情報の現象(意識)形態を知識と呼ぶことにする。すべての人間社会情報はその了解過程では言語形態の情報、言い換えると知識として現れる。

3、 それらの言語形態の情報・知識は生活主体とその環境に対する指示情報を持つ。つまり、生活世界における知識とは、その生活世界の現実を理解するだけでなく、それに作用し、それを変えるものである。

4、 また、生活世界の知識(生活情報)は、どの社会的環境に対しても共通に成立する生活主体の社会的生存条件を確立するための一次生活情報の形態がある。

5、 さらに、生活主体の社会文化的環境に対して適用し、その社会文化的機能を担うための二次生活情報の形態がある。それは当然、その社会文化環境の改善を前提にしていると同時に、それはその特殊な社会文化的条件の生活情報、知識であるといえる。

6、 当然、生活世界(生活空間)の中には、それぞれの個別の特徴ある社会文化空間性が存在し、そして、その中で生活主体は、生活空間の豊かさを直接の目的にしない生活行動を取る場合がある。それらの行為の目的は、生活者自身の内的現実(主観的現実)を満足されるためにのみに生活行為が遂行される。それを三次生活行為といい。また、そのために必要とされた社会生活情報、知識を三次生活情報と考える。

7、 社会生活情報の主観的にも客観的にもその実在的、つまり物質的背景を資源、資本と考えるなら、社会・生活世界の科学は、社会・生活世界の情報(知識)とその資源に関する科学であると謂える。社会・生活世界の情報-資源の科学、これは人間社会学として分類されてきた科学領域、の科学哲学として、人工物プログラム科学論が位置する。


C.人工物プログラムに関する分析課題1 外在化過程

1、 現象学の古典的テーゼ、「内的世界の外在化と外的世界の内在化」。この主観的現実と客観的現実の弁証法的運動として認識、意識形成過程、生活世界の現象形態を理解してきた。

2、 言語過程、生活行為過程、労働過程、生産過程はともに内的世界の外在化過程である。この内的世界の外在化過程(言語活動、社会生活行為)によって社会生活資源が作り出される。それらの社会生活資源の匿名状態過程を物象化といい、それらの物象化された生活資源によって社会生活環境が作り出される。

3、 その形成過程は、社会生活主体のもつ社会的機能に対する意識、社会的役割に対する自覚とそれを実現する行為によって生み出される。それらの行為は、社会制度として外在化している情報(知識)によって制約され、決定される。

4、 つまり、外在化過程には生活主体の行為を決定するプログラムとその行為の条件を決定するプログラムがある。生活主体の行為を決定するプログラムは様式とよばれた。つまり、生活主体がその自我の構造として、生活の知恵、科学的知識、技能として持ち、自我を構成する情報の一部として所有する行為を決定する知識、プログラムである。

5、 また、それらの生活主体の行為は、それを取り巻く社会生活環境によって制約されている。この制約条件と呼ばれる情報、社会的現実として与えられた環境が、行為主体の洋式を制約、規定する。その意味で、制約条件(決まり、習慣、法律)の情報とその情報が発生する社会機能と構造を形成するプログラムがある。

6、 社会生活行為を生み出すプログラムとは社会的役割に即した行為を選択遂行する自我の構造と機能を意味する。自我の行為条件を決定する社会生活環境のプログラムとは社会的制度の内容を意味する。その制度は社会的経済的分業、社会的経済的コミュニケーション、社会的経済的生産過程に関する制度を意味する。

7、 この研究は、言語学、発達心理学から社会学や経済学までの研究成果を前提にしながら進むものと思われる。

D।人工物プログラムに関する分析課題2

内在化過程

1、 最も、神秘的なプロセス、人は何故、言語を習得したのか、社会的文化的アイデンティティを確立したのかという疑問がこの課題に付随する。

2、 この研究では、身体化の過程を問題にしなければならない。つまり、外的世界の情報、その世界での個人の特殊な社会的役割の了解作業が、その個人の自我の形成過程と密接な関係にあることは言うまでもないが、その情報は身体化され、つまり、脳神経生理的な物質的土台に入力されなければならない。その入力の過程の脳神経的、精神内科的、精神分析的、心理的作用、それを決定する機能が問題となる。それらを、内在化過程のプログラムと呼ぶことはできないか。

