2010年12月16日木曜日

イラン・イスラム国家の近代化過程と日本の国際戦略

三石博行

近代化政策の失敗が生み出す手痛い損害と新たな近代化過程の形成


欧米的な社会イラン1979年

今から30年以上前、1979年のイラン革命の最中に、イランを旅したことがあった。インドから陸路でパキスタンのクエッタを通り、パキスタンのイラン国境の町ミルジャワからイランの入り口であるザヘダンを経てバスでテヘランに向かった。

テヘランからカスピ海の町、チグリスユーフラテス川岸にありイラクと国境を接する石油の町、アーバーダーン等々、バスで一週間ぐらいだったか、イラン国内をまわった。

当時(1979年)のイランは、それまで続いたイラン帝国、パフラヴィー(パーレビ)王朝の近代化政策もあって、生活様式全体がパキスタンなどの周辺国に比べて比較にならないぐらい欧米的で近代的な雰囲気を持っていた。パキスタンのミルジャワからイランのザヘダンに入った瞬間に、道路、バス、建物も豊かな石油生産国イランとイラン国民の生活状態を一瞬の内に理解させる、垢抜けた立派なものであった。イランは豊かだという印象が、特にバングラディシュ、インドとパキスタンを旅行してきた私に鮮明に残った印象だった。

この豊かなイランを導いたパーレビ前政権が崩壊しなければならなかったのか。疑問を抱えたまま、バスの旅行は続く。テヘランは美しい街であった。山地の麓から豊かに湧き出す水をふんだんに使い、テヘランの街の中心街にある大きな並木道の両側の小さな水路に透き通った清水が流れる。交通は整理され、多量の車、殆どが外車(GM、フード、トヨタ、ホルクスワーゲン等の車)がスムースに道路を流れていた。


崩壊した伝統的農業

この旅の目的はイランの農業を観察するためであった。そのため事前にイラン式農業についての資料を読んでいた。資料によると、雨量の極度に少ない乾燥地帯であるイランでは、ペルシャ時代から続く伝統的なカナートとよばれる灌漑技術を使った農業があった。カナートとは、高地の豊かな雪解け水や雨水を地下水として貯め、それを山の斜面に地下の水路(トンネル)を造って流すという当時としては画期的な灌漑技法であった。紀元前800年ごろの古代イラン(ペルシャ)で発達したカナートの優秀な技術は、ペルシャを征服したギリシャ人によって、古代エジプトに持ち込まれるなど、アジア、中東やアフリカに広がったと言われている。

豊かなイランの農業を想像した私が観たものは、耕運機で稲作をしていたカスピ海沿岸の豊かな水田地帯を除いて、荒廃したテヘラン近郊の畑、大型トラクターを使った巨大な農地、泥水で機能していない灌漑用のダム等々であった。

豊かなイランの社会的インフラは、石油生産で得られた莫大な収入を使って整備されたものであった。また、当時の食料はイスラエルやアメリカから輸入されていた。石油輸出国イランが輸入国との貿易収支を調整するために行った政策、世界の石油生産国という国際分業の一翼を担い、その分、他の国から農業生産物を輸入する経済政策が取られていた。

海外からの安価な農業生産物や工業生産物の輸入によって、国内農業はことごとく淘汰荒廃して行った。これが、パフラヴィー(パーレビ)体制の進めたイラン近代化政策であった。


拮抗した国際分業と近代化政策

国際分業論に基づくイランの近代化とは、国内産業の育成ではなく、先進国からの製品を国内に満たすこと、それによって国民は先進国並みの生活環境を手に入れることが出来た。

例えばインドは当時、海外車の輸入を厳しく制限し、古い型のインド国産車が走っていた。しかし、イランでは、多量の立派な外国車が道路にひしめいていた。その風景は、殆ど日本と変わらなかった。違いは日本の車は国内で生産されたものであるが、イランの車は海外のものであるということだけである。イランで、ヒッチハイクをしながら旅をした時、偶然、イラン国産自動車を運転する人に乗せてもらったことがあった。彼は、イラン国産車である自分の車を褒め称えたが、私を乗せてすぐに彼の自慢のイラン国産車はエンストしてしまった。それが、当時のイラン国産車の状態で、殆どの人は、故障の多い国産車を買おうとはしなかったのだろう。

旅行者の私には、一見、豊かな社会に観えたイランは、その経済構造は先進国(特にアメリカ)の経済植民地に近い状態になっていた。豊かな王族、貴族、資産家や商人達とテヘランの下町に移住してきた失業者・貧民の群れ(と言ってもインドの貧しい人々に比べれば豊かすぎる人々であったが)に石油から得た富の分配を問題になっていた。

自国産業の育成を前提にした近代化過程が形成されないまま、海外からの豊かな工業生産物で社会は満たされていた。石油が生産でき、その莫大な収益がある以上、他の産業の育成の必要性は緊急な課題ではなかったのだろう。しかし、その政策のもっとも大きな犠牲者は伝統的ペルシャ農業を続けてきたイラン中部地帯の農民であったといえる。


挫折したイラン民主化運動とイラ国民運動としての近代化過程

再び、テヘランにかえて来た私を友人が「面白い場所に連れて行ってあげる」と言う事で、彼の通うテヘラン大学の正門の付近まで行った(そう記憶しているのだが)。学生達が自動小銃おをもって警戒していた建物があった。それが、当時、世界中を騒がせていた「イランアメリカ大使館の占拠」の現場であった。

一ヶ月以上も、インド国内の鉄道の旅をして、パキスタンとイランを回ってきた私は世界の情勢(出来事)について全く情報を持っていなかった。まさか、自分が立っている前の建物が世界を騒がせている現場であると思いもせずに、その入り口まで行った。

友人から説明を受けてびっくりした。大使館の前でマシンガンをもっている学生と話しを始めた。どうしても聞きたいことが一つあった。何故なら、彼はマシンガンを片手に、コカコーラを飲んでいた。

「君は、右手にアメリカ帝国主義に闘うためのマシンガンを持って、左手でアメリカのコカコーラを飲んでいるのだが、どうなんだい。なぜアメリカが嫌いなのかね? 」と尋ねた。その学生は、真剣なまなざしになった。そして、議論が始まった。
「イランには伝統的な乳製品ののみのもがあるじゃない? なんで、その飲み物でなく、コカコーラなんだい? 君はアメリカ文化が本当は好きなのだろう?」と際どい質問に対して、彼は考え込んでしまった。その真剣な眼差しを今でも思い出す。

あれから、イランイラク戦争が起こった。私を歓迎した多くのイランの若者たち、私がただ日本人であるという理由で、家に招待し、ご馳走し、泊めてくれた若者達、彼らが今生きているのだろうか。彼らは、戦争に駆り出され死んだのではないだろうか。もしそうなら、本当にイランの将来のためには、残念なことだったと思える。

右手に自動小銃を持ちながらも、左手でアメリカのコカコーラを飲んでいの若者達こそが、イラン国民のためのイラン国民によるイラン国民の近代化を成功させる道筋を提起できたのではないだろうか。


近代化政策の失敗によるイスラム回帰化 

その後のイランの社会的変貌を、先進国の政治勢力の誰が予測できただろうか。

フランスの亡命していたイスラムシーア派の指導者ルーホッラー・ホメイニーが英雄的に帰国し、パフラヴィー(パーレビ)皇帝は国外に亡命した。イラン帝国は壊滅し、イラン・イスラム共和国が建国した。国家の構造の変化を簡単に述べると、王国からイスラム共和国にイランの政治体制が変化したといえる。

パフラヴィー(パーレビ)王朝の王族や貴族を中心とする絶対君主制が解体し、イスラムシーア派の国民を中心とした宗教国家が形成された。つまり、宗教指導者の権力の下に、国民は選挙で共和国を運営することになる。その限りにおいて、王朝時代よりも、イラン国民の政治参加の自由度は増えたと解釈できる。

しかし、パーレビ帝国の時代にアメリカ文化や思想に非常に大きな影響を受けたことで、多くの若者が欧米式の考え方やライフスタイルを経験理解することになるが、その全てを、イスラム主義は排除する方向で政治体制を構築することになる。

パーレビ王朝の近代化によって生まれた欧米民主主義文化を吸収した若者、そして彼らはその民主主義の思想において王政主義を批判しイランに民主社会を実現しようとした。また、他方、パーレビ王朝の近代化政策の犠牲によって生み出された膨大な数の失業者(イスラム教徒)、彼らは近代化によって破壊されたイスラム伝統文化と社会制度を復活しようとした。

つまり、イラン革命は二つの異なる集団の共闘によって展開し、結果的には、多数を占めたイスラム教徒、イラン民衆の勝利で終わるのである。そして、どの社会の革命に共通するように、少数派である知識階層の人々の革命理念は挫折、多数派のイスラム主義者・イスラム原理主義によって駆逐排除されるのである。

イランのイスラム革命の主流派の形成は、明らかにパーレビ帝国時代の近代化政策の失敗によるものであった。イランの近代化政策の失敗によってイスラム原理主義への回帰運動が起こったと理解できるのである。


イスラム回帰化から生じる新たなイランの近代化政策 

イラン・イスラム共和国がイスラム主義と呼ばれる宗教イデオロギーによって運営されようと、政治指導部は、国の産業化政策や富国強兵政策を推し進めなければならない。そのためには、好むと好まざるに関わらす、欧米先進国を中止のとする科学技術を取り入れなければならない。もし、国が近代化政策に失敗し、豊かな経済や強固な軍事力を形成することが出来なければ、国民経済は困窮し、海外からの侵略におびえることになる。

当然、欧米の科学合理主義の思想や資本主義・民主主義の制度を拒否したとしても、明治時代に日本が経験したように、部分的に、欧米民主主義、資本主義、西洋の科学技術文化、科学主義を取り入れざるを得ないのである。

考え方を変えて観れば、近代化過程に失敗したイランが、イスラム共和国という道具を使って、イラン式の、イラン的な近代化過程を模索、構築しようとしていると理解できないだろうか。


日本の近代化過程の分析研究の成果を発展途上国の近代化政策に役立てよう

問われている問題は、発展途上国称される国々、しかし古代ペルシャ文明からの古い伝統文化とそれに対する誇りを持つ民族・イラン国民による、イラン国民のための近代化過程を我々が正しく理解するために課題を考えなければならない。

何故なら、以前、米国を代表する欧米列強(帝国主義)が行った周辺国家への自国流の民主主義と近代化過程の押し売りという失敗を繰り返さないためである。そのために、我々は、イスラム共和国という過程を通じて展開しつつある近代化過程に関して理解を深めなければならないだろう。

これからの世界経済の担い手、国際政治の表舞台で活躍する人々、それは、現在近代化過程に格闘している発展途上国と呼ばれる国々である。その大先輩が我が国日本である。大先輩としての日本の政治、外交、産業、教育研究活動等々すべての我が国の歴史的社会的資産を展開し、これらの国々に発展に貢献することが、日本が、国際社会で大きな影響を持つ国として展開する将来の課題となる。





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進行する核拡散を食い止められるだろうか

三石博行

核拡散を防ぐために必要な国際政治課題


瀬戸際外交の切り札としての核所有

1974年にインドは初めての核実験を行い、1998年5月11日と13日に合計5回の核実験を繰り返した。その直後、1998年5月28日にパキスタンが地下核実験に行う。そして、2006年10月10日に北朝鮮が初めての地下核実験を行った。そして、現在、イランが核開発を加速させ、核はさらに拡散しようとしている。

核を持つ国々は、他国からの軍事攻撃に対する抑止力を手に入れることが出来た。そして、同時に核を持たない国は、核を持つ国からの軍事的圧迫を受けることになる。核所有国と非所有国の間に生じた軍事力の不均等関係によって、国際政治が動き出すことになる。

つまり、北朝鮮が核所有国の紋章を彼らが持つことで、如何に経済力(現実の国力)が弱くとも、彼ら大胆不敵な瀬戸際外交を続けられる所以を示すのである。アメリカによってイラクの核兵器開発を阻止する名目で繰り広げられた2003年3月からのイラク戦争の教訓に学び、北朝鮮はアメリカの攻撃の前に、2006年10月に核開発を成功させたのである。

核を持たない反米外交を行う国は、イラクの運命を辿る。そうでないためには、北朝鮮のように核を所有することで、アメリカに対しても瀬戸際外交が可能になる。イラク戦争と北朝鮮の核開発の二つの歴史的事実の教訓は、多くの反米外交を行っている国々の教訓となったに違いない。その一つの典型としてイランの核開発がある。


イラク戦争の歴史的負債 北朝鮮とイランの防衛のための核開発

当分、イランだけでなく、多くの発展途上国が自国の独自外交路線を維持するために、アメリカからの政治的圧力に屈しないために、核を所有する方向で動き出すことを止めることが出来ないかもしれない。それらの政府の存続が核の所有か非所有の条件に掛かってくる以上、秘かに、核開発の計画は進行し続けるだろう。

イラク戦争の歴史的評価は、今後1世紀の時間を掛けて行われることとなるが、あの戦争が軍事大国は如何なる場合でも小国政府の独自外交路線に干渉できる帝国主義の時代の国際政治の決まり、帝国主義の政治作法が存続し続けていることを証明した。そして、帝国主義的な力関係に屈服しないためには、戦前、日本が選択したように軍事大国になることが唯一の方法であると理解された。その結果が、北朝鮮とイランの現政権の外交政策として反映されることになる。


国連防衛会議と国連軍の形成

小沢一郎氏をはじめとして、日本の政治家の中でも、「国際紛争解決のための軍事的執行能力を持つ国連軍の形成」を21世紀の国際政治のテーマにした人々が居る。この視点は、脆くも、21世紀の突端に、アメリカのイラク戦争によって、粉々に粉砕された。

しかし、国際紛争によって核戦争が起こること、また核の力を使って瀬戸際外交を行うこと、核拡散が進行することを防ぐためには、もう一度、国際紛争の解決に必要な国連機関の設定、その機関が国際紛争を解決するための執行力を持つ国連防衛会議や国連軍の構想が必要となる。イラクのクウェート侵攻を国連が非難し、国連を中心とした連合軍が形成された歴史があった。その教訓に、もう一度、学ぶ必要がある。

また、同時に、国連の決議や議論の過程を無視して、アメリカが行った2003年3月のイラク侵攻が、上記した国連防衛会議と国連軍の形成の構想を破壊した歴史的経験にも学ばなければならないだろう。

大国のやり方が一方的に通ることで、国際社会の平和は、一時的には大国の巨大な軍事力に抑制された平和な社会を醸し出すことが出来るかもしれないが、いつか、力を得た周辺国家、発展途上国によって、厳しい反撃の機会を用意することに繋がるのである。

イランが核所有国家になり、アメリカやイスラエルの中東での軍事的力に対して、瀬戸際外交を展開する切符を手に入れるなら、中東はさらに世界戦争や核戦争の危険に晒されることになるだろう。そうした事態が生じないように、日本は外交を展開しなければならない。





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2010年12月13日月曜日

中国の近代化・民主化過程を理解しよう

三石博行

経済大国中国、中国的民主制度形成の基盤


中国の正しい理解と東アジアの発展のための政治方針

日本の将来は、アメリカの理解を得ながら中国、韓国、台湾、ロシアと共に東アジア経済圏を形成することが出来るかどうかに大きく影響を受けるだろう。

日本将来が掛かる課題を考える上で、いま一つ理解しなければならない大切なテーマがある。それは、現在の中国と中国政府に対する我々日本のそして日本人の理解である。

私たちの中国の理解が、東アジア共同体を共に形成するために必要である。台湾、韓国や中国の飛躍的経済発展によって、これまで日本を中心とする東アジア経済圏が、東アジア経済共同体の前哨段階として、世界的な経済圏に成長しつつある。

現在の中国を理解するためには、まず現在の中国共産党の役割、特に中国の近代化過程に必要であった中国共産党の役割について理解して必要があるだろう。


多様な近代化過程

封建的経済体制から近代的工業経済体制への移行過程を一般に近代化過程と呼んでいるが、一方において、この近代化過程と欧米化と理解する意見もある。ここでは、近代化とはヨーロッパでの17世紀から始まる近代合理主義から18世紀の啓蒙主義と科学主義を経て、19世紀の資本主義経済の発展と工業化社会の形成過程とまったく同じ歴史的な社会発展の過程を意味するのではない。国際社会にはそれぞれの伝統文化や経済発展の歴史の違いがある以上、全ての社会での近代化が同じ過程を経ると言う事は不可であると言える。

取り分け20世紀になって世界のあらゆる国や国際地域で進む近代化過程は、欧米社会の近代化過程の反復ではなく、それぞれの文化的、社会駅背景を前提にして執り行われた、国を揺るがす大構造改革であったといえる。

近代化過程で取り上げられる課題は、自由、平等や友愛の社会思想から成立している国家の形成である。つまり、近代西洋科学を土台とする技術や生産様式、民主主義による政治制度と資本主義による経済制度の確立過程を近代化過程と呼んでいる。

しかし、これまでの歴史を振り返ると近代化過程はそれを最初に行ったイギリス、フランス、ドイツ、イタリアやアメリカなどの欧米型だけでなく、その周辺国家での近代化過程である、例えばロシア型、日本型、中国型、イラクやイラン型、インド型等、アジアやアフリカの発展途上国の近代化過程が存在する。


日本の近代化過程 天皇制による近代化過程

例えば、近代化を欧米列強の帝国主義植民地時代の真っ只中、すでに江戸末期に列強と取り結んだ不平等条約でのハンディを克服するために、つまり政治的にも列強の植民地にされないために、日本はアジアの国の中で最も素早く近代化政策を取り入れた。

まず、大政奉還を行い、徳川将軍家が帝へ征夷大将軍の位を返上し、政権は天皇中心とする(実際は薩長土肥の維新推進藩を中心とする勢力)が中止となる中央政権を作り、廃藩置県を行い封建領主制度を廃止し、明治政府の支配する中央集権制度を確立した。すべての大名は領土を天皇に還し、武士は自らその社会的地位を廃止し、日本国政府を創り上げていった。

明治政府がまず取り組んだ政策、天皇を中心とする中央集権制度による敏速な国家としての意思決定機能の形成、封建的身分制度の撤廃によって日本国民全体から人材採用の制度化(義務教育制度等々)、近代国家形成のための富国強兵政策(国家資本主義体制)等々である。

この日本の近代化過程は、イギリスやフランスに代表される欧米型近代化過程とは全く異なる形態である。アジア的伝統社会風土の上に(を前提に)形成する以外に不可能な過程であった。政治的意思決定機関(天皇制度)、産業化過程(国営企業による産業育成)、近代的技術形成過程(農業機械一つ改良を見ても、アメリカのトラックターが日本本土の田んぼでは使えないために日本式の耕運機を改良したように)等々、欧米型社会とは異なる政治、経済、社会制度を採りながら近代化を行った。


後発型近代化過程、社会主義による近代化過程

一つの社会経済史的な類似性を見出すのは、日本の例も入れて、後発資本主義国家は先行資本主義国家との競争を打ち勝つため(そうでなければ植民地化の危機に襲われる時代であったために)、国家が経済活動、企業活動に深く関係し、国営企業によって海外の巨大資本から自国の産業を守る傾向にあると言える。

例えば、周辺国ロシアの近代化の簡単に過程を分析してみる。日露戦争によって敗北した帝政ロシアは政治的に崩壊し、1917年のボリシェヴィキ(1919年共産党と改称)の武装蜂起とロシア革命、その後、列強(日本も含めて)ロシア干渉戦争に対して共産党は戦時共産主義を導入し共産党による一党独裁政治が確立した。1922年にロシア内戦が終わり、ソビエト社会主義共和国連邦が樹立した。強烈なソビエト共産党の独裁政権化での経済や軍事政策によって、ソビエト連邦は巨大な国家に成長して行った。

また、アジアの大国中国の近代化の歴史を振り返ってみる。この時代、つまりヨーロッパ列強が清国を部分的に植民地化して行った時代、1840年のイギリスとの阿片戦争に敗北し、1842年の南京条約締結以来、首都北京の外国軍隊の駐屯を認めた1900年の北京協定書締結を経て、中国全土の植民地化が進行した。

清朝末期、日本の明治維新に習って近代化を行おうとした勢力の敗北、そのため近代化改革は遅れる。清朝政府は、1908年欽定憲法大綱を公布して近代国家の体を作ろうとするが、孫文らの清朝打倒運動によって、清朝政府は崩壊して行く。その後、日中戦争を通じて、日本帝国主義と戦った中国共産党が台等していく。

第二次世界大戦へと突進した帝国主義の時代は、ヨーロッパ戦線でのナチスドイツの敗北、太平洋戦線での日本帝国主義の敗北によって終焉した。中国では、毛沢東指導する中国共産党によって中国全土を分断し続けていた日本帝国主義をはじめとした列強の植民地化は終止符を打たれることになる。

中国共産党なくしては、列強の植民地支配(特に戦前の欧米列強、戦中の日本帝国主義と戦後のアメリカの介入)から中国を守ることは出来なかったし、戦禍と飢えに苦しむ悲惨な中国国民の救済することは出来なかったのである。


工業化と富国強兵の近代化過程を推進した中国共産党の役割

1949年、国民党との内戦に勝利した中国共産党を代表し毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言した。建国一年後の1950年に朝鮮戦争が勃発した。東西冷戦の時代始り、ソビエトとアメリカの代理戦争が朝鮮半島を舞台にして繰り広げられる。社会主義勢力の一翼をになう中国は資本主義陣営の先頭に立つアメリカと闘うことになる。

毛沢東の指導する中国共産党の戦時共産主義体制によって東西冷戦時代に中国に襲い掛かった政治介入や経済的攻撃を防いだ。毛沢東は彼の共産主義革命論で国を武装しようとして、大躍進や文化大革命を行った。

しかし、その現実の結果は毛沢東の理論で語られるものと大きくかけ離れ、国の経済は疲弊して行った。毛沢東は革命の力によって共産主義社会と呼ばれる生産力の高い工業産業化や農業産業化が可能になると信じていたい。しかし、社会主義統制経済化での近代化は思うように進まなかったといえる。それは、東西冷戦時代での敵国中国に対する資本主義大国の政治的な意図も加味しながら、社会主義国中国のその時代の政治路線を理解する必要がある。

1980年代を向かえ、東西冷戦が終結の一途を辿り始めたとき、鄧小平指導する中国共産党による改革開放政策が行われた。今日の中国の経済発展を導いた。

社会主義中国の形成過程で登場する毛沢東と鄧小平の二人、その政治方針はまったく異なって見えるが、中国近代化過程流れから観れば、この二つの政策は一つの視点から生み出されたものに見える。

つまり、毛沢東の中国共産党は、文化大革命が典型的であったが、古い中国伝統の儒教思想を破壊する運動を行い、中国的近代化過程を展開するための文化的土壌を創ったと云えないだろうか。そして、その文革の成果の上に、鄧小平の中国共産党は、改革開放が典型的であるが、国際経済を相手にした中国近代化政策を実現したのである。

つまり、中国伝統の儒教思想に縛られた世界では、自由競争を前提とした市場経済の導入、それを支える優秀な人材の市場からの市場原理に基づく登場は不可能であっただろう。今、中国の殆どの人々が、豊かになるために勉強をして有名大学に入学し、共産党員に推薦され、いい職を探し、役に立つ人脈を持つ。国家の選ばれた人材群に参加するために、中国の若者は必死に勉強しているのである。


劉暁波氏の存在は改革開放の成功の証

中国政府が、劉暁波氏への2010年のノーベル平和賞授与を内政干渉として批判したことで、逆に世界中から中国の人権問題が課題になり、中国政府が劉暁波氏のノーベル平和賞受賞式典参加を妨害したことで、中国政府に対して国際的は批判が起こっている。

以前(2010年11月13日)、このブログで「中国の人権問題で思うこと」と題する文書を書いたが、その中で、劉暁波氏の存在は中国共産党の改革開放の成功の結果生まれたものであると述べた。

中国共産党が中国の発展に必要な近代化を国家を挙げ、強烈な一党独裁体制で推し進めた結果、今日の経済的発展があることは否定できない。つまり、この近代化過程は、丁度、絶対的権力者天皇を奉り国家挙げて富国強兵政策に奔走した明治から大正・昭和初期の日本の姿と基本的には同じである。その結果、少し経済的に豊かな日本で大正デモクラシーが起こるように、経済的に豊かになった中国で、自由を求める声が起こるのは当然のこと、歴史の必然のように思える。言い換えると、改革開放の成功によって、劉暁波氏が誕生したのである。


近代化のための手段としての中国共産党

この改革開放の成功の証である劉暁波氏を、それを導いた中国共産党が弾圧しなければならないのは皮肉な話である。しかし、実はここに中国での民主化の鍵が隠されている。つまり、生活の豊かさの彼方に、必然的に、民主主義社会への憧れが生まれる。

何故なら、人は衣食住のような基本的な生活資源(一次生活資源)を確保した後に、さらにその質的な豊かさ(二次生活資源)を求める。そして生活の質を向上させながら、さらに精神面の豊かさや自己独自の欲望(三次生活資源)を満たそうとする。

毛沢東率いる中国共産党の力で、中国人民は一次生活資源を確保し、鄧小平率いる中国共産党の力で、さらに二次生活資源を獲得している。中間富裕層が凄い勢いで増加する中国が示す社会文化の進化の方向は、民主化である。この流れは中国共産党という道具を使い、中国人民が実現したかった国の近代化過程の目的であったと云える。

言い換えると、近代化のための道具(機関)として日本での天皇制道具説を提唱したように、中国での共産党・社会主義体制道具説が成立するのである。

その道具を社会が必要である以上、その道具は活用される。しかし、それが不要になると、社会はそれに換わる別の道具を準備する。しかし、その準備とは、社会秩序や制度そのものが道具である以上、家の大工道具のように簡単に買い換えるわけには行かない。

太平洋戦争という悲惨な歴史的事件とそれの伴う多くの犠牲者を引き換えに、その道具の変換が可能になる場合もある。しかし、ソビエト連邦の崩壊のように、道具(共産党)を職人(党幹部)が捨てる場合も起こる。この道具の変換(政治的パラダイムチェンジ)の方法は予測不可能であるが、道具が変換されることはこれまでの歴史的な事実から、予測可能であると言える。


豊かな中国の彼方にある民主国家中国の姿

中国では、共産党員になることが国家や社会の政治に参加できる資格を得ることを意味する。社会的、経済的な利権を得るためには共産党員の資格が必要である。この資格は、高校までに成績が優秀でなければならない。大学の成績も優秀でなければならない。この資格を得るために若者は勉強をしている。

党員になれた人々とそうでない人々は、その出発点から違いが生まれる。つまり、これからの中国では、共産党員と非共産党員の格差社会が生み出される。

現在の共産党員の中に、国家の利益よりも個人の利益を優先する者がいるなら、党はそれを許さないという中国共産党の伝統が行き続ける限り、格差社会を生み出されたとしても、その格差は経済発展のために必要な道具と理解されるだろう。

しかし、豊かな社会となった未来の中国では、共産党員たちの利権を守るために党を運営し始めるなら共産党が社会発展を阻害する要素となる問題が発生し始めるだろう。つまり、官僚化した共産党の国家の運営が始まりだろう。形骸化した党の指導、政策によって合理的な経済政策が打ち出されなくなった時、中国人民は形骸化した共産党の一党独裁を否定し、多様な意見と持つ人民がそれぞれ政治参加できる議会制民主主義を要求するだろ。

しかし、現在の中国共産党にとって、欧米型民主主義制度、つまり他の政党を認め、選挙によって政権が交代し、立法、行政と司法の三権分離によって国家運営は、中国の経済発展のためにはならないと判断している。その判断を中国の大半の国民が支持している。その限りにおいて、アメリカやヨーロッパ、そして日本の市民が望む中国の民主化は起こらないだろう。だが、中国経済が急速に発展する中で、経済大国中国の国民が、いずれ我々先進国とよばれる国々の国民のように精神や信仰の自由を持つ民主主義社会を創ると信じることが出来るのである。


中国の近代化・民主化過程を日本から観てはならないだろう

我々は、劉暁波氏を代表とする中国国内での民主化運動に理解を示している。しかし、同時に、現在の政治体制が形成された歴史も理解している。問題は、アメリカ人であればアメリカから中国、その他発展途上国の近代化過程、民主主義社会の形成過程を観ない事、日本人であれば現在の日本の社会観から中国やその他の国々の現状を解釈しないことである。

先進国、以前は帝国主義列強と呼ばれた国々のこれまでの失敗は、今回のイラク戦争に代表される。アメリカはありもしない大量殺人兵器を理由に、一国の政権を滅ぼした。これの歴史的事実を未来の社会が判断するだろうが、こうした先進国(大国)の軍事行動が許されるなら、国連は不要となる。

大量殺人兵器を発見できないアメリカのイラク戦争の口実が、「イラク国民の望む民主主義社会を創るための戦」であった。常に、大国はその利権を得るために色々な戦争の口実を見つけようとする。歴史の中でそれらの例を山のように見つけることが出来る。

帝国主義の時代を終えて、国際協調の時代に入ろうとする時代、多様な近代化過程や民主主義過程が存在することを了解しなければならない。しかし、いずれの国も、国際人権宣言を尊重することは最低限の決まりとして了解しなければならない。民主主義の多様性を認めることは、非人道的独裁政権を認めることでなく、多様な民主主義制度の形成過程と多様なその段階を理解することを意味する。

今回の劉暁波氏のノーベル賞受賞に対して、我々は賞賛している。しかし、中国がそれを内政干渉だと言うのは現在の中国政府の立場である。それを批判するつもりはない。しかし、中国がノーベル平和賞授賞式に出席しないように要請することも、我が国に対する内政干渉である。我が国はこれまでの慣例に従って、出席をすればいいのである。

また、このような問題を外交問題の課題にしてはならない。ありえないことであるが、もし中国政府は、日本政府が劉暁波氏のノーベル平和賞受賞式に参列したことで、経済的関係を一部変更すると言う事が起これば、日本政府は正々堂々と、両国双方の国益を守るための、今必要とされる現実的な外交課題を中国政府と話し合えばいいのである。そして、それを国際社会に問い掛けると良い。

もちろん、以上のような提案は日本と中国の外交官にとっては当然な話しで、「釈迦に説法」というきらいがあるが、この機会を通じて、日本と中国が共に、世界経済の中心としての東アジア経済共同体の形成に向けて努力することを再確認することが出来れば、未来の中国を担う劉暁波氏も満足するだろう。



参考資料

三石博行 「中国の人権問題で思うこと」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_03.html

三石博行 「生活資源論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_02.html

三石博行 「中国共産党による中国の民主化過程の可能性 ‐大衆化する中国共産党・政治思想集団から社会エリート集団への変遷‐」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_3865.html


訂正(参考資料追加) 2011年2月21日


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2、日中関係

2-1、「日中友好に未来あり」)
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post.html

2-2、中国の人権問題で思うこと  
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_03.html

2-3、経済的発展か軍事的衝突か 問われる東アジアの政治的方向性  
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_13.html

2-4、中国の近代化・民主化過程を理解しよう
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_1850.html

2-5、中国との経済的協力関係の展開と中国への軍事的脅威への対応の二重路線外交を進めよ 
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post.html

2-6、米中関係の進展は東アジアの平和に役立つ   
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_5428.html

2-7、中国共産党による中国の民主化過程の可能性 
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_3865.html

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経済的発展か軍事的衝突か 問われる東アジアの政治的方向性

三石博行

世界経済の中心になる可能性をもつ東アジア経済圏

東アジア経済共同体の可能性を危機に落とす軍事的衝突

現在東アジアの国々では政治的や軍事的な衝突が頻繁に起こっている。例えば、2010年になって、韓国と北朝鮮の間で頻繁に軍事的衝突が発生している。例えば、2010年3月26日、黄海上で北朝鮮の魚雷によって韓国軍の哨戒艦「天安」が撃沈、2010年11月23日に北朝鮮軍による韓国の延坪島(ヨンピョンド)に170発の砲撃による民間人2名を含む4名の犠牲者と2010年10月の中国と日本の尖閣列島領有権問題等である。

さらに、北朝鮮の軍事行を抑止するために韓国と米国が共同で行った黄海での米韓軍事共同演習と日本と米国が東シナ海を中心に行った日米軍事共同演習に対して、中国(北朝鮮は当然なのだが)は不快懸念を示した。この二つの軍事演習が台等する中国軍への抑止力を示すものであることは明らかであった。

中国の軍事力の強化、つまり中国海軍の東太平洋への進出はこれまでの米韓日の東アジアの軍事同盟が作っている軍事的支配権に対抗し中国軍の存在を示すことになった。東アジアと東太平洋でのアメリカの軍事力指導権を維持するために韓米軍事共同演習が行われた。


東アジアを地域国際冷戦構造にしてはならない

この局面は、東アジアに地域国際的冷戦構造を持ち込む可能性が生じている。北朝鮮にとって東アジアが二つの勢力、つまりロシアと中国の勢力とアメリカ、韓国と日本の勢力に二分されていることが望ましいことは誰の目から見ても明らかだろう。

しかし、中国やロシアは、北朝鮮の望む東アジアの経済発展を犠牲にしてまでもアメリカ、日本や韓国と軍事的な対立を作り出す方針に賛成をしているわけではない。むしろ、中国は北朝鮮の瀬戸際外交に迷惑しているだろう。また、中国がその瀬戸際外交を利用するにしても、かなりのリスクを抱えなければならない。そのため、北朝鮮の外交路線への一時的な同調はするものの、常時、中国が北朝鮮の瀬戸際外交を承認する訳には行かないだろう。

そして、中国、ロシア、韓国と日本相互に進めている経済協力関係を犠牲にしてまでも、相互にある領有権問題を取り上げるつもりはない。一世紀前の帝国主義の時代と同じような日本の政治方針、つまり中国軍事力の対抗のために日米軍事同盟を強化し、その軍事力をもって中国と対立する方向で進むなら、日本政府は時代錯誤の政治を行っていると言える。


日本政府の現実的な外交力が求められる

今、大切なことは、21世紀の最大の国際経済圏としての東アジア経済共同体を創ることである。そのために、日本政府は努力しなければならない。

当然、こうしたことは、私が主張するまでもなく、日本政府や外務省幹部の方々は理解されていると思う。問題は世論、ジャーナリズム関係者である。報道は、視聴率を獲得するために、北朝鮮と韓国の軍事衝突、第二次朝鮮戦争の可能性とか中国軍と日米軍の尖閣列島での軍異衝突の可能性など、まるで劇場に行って戦争映画でも観るような刺激的な話(ストーリー)を面白半分怖さ半分で報道し続けるだろう。商売上の理由とは言え、こうした無責任な扇動を行うことを反省しなければならない。

もちろん、報道の自由は保障されるべきである。前回の尖閣列島中国船拿捕の問題への政府の対応は余りにも未熟であった。海上保安庁職員からの政府の言う「国家機密映像の漏洩」事件によって、正確な情報が国民に知らされた。こうした対応を続ける限り、報道機関は政府の対中国外交を批判するのは当然であり、その限りに於いて、国民の支持を得るだろう。

最終的な問題は、政府の外交力にある。国民に対して、現政権が昨年提案した東アジア共同体構想を維持し展開する政治姿勢を明確に示し続けなければならない。その理由、つまり、東アジア共同体の第一歩である東アジア経済共同体の実現が、近未来の日本の繁栄を導くこと、さらに21世紀の国際社会での日本の地位を東アジア共同体の中で発揮できることを明確に語り続けなければならないだろう。


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2、日中関係

2-1、「日中友好に未来あり」)
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post.html

2-2、中国の人権問題で思うこと  
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2-3、経済的発展か軍事的衝突か 問われる東アジアの政治的方向性  
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2-4、中国の近代化・民主化過程を理解しよう
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2-5、中国との経済的協力関係の展開と中国への軍事的脅威への対応の二重路線外交を進めよ 
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2-6、米中関係の進展は東アジアの平和に役立つ   
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2010年12月9日木曜日

指導者の姿・思考実験への不断の取り組み

三石博行

日常の姿勢の中から指導者が生まれる


サンホセ鉱山事故でのルイス・ウルスア氏の指導力

チリのサンホセ鉱山で2010年8月5日に発生した坑道崩落事故で33名の労働者が坑道内に閉じ込められた。事故後18日目の8月22日に全員の生存が確認されて、国を挙げての救出活動が始まり世界中の話題になった。そして日本を始めとして多くの国々は、この救出作業に協力し、救出作業は世界の大ニュースとなった。

はじめ12月末まで掛かると予測された救出活動は、チリの国家を挙げ、また世界中の支援を受け、10月13日に全員を無事に救出して終了した。

この救出活動で、「極限で生きるリーダーシップ」(日経新聞 2010年10月14日夕刊)を発揮したルイス・ウルスアさんのことが話題になった。彼は、事故発生から生存が確認するまで、坑道に閉じ込められたしまった33名の先頭に立ち、全員が助かるためにありとあらゆる努力をした。

例えば、いつ救出されるか分からない絶望的な持久戦に備え、食料や水の配給、闇の坑道で想像絶する恐怖心との闘争等々を行った。パニックにならないように全員を勇気付け、一致団結させた。生き延びるために坑道内での生活秩序を決め、それを守らせ、衛生管理を徹底し坑道での疫病対策を行った。

そして何より、彼が自らに徹底させたことは、「自己犠牲の精神」であったと云う。

この救出劇は、最後まで劇的に進んだ。まず感動は救出順番の決め方から始まった。ルイス・ウルスアさんは身体の弱い者から順に脱出させた。そして、彼は最後に救出カプセルから出てきて、10月13日の救出劇の最後を括ったのである。


指導者の条件という知識

このチリのサンホセ鉱山坑道崩落事故での33名の生存者の戦いの経過から、リーダーシップ論、指導者のあり方や考え方が課題になった。事故現場(坑道)約2ヶ月1週間、33名のリーダー として生還まで闘ったルイス・ウルスアさんの指導力が話題になっている。

指導者の条件とは何か。それは、今、私たちの社会で最も大きな課題として取り上げられている。イス・ウルスアさんのように指導者として評価された人々の評価の結果を私たちは知りたいと思う。つまり、彼が暗い事故現場で長期に及ぶ全員生還のために闘ったかという経過を知りたいと思う。例えば、坑道での避難生活の規則、水や食事の配分の仕方、衛生管理、汚物やトイレに関する規則、喧騒を避けるための規律等々、知りたいことが山のようにある。

その一つ一つの有意義な情報によって、今後の問題解決の糸口、危機に遭遇した場合の行動、リーダーとしての教訓を見つけることが出来る。

しかし、イス・ウルスアさんは、坑道に閉じ込められてから、危機的状況を打開するための行為を考え出したのではない。多分、これまで彼が鉱山労働と監督作業を通じて日常的に経験したことが、この事故への対応を可能にしたと思われる。

従って、イス・ウルスアさん事故時の危機管理行為だけでなく、彼のそれまでの仕事上、身に付けてきた危機管理に関する知識(暗黙知や形式知)と、それを学ぶことができた日常的な労働や生活様式を理解しなければならない。