3、 今まで、このプログラムに関しては、絶対に相容れない二つの(もしくはいくつかの)理論があり、それによって、このプログラムに関して語ることが非常に困難であった。一つは脳神経学、もう一つは精神分析学である。現在は、脳神経学が優位に立ち、「脳科学」という用法で、行為過程の説明を試みている。しかし、それに対して、精神分析は、その説明では個人とよばれるある特定の社会的文化的存在者の言語活動の具体的内容まで立ち入って説明できないことを主張するだろう。

4、 客観的現実、社会的実在、生活環境や生活資源の物質的要素が決定する主観的世界形成過程は社会的様式(社会規範、習慣、社会制度や分業)が内的世界の行動規範にプログラム化されることである。そのプログラム化は内的世界、つまり生活主体を作る身体にそのプログラムを入力し、脳神経生理的物質化すること、その行動様式を生みだす身体運動を支える筋肉から反射運動までの肉体を構築することである。

5、 また、それらの運動を生み出す自我、意識、言語活動の身体的土台を作ることである。


あとがき

1、 プログラム科学論を展開するために、人間社会学の研究課題に引き付けて、その公理の一つ一つを検証しなければならない。今、資源論の著作作業の最中です。この課題までは行き着きませんが、作業の中で、不断に検討する必要がある。



参考
三石博行のホームページ 「哲学」「プログラム科学論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_01_03.html



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プログラム科学論・自己組織性の設計科学に関する文書はブログ文書集を見てください。

ブログ文書集「プログラム科学論・自己組織性の設計科学」目次と文書リンク
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_3891.html


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2009年7月17日金曜日

我々はEUに何を学ぶのか

ヨーロッパ市民が求めるEU文化アイデンティティーとしての「平和と共存」

三石博行

Peace and coexistence≫ as an EU cultural identity as demanded by theEuropean citizen.

In our globalization society, a nation comprising of various races,cultures and languages forming its social milue is going to be bornand not in the form of a country supported by a pre-existing national identity। This is the magnificent experiment started by the EU.

When European citizens first began to call the two World Wars "our two Civil Wars", it was in order to relate them directly to thehistory of the formation of the United States of America by recalling the American civil war between its northern and southern armies almost150 years ago.

Thus it is necessary to agree via multiferious talks, not war, to evolve and develop the 《European United States》((United States of Europe)) as the formation of the European
citizen's cultural identity must be based in peace and thecoexistence.

Hiroyuki Mitsuishi


我々日本人は、1000年前からこの日本では日本語(少しは変化したが)が話されてきたし、これから1000年後も同じように日本語が話されるだろうと信じて疑わないだろう。しかし、この確信をいったい世界中のどれくらいの人々が持っているだろうか。
ヨーロッパから来た友人は、先祖、祖父の代ではフランス語でなくドイツ系の言葉を喋っていたといっている。彼の苗字もドイツ系だ。しかし、彼はドイツ系の言葉を日常的に喋ることはない。ドイツ語とフランス語は日本語の方言とちがい文法や単語も非常に異なっている。ゲルマン系の言葉からラテン系の言葉に同じ家族が3代で変わってしまう。こうした言語文化現象をわれわれ日本人は理解できないと思う。

国民国家の定義は、18-19世紀ヨーロッパで市民革命を経て成立した国家、フランス人とかドイツ人と呼ばれる同一文化と言語を持つ人々から成る国家を意味する。多様な言語文化が近代国家の国民教育政策で一つの言語文化に集約されていく。長い歴史の流れの中では、こうした地域の言語文化圏の変遷過程は珍しいものではない。
また、国際化社会では、多くの人々が海外で生活をする。日本人も外国に住み、そこで子供たちが成長する。もしくは、その地に永住してします。幸運にしてその国の国籍を貰えた人々の家族では、日本語を話す環境はそう長く続かない。アメリカでも日本語をまったく喋れない日系アメリカ人三世も多い。日本でも、ハングル語を喋れない在日韓国人三世や四世もいる。
主観的世界、自分の意識を中心とした世界から観れば言葉は非常に重要なものである。日本で生まれ、日本の学校教育を受け、日本語しか話せない在日韓国人にとって、自分が日本国籍を持っていないことが不思議であると思うだろう。