つまり、結果としての行為の理解ではなく、成功の結果を導いた行為の選択過程を知ることが必要である。


問題解決力を鍛える方法・思考実験

NHKが三年を掛けて製作している司馬遼太郎原作「坂の上の雲」第7回「子規、逝く」の一場面で、海軍大学校の教官となった秋山真之が、学生達に戦術論を教える方法として、講堂に作った海戦図を使った戦闘ゲームを行う場面があった。

学生たちは書物の上で戦術を学ぶために、成功した戦術の結果だけを拾い出し、それを戦闘ゲームの場面に活用する。その結果、実際には、成功した戦術が失敗を導く結果になる。学生たちは戸惑い、苦しむ。そして教官秋山が語る。

正確な台詞は忘れてしまったが、「君たちは過去の成功した戦術の結果のみを学ぼうとする。それがどのような条件で成功したか、ありとあらゆる角度から検討しながら学ばなければならないことを、その結果の情報のみを拾い出そうとする。それは間違いなのだ。もし、この戦闘で犠牲者が出ると言う事、自分の部下を死なすという緊張を引き受け、ありとあらゆる仮定を立て、あらゆる条件での思考実験を試み、それで結論を慎重な限りを尽くし導き出す精神が必要である」という内容のことを秋山は述べたと記憶している。

指導者にとって必要な条件、それは日頃、色々な失敗の可能性を想定し、思考実験を繰り返す習慣を身に着けておくことである。そのための材料は事を欠かない。例えば、自分の同僚、すぐ上の上司、その上の上司と最高責任者まで、彼らが色々な現実の状況で下す判断とその結果を材料にしながら、自分がその立場にあると仮定して、自分の判断訓練を行い鍛えることである。これは、秋山が学生の授業に取入れが戦闘ゲームであり、また、畑村洋太郎氏の失敗学の基礎知識の一つ、思考実験の考え方である。

教訓と呼ばれる成功例の結果を鵜呑みにするのでなく、寧ろ多くの失敗例を調査し、その失敗の要因を見つけ出す。つまり、日常的に、他の人々の経験値を挿入しながら、色々な状況を想定し思考実験を繰り返し行い、そのデータを蓄積し続ける。そのことによって、千差万別の現実の状況に合った問題解決力を身につけることの一歩が始まるのである。

それでも、失敗をする確率をゼロにすることができないことを理解しているのが、リーダーの姿ではないだろうか。





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2010年12月8日水曜日

21世紀の課題、生活大国日本に向かって何をなすべきか

三石博行

GDP(MER)とGDP(PPP)

国内総生産(Gross Domestic Product ・ GDP)とは、一定期間内(一年間)に国内で生み出される付加価値(ふかかち)の総額を言う。原則として市場で取引された財(物的な商品)やサービスの生産のみが計上されるため、家事労働やボランティア活動は国内総生産には計上されない。GDPの算出方法には二種類ある。

一つは、ドルなど国際通貨(外貨)によって、国際市場で決定されたレート(Market Exchange Rate)でGDPを計上したものをGDP(MER)と表現している。

もう一つは、商品の物価(円)をアメリカでの同じ商品の物価と比較し、双方の国での生活物価指数を前提にしながら、GDPを計上する方法である。基準になるのは米国での商品価格で、同じ商品の米国での価格と他の国での価格を比較し、為替レートに関係なく同じ商品の価格は一つに決まると考える。これを一物一価の法則と呼ぶ。

この一物一価が成り立つとき、国内でも海外でも、同じ商品を同じ価格と考えることが出来る。これを購買力平価(こうばいりょくへいか)と呼ぶ。この購買力平価によってGDPを評価したものをGDP(PPP)と表現している。そして一人当たりのGDP(PPP)が実際の国民の経済生活の質を示す評価により近いと言える。


一人当たりのGDP(PPP)から観る日本の経済力

2008年の東アジアの主な国のGDP(PPP)を比較すると、日本は43,560億ドル、韓国は13,423億ドル、中国は79,164億ドル、台湾は6,818億ドルである。つまり、2008年度でも、中国のGDP(PPP)は日本のそれを越えているのである。

しかし、2008年度の東アジアの上記の国々の国民一人当たりのGDP(PPP)を比較すると、日本は34,115ドル、韓国は27,646ドル、中国は5,962ドル、台湾は30,100ドルである。つまり、2008年度の、中国の一人当たりのGDP(PPP)は日本のそれの約6分の1である。そして、日本、韓国と台湾は殆ど同じレベルであると言える。

今後、日本は国民生活の向上、国民一人当たりのGDP(PPP)を基準にしながら、国の豊かさを議論する必要がある。2009年の国際通貨基金(IMF)の調査による日本の国民一人当たりのGDP(PPP)は32,443ドルで、世界23番目である。因みにシンガポールは50,701ドルで世界4位、香港は43,826ドルで世界8位である。また、2009年度の世界銀行(World Bank)の評価では、日本の国民一人当たりのGDP(PPP)は世界で29番目と評価されている。

世界で二番目とか三番目の経済大国と自称した日本は、2009年度の国民一人当たりの国内生産力は世界の二流国家であると言える。そして、生活経済大国を目指すために、これかの日本での国民経済のあり方を検討する必要がある。


一人当たりのGDP(PPP)から観る日本の経済力

国内総生産(GDP)は、市場で取引された財(物的な商品)やサービスの生産のみが計上される。つまり、家事労働やボランティア活動はGDP(国内総生産)には計上されない。

市場で交換された商品(物やサービス)だけでなく、地域社会での共同作業、家事、家での育児教育、文化活動、ボランティアなどによる労働が行われ、社会経済システムの機能を担っている。国民の社会経済活動は、市場経済、生活経済と文化経済の三つの活動も含まなければならない。


成熟した民主主義社会・日本へ向かうために

2010年12月2日の深夜、NHKハイビジョンの番組「マイケル・サンデル「白熱教室」を語る」で、サンデル(Michael Sandel)教授は、共同体主義者(コミュニタリアン)として自らの社会思想的立場から、日本のこれからの社会発展に関して意見を述べた。

簡単に述べると、日本が第二の経済大国から中国にその地位を奪われ、第三番目になったことは大きな問題ではなく、21世紀の日本が成熟した民主主義社会に向かうことが問われていると言うのが彼の意見であった。

この見解を受け入れ、展開するために、市場経済主義で計られる豊かさの概念を生活経済から了解できる豊かさの概念に転回しておく必要がある。生活の豊かさの中に市場経済では計量し難い、精神的満足度や幸福感を入れなければならない。

さらに、経済効果をもたらす資源に関する考え方を変えなければならない。生活環境を豊かにするために最も重要な資源は人的資源である。つまり、明治初期に、貧しい国・日本を豊かにしてきたこれまでの経過を振り返り、我が国に非常に豊かにある資源・高度な教育を受けた人的資源の生産と再生産、そしてその十分な活用を行う社会文化経済政策を展開する必要がある。

また、国民生活の豊かさを示す評価基準として、国民生活指標(新国民生活指標・PLI)という概念を用いて、生活経済を豊かにする活動を社会的に評価する必要がある。

まだまだ、多くの課題があるが、以上述べた基本的な課題を今後の社会経済活動の中で再度位置づけなければならない。






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アメリカの大学教授法を紹介したサンデル教授の「白熱教室」

三石博行


2010年4月4日にNHK教育テレビが放送した番組、Michael Sandel教授(哲学)の「ハーバード白熱教室」、そして同教授が2010年8月に東大で行った「東京大学特別授業(前編)(後編)」は日本社会に大きな反響を生んだ。特に、学生、大学教育者や大学運営者にとって、日本の大学の教育のあり方、つまり授業や講義のあり方を考える大きな課題を投げかけた。

アメリカの大学では、「現実の社会で問われている課題を考え、それを解決するために学ぶ」方法を身につけるための大学教育のあり方として問題解決型の授業が行われている。例えば、ハーバード方式やカルフォルニア大学バークレー校及びサンフランシスコ校でのPBL(Problem based leaning)は非常に進んだ教育方法を提起している。

そして、今回のマイケル・サンデル(Michael Sandel)教授の授業が特別なのでなく、アメリカの大学で普通一般に行われている参加型授業の中で、ハーバード大学の中で最も評価を得ている授業の一つとして紹介されていると理解することが出来る。

2010年12月2日の深夜、NHKハイビジョンの番組「マイケル・サンデル「白熱教室」を語る」があった。サンデル教授が、講義テクニックについて非常に興味ある話を聞くことが出来た。中でも、講義に参加した学生の一刻一刻と変化する反応を観察し、学生の講義への興味や参加状態を理解する観察力とその的確な対策には感心した。

例えば、学生が講義に興味を持ってない場合、彼らは自然に講義への集中力を喪失し、色々な身体反応の信号(足を組みなおす、咳をする、ヒソヒソと話を始める等々)を講師に送る。その反応を敏感に感じる力が問われ、また、即時的に講義の内容を、状況に合わして変える展開力が必要であると思われた。


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2010年12月2日木曜日

新しい日本社会・民主主義と個人主義時代の責任の取り方

責任を取る行為・考え方の転回期を迎えた現代日本社会


三石博行



失敗したら切腹、美しい国日本の文化

切腹という異常なまでの責任の取り方をもつ武士の文化、それを精神文化の基本としていた日本人が、全く、責任を取らない日本人と、国内の企業や組織の中は勿論のこと、アジアや国外からも言われるようになったのは、いつごろからだろうか。

そして、何故、我々の日本文化から責任を取らないという習慣が生まれたのだろうか。また、責任を取るという個人の態度やモラルは、いつごろから喪失したのだろうか。

そこで、つい最近までの、日本人の中にあった失敗の取り方の習慣を考えてみる。つい最近まで、少なくとも1990年代までは、失敗の責任を取る仕来りがあった。それは辞めることであった。つまり、辞表する。失敗の程度によるが、会社に損失を与えた場合、役員であれば会社を辞表する。職員であれば減給にする。組織の長や執行部の失敗は、その程度によりけりで、組織を去る、職務を辞める、減給する等々である。しかし、最も立派とされる失敗の責任の取り方は辞表であった。

どのような立場の人も、もし失敗を認めれば辞職しなければならないと言う極端な結論は、ある意味で、日本的なものではないか言える。何故なら、間違いを犯した場合武士は切腹、やくざは指をつめるという習慣(失敗の取り方の作法)のように、自らの死(辞表)をもって、失敗の責任を取らなければならないからである。

この失敗したら会社を辞めるという考え方はつい最近まであった。今もやはりある社会では確りと残っている。

日本式責任の取りか方の消滅の理由、終身雇用制度の崩壊

考え方を換えて観れば、今の日本人は、失敗を取らなくなったのでなく、今までのような失敗の責任の取り方をしなくなったと理解すべきではないか。

それも失敗の程度によるが、企業に甚大な被害を及ぼすような失敗でなく、事業計画などが失敗したことで企業にある程度の損害が生じしても、以前のように切腹まではしなくて済むようになった。精々、役職を辞めればいいのである。

そして、今の日本では、新しい責任の取り方が見つかっていない状態にある。それが、失敗と取らない日本人の姿として観えるのではないだろうか。

失敗の責任の取り方には、あるモラル、行為の美学や作法に関する美意識が内在している。

桜の花が散るように、武市は見事に腹を切った。
桜の花が散るように、健さんは見事に弟分の責任を取って、指をつめた。
そこには、日本的美談、潔い行き方への憧れがある。

年功序列、終身雇用制度があった時代には、こうした美談に憧れる余裕があったかもしれないが、いつでもリストラされる社会で生きる人々には、その余裕もないのが現実である。

武士の社会文化も終身雇用制の終焉とともに、この日本から消滅使用としているのかもしれない。つまり、企業戦士(侍)は、明日は浪人になる立場に立っている。企業のために命を掛けた戦士も、その企業から簡単にリストラされる時代に直面している。今までのように、命を無駄にしていたら、何回も腹を切ることになり、終には、万年浪人の生活がまっており、ホームレスで終わる可能性もある。

日本的責任の取り方が消滅したのは、日本的な雇用制度、終身雇用制がなくなったのと無縁ではなさそうである。

そのため、今までのように、武士は潔く腹を切ることを辞めた。今までのように、日本式の責任の取り方をしなくなったといえる。


今、失敗に対する対応が問われている

しかし、一方で、責任を取らないという、新しいサラリーマン文化がもたらす社会的問題が生じている。そして、日本では、誰も責任を取らない体質が企業や組織で蔓延していると言われているようになった。

例えば、ある企画を行った人々が、その結果に対して責任を取らないために、組織では、生じた課題を基本的に解決することが出来ない。そのため、同じような失敗を繰り返す結果となる。最も代表的な例は、ブログ「畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』第一章「失敗学の基礎知識」のテキスト批評」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_6897.html
で示した、雪印食品や動燃の失敗例である。

同じ失敗を繰り返すことで、その組織や企業は、社会的信頼を決定的に失うことになる。つまり、組織の失敗を、組織内部で点検、修正する力がなければ、また同様に、組織内部で失敗に対する処理を間違えば、その結果は、いずれ、その組織の外部評価の損失、社会的信頼を失い、その組織が存続することは不可能となる。

つい最近、例えば三菱自動車や雪印食品のように、それに近い状況で、企業が危機に瀕し、倒産した事件があった。失敗に対する対応の失敗に結果で、企業は倒産する時代が来ていることも確かである。

つまり、日本伝統の責任の取り方の文化が消滅しながらも、新しい責任の取り方の社会文化や組織運営のあり方が見つからないために、結果的には、社会全体が大きな損失を蒙っていると言えるのではないだろうか。

失敗学から導かれる行為責任論

この答えを導くために、畑村洋太郎氏が提案してきた『失敗学』は大いに参考となる。畑村氏の失敗の概念は、成功の反対概念ではなく、行為の目標値(期待値)に対する負のズレである。そのため、失敗は個人個人の目標に対して、計量的に(程度としても)測定可能になる。

また、失敗という目に見える現象を生み出すもの、つまり失敗の原因と呼ばれているものを、畑村洋太郎氏は、「からくり」と「要因」に区分した。「からくり」とは、行為の主体者、個人や組織の性質、体質、技能、考え方、方法論などである。つまり、行為を導き出す作法や様式に近い概念である。「要因」は、その行為主体を取り巻く環境や条件である。

要因は色々と考えられるのであるが、からくりを見つけることが一番大変なことである。
何故なら、自分の癖は自分では分からないからだ。組織の体質も組織内部にどっぷりつかった人々には見えない。日本社会の習慣も日本から出たことのない人々には理解できない。

この失敗学から導かれる失敗の責任の取り方のヒントは
1、 ある部署で、失敗を起こしたら、その部署の人々で、まず、そのからくりや要因を見つけ出す。
2、 しかし、そこで導かれた「からくり」つまり失敗の原因と考えられる組織や個人の考え方、体質、方法、技能等に関しては、外部から人を入れて、再度点検する必要がある。
3、 それらの失敗から学んだこと、教訓を出来るだけ情報公開して、さらに他の失敗例との関係を求め、普遍化する必要がある。


仕事のスタイルとしての責任の取り方を見つけ出す必要性

新しい時代、つまり、個人主義は日本社会の中に確りと根付き、今までの古い雇用制度でなく、能力評価を得ながら、その個人の力の評価を基にして、雇用関係が成立する時代に向かった、失敗の取り方一つにしても、社会は真摯に考え、そして解答を見つけ出さなければならないだろう。

日本人は責任を取らなくなったのではなく、新しい責任の取り方を見つけ出せない状態にあると言える。そのことを理解した上で、失敗学から導かれる責任論をさらに展開する必要がある。

新しい時代での、失敗に対する責任の取り方を見つけ出すことによって、企業が存続するあり方や、日本という社会が国際社会の進展から取り残されない方法を、見つけ出すことが出来ると思う。


参考文献


畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』文藝春秋、文春文庫、2005年6月10日第1刷、258p、 





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2011年6月28日 大幅に修正の予定

企業経営の危機から何を学ぶのか、逆境に学ぶ力

三石博行

危機をチャンするために必要な備えとは


つねに危機的状況は存在する

社会や組織を取り巻く状況が悪くなると言う事は、それに関わる、またはそこで生きている人々にとって、労働条件、生活条件や社会環境が悪化することを意味する。その意味で、状況の悪化は危機である。

企業の経営が苦しくなる。すると、リストラが生じる。多くの人々がリストラされる。失業することになる。失業によって生活の糧を失う。

しかし、その会社の経営が行き詰ることに対して、企業で働く人々は、意見を持ち、また改善策を検討してきたと思われる。その上の結果であれば、その責任の一部を引き受けることも出来る。

また、社長や経営陣の度重なる失敗の結果、会社経営が悪化したとする。それに対して、意見しても、聞く耳を持たない経営者の下にいては、将来の見通しは暗い。それなら、割り増し退職金が出るうちに辞めるほうが得策だと思う。

何故なら、その会社の再建は、これまでの企業の体質を根本的に変えなければ不可能であるし、会社の執行部でもない自分ひとりだけでは、会社の変革は不可能である。


辞めるまえにすること

辞めるにあったて、

1、 何故この会社の経営が破綻したかを徹底的に調査する
2、 この会社の執行部の体質を調べ、何故、会社の再建が不可能かを調べる。

これだけの現実のデータを集め、これまでの会社での出来事やそれに関する会社や自分の対応をデータ化して置くだけで、非常に大切なものを獲得したと思える。

言い換えると、ここまでやったときに、危機的な状況から学ぶことが可能になり、その結果が、次の行動に生かされる。もし、この調査のデータを勤務している会社が活用しなかったとしても、自分も味わった(経験した)企業の失敗例からの学習は、どこかで活かされるだろう。


逆境に学ぶ力

よく、危機的状況は、観かたによればチャンスであるということばがある。このことばの裏には、危機的状況に学ぶ、そしてその状況から立ち上がる具体的計画や実行力を前提にして語られている。

多くの場合、危機的状況はネガティブにしか作用しない。しかし、それをポジティブに転回するのは、そのネガティブファクターを掴み出し、それを改善することを理解した場合に限られるのである。

危機的状況を経験し、その状況から理解(分析、解釈した)経営不振を導いた原因(失敗学の用語では、からくりと要因)を理解することが、危機はチャンスという状況の転回を導く力を与えるだろう。






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第三次開国期を迎えた日本

三石博行

第三次開国、アジアの中の日本

2010年11月30日(日曜日)だったと記憶しているが、NHKの人気番組「爆笑学問」で、中国人の日本人観、日本人の中国人観を巡って議論がなされていた。

面白かったのは、まず、中国人の参加者は、中国人は国際スタンダードに近いと自ら自負していたこと、それに対して、日本人の参加者は、日本人は特殊な民族文化を持っているが、しかもその特殊性を自覚していないと考えていたことであった。

私は長年、海外、ヨーロッパで生活をしてきたので、むしろ、中国人のやり方が理解できる。例えば、自分を確りと主張した上で、他者との関係を作る。買い物の例が出されていた。買い手が「これは高い」と言って決裂した後に、売り手は追いかけてくる。そして再び交渉が始まる。日本であったら、そこで交渉決裂であるが、中国では、そこからが交渉の始まりである。

他人と意見の違いを明確にしない、事前に他人の意見を調べ、反対意見の人に対する対策を考え、交渉に臨む。これが基本的には日本で多くの人々が行っているやり方である。その話し合いで、交渉が決裂すれば、そこで終わりとなる。

これから日本人は、自信をもった東アジアの友人たちと付き合わなければならない。今までと話が違う。150年前に一早く、アジアで近代化政策を興し、列強の仲間入りした日本、日本人を自負している時代は終わり、日本の近代化や高度成長の何倍かのスピードで国が発展している近隣の国、シンガポール、台湾や東アジアの国、韓国や中国の人々を相手にした新しい付き合いが始まろうとしている。

中国の態度が典型的であるが、偉そうで何となく優越感をもった日本人に対して、アジアの国々の人々は、今までのように接してくれないのは明らかである。

問題は、我々、日本人がこの発展するアジアの状況に適応しなければならないだけなのだ。

言い換えると、明治の初めのように、欧米社会に自らを開いた文明開化と同じように、また、戦後民主主義社会を作った第二の開国期と同じように、今、日本では東アジア、アジアの国々に学び、国を開く第三次の開国が要請されている。

ここで再び、日本人論が問題になる。何故なら、我々日本人は、当然ながら、どの国の人々と同じように、日本的なものを大切にしたいという気持ちがある。発展するアジアの中で、生き延びるために、アジアの国際化の波に乗り遅れないために、我々の文化を知り、我々の社会と文化の国際化の方向や方法を検討しなければならないだろう。







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2010年11月29日月曜日

畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』第一章「失敗学の基礎知識」のテキスト批評

三石博行


第1章 テキストの出典

畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』文藝春秋、文春文庫、2005年6月10日第1刷、258p、第一章「失敗学の基礎知識」pp17-63 

テキストの文献記号は、(HATAyo05A )とする。

著者畑村洋太郎は1941年生まれ、東京出身、東京大学名誉教授、工学博士、創造的設計論、知能化加工学、ナノ・マイクロ加工学を研究。最近では、工学分野に留まらず、経営分野における失敗学などの研究を行っている。

畑村氏は、失敗学に関して、「失敗学のすすめ」「回復力 失敗からの復活」、「危険不可視社会」、「失敗学(図解雑学)」、「危機の経営」、「だから失敗が起こる」、「失敗を生かす仕事術」、「失敗学実践講義 だから失敗は繰り返される」等々、多くの著書を出版している。



第2章「失敗学の基礎知識」pp17-63の要約


2-0、「失敗学」における失敗の定義

著者は失敗学における失敗の定義を「人間が関わったひとつの行為の結果が、望ましくない、あるいは期待しないものとなる」(HATAyo05A p14)と述べている。つまり、失敗とは、ある行為の結果がその目標であった状態に対して望ましくない結果や期待はずれの状態も含むことを意味している。


2-1、「逆演算」で失敗の《からくり》がわかる

著者は、「初めて失敗学に触れる人たちのことを考え、第一章では、失敗学の基本的な考え方を」述べる。


「逆演算」で失敗の《からくり》がわかる

著者は「失敗を生かすための第一段階は」、失敗のからくりを理解することであると述べている。つまり、「どんな原因がどんな結果(失敗)をもたらしたか」を正しく理解することである。

失敗が起きたときに目に見えるものは、失敗したと評価されている「結果」の部分である。問題は、何故失敗したか、その原因は何かということであるが、「原因」は目に見えない。その目に見えない失敗の原因を辿っていくことを「失敗学では「逆演算」と呼」ぶ。(p19)「HATAta05Aを省略してページ数のみを表示する」

「失敗学では失敗の構造をより正確に把握するために、「原因」を《要因》と《からくり》の二つに分けて」(p19)考える。「つまり、失敗の構造を《要因》《からくり》《結果》の三要素から構成されていると考える」(p19)。そして、失敗学では、見える結果から見えない失敗の要因やからくりに逆に辿っていく手法が取られる。この手法(方法)を「失敗学における逆演算」と呼ぶ。つまり失敗の《結果》(目に見える状態)から「《要因》と《からくり》という見えない二つのものを逆に辿(たど)って探していく」(p20)のである。


雪印食品での失敗例

雪印食品の牛肉偽装・詐欺事件(2002年1月)は、単純に原因は「狂牛病問題のせい」で、結果は「詐欺事件が起きた」ことになる。つまり、雪印食品は狂牛病問題で困っていて、その結果、牛肉偽装の詐欺事件を起こしたという説明が成立する。

「しかし、狂牛病問題のせいで困っていた会社は雪印食品以外にもあり、それらの会社がすべて牛肉偽装・詐欺を働いたわけでは」(p20)ない。つまり、上記した原因(狂牛病問題)があっても、必ずしも結果(牛肉偽装)という結びつきは起こらない。

そこで、この雪印食品の失敗《結果》を《要因》と《からくり》に分けて分析する。すると《からくり》にはいんちきをしてでも、儲けたいという「雪印の企業体質」が挙げられる。つまり《狂牛病=要因》を、《雪印食品の企業体質=からくり》の中に入力したからこそ、《牛肉偽装・詐欺事件=結果》が出力されたのである。(p20)

この雪印食品の例から分かるように、《からくり》の正体を明らかにすることで、「本当の失敗の原因を究明できる」(p20)のである。

この例から、失敗を引き起こす《要因》は、社会問題や過去の事件(企業経営に関する)、個人の場合には失敗行動を起こす「動機」であったりする。また、失敗を引き起こす《からくり》は組織や個人の「特性」、つまり企業体質や理念、個人の考え方、行動規範や性質などが考えられる。(p21)


売れる営業マンと売れない営業マンの例

私たちが実際に失敗に遭遇した場合に、逆演算の方法を使って具体的に問題を解決していく例として、自動車販売会社の二人の社員、売れない営業マンAさんと売れる営業マンBさんの例をとって、逆演算のやり方の説明を行う。


第一段階 失敗の原因を知るために《要因》《からくり》を知る必要性がある。

売れない営業マンAさんから見えてくる現状は「自動車が売れない」という結果である。その結果からAさんは「不景気だから」とかAさんがたまたま運悪く、財布のひもの固い人々の多い車の売れない地域の担当になったからだと考える。(p21)

しかし、同僚のBさんは同じ条件下でも売り上げを伸ばしている。売れる営業マンBさんがいる以上、Aさんの考えた売れない原因は正しくないことになる。(p22)

そこで、Aさんは、失敗学の逆演算の方法を使って、売れないという《結果》に至る《要因》と《からくり》の二つの要素を探る必要が生じた。失敗の《結果》からその《要因》と《からくり》を探る必要性を感じるというのが失敗の原因を知るための第一段階である。


第二段階 《からくり》の正体を探す

第二段階は、失敗の《結果》を導く《からくり》の正体を探すことである。

そこでAさんは、同僚のBさんのセールスの方法と自分のそれとの違いを検討することになる。つまり、車が売れない《からくり》はセールスの方法の違いであると仮設(仮説)した。その仮説から車が売れないという《結果》を逆算した。(p22)

Aさんの車が売れないという《結果》に共通する部分は「Aさんが価格を安くしてセールスをしている」(p22)ことで、この共通部分に失敗の《からくり》の基本構造が隠されている。言い換えるとAさんは車を売るセールス方法は「安く売るやり方」だと考えていたことが理解できた。安ければ顧客は車を買うという考えがAさんのセールスを決めていたことになる。


第三段階《からくり》に架空の《要因》を入れてみる

第二段階で《からくり》の正体が明らかになったら、つぎにさまざまな《要因》を想定して、《からくり》の中に入れてみる。そして、それから導かれる架空の《結果》を推測する。

一つの架空の結果の推測として、例えば、お金があるので「乗り心地がよくて飽きのこない車がほしい」という架空の《要因》を入れて、Aさんのセールス方法の《からくり》である「価格が安ければ売れるだろう」から、「高くてもいいから、性能、デザインともに、もっと質の高い車がほしいから買わない」という《結果》が出てくる。

もう一つの架空の結果の推測として、例えば、「自動車にかけられる予算があまりないので、できるだけ長持ちする車がほしい」(p24)という《要因》にAさんの《からくり》を入れれば、安いが、すぐ故障する車は買わないという《結果》が導ける。(p24)

このように、可能な限り色々な《要因》を仮設して、見つけ出した失敗の《からくり》に入れてみる。そこから導かれる色々な《結果》を取り出す(計算する)。


第四段階 《要因》《からくり》《結果》の関係を一般化し、予測・類推につなげる

第三段階で思考実験した《要因》群と《結果》群から、《要因》《からくり》《結果》の関係が浮かび上がってくる。(p25)Aさんの場合、もし「値段以外のことを重視する客(要因)が来」たら、Aさんの安ければ売れるという方法(からくり)では、この客には車を売れないという《結果》が生じる。(p25)

つまり、Aさんのセールスの方法《からくり》が一つしかない場合、色々な顧客の要求(要因)に対応して車を売ることができないという《結果》が生まれる。そこで、Aさんは、セールスの方法(からくり)を見直し、顧客のニーズにあったセールス方法を見つけ出す必要が生じていることに気付く。

Aさんの車が売れない《からくり》を見つけ出し、その《からくり》を変更しない限り、つまり顧客のニーズに合わせてセールスの方法を変える《からくり》にしない限り、いつまでも車が売れない《結果》になることが予測できるのである。


うまいラーメン屋の逆演算とは

失敗の本当の原因を理解することは、失敗を克服するためである。そこで、失敗を克服する方法について考える。それは状況に合わせて対策を講じるというやり方である。そこで人気のある東京のあるラーメン屋の例を取って説明を行う。

ラーメン屋の主人は開業以来、百回を超える味変えをしている。なぜなら、人は最初はおいしいと思った味もじきに飽きるとこの店の主人は考え、「味をよくする努力を怠ってはいけない」し、また一年に一回から二回の割りであらゆる角度から味を見直す、よい味にする試作を重ねる。そして客の反応を見ながら、客がどんな味を欲しいのかを観察し続けている。(p26-28)

これは、よくはやっているラーメン屋という《結果》である。この結果を導く《要因》や《からくり》を理解するために、失敗学の逆演算を活用してみる。

すると、繁盛しているラーメン屋《結果》は、ただ味がうまいからではなく、…お客が求めているものを提供するという営業理念《からくり》がある。(p28)繁盛するラーメン屋になるためには、色々な《要因》を《からくり》入れて、その《結果》を演算するとよい。そして、最も大切なことは自分でうまいラーメン屋の主人となるための《からくり》を見つけ出すことである。(p28-29)


  
2-2、「失敗の脈絡」分析で失敗を予測せよ


異なる《要因》でも、同じ《からくり》から同じような失敗《結果》が予測される

「逆演算によって一般化した失敗の《要因》《からくり》《結果》の関係のことを、失敗学では「失敗の脈絡」と呼」ぶ。(p30)この失敗の脈絡を使った、失敗の《要因》と《からくり》を類推すれば、…どんな失敗がどういう経緯で起こるかを、予測できる」(p30)のである。

狂牛病騒動が日本で起こる三ヶ月前に新聞にEUが「狂牛病の拡大を防ぐために、EUの欧州委員会はもちろん、それ以外の国についても危険度の調査を行い警告を発してきた。日本について…感染リスクが高い国と評価される可能性があったのに、日本は調査を中止するように申し入れた」(p30-31)経過があった。

日本で起きた狂牛病騒動・農水省の失敗《結果》に関連する《要因》と《からくり》の関連、つまり失敗の脈絡は、まったく薬剤エイズ事件・厚生省(現在の厚生労働省)失敗の脈絡と同じである。(p31)

「厚生省はアメリカから非加熱製剤は危険だという情報を得ながら無視」したことが《要因》となり、官僚、お役所体質である事なかれ主義や特定の人物や業者との癒着しやすい体質《からくり》によって、薬剤エイズ事件の失敗《結果》が起こる。(p31)

つまり、狂牛病の場合にも、農水省は欧州委員会の調査で狂牛病の危険を知りながらも無視した事実が《要因》となり、お役所の事なかれ主義体質が《からくり》として働き、その《結果》が、狂牛病の感染が日本で見つかるということになった。(p31)

二つの失敗は、同じ《からくり》つまりお役所の事なかれ主義の体質によって引き起こされていることが理解できる。(p31)つまり、すでに、一つの失敗の脈絡を理解すれば、同じ《からくり》を見出すことで、別の失敗を予測することができるのである。


安全宣言は危険宣言 

農水省は狂牛病の発見から「感染牛は一頭だけなので、牛肉を食べても安全」と早々と安全宣言を行った。しかし、著者(畑村洋太郎氏)は、その安全宣言を疑った。何故なら、それ以前に同じようなことがJR西日本山陽新幹線のトンネル内コンクリート剥落事故でもあったからだ。つまり、JR西日本は事故後詳しい調査もしないで応急処置をしただけで安全宣言を出した。その後二ヶ月でまた同じようなトンネル内のコンクリート剥落事故が発生した。

JR西日本のコンクリート剥落事故後の安全宣言と農水省の狂牛病発見後の安全宣言は、まったく別の分野の事故への対応(安全宣言)であるが、失敗の脈絡からみると、同じ《からくり》つまり原因究明の前に安全宣言を出すという企業・組織の体質を持っている以上、同じ結果が生じる。その意味で、JR西日本の事故への対応の失敗が、農水省の事故への対応に対する結果の予測が可能となるのである。(p32)


他の失敗から学ぶ、失敗の脈絡を理解する力 

「失敗の脈絡」を理解するなら、「ある分野の「失敗の脈絡」を、別の分野に当てはめて失敗の各要素を類推すれば、失敗はかなり的確に予測すること」(p33)が可能になるし、「失敗を未然に防ぐことができる」。(p33) つまり、他の分野で起きた他人の「失敗の脈絡」を、自分、自分の所属する組織に当てはめて、失敗の各要素を類推し、結果を予測し、失敗につながらないような対策を講じることができる。(p33)

失敗学では、つねに身の回りで起こるさまざまな事象(失敗につながるような)に対して、その要因とからくりを考える習慣を身につける心がけを大切にしている。(p33)


 
2-3、失敗は確率現象である


ハインリッヒの法則と大失敗を防ぐ対処法 

労働災害の発生確率に関する法則に1941年にアメリカのH.W.ハインリッヒが事故や災害の調査結果から導き出した結論、つまり1件の重大災害の裏には29件の軽微な災害があり、さらにその後ろにはヒヤリ、ハッとする事例が300件潜んでいるという「ハインリッヒの法則」がある。(p34)

そこで、少しでもヒヤリ、ハッとした経験をした場合には、その背景になる職場環境の要因が重大事故につながるという認識を持ち、十分な対策を行えば、重大災害を未然に防ぐことができる。(p34)

失敗ついて、ハインリッヒの法則が当てはまる。新聞沙汰になる大きな失敗があるなら、その背後に必ず顧客からのクレームなどの軽度の失敗が29件ほどある。そしてその背後に失敗とはいわないが、何らかのヒヤリ、ハッとする経験が300件ぐらいある。(p34)致命的な大失敗が起こる確率は300分の1(厳密には330分の1)である。

つまり、大きな失敗(重大災害)は常に300分の1で起こる確率として存在しているといえる。(p35)言い換えると失敗とは確率現象だといえる。(p36)「どんな小さなことでも「ヒヤリ」としたら失敗の予兆だと受け止めて、それを構成している要因をきちんとつきとめて、それがどういう危険性を持っているかを考え、適切な対処をすれば致命的な大失敗は必ず防げる」(p36)のである。


雪印乳業は三百倍以上のツケを払った 

重大事故の前には何らかの予兆が必ずある。それに気づいたときに適切な対応をしていれば、事故は防げるのである。(p37)

2000年3月に発生した営団地下鉄日比谷線の脱線事故も、同様な事故が1992年12月にも起きていた。また、2000年6月に発生した雪印乳業の集団中毒事件も、同じ事故(集団中毒事件)が30年前にも同じ工場で起きていた。重大な失敗が起こる前兆は以前からあったが、それを見逃し、きちんと対処しなかったために、致命的な失敗を引き起こすことになった。(p37)

日頃起きている些細な事故や失敗を無視せず、それらの一つひとつの問題を日常的に解決していく真摯な姿勢が致命的な失敗を防ぐのである。(p37)

もし、そうした姿勢を失い重大事故や失敗を起こしてしまえば、その損害は甚大なものになり、一般にその被害は「三百倍のツケを払わなければならない」と言われている。(p39)


 
2-4、失敗は拡大再生産される


失敗の拡大再生産とは 動燃のビデオ隠しの例 

失敗の《要因》と《からくり》を解明し、その失敗につながる《要因》《からくり》を変える対策を打たなければ、同じ《要因》が同じ《からくり》を通して、同じ失敗の《結果》が起こる。つまり、同じ「失敗の脈絡」で失敗が繰り返されることになる。そんを「失敗の拡大再生産」と呼ぶ。(p40)

この「失敗の拡大再生産」の典型的な例として、1995年5月10日に起きた高速増殖炉「もんじゅ」の事故での動燃(動力炉・核燃料開発事業団)の「ビデオ隠し事件」がある。事故翌日に事故現場のビデオを報道陣に公開した。その時、動燃は「撮影はカメラ1台で行い、これ以外の映像はない」と説明した。ところが、その後すぐに(2日後)県と市の原子力安全対策課が現場調査したところ、公開されたビデオにはない事故の悲惨さを目の当たりにした。それで、動燃の意図的なビデオ編集(事故を小さく見せようとした)が発覚した。動燃自身の調査によってビデオの意図的編集(「もんじゅ」の幹部が「刺激が強すぎるのでカットしたほうがよい」と指示したこと)が発覚した。(p40-41)

動燃は、一回目の報告を訂正して、ビデオ撮影は事故直後、二台のカメラで行ったと二回目の報告を行う。しかし、科学技術庁(現在の文部科学省)の調査で、この訂正報告にもウソがあったことがさらに発覚した。つまり、訂正した時間よりも早く、別のビデオを撮影していたことが判明した。このビデオでは、現場に白煙が立ち込め、配管から漏洩した多量のナトリウム化合物が下に堆積していた。(p41)

この情報隠しに関する調査は、社会調査を担当していた総務部次長の投身自殺で幕を閉じた。しかし、多くの国民はこの事件以来、動燃を信頼できないと感じている。


動燃の失敗の拡大再生産の《からくり》と失敗を防ぐ対策

動燃がビデオ隠しを繰り返し行った、つまり失敗の拡大再生産の《からくり》が動燃の「世の中には原子力に対する強い不信感がある。少しでもネガティブな印象を持たれたら『もんじゅ』は終わりだ」(p42)という強迫観念である。この思い《からくり》が3回のビデオ隠し(失敗の拡大再生産)を生み出したことになる。(p42)

この強迫観念《からくり》をぬぐい去って《からくり》を変えれば、同じ手口のごまかしという失敗の拡大再生産を途中でストップすることが可能だったかもしれない。(p42)

動燃の取るべき対応は「事故を起こした時点で、危険度はどれくらいなのか、今後、同様の事故が起こる可能性はあるのか否かなど事故の情報を正確に伝えること」(p43)であった。事故を起こした失敗を厳しく責められても、ウソ(情報を隠して)をついて「国民の信頼を決定的に失う」(p43)というもっと重大な失敗をすることは避けられた筈である。

「失敗から目を背け、隠そうと」(p43)することで同じ失敗を繰り返すか、また別の新しい失敗を生んでしまう。冷静に失敗の結果から失敗の要因とからくりを逆演算しながら見つけ出し、失敗の脈絡をつかむことが同じ失敗を繰り返さない対策となる。(p43)



2-5、千三つの法則


未知の分野への挑戦には失敗はつきもの

未知な分野に挑戦すると「99.7%は失敗」すると著者は述べている。(p45)つまり、新しいことをする場合に物事がうまくいく確率は「0.3%」である。そして、「日本では昔から“千三つ”(せんみつ・本来、千に三つしか真実はない常習的な嘘つきの意味)とうい言葉があって、現在では「何か賭けをしたとき、うまくいくのは千に三つぐらいしかない」という意味で使われている。新しい挑戦で成功する確率も、この“千三つ”(せんみつ)であると言える。(p45)