国際化時代では、同一言語文化を国や民族のアイデンティティーとして考えるこが困難になっているのだろうか。ヨーロッパ連合に参加する異なる言語文化圏の人々が、EUという新しい国家を目指すとき、何がそのアイデンティティーになるのでろうか。例えば、旧古代ローマ帝国の領地とかキリスト教文化圏ということがEU国民のアイデンティティーになるだろうか。EUが一つの合衆国として成立する過程で必要なEUアイデンティティーの基本が何かということは興味深い課題である。
ヨーロッパ評議会やヨーロッパ連合の形成の原動力となった二つの戦争を、今まで「世界大戦」と呼んでいたヨーロッパの人々が「市民戦争」と呼ぶようになった。それはアメリカの南北戦争を現在アメリカでは市民戦争とよんでいる歴史と重なる。あの戦争も、合州国家から合衆国家への変移を意味する。そう考えると、ヨーロッパ連合は連合国家から合衆国家の成立過程の一こまという仮説も成り立つ。EUは多言語を国語とするまったく新しい合衆国家を創る実験舞台にみえる。一言語文化をEU合衆国家の文化的アイデンティティーとしないなら、何がその合衆のアイデンティティーとなるのか。そこで二つの戦争を市民戦争として位置づけている考え方にヒントが与えられている。

つまり、それは平和と共存ではないだろうか。もし、この平和と共存が国家成立のアイデンティティーであると言えるなら、イギリスやフランスの市民革命が、その後世界史に大きな影響を与えたように、EU連合からEU合衆国家の成立も同じぐらい大きな影響を与えるだろう。それは過去の血と武器による革命運動でなく、話し合いと相互理解によって成立していく新しい平和共存の社会思想を我々に示すことになるだろ。
 
 
 
KNEU-No2 京都・奈良EU協会 会報第2号記載
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6. EU関係及びEU協会運動

6-1、生活運動としての国際交流運動

http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_14.html

6-2、日欧学術教育文化交流委員会ニュース配信
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_8507.html

6-3、文化経済学的視点に立った国際交流活動
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_26.html

6-4、新しい国際交流活動のあり方を模索して
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/06/blog-post.html

6-5、我々はEUに何を学ぶのか
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/07/eu.html

6-6、東アジア諸国でのEU協会運動の交流は可能か
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/09/eu.html

6-7、東アジア共同体構想と日本のEU協会運動の役割
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/10/eu.html

6-8、欧州連合国の成功が21世紀の国際化社会の方向を決める
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/21.html

6-9、Eddy Van Drom 氏のインターネット講座 ヨーロッパ評議会の形成史
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/10/eddy-vandrom.html

ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」 から




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2009年7月2日木曜日

生活科学基礎論1

家政学・生活科学と生活学の形成史から観る「生活改善の科学技術」の学問形態

三石博行

アメリカ家政学の誕生から科学主義的生活科学へ
▽ 生活改善の科学技術としての「生活の科学」は、19世紀末のアメリカでは人間生態学( Human ecology)、家政学(Home economics )から始まり、発展してきた。アメリカ家政学の創設者であるエレン・リチャーズはマサチューセッツ工科大学(MIT)で化学を学び、女子教育の促進を課題にしながらMITに設置された女子実験室から家庭生活の改善のための科学教育を目指し、『調理と洗濯の化学』と『食品材料とその粗悪品』の二冊の小冊子を出版した。この学問は、その創設の段階から、生活改善のために自然科学の発達で得た専門的知識や技術を活用し援用してきたのである。
▽ 古い社会風習を打ち破り人間の平等と自由の生き方や考え方の上に新しい社会を形成することが、生活改善の科学技術の目的と合致していたのである。19世紀後半から20世紀前半にかけて人間生態学や家政学は封建的観念に支えられた古い家族制度を変革し、その中で女性の人間的自由を確保し人権を擁護するための知識であり技術であった。合理的精神の発達によって、女性の人権を認めない封建的観念を批判し変革する民主主義社会の条件を導くものであると信じられていた。科学的合理主義に基づく家政学教育が、そこで展開して行くのである。同時に、科学的な方法論、特に自然科学的方法論を家政学に取り入れることが、家政学の発展の方向を決定することになる。
▽ 家政学に、必然的に自然科学的研究成果やその研究方法が取り入られる。その意味で、生活改善の科学技術の形成には「科学主義」の思想があったといえる。そして、食生活の改善を目指す家政学が、食物学、食物栄養学、栄養生理学、分子栄養学と食物や栄養に関する学問として進化し発展してきたのである。科学的方法や知識を取り入れ発達してきた家政学、生活科学が今日の「生活改善の科学技術」の主流であることは疑いない事実である。