未知の分野に挑戦して成功する確率が千に三つぐらい低い状態、成功率の低さを考えて、新しいことに挑戦することをやめるなら、失敗学は始まらない。失敗学は失敗しないで安全で安らかな生活を求めるためにあるのではなく、成功確率の低さを十分に認識し、失敗に真正面から取り組む覚悟を持つこと、つまり失敗の多い未知な分野に挑戦し、そこで経験する失敗を生かすためにある。(p45)

新しい事業をゼロから起こす場合、その事業を立ち上げて運営展開するために少なくとも十個ぐらいの要素が必要である。例えば、「企画内容、技術、事業を興す本人の資質、設備、場所、人材、流行、社会の経済状況、人脈」(p45)である。これらの10の要因の一つひとつに関して「うまくいくか否か」の二分の一の成功確率を単純に掛け合わせていくと、1020分の1の確率で事業が成功するということが示される。これが客観的に示されるベンチャー企業等の新しい試みを行う事業の成功確率である。(p45-46)

つまり、新たな事業を興して成功する確率は、約千に一つである。そして、千三つ(せんみつ)の法則よりも厳しいといえる。(p46)


新しい事業に成功する確率を上げる方法・他者の失敗に学ぶ 

どんな事業でも生き方でも新しいことに挑戦しなければならない。その場合の成功率は千分の一である。つまり、ほとんどの試みが失敗する可能性が大きい。それで、成功の確率を高める努力や知識が必要となる。(pp46-47)

著者は、「他の誰かがその分野で成功しているかもしれない。いや、失敗をしているかもしれない」と考え、そのことを調査し知ることは「もうけもの」であると提案している。今までの他人の失敗を手本とした「逆演算」と「類推」をすることで、失敗の道筋を学ぶことができる。(p47)



2-6、「課題設定」がすべての始まり

課題設定の習慣が失敗に直面したときの判断力を鍛える 

「無駄な失敗を防ぎ、新しい創造の種を生み出すために」は「自分自身の中に課題(問題意識)を持つこと」である。「自分がいま何をすべきか」という行動を起す時の「課題設定」が、失敗に直面したときの判断力や新しいチャレンジへの企画力を鍛える。(p48)

それらの判断力と企画力を鍛えるには、まず、課題設定をして、それの解決方法や手段の提案力を鍛えること(pp48-49)


課題設定の訓練  

自動車事故の例から、課題設定をする。例えば自動車が塀にぶつかって、前方がぐちゃぐちゃに潰れたという交通事故を仮定する。そして、この事故を防ぐためにはどのようにすればいいかという問題を立てる。(p48)

この問題提起、つまり問題に関する課題設定に対して、二つの回答が考えられる。つまり、一つは、「塀にぶつかっても人的被害が少ないようにする」と言うもの、事故は避けられないので、その事故が起こった後、人的被害をなるべく少なくするという考え方である。もう一つは、「自動車を塀にぶつからないようにする」と言うもので、衝突事故自体を起こさせないようにするという考え方である。(pp48-49)

前者の課題設定から、例えば「ぶつかった際に飛び出すエアバックなどの安全装置を自動車に取り付ける」(p49)という問題解決案が出され、さらにエアバックの出るタイミングや膨らみ方、さらにはエアバックの欠点やその改良案等々、前者の課題設定を展開する解決案が出される。

後者の問題設定から、例えば「塀にぶつかりそうになったら自動的に警告音が鳴るようなシステムを作る」(p49)とか「運転手の覚醒を促す音楽や匂いを流す…」(p49)という問題解決案が出され、同様に事故自体を起こさないための上記の提案を具体化するための案が検討され続けることになる。


共通の課題を持つ人を観察する 

課題設定をする訓練によって、同じ課題を持つ他のケースの観察によって、他者の経験に学ぶことが可能になる。つまり、同じ課題を持つ人が、その課題を解決するために経験したこと、それが失敗であれ成功であれ、その試みに学ぶことが出来る。例えば、失敗ならその対処法や予防策を考えることができる。成功ならその道筋を学ぶことができる。

例えば、設計ミスから生じた事故が多発している自動車会社(三菱自動車のような)のリコール隠しを例に取り、設計部のAさんとBさんの対応例の違いを示す。

Aさんは会社のリコールを見過ごすように指示している上司や会社の不正を告発する。そのことによって、Aさんは社内で居場所を失い、退職した。

BさんはAさんの行動の結果、つまり正義感によって会社の不正を告発したが会社を辞めなければならなくなった結果(失敗)を観察し、その失敗に学ぶことで、「この会社は見込みがないから、希望退職を募集して、割増金をもらって辞める道を選択した。(pp50-51)

会社(三菱自動車)は、その後のリコール隠しの不正が社会に暴露され、関係者が逮捕され、マスコミや消費者から厳しい批判に遭い、結局、経営が危機的状況となり、外資系の自動車会社に売却された。



2-7、「仮想演習」がすべてを決める


共通の課題を持つ人を観察する

課題設定が済めば、その後に必要なものは「仮想演習」である。課題設定をいかに解決すればいいかを思考実験することを仮想演習と呼ぶ。この仮想演習・頭の中で失敗の状況を予測し、それに対する対策を検討する作業は失敗学においてはかなり重要な意味を持っている。(p52)

仮想演習は、起こりうる失敗を予想し、その対策を検討するばかりでなく、こうした状況の中で(自分の)上司は何をすべきかを想像する演習にも活用できる。つまり、ある失敗が起こった場合、自分のすぐ上の上司の行動を観察し、「もし自分が彼(上司)ならどう判断し、どう行動するか」を考える作業になる。(pp52-53)

この仮想演習によって自分の実際の経験の範囲を超えて(仮想状態ではあるが)経験できる範囲を広げることが可能になる。現実に自分が所属している部署以外に、他の部署にもこの仮想演習を適用することによって、自分の関心の守備範囲を広げることが出来るだろう。(p53)


仮想演習をしたベンチャー起業家の例と新しく起業するための条件 
 
「仮想演習は人を五倍に成長させる」という考えの説明。(pp54-56)

しかし、人は歳を取るたびに能力が衰える。つまり、新しいことを吸収する力は5年ごとに半減する。すると、仮想演習をして人の5倍成長する能力をもっていても、その能力が5年ごとに半減するなら、その二つの関係から、新たに転職してベンチャーを起業する場合の年齢制限が予測できるだろうと著者は述べている。(pp56-57)



第3章「失敗学の基礎知識」に関する批評(批判的評価)


3-1、失敗は確率的に存在するという意味の理解


失敗とは期待値(目標)に達しないズレの値 

著者は失敗学における失敗の定義を、「ある行為の結果がその目標であった状態に対して望ましくない結果や期待はずれの状態も含むことを意味している」と述べた。著者は、失敗という概念を希望していた結果に達しない割合が大きいか小さいかの量的判断を伴って表現したことになる。

言い換えると、畑村洋太郎氏の定義した失敗は期待値に達しないズレを意味する。そして失敗は、ただ単に失敗しなかったと失敗したという二つに区分された一方の概念でなく、目標への到達率が何%なのかという表現として語られる。つまり、目標をすべて達成した100%の成功率(0パーセントの失敗率)と目標をまったく達成できなかった0%の成功率(100%の失敗率)の間に、現実の失敗とよばれる結果は存在していることになる。

失敗を量的に判断(測定)することの意味

著者の失敗の概念を用いると、失敗(行為の結果)を反省するということは、結果がよかったかとか間違っていたかという点検をするのでなく、行為を起こすときに目標とした課題に、行為の結果がどれくらい達成したかを点検することになる。つまり、失敗学では、行為の結果の良し悪しの評価を問題にしているのではなく、また、完全に目標を達成できたかできないかでなく、行為の結果によって達成された課題を定量的に評価することになる。

そのことによって、あらゆる行為が、ある程度目標に近づくことを可能にしているので、その程度、つまりよく目標に近づくことが出来たか、あまり目標に近づけなかったか、とい評価の程度を示す基準(量的判断基準の一つ)を設けて、行為の結果を検証することになる。

失敗学であるので、あまり目標を達成することが出来なかったとまったく目標を達成できなかったという行為の結果に関しての分析が始まることになる。


失敗の評価基準は個人的(主観的)な判断によって決まる 

もし、失敗を「ある行為の結果がその目標であった状態に対して望ましくない結果や期待はずれの状態も含むことを意味している」と定義づけた場合、「望ましくない結果や期待」とは個人的な(もしくはある集団での)判断基準を基にして、評価されたものであると解釈できる。

つまり、著者畑村氏の失敗の定義は、主観的(共同主観的)な評価基準を前提にして成立している概念であると言えるだろう。そのため、失敗の程度を定量的に測定することも、一般的な基準を設定して可能になる訳ではなく、個人的な評価基準によって(もしくはある集団の評価基準によって)行われるということを意味する。

日常的に行為を点検する場合、その行為の評価が個人によってかなり異なる場合が生じても不思議ではない。例えば、目標を高く持つ人は、一般的に言って、その高い目標に達することができない場合が多く生じる。その人(目標の高い人)は、失敗の確率が上がることになる。しかし、目標を小さく抑えれば、同じ行為の結果も失敗の確率が低くなる。

目標値(期待値)への達成度(達成確率)を、失敗として考える場合、失敗を少なくするためには、目標値を下げるという行為が働くことになる。

すると、誰も、失敗を恐れない、目標値の高い行動を計画することはないだろう。つまり、失敗確率を低く抑えるために、予め(あらかじめ)、難しい企画や行動目標を立てないということにならないだろうか。

著者は以上の疑問に答えるために、「失敗が確率現象である」という節を設けた。これに関しては、後で批評する。



3-2、失敗の構造、「結果」「要因」「からくり」と失敗の脈絡(三つの要素の構造的関係)


失敗の様式的原因要素(からくり)と環境的原因要素(要因)

著者は、「失敗(結果)は原因(失敗の)を持っている」という一般的な表現を、「失敗(結果)はその失敗を起こす要因とからくりからなる」と表現し直した。つまり、失敗の原因という表現は、失敗を分析する上であまり役に立たない表現であることを指摘し、失敗の原因という意味を「失敗を生み出す要因とからくり」という二つの分析可能で観察可能な概念に変換したのである。

著者の定義する「失敗のからくり」とは、失敗行為を行ってしまった人や組織(集団)の失敗行為を生み出す原因を意味する。つまり、それらの人々(個人)の考え方、技能、態度や、組織(集団、会社、社会や国家)の規則(決まり)、制度、習慣(文化)等々である。著者は失敗の「からくり」という表現を用いて、失敗行為主体の内的な原因を表現した。

また、著者が定義する「失敗の要因」とは、失敗(結果)を引き起こす外的な環境や条件として位置づけている。例えば、雪印食品が引き起こした牛肉偽造(失敗の結果)は、狂牛病(要因)や経営的な危機(要因)が会社の体質(からくり)に入力されて生じた現象であると考えた。食品会社を襲った狂牛病と会社が当時経営的不振になっていた二つの条件が、会社の消費者をごまかし儲け主義に走る体質(経営陣の考え方)に入力されて、食品偽装(詐欺)という結果が生まれたと、著者は説明した。言い換えると、著者が定義した失敗の要因とは、会社(個人)を取り巻く外的な環境や条件を意味している。

つまり、原因は、「からくり」と呼ばれる失敗を引き起こす様式的原因要素と、「要因」と呼ばれる環境的原因要素に分類される。


「逆演算」で失敗のからくり(行為決定の様式要素)を見つけるために問われる問題

失敗とはある行為の具体的な結果(目標であった状態に対して望ましくない結果)である。その期待はずれの結果が現れることで、失敗したことを理解するのである。その行為の結果や期待はずれの状態から、失敗の原因、ここではからくりと要因を見つけ出す作業が始まる。

つまり、失敗学はつねに失敗という明らかな結果を分析し、その原因である失敗の要因と失敗を引き起こしたからくりは目に見えない状態にある。その目に見えない失敗の原因(要因とからくり)を辿っていくことを失敗学では「逆演算」と呼のである。失敗の二つの原因である内的な要因(からくり)と外的な要因(条件や環境)を探り当てる逆演算の作業を通じてしか、失敗の原因究明は出来ないのである。

「逆演算」という方法を用いて、失敗の要因とからくりを発見(推定し、その推定を検証確認)する方法を著者は四つの段階を設定して述べる。まず、第一段階では、失敗の原因《要因》《からくり》を知る作業、その次の第二段階では、《からくり》の正体を探す作業、三つめの段階では探し当てた《からくり》に架空の《要因》を入れて、どのような結果が推定されるか仮想実験をしながら結果を導き出す。そして、最後の段階では、《要因》《からくり》《結果》の関係を一般化し、これららの失敗(結果)の予測や類推に活用する。つまり、からくりが正しく設定されると、色々な要因をそこに入れることで、現実の失敗結果はもちろんのことこれから起こる失敗も推測できる。

この逆演算は失敗学にとって大切な方法論である。失敗学が成立するためには、この逆演算が失敗事例に対して実際に行えるようにしなければならないだろう。その場合、要因を探り当てることはさほど困難ではない。つまり、個人や組織の失敗の条件となる生活や社会環境や状況が要因として仮定される。

しかし、失敗の「からくり」を見つけ出すことは失敗の要因(原因)追求の中で最も困難な作業であると言える。何故なら、失敗を引き起こす企業の体質や個人の性格、考え方や技能内容などは、失敗をしている当人や組織の姿である以上、その人々や組織が自分の欠点を自分で見つけ出す作業の困難さが付きまとう。言わば、自分では自分の姿が見えないという困難な立場に立っての作業を必要とされていることを意味する。

つまり、失敗の要因である「からくり」は、個人、集団や組織など行為主体がもつその行為決定に関連する要素である。つまり、からくりは行為を決める基準であり、行為決定に関係するなんらかの決まりであると言える。

そのために、著者の失敗のからくりを見つけるための「逆演算」は、単なる失敗発見の方法というよりも、つまり失敗経験を点検するための技術的な理解と共に、自らの方法や考え方を点検する方法が求められているのである。


失敗の脈略を活用した失敗の予測実験

失敗(結果)には、必ず、要因つまり外的な失敗の原因要素とからくりつまり内的な失敗の原因要素がある。これを失敗の脈絡と呼んだ。著者は結果から要因とからくりを逆演算して見つけ出し、その相互関連、失敗の脈略を見つけ出す。これが失敗学の失敗原因の探求の過程である。

それから、失敗学は、見つけ出したからくりに、仮定できる色々な要因を入力し、その結果生じる状況(失敗の)を思考実験する。つまり、まず、仮定した「からくり」が正しいかを検証し、その「からくり」が正しいなら、次に、色々な予測できる「要因」を「からくり」に入力することで、これから予測できる結果(失敗の)を示して行く。

これが、将来起こる失敗の予測となる。失敗学の目的は、将来の失敗を予測し、失敗の確率を出来るだけ小さく押さえることに結びつくのである。



3-3、失敗学は失敗の確率を下げるための技術論である


ハインリッヒの法則から、失敗を防ぐ方法としての職場の取り組みとは

労働災害の発生確率を調査研究から割り出したハインリッヒの法則は、そのまま失敗学でも活用できる。つまり、1件の重大事故には29件の軽微の事故が潜み、300のヒヤリとする出来事が潜んでいる。逆に辿れば、1件のヒヤリとする出来事の約30分の1の割合で軽微の事故が潜み、また300分の1の割合で重大事故が潜んでいる。さらに1件の軽微の事故には、30分の1の重大事故が潜んでいるということになる。

重大事故を防ぐには、ヒヤリとした出来事を日々に点検する「ヒヤリハット」の手法が取り入れられている。特に生命に直接関わる職場、医療や食品関係の職場では、ヒヤリハットは日々の作業の中で行われている。

この考え方は、失敗は人間の行為に付随した必然的な現象であり、ある確率で生じる現象であるという考え方にたっている。つまり、決意やがんばりでは失敗を避けることが出来ないため、失敗を避けるための技術が必要となる。それが失敗学であり、ヒヤリハットである。

問題は、職場で失敗を防ぐために、どのような教育や訓練がなされ、また日常的に業務の中で失敗を防ぐ手段や方法が検討されているかが最も大きな課題となる。


失敗学が教える失敗を恐れない仕事の仕方、失敗は成功の母

ハインリッヒの法則は、失敗は確率現象であると説明している。つまり、どのような行為にも失敗は生じる。そして人が何かをすることと失敗は不可分の関係にある。つまり、失敗を避けては何事も出来ないことを意味する。

失敗を恐れ、失敗しないように慎重に物事を行うことは必要であるが、失敗を恐れ、新しいことに挑戦することを止めてしまえば、新しい事業も発見も生まれないだろう。

失敗学は失敗を避けるためにある学問ではあるが、失敗を避けるために、新しい挑戦まで控えることを勧める理論ではない。むしろ逆で、失敗が多く発生するベンチャー起業で、出来るだけ成功率をあげるための技術を研究し教えるのが失敗学の課題である。

失敗の確率を下げるための努力、まず失敗をしたら、その経験を活かし、失敗の要因とからくりを見つける。そして、見つけ出したからくりが正しいかどうか、仮定できる要因をからくに入れて結果を導く、思考実験を繰り返す。


失敗学・他人の失敗に学ぶ技術

さらに、他人の失敗の例を研究し、同じように、それらの失敗事例から、その失敗のからくりを予測し、仮定できる限り多くの要因をそのからくりに入力して、結果を計算する。もし、その計算で、予測した要因から生じた失敗事例が出力できるなら、そのからくりは正しい、言い換えるとからくりの仮説は有効であると判断できる。

こうして、考えられる限りの色々な要因をからくりに入力し、何回となく計算結果を取り出し、特に今後の予測可能な結果を推察する。つまり、失敗学は、将来起こるだろう失敗の可能性を少なくするための方法となる。



3-4、失敗学を学ぶことの意味

人生という失敗だらけの航海のために

生きている以上、つねに新しいことに出会う。そして新しきことに挑戦しなければならない。大学を卒業し、社会に出る。就職して仕事をする。結婚して、家庭を持つ。子供を育てる。自治会など地域社会の活動に参加する。インターネット等で新しい友達を作る。起業する。海外に出張する。放送大学に登録して新しい分野の勉強に挑戦する等々。人生とは、限りなく新しい生き方の局面を乗り越える航海のようなものである。今までの経験しなかった局面を乗り越えて生きていかなければならない。

その中で、新しいことを始める時、また新しい局面で生きていく場合、失敗学は役に立つ知識とこころを教えるだろう。

つまり、失敗学が教える人生という失敗だらけの航海に必要な考え方「強く生きるからくり」を見つけ出すことである。これが、失敗学が提起する「失敗を恐れない」、「失敗に学ぶ」、そして「他人の失敗にも学ぶ」たくましい生き方の方法・倫理ではないだろうか。


参考

三石博行 「東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである ‐畑村洋太郎 失敗学の基礎知識に学ぶ-」 
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html







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姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評

三石博行


A テキスト批評の書き方


第1章は、テキスト批評に使う資料の出典を書くこと

つまり、テキスト批評するのはどの本の、またどの資料のどの部分に関するものかを書く。

出典に関する情報を明確に示すことが大切で、何に関して解釈、批評や分析をしているかが不明瞭であれば、文献や資料分析の記録資料として意味をなさないからである。

例えば、今回のテキスト批評で活用している資料、つまり、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』、集英社文庫、2008年1月、254p、「プロローグ」pp11-21を第1章に書く。


第2章は、テキストの文章を使いながら、テキストの要点をまとめる

資料、つまり姜尚中著『在日』の「プロローグ」を読みながら、自分が大切なところと思った箇所に鉛筆で線を入れる。入れた順番に番号を書く。これで、テキスト批評の第2章を書くための材料が完成する。

その材料を使いながら、テキストの番号のついた線の文章を簡単に要約する。その場合、本文(線の入った箇所の文章)を活用しながら箇条書きに要点を書く。

これらの箇条書きの要約文章をつなぎながら、「プロローグ」pp11-21に関するテキスト要約をまとめる。テキスト要約がテキスト批評の第2章を構成することになる。

テキスト批評の第2章はテキストには「何が書かれてあったか」という内容になる。


第3章は、第2章のテキスト要約文に関する自分の意見を書くこと

テキスト批評のために必要な資料(要点が箇条書きにした文書)を基にしながら、その内容を批評する。つまり、自分の批判や評価を書く。

テキスト批評の第2章「この文章の要約」に即して、自分の解釈、評価や批判等を書く。それがテキスト批評の第3章となる。


参考資料を書くこと

姜尚中著『在日』、「プロローグ」のテキスト批評を行う際に、インターネットや図書館で調べた論文、資料や本などを書いておく。



B、テキスト批評の例 姜尚中著『在日』「プロローグ」


第1章 テキストの出典

姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』、集英社文庫、2008年1月、254p 「プロローグ」pp11-21


第2章 「プロローグ」pp11-21の要約

在日コンプレックスとしての「精神的な脆弱さと不逞の精神の分裂質的性格」

姜尚中氏(著者)は「自分の写真をみるのがきらい」(p11)であった。そのため、彼は「高校生のとき、…一度も写真を撮ってもらった記憶」(p12)はない。その理由について「自分が、「在日」であり、いかにも「在日韓国・朝鮮系」をしていると思い込み、」…「自分の顔を避けたい気持ちにつながり、いつしか(自分の顔が)写真に撮られることを忌み嫌うようになった」(p12)と彼は述べている。

彼(姜尚中さん)の在日コンプレックスは、他者(日本人)の眼差しを避ける気持ち、在日であることを隠すことによって、それはますます、増幅される。そして、彼の「精神的な脆弱さの原因となっていた」(p12)。しかし、「内にこもるナイーブな性格とは裏腹に…どこか大胆で、ふてぶてしいような図太さ…物事の仔細にこだわらない鈍感…不逞の精神」が二重に存在している」(p13)ことを彼は感じていた。 

その二つの性格の「どちらが本当の姿なのか、(彼自身)にもよくわからなかった」。「このような分裂質的な…性格が、父母と(彼)を取り巻く「在日」の環境から何らかの影響を受けていると」(p13)考えた。

また、自分の原点にあった母(オムニ)にも、「あふれるような母性愛と繊細さ」(p13)、そして突然爆発する癇癪(かんしゃく)の、自分と同じような分裂質的な性格があった。母がそうなったのは、先天的な要因というよりも、やはり「在日」という境遇の影響が大きい」(p13)と彼は考えた。

母に性格に具現化した在日の厳しい境遇の歴史

母の生涯、祖母に大事に育てられた時代、「幼いころの母は…疑うことを知らない無垢な少女」であった。「住み慣れた故郷から海を越えて日本に渡り、そこで想像を絶するような艱難辛苦(かんなんしんく)の日々を(父とともに)生き抜いていかざるをえなかった」。(p14)過酷で悪意に満ちた日本社会での在日の置かれた生活環境の中で、母が朝鮮民族の誇りや伝統文化や精神など内に秘めた自分の世界を守り続けるために、激しい'性格の人へと脱皮してきた。
しかも、母は「在日」であると同時に文盲(もんもう)(日本語が読めなかったのではないか)でもあった。

著者の母はかたくなに旧暦(韓国の伝統の暦)に拘(こだわ)り続けていた。彼女を支配していた身体的な時間は、土俗的(韓国の)習俗(しゅうぞく)の循環によって維持されていたと姜尚中氏は顧(かえり)みる。どんなときでも、すべての先祖崇拝や土俗的な祭儀(さいぎ)や法事(ほうじ)をやってのけた。彼女は日本の常識からすれば迷信のような儀式や習俗を守り続けた。

彼は、「母の神経症的といもいえる故郷の風俗や祭儀(さいぎ)への執着が…あまりにも不合理に思えて仕方がなかった。」(p15)「先祖崇拝と土俗的なシャーマニズムの世界は、…迷信以外のなにものでもなかった」し、「その世界が「在日」であることの不名誉のしるしのように思えてならなかった。」(p14)

しかし彼は、その彼の考えの浅さに気づくことになる。母は幼くして亡くなった長男「晴男」の法事を数十年も続け、そのとき準備した赤ん坊の下着を焼きながら、その死児の歳をずっと数えながら生きていた。そのあふれるような母性愛こそ「母が必死に守り続けてきた世界」であった。

「戦争の時代、そして戦後の時代、そのすざましい変化にもかかわらず、母は、異国の地で根こそぎもぎとられた記憶に生命を吹き込むことで、かろうじて自分がだれであるかを確かめながら生きていたのである。」つまり「近代とでも呼びたくなるような時間…の習俗を守り続けることで、母は無意識のうちに日本の中にどっぷりとつかることのない異質な時間を見つけ出していた」のである。(p16)

日本と朝鮮半島の歴史、その歴史に翻弄(ほんろう)されてきた在日の人生。日本によってもたらされた朝鮮半島への強引な近代化、その近代化へのささやかの抵抗としての、旧暦への拘(こだわ)りが彼女の生活時間の習慣を作っていた。

文盲であった母にとっては、日本社会での「言語という回路が途絶(とぜつ)していたのである」。しかし、その閉塞感や孤立感はどれほど想像を超えたものであろうと、生きるために零細な家業の担い手として、その孤独な世界に閉じこもっていることなどが許されなかった。「文盲のハンディで何度も騙(だま)されたり、見下げられたりし」母のプライドはずたずたにされていたが、生活のために絶えず外の世界と交渉をもたなければならなかった。その差し迫った強制のはざまで、「母はいつしか神経症的な性格を形作っていったのではないか」(p18)と著者は述べている。

そんな「母もまた、メランコリーの中に打ち沈んでいるときが多かった。」そして「ため息のように漏れる母の涙声の歌は、…心悲しい哀愁に満ちていた。」(p18)しかし、その静かな時にも、「しばしば激しい「動」の時間とコントラストをなしえいた」し、癇癪(かんしゃく)が爆発したときはだれも手がつけられなかった。

「名前すら書けないわが身の無知を、母はどんなに恨んだことだろうか。文字を知らない不幸をこぼす母の口調にはくやしさとやるせなさの感情がにじんでいた。」(p18)


私はその(在日たちの生きた世界の)記憶をとどめていきたい

その母も喜寿(きじゅ)を過ぎ、激しい「動・癇癪の爆発」の時間とメランコリーの中に打ち沈んだ時間のコントラストも亡くなり、往時(おうじ 過ぎ去った昔)を懐かしむようになった。恩讐(おんしゅう)を忘れ、自分だけの世界にまどろんでいるように見えた。

著者が還暦(60歳)を迎えたとき、母はこの世を去った。それは、在日1世の殆どがこの日本社会から逝く時代、つまり在日にとって戦後という時代が終わりを意味することでもあった。その時代の終わりに、これからの新しい時代に、在日1世たちの生きていた歴史的事実を残さなければならないと思った。それは「文盲」であった母から文字を知っている彼(姜尚中さん)へ課せられた儀式のようにも思えた。

姜尚中氏は、彼が若い時代に、「悲壮な決意で「永野鉄男」から「姜尚中」に変わった頃のことが遠いむかしのように」なつかしく思えた。そして、彼は在日の遠い記憶を呼び寄せ、それを現代日本の社会の記憶に留めようとしたい気持ちになった。それは、単なる懐旧(かいきゅう)でなく、戦中・戦後を生きた在日の人々の記憶を残すための在日二世である自分たちに課せられた大切な儀式のように思えるし、文字を知らない世界で生きていた在日一世たちから文字(日本語)を知っている在日二世に託された遺言のように思えた。

遠い記憶を呼び寄せ、その記憶の中に書き込んでおけば、いつかみんなでその記憶を分かちあえる時がくるに違いないと著者は書いている。そして、過去に向かって前進すれば、きっと文字をしらなかった在日一世の人々に会えるのだからと著者は述べている。


第3章 「プロローグ」に関する批評

プロローグの文章を私は大きく三つに分けたが、姜尚中(著者)のテーマは一つであった。

つまり、このプロローグは姜尚中(著者)がこの本『在日』を書かなければならなかった彼のこれまでの「在日韓国人」としての生い立ち、その生い立ちに深く関係した人々、特に著者の母の姿を通して、1910年8月から1945年8月(終戦)まで続く朝鮮合併(日韓合併)、つまり大日本帝国が大韓帝国を合併するという朝鮮植民地の時代から戦後、現代まで続く在日韓国人の歴史の中に存在した現実、それらの人々の生きていた姿を記録することであった。

例えば政治的事件に関する資料、経済的動向の資料等々、歴史的事実と呼ばれる社会経済の動向から、その当時の時代や社会のマクロな姿は理解できるだろう。しかし、歴史を学ぶことは、その社会に生きていた人々の姿を、生活を理解し、彼らの行動を彼らのもつ精神構造やそれを作り出している彼らの時代や社会文化環境を理解することからはじめなければならない。
姜尚中(著者)は、マックスウエーバーの社会学を学んできた研究者であるために、個人の心象や行動に発現する精神現象、つまり社会文化の現象を、在日の個人史的な記述から堀探ろうとしているように思える。

プロローグは、その彼の社会学的方法論を叙述的に記載したかのようである。

確かに、単純に日本人であった私にとって、姜尚中氏の突きつけた課題は重い。何故なら、同じ現代の日本という時代と社会に姜尚中(著者)と共に生きていた私は、在日の何ものも理解しえる土台も知識も気持ちもなかったのである。

在日朝鮮人や中国人と我々の国、日本と隣接した韓国朝鮮の歴史を教科書で、また書物で呼んだとしても、彼の個人史からにじみ出た在日の姿のように、ありありと彼らのコンプレックスや悲惨で悲哀に満ちた生活、楽観的でお人よしの生活、臆病で強かな(したたかな)生き方を読み取ることは出来なかっただろう。

このプロローグは、日本社会で日本人になりすましていた永野鉄男が本当の自分、つまり在日韓国人としての姜尚中になる闘いの記録の序文であり、また同時に、姜尚中として在日としての自分を強調しながら自らの存在認識を成し遂げた彼方から、自己確信の認識(自信をもって生きている自分への認識)を終えた姜尚中が、やはりその姜尚中の一部であった永野鉄男を懐かしく思うという課題に展開していくことを、長く異国の地日本で生活をし、そしてそこで生涯を終えようとする母の最後の姿に重ねながら予告しているように思えた。

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ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」

5. 日韓関係

5-1、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6656.html

5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る  東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html

5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html

5-4、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html

5-5、東アジア共同体構想の展開を進める日韓関係の強化
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_12.html







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2010年11月25日木曜日

菊田幸一著『日本の刑務所』第一章「受刑者はどのような存在か」のテキスト批評

三石博行


テキストの出典

菊田幸一著『日本の刑務所』岩波新書794、205p、2002.7、「はじめに」、第一章「受刑者はどのような存在か」pp1‐46、

テキストの文献記号は、(KIKUKo02A )とする。

菊田幸一氏は、1934年12月生まれ、出身は滋賀県長浜市、弁護士、中央大学法学部卒、明治大学法学部大学院博士課程卒、明治大学名誉教授、法学博士(明治大学)、死刑廃止論者、被疑者及び囚人の法的権利を重視する学説を唱える。終身刑の導入を主張、犯罪被害者の救済と加害者の和解を推進している。(Wikipedia)



第一章「はじめに」、第一章「受刑者はどのような存在か」pp1‐46、の要約

現在の日本の刑務所の問題点とは何か


日本の刑務所収容者の三つの特色

日本の刑務所収容者の特色は以下の三つである。

一つ目は、累犯者(るいはんしゃ)が多いことである。頻回入所歴(ひんかいにゅうしょれき)を有する者は、男子の全収容者のうち52.5%(2000年の統計)である。中でも5度以上の入所歴を有する者は、頻回収容者の三割を占める。(pⅰ)

二つ目は、受刑者の高齢化である。六十歳以上の高齢受刑者は1984年に2%、1989年に4.3%であったが、2000年末では9.3%でと、10年近くで倍増している。

三つ目は、受刑者の全体の四分の一が覚せい剤事犯、さらに全体の四分の一が暴力団関係者で、矯正効果を期待するのが難しいケースが多い。

こうした受刑者は、仮に更生意欲を持って刑務所を出ても出所後の経済的不安、健康、前科、住居等のあらゆる生きるすべについての障害によって、半分以上が再び刑務所に戻ってくる。

受刑者の社会復帰のための行刑の課題

受刑者は自らの犯した犯罪(反社会的行為)に対する当然の結果として、受刑者の自由を拘束すること(自由刑)は当然である。その刑は基本的に受刑者の社会復帰を目指した矯正教育の場として刑務所は位置づけられているが、現実は、そうなっていない。

そして、受刑者の社会復帰を支援することが、結果的に社会の利益に繋がるという考え方が、刑罰思想の課題となっている。

矯正教育の旗印のもとに、実施されている諸施策(しょしさく)も、現実的には自由刑の目的を越えて非人道的な扱いを正当化する傾向がある。積極行刑(きょうけい)である再教育が必ずしも受刑者の社会復帰にとって効果的でないことが、主にアメリカにおいて反省されている。国際的にも、積極行刑が見直され自由刑に限定した行刑(刑の執行)である消極行刑が評価され、それに移行している。(pⅲ-ⅳ)


累犯者・刑務所への、頻回収容者を減少するための課題

なぜ刑罰を受けても犯罪を繰り返すのかという疑問が提起される。そこで、頻回収容者は「人間は自由の拘束が耐え難いが故に犯罪を留まるということに疑問が投げかれられている。つまり、自由刑では累犯・頻回入所を防ぐことが出来ないのではないかという指摘もある。(pⅳ)

著者はその指摘に対して、「刑務所生活に(受刑者が)慣らされなければ(受刑者たちは)受刑生活に耐えることが出来ない」現実の刑務所のあり方を問題にしている。つまり、刑務所生活に慣らされ、逆に一般社会に出ることに不安を抱く人間(受刑者)を育てているのが、現在の日本の刑務所の実態ではないかと指摘している。(pⅳ)

本書では、ワイマール憲法(1919年制定)に沿って、受刑者といえども「人たるに値する存在:であるという観点から、アメリカの刑務所での受刑者の人権擁護の状況を例に取りながら、日本のそれを分析しる。アメリカの刑務所がはるかに日本の刑務所よりも受刑者の人権は守られている。

しかし、アメリカは日本の数倍の犯罪が発生している。例えば、1998年の統計からも、日本では10万人あたり1.0人の殺人が起こっているのに比較して、アメリカでは6.3人である。つまり、日本は世界的にも犯罪の極めて少ない国であるが、その日本でも近年、受刑者数は増加の傾向にある。そして、刑務所では過剰拘禁(こうきん)の状態であると報道されている。
日本の刑務所での過剰拘禁状態の原因は、犯罪の増加のみでなく、重刑罰傾向と仮釈放率の低下もその原因である。

著者は、日本での累犯者・頻回入所者を減少されるために、以下の三つの提案を行った。
つまり、第一点目は、受刑者の生活環境の改善(食事、作業等々)について考えること、第二点目は他律的で受動的な生活スタイルの改善、つまり自己責任を常に意識し主体性を育てる受刑生活スタイルを考えること、第三点目は刑務所を外部との隔離社会でなく、外部と交流のある場にしながら、受刑者の社会復帰の心を育てることである。

著者のこの提案の基本には、社会から犯罪を少なくするための目的がある。その目的を実現するために、著者は、受刑者を人として扱うこと、つまり、受刑者の人権を考える日本社会の人権文化、その結果として刑務所が受刑者の人間復活と社会復帰を可能にする施設になることが述べられている。


受刑者の扱い


日本の刑務所と受刑者の現状

2001年には、日本には59の刑務所、8の少年刑務所と7の拘置所があり、一日平均40,768人の裁判が確定し懲役(ちょうえき)、禁錮(きんこ)及び拘留(こうりゅう)をされた既決囚(きけつしゅう)が収容されていた。また、一万人の未決囚(みけつしゅう)が拘置所にいる。既決囚の収容定員は48,393人であることを考えれば、ほぼ定員いっぱいの状態であると言える。

新受刑者は、刑の重さ、犯罪傾向の進行、性別、刑名、障害によって収容分類級が付けられる。また、処遇分類級に区分され、それらの級別に応じた刑務所に送られる。
新受刑者の約12%が凶悪犯罪者(殺人罪、強盗罪や傷害罪)で、窃盗、覚せい剤犯、詐欺、道路交通法違反が男子新受刑者の約53パーセントである。また、女子受刑者は、近年漸増(ぜんぞう)傾向にある。

刑務所ごとに受刑環境は異なる。例えば、北海道の東北地方より北の北海道以外には暖房はない。食事の質にも施設によって大差がある。


受刑者の人権について、入所時の検査、制限された人権、人間の尊厳とは何か

刑務所への押送(おうそう)は、護送車で行われるが、遠方の場合、刑務官が付き添って、手錠を掛けられ、二人以上の場合は体を数珠状(じゅずじょう)に繋(つな)がれて列車で運ばれる。一人がトイレで用を足すときは、他のものは繋がれたままホームで待たされる。手錠を見られないように一般の乗客に隠されているものの、その不自然な姿に屈辱(くつじょく)を味わう。

刑務所に着くと、新人調質(しんじんちょうしつ)に入れられ、本人確認がなされる。そして、入所時の身体検査が行われる。その時から、人権を無視された軍隊式の扱いが始まる。

刑務所は受刑者の自由を拘束するためにある。しかし、世界人権宣言や日本国憲法に謳われているように、受刑者といえども人間である以上、彼らに拷問や屈辱的で非人道的な取り扱いをしてはならない。また、生命の尊厳を考えるなら死刑は廃止すべきであると著者は述べている。

また、受刑者の人権の扱われ方が、「その国における人権感覚の国民一般のレベルを計るバロメータでもある」と著者は述べている。そして、日本の刑務所での受刑者の扱いが紹介されている。


日本型行刑

日本の刑務所での受刑者と刑務官の関係は刑務官がおやじ(父親)であり受刑者は息子の関係が成立し行刑(ぎょうけい)がなされている。刑務所では受刑者は刑務官を「おやじさん」と呼んでいる。この日本型行刑(受刑者は刑務官に絶対的に服従する関係)によって、日本では刑務所で暴動が起こることはない。

しかし、受刑者が何らかの理由で懲罰審査会にかけられた場合など、行政裁判の証人として親である刑務官が子である受刑者の味方になってくれることはなく、結局は、受刑者は刑務官への不信感を持つことになる。刑務官への敬愛は憎悪の念となって残ることになる。


監獄法の変遷

現行の監獄法は、大日本帝国憲法下で制定されたもの、つまり100年前のものである。言い換えると、監獄法は、基本的人権尊重を謳う日本国憲法の法の精神に基づき制定されたものではない。ここに現行監獄法の基本的問題がある。

日本で最初の監獄法令は、1872年(明治5年)から1873年までの「監獄則並図式」(かんごくそくならびずしき)である。1880年(明治13年)に旧刑法、1881年に第一次監獄則(フランス・ベルギーの行刑制度に習った)、1889年に第二次監獄則(ドイツ方式)、1908年現行監獄法が制定される。(p17)