日本生活学の誕生から人間社会学としての生活学へ
▽ アメリカ家政学の形成と発展の歴史に対して、日本で形成される生活改善の科学技術の発展の経過は少し異なる。日本では1910年代に柳田國男から民俗学を学んだ今和次郎によって生活学(Lifeology)が提案された。今和次郎は前近代的生活風習や生活環境によってもたらされる生活の貧困性・生活病理を解決することが生活学の学問的課題であると考えた。彼の生活学の方法論として考現学を提案した。考現学とは生活環境を構成している要素である物的材料、生活道具、生活資材、生活素材などを調査の対象に限定し、まるで昆虫採集のようにそれらを採集し、それらのデータを統計的に分析する方法である。その考現学的方法を用いて生活病理の社会環境の要因(外科的生活病理)や生活習慣から来る要因(内科的生活病理)を分析した。つまり、現状の生活環境に適した適正な生活改善対策を提案するためには、生活環境の客観的現実を正確に認識することが必要である。そこで、生活現場(フィールド)を構成している物的根拠、生活道具や生活環境の物質的要素を集める。その物質的要素に基づいて分析や解釈をおこなうのである。考現学が今和次郎の生活学の調査方法を支える考え方となっている。その方法に基づいてフィールドから調査データが集められ、生活病理の状況が理解されることになる。その意味で、今和次郎の生活学は実証主義の立場にたって社会文化現象を分析する研究姿勢を取った。
▽ さらに日本で生まれたもう一つの生活学の流れを紹介する。それは、戦中1940年代軍国主義の嵐の中、勤労者の健康を守るために医学者である篭山京によって提案された「生活構造論」である。医者である篭山京は生理学的立場から人間生活の回復や消耗疲弊の過程をモデル化して、勤労者の生命や生活力の擁護のために生活構造論を展開した。生活する人々の肉体的条件、生理的条件、経済的条件を前提に、それらの人々の生きている現実、生命、言い換えると生活人の肉体的経済的素材性を擁護するための理論であった。その意味で医師、生理学者篭山京は、軍国主義の最中にあって、今和次郎の文化人類学、民俗学的視点に立った生活学と異なり、経済学的立場に立ち、現在の生活科学の中に含まれる生活経営的立場を取って、勤労者の生活や健康状態の改善を課題に生活学を提案した。篭山京も、生理学的視点を労働経済の中に持ち込み、つまり科学的合理精神に立って生活改善の科学技術を確立しようとした。
▽ そして戦後1950年代以降、欧米の民主主義社会をモデルとして始まった生活改善の科学技術もその影響を直接受けた。アメリカ家政学が民主主義社会での大学女子教育に取り入れ、経営学に基づく合理的な家庭管理、自然科学の知識を活用した衣食住生活の改善、医学的知識に基づいた健康管理や生活衛生管理や予防医学などアメリカ家政学の発展の中で形成した科学的知識が普及した。
▽ さらに、経済的生活の改善を目指して研究がなされた。1950年代では、篭山京の経済生理学的な生活構造論は、アメリカの社会機能主義や社会システム論やマルクス経済学の影響を受けながら、青井和夫、松原治郎と副田義也によって1950年代に生活システム論へと展開した。また、今和次郎の民俗学的生活学は、日本独自の生活文化論へと発展していった。
▽ これら日本に生まれ発展していった生活改善の科学技術の流れは、人間社会学を基盤とする生活学の形成と発展に繋がっていくのである。