小河滋次郎(おがわしげじろう)が現行監獄法を起草した。現行監獄法の特徴は、懲罰の法律化、処遇の個別化、独居拘禁制(どっきょこうきんせい)の採用で、当時としては監獄法の国際基準から優れたものであった。今日、この法律が存続しているのは、それなりに監獄法の国際基準を満たしていたからである。(p17)

しかし、小河が起草した当時の理念が空洞化している。例えば、同法第15条にある独居拘禁制は受刑者の人権を守るという趣旨でなく、むしろ、その逆に昼夜にわたる厳正独居(げんせいどっきょ)という懲罰の手段として使われている。(p18)


成績評価と累進処遇

1932年に施行された「行刑累進処遇令」(ぎょうけいるいしんしょうぐうれい)は、監獄法に基づかない単なる命令であるが、この命令が実際の受刑生活のすみずみにまで及び、事実上、刑務官の一方的な査定に受刑者の処遇が任されている。 

行刑累進処遇令によって受刑者の成績(受刑生活態度への評価成績)の向上に応じ、第1級から第4級までに区分された階級段階を順次昇進させる。上級になるにつれて漸進的(ぜんしんてき)に拘束条件を緩和する措置が取られる。この判断の全てが刑務官に任されている。

つまり、近代法の精神である、実質的な権利と義務の関係の法的規制ではなく、刑務所の刑務官の判断で受刑者の扱いを決定することが出来るようになっている。


日本の行刑の100年

小川太郎は日本の行刑の歴史を五段階に区分した。まず、最初の段階が日本の行刑は明治新政府の設立から10年間で監獄制度が目まぐるしく変化した混乱の時代である。すぐ後、次の第二段階で、ドイツ方式を取り入れた厳格な刑罰の時代・懲戒主義時代が来る。

そのあと監獄法が制定までを管理主義時代と呼ばれる第三段階が訪れ、その次の第四段階は、戦時中に受刑者を勤労奉仕に参加させた人道的処遇時代(本当に人道主義があったのではなく、戦中の人手不足の解消のために受刑者を使用した)である。

最後の第五段階は戦後から現在までの期間で、科学的処遇時代である。

受刑者の権利保障に関わるものは、法律以下の政令、省令、通達と呼ばれるもの、刑務所長の達示(たっし)であり、刑務官の現場での指示である。現場に最も近い刑務官の指示が受刑者の人権に直接かかわる日常生活に規制を加えるものになっているのが日本の行刑の現状である。

行刑の密行主義

日本の行刑の基本原則の一つに「行刑密行主義(ぎょうけいみっこうしゅぎ)」がある。

もともと、この密行主義の原則は「国民の健全な良心を傷つけない」ことが目的であった。刑務所の実態をひろく社会に知らせることが、受刑者の「良心を傷つける」ことになるなら、まさに「臭いものに蓋(ふた)をする」類(たぐい)のものである。

近代行刑においては、受刑者の再教育と改善を行刑目的とし、秩序維持を図りつつも、開放施設や受刑者の社会復帰を促進する実務工夫が求められている。

刑務所は一般社会に可能な限り密着する必要があり、施設の運営の許す限り一般に公開される必要がある。行刑密行主義優先の時代は終わった。刑務所の情報公開と受刑者とその家族の結びつき、地域社会との連携のもとに刑務所を社会化するための工夫が必要である。

開かれた刑務所を目指しつつ行刑の専門化が追求されなければならない。(p21)


受刑者処遇の責任者

刑務所や少年院等を管轄する法務省矯正局の最高責任者は形式的には法務大臣であり、行政的には矯正局長である。しかし、現実は矯正実務の経験のない検察官の専権(せんけん)ポストとなっている。矯正局の総務課長などの重要職も、ほとんどすべて検察官で占められている。

出世したほんの僅かな定年間近(ていねんまじか)矯正実務畑出身者が、矯正管区の管区長になる。その管区内の各刑務所の所長がいる。この刑務所長が事実上の実務責任者となる。しかし、彼らも2、3年で転勤する。

従って、受刑者と現実に接触しているのは、転勤のほとんどない長年看守として勤め上げた現場の人たちである。彼らも刑務作業の成績を上げなければならない。刑務所の規律と秩序優先の管理をしなければ自らの保身は出来ない。

つまり、刑政は極めて官僚的に執り行われている。これまで、矯正界(刑務行政)の改革を呼びかけた人々もいたが、現実は、省令や通達にいたる法令すら外部に公開することを禁じるよう状態である。


規律中心主義はなぜ続くか

日本の刑務所は、悪い意味での密行主義に年々傾いている。その批判すら許されない。そのため受刑者処遇は規律による管理主義が優先されている。何故なら、刑務所内での刑務官の管理し易い方向で、刑務所の行刑実務が行われているためである。

孫斗八(そん・とうはち)死刑囚がはじめて刑務所を提訴した。このはじめての1958年の大阪地裁での行政裁判で孫氏は部分的に勝訴したが、全体としては敗訴した。その後も多くの訴訟が受刑者によって提起されている。そのほとんどは負けている。何故なら、受刑者にとって国を相手の裁判提起にかかわる条件が、不利であるからだ。

刑務所の管理者は受刑者の告訴に備えて万事怠りない対策を準備し、その後、受刑者への締め付けが強化され、受刑者の人権意識への自覚に逆行して、行刑実務者の人権意識は薄くなっている。


市民としての権利の制限

選挙権および被選挙権

公職選挙法によって受刑者(禁固刑以上の刑に処されている者)は選挙権および被選挙権を持てない。仮釈放後も刑の執行期間が終了するまでは上記と同じ条件となる。(p27)

また、同法によって未決勾留中(みけつこうりゅうちゅう)の被告人、勾留執行中、婦人補導院収容中の者、つまり自由刑でも、三十日未満の勾留刑の者は不在者投票を認めているが、禁錮以上の受刑者には(被)選挙権はない。(p28)

選挙権の剥奪によって、刑の執行状況等が市町村役場に通知され、戸籍を所管する市町村での犯罪人名簿への登録が行われ、選挙人名簿の調整によって選挙権の喪失が確認される。つまり、基本権の一つである選挙権が刑務所収容によって自動的に剥奪されることになる。その剥奪は、自由の拘束(自由刑)に加えて付加刑(ふかけい)として受刑者への社会制裁を認めることを意味しないかと著者は述べている。(p28)

ヨーロッパやアメリカでは、基本的に受刑者の選挙権を認めている。刑務所内での不在者投票が行われている。選挙にかかわる罪を犯した受刑者に選挙権や被選挙権を停止することは理解できるが、一般受刑者にその権利を奪うかについての明白な根拠が見出せない。(p28-29)

選挙権は憲法上の基本権である。またすべての市民が選挙権や被選挙権をもつとする自由人権規約第25条にも違反する。自由刑(身体の自由を奪う刑)として刑務所に収容された以上、住居制限を受けることは避けられないが、しかし選挙権(被選挙権)の停止は自由刑の目的を超えた思想や良心への侵害であるという認識も問われるべきであると著者は述べている。(p29)


住民票

受刑によって刑務所への住居移転は生じるが、刑務所は法的に住居ではないため、住居移転手続きは成立しない。しかし、受刑者の場合、長期不在が明らかになれば、住民基本台帳第3条により、住民票から抹消されることになる。取り分け、受刑者の場合、家族のない者、刑務所入所後に離婚した者が少なくないため、市町村からの公的通知書が宛先不在となり返却されるために、不在の確認がなされれば、住民票を市町村は抹消せざるを得ない。だが、長期不在者が必ずしも住民票から自動的に抹消されている訳ではない、例えば長期海外生活や入院する者は、生活の根拠があるために、自動的に住民票を抹消されない。(p29-30)

日本社会では住民票が無い場合、多くの不利益や基本権を失う。例えば、健康保険の資格の放棄、ただし日雇労働者は日雇労働保険手帳がある。これがあれば国民健康保険に以前は加入できたが、最近では住民票がなければ加入できなくなっている。(p30)

住民票をなくした受刑者は、出所後、改めて住民票を取得しなければならない。出所後、多くのものが家族と無縁になっている場合、ホームレスになっていく。出所後、身元引受人のもとに帰住(きじゅう)するか、厚生保護施設での宿泊措置を受けることで、一時的に住所を確保し、住民票を取ることは可能である。それをあえてしない「自助の精神」の欠けた者は自ら社会福祉を受ける権利を放棄した者と看做す(みなす)ことも出来るだろうが、長期の刑務所収容の結果として住民票を失うこと自体が、自由刑の目的をはるかに越えた、受刑者の社会復帰を阻害している現実を理解すべきである。(p31)

海外、例えばアメリカでは、日本のような住民票や国民健康保険制度がないために、少なくとも住民票を失うことによる障害は生じないため、住民票を失うことによって生じる社会復帰の障害も同時に生じない。(p32)


医療保険 健康保険法の問題点

法的には刑務所に入所したからと言って社会保険、国民健康保険の資格を失うわけでないが、実際的には、それらの資格を失う。社会保険は逮捕や有罪判決の出た時点で解雇されるのが普通なので、そこで事実上資格を失う。国民健康保険も収監(しゅうかん)されてから保険料の納付が事実上不可能になるので、資格を喪失する。(p32)

刑務所での医療給付は健康保険法第62条によって適用されていない。同様に国民健康保険法第59条と船員保険法第53条でも受刑者へは支払いされない。老人保健法でも同様である。受刑者は、これまで支払ってきた医療保険に関する一切の医療補助の権利を失い、医療費適用されていないことになる。(pp32-33)

受刑者の健康管理は国と行刑実務機関(矯正行政・刑務所)が行うことになる。刑務所には医療体制がある。しかし、それは極めて粗末なもので、これまでの医療と同じ質のものを受けたい場合には、自費治療となる。金のないものは、例えば入れ歯の治療(前歯ではほぼ20万円)すら受けられないことになる。人工透析、糖尿病治療なでの治療が出来る刑務所は限られている。(p33)

1996年に未決拘禁者(みけつこうきんしゃ)が国民健康保険法第59条(刑務所に入所した場合、保険適用者から削除される)は憲法違反であると山口県弁護士会人権擁護委員会に訴えた。同委員会は「59条は合理性に疑いがある」と判断した。その結果、歯科治療が受けられた。一般に、半年以上の未決拘禁者には通常、この59条が適用され、自費医療が原則化しているのが現実である。(pp33-34)

犯罪者は健康保険により治療する身分でないという考え方が支配している。この考え方は戦前の救護法にある。戦後、生活保護法も同じ考え方を持っていたが、1950年に改正され「素行不良な者」でも平等に適用されるようになった。(p34)

国際規約である自由人権規約第10条では「刑行の制度は、非拘禁者の矯正及び社会復帰を基本的目的とする処遇を含む」ことを保障している。この規約を批准したわが国の刑務所の医療のあり方は国際準則からみても問題があると言える。(pp34-35)


労災保険

監獄内の刑務作業中の災害には労働者災害補償保険法の適用はない。受刑者の災害補償は1985年に出された「死傷病手当金給与規定の運用について」(依命通達)の規定がある。手当金の基準は労働基準法や労働者災害補償保険法を参酌(さんしゃく、参考)して積算(せきさん)されていると言われているが、2000年度の積算額をみると、一般労働者の補償額の四分の一となっている。(pp35-36)

刑務所作業は労働ではなく刑行(強制的な労働)でるということが、一般労働者の補償額の四分の一に受刑者への支払金額がなる根拠とされている。しかし、受刑者の強制労働中の災害に対して、「死傷病手当金給与規定の運用について」の規定をもうけ労働基準法や労働者災害補償保険法を参酌(さんしゃく、参考)した基準を定めたという以上、この依命通達でも、刑務所での強制労働を労働として認めたことを意味しないだろうかと著者は述べている。(pp36-37)


年金保険

国民年金法の障害基礎年金は拘禁されたときはその支給を停止することになっている。停止であるから、在監中(ざいかんちょう)は、保険料の納付免除を申請し、出所後に免除期間の保険料を払うことは可能である。(p37)

その他の厚生年金保険法で定められている年金の支給停止はない。しかし、本人が申請しなければならないため、在監中、家族や施設の協力が必要である。(p37)

問題は、年金を支払うためには、住民票の存在が前提であるため、刑務所収容に伴い受刑者は住民票を消除されるので、実際は年金受給資格を持つ者も、年金の支払いを受けられない場合が多く発生する。受刑者には形式的には年金受給の権利を与え、事実上は不支給や失格にしている。(pp37-38)

ヨーロッパ評議会の理事会が1981年に採択した「被拘束者の社会的身分に関する勧告914号」では、社会保障資格は受刑者の社会復帰にとって基本的な要素の一つであるため、その権利を市民と平等な状態に近づけるべきであると勧告している。(p38)


雇用保険

雇用保険法で定める失業の定義が受刑者には適用されないため、失業保険の適用は監獄収容者には適用されない。

失業保険の給付期間は一年であるから、多くの場合、逮捕や刑務所収容と同時に解雇となる場合が多いため、この要件を満たすは困難であり、受刑者が失業保険を受給することはできない。もし、刑務所作業を労働として認めれば、雇用保険の継続は可能であるが、懲役は労働として認められていないために、失業保険の適用はないし、また、労働者の理由で辞める場合には、失業保険の受給資格を得られないため、受刑者はその点でも受給の可能性を失う。(pp38-39)

しかし、ヨーロッパでは、原因がどうであれ受刑者も失業したのであるから、受給資格を持つと考えれば、失業保険の対象としている。(p39)

 
国際的視野から見る


刑務所収容と「法の支配」

行刑に関する国際準則は、条約、採択、決議の段階がある。条約を批准(ひじゅん)しているかどうか。法的拘束力の有無、解釈の相違がある。日本人・日本としての条件が付いている場合もある。(p39)

著者は、人権は普遍的なものであるから、国や社会、地域性によって人権感覚が捉えられてはならないし、国は国際基準を無視してはならいと述べている。(pp39-40)

この国際準則の批准に関して留意すべき第一点目は、まず法律によって規定された関係として刑務所収容に関する国家と受刑者の関係を位置づけていることである。つまり、国家と受刑者の権利義務関係に法的規制を与えることを意味する。これは法治国家の基本理念に基づき行刑が行われることを意味する。つまり、自由人権規約を批准した国は、この規約において認められた権利実現するために必要な立法措置を取ることを約束したことになる。(p40)

第二点目は、法の支配は有効でなくてはならないことである。例えば、受刑者の不服申立制度があったとしても、受刑者が不服を正当に申し立てることが出来なければ、受刑者の人権は尊守されていないことになる。その場合、受刑者は国際機関(国際人権裁判所等)に不服申立てが可能であることが実質的な課題となる。(pp40-41)


国際条約と日本

行刑に関する不服申立制度について日本は制度として存在している。しかし、その制度は実質機能していない。さらに国際機関への不服申立てはきわめて困難である。つまり、日本は自由人権規約を批准しながら、その内容を果たしていないことになる。(p42)

国際条約を形式的に批准しながら、実質的に批准を回避していることで、国際社会から「人権において日本は発展途上国である」と言われている。国際機関への不服申立に関する国際基準を満たす制度を日本が拒否している限り、日本の受刑者の人権が国際基準から見ても容認されるレベルにないと評価される。(p43)


最低基準規定と自由人権規約の現状 

1995年の犯罪予防及び犯罪者処遇に関する第九回国連会議で「非拘禁者処遇最低基準規則の実践履行に関する決議」が採択された。この決議の主な5点に関する決議内容の実施を加盟国に要請した。

この1995年の決議は、1955年に決議された非拘禁者処遇の最低基準規則の実践履行に関する決議であった。しかし、日本政府は、報告書で「各国制度の特殊性に対する十分な配慮を欠いているがために活用されないままになっている基準・規則については、これを多くの国で実施しやすいように修正することが検討されるべきである」と述べた。つまり、1955年の最低基準を引き下げることを提示したのである。これが日本政府のもつ国際的人権感覚ではないかと著者は述べている。

日本の裁判所(司法でも)自由人権規約の最適基準に適合するように国内法の整備をする必要があるために、例えば、受刑者の接見交通権に関して、国際条約を優先する判決が1999年高松地裁で出たが、2000年、高等裁判所はこの高松判決を破棄した。

1998年10月に開かれた第四回規約人権委員会では、日本の刑務所の処遇問題に関してつぎの6点を指摘した。(p45)

一点目は、受刑者の自由な親交の権利とプライバシーの権利等を含む基本的な権利を制限する苛酷な所内規定がある。

二点目は、厳正独居頻繁な使用を含む苛酷な懲罰手段

三点目は、公正な規則違反者への懲罰決定の手続きの欠如

四点目は、刑務官の報復行為に対して、受刑者の不服申立ての不十分な保護

五点目は、信頼できる受刑者の不服申立て調査システムの欠如

六点目は、残虐非人道的取り扱いとなる皮手錠のような保護手段の多用

日本弁護士連合会(日弁連)は1999年2月に、「国際人権(自由権)規約委員会の勧告を実施する応急措置法案要綱」を発表し、第四回規約人権委員会の日本の刑務所の処遇問題点の改善、受刑者の処遇改善を提示している。(pp45-46)


第一章「受刑者はどのような存在か」に関する批評

 
累犯者が非常に多い日本社会

インターネットの検索エンジンで「犯罪加害者」と「人権」の二つのキーワードを入力すると、ほとんどのサイトで「犯罪加害者には人権はない」という内容の文章に出会う。もし、彼らに人権がないなら彼らは日本国民ではないと言っていることになる。何故なら、わが国の憲法によってすべての国民が基本的人権を擁護されているからである。

犯罪被害者が犯罪加害者に対する憎しみや怒りの感情は理解できる。しかも、第三者がその犯罪被害者の気持ちを痛感し、また自分が犯罪被害者になることへの恐怖から、犯罪加害者への批判や憎しみの感情があるのは理解できるし、そうした社会的反応が起ることも不思議ではない。

犯罪学の専門家として有名な菊田幸一氏の著書によると、累犯者(るいはんしゃ 繰り返し犯罪を犯す人々)は、男子の場合2000年の統計では刑務所の全収容者の52.5%に及んでいる。つまり、刑務所の「初入者より再入者が多い」ことになっている。(KIKUko02A p.i )


刑務所の社会的機能 受刑者の社会復帰

この事実から、二つの仮説が立てられる。一つは、最犯罪率が高いのは日本の犯罪者の特徴ではなく、犯罪者とはつねに犯罪を再び繰り返す傾向にあると言える。この仮説は世界の犯罪者の再犯率を調べることで検証できる。二つ目の仮説は、本来刑務所は受刑者の犯罪行為を反省させ、再び罪を犯さないように教育矯正する社会的機能を担っているが、日本の刑務所はその社会的役割を十分発揮していないというものである。この事も、前記した仮説と同様に世界の先進国の再犯罪率の統計を見ることで検証可能である。

犯罪加害者という名称を与えることで犯罪者が生涯償えない加害者としての履歴を背負うことになる。彼らが刑務所で刑の執行を受けたとしても、元犯罪者という呼び方は彼らに生涯、刑務所での刑罰に服し、被拘束生活と刑務作業を続けたとしても、一旦、罪を犯したものは再び社会が許すことはないという烙印(らくいん)を意味する。

この烙印は、江戸時代、窃盗などの犯罪者に入れ墨を入れ、三回入れ墨が入る死罪となる制度と似ている。中世社会までは、犯罪者が生れないようにするのでなく、犯罪者を社会から排除することが社会の犯罪対策として取られていた方法であった。しかし、現代の人権擁護を基本する憲法を持つ社会で、罪を犯した者を社会から徹底的に排除することは、人権問題となると言える。

人権の守られている社会とは、人々の生命と生活を守ることが出来る社会を維持するために、犯罪が発生しないように機能している社会である。そのために、犯罪者を逮捕し、裁判にかけ、刑務所に入れ、再び犯罪を繰り返さないよう矯正教育を行い、そして彼らの社会復帰を助けることが社会の大切な治安機能の一つである。防犯とは犯罪を未然に防ぐことであると同時に、犯罪者を出さないような社会を作ることを意味する。


市民の人権擁護・防犯と受刑者の人権擁護・社会復帰

また人権問題を考える以上、刑に服している人々を「犯罪者」と呼ぶのでなく「受刑者」と呼ぶことにする。受刑者が再び罪を犯し、累犯者となることを防ぐにはどうすべきか、それが、この社会の安全対策につながる。人権擁護と防犯は矛盾するとは思われない。もし矛盾するなら私たちの社会は人権擁護の思想を破棄し、江戸時代のように、罪を犯した人々を徹底的に社会から排除し、また死罪にして、抹殺し続けなければならない。

現代社会でも中国のように、麻薬を持っていたという理由で死刑になる国もある。その国では年間数千名の人々が死刑になっていると謂(い)われている。刑罰を強化しながら中国政府は国の治安を維持している。インターネットでも中国で行われていた公開の銃殺刑の写真が出回り、人権感覚のない国として悪評を買っている。

人権擁護を掲げる先進国では、受刑者の人権を考える法律や社会制度が存在している。つまり人権を守る社会では、極刑をもって犯罪者を抹殺するのでなく、犯罪者を出さない、累犯者にさせない社会のあり方を市民が積極的に考えなければならない。そのきっかけを裁判員制度は与えるだろう。市民生活の安全を守るために犯罪を防ぎ、犯罪者の社会復帰を助け、累犯者を出さない社会を構築していくために、もう一度、受刑者の人権問題を考えてみよう。



参考資料

江戸時代の刑罰 http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/zidai/keibatu.htm
刑罰の一覧 Wikipedea http://ja.wikipedia.org/wiki/
三石博行 教材「レポート材料の作り方について」 A4、8p
三石博行 教材「河野哲也著書を活用したテキスト批評の書き方実例紹介」A4、10p






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2010年11月24日水曜日

大学でのノートの作り方(2)

三石博行


3、調査資料の収集や問題分析の道具としてのノート

講義ノートの取り方

講義ではシラバスに示されたように、その都度(一回の講義毎に)具体的な講義課題(学習目標)が与えられる。それについて講師は、教材を提供し、講義を進める。これが一般的な大学での講義のあり方である。

講義を受ける学生諸君は、以下の課題について理解をしておく必要がある。

1、講義で提供される知識(情報)を、講義中に記録する技術が必要となる。

2、板書で書かれた情報以外に、口頭で述べられる情報を記録するテクニックとスキルを磨く必要がある。

3、それらの講義時間に記録した情報(講義内容)と、講義後にまとめ、不明な用語や知識に関する情報を図書館やインターネットを活用しながら調べ、その調査情報を記録するための技術が必要である。

4、 講義情報と調査情報を一元的に管理する技術が必要である。例えば、ある課題について講義で学んだ。それについてさらに図書館で調べた。その講義で得た知識と図書館で調べた知識をばらばらにファイルするのでなく、一つのノートに管理する方法

5、科目によっては講義課題に関する、もしくはその応用問題として「レポート提出」が要求されることがある。レポートを書くために、講義で得た情報と図書館やインターネットで調べた情報を一元的に管理できるノート作成の技術が必要となる。


講義ノート作りを楽しく工夫する方法
 
調査し、考え方を纏め、分析するための道具(手段)としてのノートは、各自、自分のノートの書き方がある。よりよいノートの作り方を模索する時間が、大学では講義の時間に与えられている。そして、多くの学生が同じ講義で自分なりのノートを工夫している。

友達のノートのとり方を見ることが出来る。より合理的なノートのとり方を見つけ、また友達と大学でのノートの作り方の工夫をすることも出来る。そして、自分のノートの様式やノートの作り方を獲得できれば素晴らしい。


大学卒業後に役立つノート作りを目指す
 
知識の半減期という言葉がある。自然科学の知識、例えば古典物理学のニュートン力学法則に関する知識は、100年後も変化しないだろう。しかし、科学の進歩によって常に新しい知識が付け加わる。

特に、人間社会科学の知識は、古い知識が否定され新しい知識が登場する場合がある。大学で学んだその当時先端の知識も、時代が進むにつれて、古い知識になる。その知識の有効期限を示す言葉に「知識の半減期」という表現が使われている。

つねに、知識は刷新され、あたらし知識が登場し、大学で科目として提供された学問の内容(知識・知的情報)の変更、修正、追加が要求される。この要求に答えられるノート(知的情報の収集記録帳)の作り方を学ばなければならない。

つまり、社会に出てからも使えるノートを作るにはどうすればいいのかを今から、この講義を記録する中で、一回生の前期から考えよう。


学問的知識(知的情報)の姿、体系の中にある知識
 
大学で学ぶ知識は、その知識が形成された学問的背景を持って成立している。それらの知識は、過去にすでに成立した学問として評価されているものである。そして、それぞれの知識は、専門的な知識の一部をなしているものである。

例えば、環境学で地球温暖化の原因である二酸化炭素について講義で話されたとする。温暖化原因が二酸化炭素であると述べられる。それが何故、地球温暖化の原因になるのかは説明されない。そこで図書館で調べることになる。
つまり、二酸化炭素が地球から放出される長い波長の光(遠赤外線光)を吸収するからであると説明される。では、何故二酸化炭素がその光を吸収するのかという疑問に出合う。その説明を可能にするには化学の知識が必要となる。

二酸化炭素の化学分子構造、炭素と酸素の二重結合が吸収する赤外線領域の波長(エネルギー)によって生じていることによる。ガス状態の二酸化炭素が地球温暖化の原因となるという知識は、有機構造化学や有機物理化学の知識が背景にして理解可能になる。

つまり、大学で学ぶ知識は、体系的に整理されている知識の一部から取り出されたものである。そのため、講義で提供される知識(情報)をよく理解するために、さらに、その知識の背景になる知識が必要となる。体系的に成立している知識を前提にしながら、要約、理解に辿り着くのが大学で得る知識の姿である。


調査情報を入力できる形式の講義ノート作り 

後から調べた情報が付け加えられるノートの形式は、一つ一つの課題を分類可能な形式で記録するノートを意味する。概念を分類可能に記録するノートには、少なくとも講義の中で取り上げられる課題に関して、それらの課題の個別のテーマ、またその中で述べられた個別の概念を、それぞれ別のページに書くことによって、概念を分類可能な状態で記述することができるようになる。

つまり、講義の中で取り上げられる色々な課題を、そのまま続けて書くと、異なる概念や課題が一つのノートに記述されてしまう。ノートをそれぞれのテーマの記述されている部分ごとに分けるには、ページを切る以外にない。それはできないことである。
そこで、ひとつの課題、ひとつの概念について、もったいなくても1枚のノートを使う。課題が移れば、新しいノートに書くことにする。テーマに即して、テーマ毎にノートを分けて、課題別のカード式のノートを作る。

講義を記録してから、講義で述べられた情報を後で調べ、調査から得た情報をノートに付け加える。その時、カード式ノートは、新しい情報を簡単に付け加えることが出来なくなるのである。


4、カード式ノートの作り方の技法

講義内容(情報)を記録するノート

大学での講義をノートに記録するために、カード式ノートの作り方の例を図1に示す。
カード式ノートのページは、大きく三つの異なる情報入力箇所がある。

Aの左端縦の余白は、講義の内容を書くためにあるのでなく、あとで調査したり復習したりするときに、Bに書いた情報を簡単にまとめるためにある。

Bは講義中に情報を記録する箇所である。綺麗に書くと言うよりも、より多くの情報を入力する技術を身につける必要がある。

Cは講義の課題(テーマ)を書くところである。また、調査を行う場合には、ノートを別にして調査の課題を書く。

図1 カード式ノートの作り方の例

(ブログでは表や図が表示できません。後日、ホームページで、pdfファイルで資料を提供します。また、Excel形式で作った三石式ノートを提供します。)

C.例えば今日の講義のテーマ(課題)を書く。しかし、講義の課題が別のテーマに変わったら、新しいノートに書く。贅沢なようだが、一つひとつの課題別にノートを作ることで、あとでその課題に関して図書館やインターネットを通じて調査した場合に、このノートの続きにそれらの調査資料を付け足すことが可能になる。


課題別分類ノート(集めた情報を分類し整理できる表紙)の書き方

大学での講義内容は、体系的な知識を援用し(活用し)提供されている。つまり、ある概念が社会学から導かれるなら、その概念をつかって新しいことを説明するのに化学の領域に関する課題について説明することはない。必ず、社会学の学問領域内で説明を行う。

そして、その概念が他の領域に広がる場合には、必ず広がっていく領域での社会学の概念に解釈を行ってから、境界領域(社会学に隣接する学問領域)へ拡大解釈を行う。この手法が一般的である。

一つひとつの課題に関して情報を分類するために、課題名を書いた表紙ノートの作り方を説明する。

図2 課題別分類ノート(表紙用ノート)

(ブログでは表や図が表示できません。後日、ホームページで、pdfファイルで資料を提供します。また、Excel形式で作った三石式ノートを提供します。)

1の情報コードボックスの二段目は、章や節など課題に与えられた分類コード番号を入れる箱として活用する。

2の課題名のコーナーに、講義の課題を書く。例えば、現代社会学の講義で何回かにわたって「現代社会の特徴としての科学技術文明」講義課題を書く。

3は課題の展開項目の情報を入力する。例えば、「現代社会の特徴としての科学技術文明」について講義課題に興味を持っていたので、図書館で調べ、インターネットで調べて、色々な情報を入手した。それらの集めた情報を分類し、分類した情報を課題別に書く。



表紙を構成している箱の役割と名前

1、分類コード記入ボックス

図3、分類コード記入ボックス

(ブログでは表や図が表示できません。後日、ホームページで、pdfファイルで資料を提供します。また、Excel形式で作った三石式ノートを提供します。)

1の分類コード記入ボックスは、集めた情報が講義課題の展開の中で占める部分に関する情報を記入する場所である。つまり、情報コードボックスの三段の、一段目が講義課題のコード番号、二段目や三段目は、章や節など課題に与えられた分類コード番号を入力できる。勿論、その使い方は自由である。この分類コード記入ボックスをつかって、集めた情報の集まり(課題別情報)が全体の課題の中で占める位置を表現できれば良い。

2、タイトル名記入コーナー

課題「科学技術文明社会の意味」を書く
図4、タイトル名記入コーナー

2のタイトル名記入コーナーは、講義課題の展開の中で集めた情報集団(あつテーマや概念に関する情報)に関するタイトルを記入する場所である

3、収集した情報の項目名(2の課題で収集した色々な情報に関する情報)

3の収集した情報の項目表では、講義ノート、図書館で調査したノートや資料、インターネットで調べた資料など、2の課題に関する色々な情報のタイトルを記入する。この表紙に記入された情報によって、どのような情報が集まっているかを一目瞭然に理解できる。

図5、収集した情報の項目
1 評価の仕方、ノートの作り方

講義科目の章や節の展開、その題名を記入する

大学での講義は体系的な知識を前提にして提供されている。

図6、表紙の作り方


1分類コード記入ボックスには講義課目のコード番号を記入する。

2のタイトル名記入コーナーには講義課題名を入力する。

3には、講義課題の展開、つまり、章に分けた課題名、もしくは節に分けた課題名を記入する。

図7、具体的な例

例えば、科学技術史の講義ノートの表紙は以下のように作ることができる。

科目「科学技術史」の中の第一章「科学技術の歴史とは何か」

第1章 科学技術の歴史とは何か         

1,歴史とは何か、何故人は歴史を学ぶか
2,現代生活のかなでの科学技術
3,科学技術の歴史をなぜ学ぶのか

つまり、科目名が「科学技術史」であれば、科目の表紙のタイトルは「科学技術史」と書く
この授業で、展開していく大きな課題
例えば

第一課題が「科学技術の歴史とは何か」であれば、次の表紙形式のノートのタイトルは
「科学技術の歴史とは何か」と書く。その「科学技術の歴史とは何か」に関する課題を1章として書く。

さらにこの第1章がさらに細かく幾つかの課題から出来ていて、そのはじめの課題が「歴史とは何か、何故人は歴史を学ぶのか」というテーマを第1章1節として書く。
続けて、2節が「現代生活のかなでの科学技術」という課題であれば、その課題名を書く。


まとめ

つまり、カード式ノートは

1、 学習過程で得た情報をすべて保存することが出来る。

2、 それらの情報を課題展開に即して分類し、配列することが出来る。

3、 その分類配列した情報から、学習科目の全体的な課題を理解することが出来る。

4、 その理解に即して、新しい情報を調べ、調べた情報を更に入力(分類配列)することが出来る。

5、 そしてそれらの情報を活用して、レポートを書くことに利用できる。

お断り
上記しましたように、ブログでは表や図が表示できません。後日、ホームページで、pdfファイルで資料を提供します。また、Excel形式で作った三石式ノートを提供します。


ダウンロードの方法
「三石博行のホームページ」の「教育・講義」の「知的生産の技術」のページにある「ノートの作り方」の中に「教材提供」のコーナーがあります。そこの「カード式ノートの提供」をクリックしてください。
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kyoiku_03_01.html

1、ノートの作りかた 「三石式ノート」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kyoiku_03_01.html


1、ノートの作りかた 「三石式ノート」
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ブログ文書集「知的生産の技術 基礎編」 8章 「議論や討論の仕方、纏め方や文書化」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_19.html

変更 2011年1月27日





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大学でのノートの作り方(1)

三石博行


1、学習の前に、何故ノートの取り方を問題にするのか

大学の教育で最も大切なことは、あるテーマに関して、それを自分で考え、その課題を解決し解明するために、調査し、分析しながら資料を作成し、それらの資料を整理し、分類し、そして説明するためにまとめ、他の人々に分かりやすく、論理的に、説得力をもって表現し、発表する力である。

これらの調査、分析、纏め(まとめ)、表現と発表の過程の基本作業は、資料の作り方から始まる。資料の作り方を身に付けるために最も基礎的技術として大学でのノートの取り方やノートの作り方がある。大学の講義ノートの取り方を通じて、上記した資料作りの最も基礎的技術を身につける学習を行う。

つまり、ノートを取ることは、単に講義内容を理解するだけでなく、レポートや論文を書くための基礎的作業を身につけることである。例えば、レポート材料の一つであるテキスト分析や評価の資料を作る場合にもノートのとり方の技術は必要とされる。そして、フィールド活動を行いながら、現場で取材や調査を記録しながら作る資料を作る場合でもノートのとり方の技術が基本となる。さらに、グループ学習に参加し、ある課題について議論しながら討論のやり取りを記録する場合でもノートのとり方の技術が必要とされる。

ノートの取り方は、知的生産を行う場合の最も基本的な活動の一つである。つまり、情報入力の技術であり、出来るだけ多くの情報を無駄なく、しかも多くの労力を費やさないで要領良く入力する技術を身につけるための技術である。

知的生産を行う場合に最も基本的な作業とし、ノートの作り方の技術を身につけることが課題になっていることを理解しなければならない。


記録する目的によってノートの取り方は変る

書くことは学びの基本

書くことによって私たちは情報を収集、整理しまとめ、また自分の考えをまとめ、分かりやすく表現することが出来る。書くという行為によって、過去の自分や自分の周りの姿(心象や社会現象)を記憶しておくことができる。書く行為を人類が見つけ出したこと(文字を発見したこと)によって、社会は大きく発展した。

書く行為を身に付けることによって、人々は社会での仕事や活躍の場を与えられてきた。古い時代から、人々は読み書きを学び、よりよい(仕事)社会的地位を得る努力をしてきた。学ぶことの第一歩が読むこと書くこと計算することであることは、古い時代から現代まで共通しており、それが学習の基本であった。
 
目的に合わしてノートの形式が決まる

大学生活、つまり大学で行われる講義、演習(語学、技術習得や実験等)、ゼミナール、卒業研究に対応したノート、また日常生活を維持するために自分の生活記録、家計簿や行動予定を書くノート、そして友人と意見を交換するために書くメールやブログのためにスッケチノート等々、目的にそってノートを作ることになる。

それらの目的に合して書く行為の形式や様式(ノートのスタイル)は決定する。以下、幾つかの異なる書く行為目的とそれに合った様式を書いてくる。

1、知識を覚えるため (高校までのノート、大学でも語学や演習用のノート)

2、情報を収集し、整理し、まとめるため(フィールドや調査用のノート)

3、会議や人との会話の記録のため(会社、社会活動をするとき必要なノート)

4、アイデアをまとめるため(研究や論文を書くとき必要なノート)

5、自分の気持ちを書くため(日記など)

情報収集、分類の道具としての講義用ノート

今回、特に上記した2の課題、つまり講義用ノートの書き方について述べる。

大学の講義用ノートは、高校時代までのノートと違う。その違いは上記した1と2の違いである。つまり、高校までは、大学入試のために、多くの知識を暗記しなければならなかった。そのため、暗記しやすいノートの形式を小学校から学んできた。暗記は学習の基本である。学習を続ける限り暗記する作業は常に続くのであるが、高等教育では、暗記以外に「考える」作業を大切にする。

そこで、上記した2の形式、つまり、情報を収集し、整理し、まとめるためのノートの作り方を学ばなければならない。

大学の講義の特徴は、講師が教材を作ってくることである。高校までは、指定されていた科目には文部科学省の認可した教材が活用され、教師は科目ごとに学習指導要領が与えられ、その指導要領に即して教えなければならない。何故なら、それらの知識は基本的な知識であり、最低限理解しなければならない基準を持っているからである。

しかし、大学では、それらの高校までの教育レベルを前提にして、高等教育が行われる。大学の教師は教育者であると同時に研究者としての側面を持っている。つまり、それぞれの教員は自分の専門分野の研究課題を抱え高等教育を担当している。そのため、学習指導要領はない。

講義課題は文部科学省が認可推薦したものであるが、その講義内容は講師に任されている。そのため、講師は講義の前に「シラバス」で講義内容を公開する義務を負っている。

つまり、大学での講義は、講義を受ける学生からすると、教育課題(科目)について、与えられた講義環境(講師と彼が提供する講義内容)で得る知識である。それらの知識は、科目として示される学習課題の一部に過ぎないことを理解しなければならない。

言い換えると、同じ講義課目でも講師によって提供する知識(情報)はまったく異なることが生じるのである。そのため、学生は、より自分に適した、また自分に役立つ講義を受けたいと願うのであるが、時間割等々の都合で、それも十分満たされることはない。

そこで、まず、大学の講義を受ける前に、ノートの取り方を工夫することで、より多くの知識(情報)を獲得し、いろいろな側面から解釈される一つの概念を入力し(記録し)、それらの情報を整理するノートの作り方について学ぶ必要がある。

課題

1、情報収集のために便利なノート

2、集めた情報を分類・整理するのに便利なノート

3、分類整理した情報(ノート)を使って、課題ごとにまとめる作業をするのに便利なノート

4、大学時代の受講や調査資料が社会に出てからも活用できるノート

以上、4つの課題を満たすための大学での講義ノートの作り方を学んでみよう。


つづき
「大学でのノートの作り方(2)」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/2.html

また、
三石式ノートをダウンロードできます。

ダウンロードの方法
「三石博行のホームページ」の「教育・講義」の「知的生産の技術」のページにある「ノートの作り方」の中に「教材提供」のコーナーがあります。そこの「カード式ノートの提供」をクリックしてください。
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1、ノートの作りかた 「三石式ノート」
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