生活改善の学問の方法論・プラグマチィズム的役割分担をもつ学際的知識群 
▽ 「生活の科学技術」を一言で説明すると「生活改善のための知識と技術を探求する学問」と呼ぶことができる。この目的のために活用できる他の分野の知識を援用し生活科学研究領域が形成される。生活の科学は学問的体系を求めるためにそれらの知識を援用しているのでなく、生活改善に役立つ知識を他の領域からプラグマティックにかき集め、実践的に活用しているのである。
▽ そのため、生活改善のための学問(生活の科学技術)の領域は広い。人間の生活環境と生活行為に関する科学であるため、自然科学系の学問(生物学、物理学、化学)とその応用科学(医学、工学、農学)や社会経済学系の学問(経済学、経営学、社会学)、そして人間学系の学問(発達心理学、文化人類学、教育学)がある。また最近では情報処理工学や国際経済学、国際文化学なども生活改善のための学問領域に取り入れられている。
▽ つまり、他の学問領域の知識が生活改善のために利用できるなら、そこに「生活の科学技術」に関する新たな研究領域が提案されている。そのため、生活改善の学問は時代や社会の生活要求に支えられ、それらの要求を満たすために、他の分野の知識と技術を援用活用して、新しい「生活の科学技術」の課題を提案しながら、発展し続けていくのである。
▽ 言い換えると、「生活の科学技術」は、学問的知識の体系の完成や一貫した科学方法論の確立を目的にした知の探求は行われない。そして、その学問の目的は、唯一、生活改善のための実践的な技術と知識の探求に収束される。そのために、知識や技術を生活改善の目的に向かってプラグマチィズム的に実用的知識と技術が採択され、生活改善のために活用されるのである。
▽ 例えば、食生活の改善のために、食物栄養学、栄養生理学、分子栄養学などの分野で食物の栄養成分やその体内での消化や代謝過程に関する知識、またそれらの消化や代謝過程に関連する生体内の分子生物学的な知識などが役立つ。それらの知識は物理、化学や生物学から成り立ち、その技術的応用に関するものである。食物に含まれている栄養成分の物理的、化学的、そして生理的特性を理解することで、人々の健康管理を科学的に実行することができる。
▽ 食生活の改善は生活科学の一つの分野である食物栄養学、栄養生理学や分子栄養学の知識によって完全に保証される訳ではない。それ以外に、それらの栄養成分を含む食材の栄養成分を活かした調理技術、美味しい料理方法、楽しい食卓の飾り付けや料理の並べ方、テーブルマナーなど生活技術や行為などのスキル改善も課題となる。
▽ 食生活の改善のために、自然科学の専門的知識を駆使した生活技術の開発のために生活科学の研究が取り組まれる。また、同様に生活文化の向上や生活行為のスキル改善を研究開発する生活学の課題も取り上げられる。食生活環境の改善や食生活運営を行う生活者のスキル向上に関するあらゆる課題に取り組むことで食生活の改善という「生活の科学技術」の目指す方向が実現されてゆくのである。
▽ 自然科学やその応用技術と人間社会や文化に関する学問とその応用学の知識や技術、方法論が生活改善のための科学技術を作り出す。それらの学問は、それぞれにその知識と技術が有効に活用される範囲に対して「生活改善の科学技術」の知としての役割を担うことになるともいえる。それらの知識や技術は「生活改善の科学技術」のための有効な知の一部として配列されることになる。それらの知識における知識の配列の順番や上下関係は、「生活改善の科学技術」を構成する多くの学問分野の中では問題にされない。それらの知識は、生活改善のために取り出される有効な知の集まりとして「生活改善の科学技術」の中に位置づけられるだろう。
▽ この生活改善の目的を果たす役割として集められた知、つまりプラグマチィズム的役割分担をもつ学際的知識群が「生活改善の科学技術」であり、自然科学的方法論に立つ生活科学と人間社会学的方法論に立つ生活学であるといえる。


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