2012年4月3日火曜日

東日本大震災が問いかけるわが国の民主主義文化の質

成熟した社会・民主主義社会を発展させるために(4)
 

三石博行


今、我々国民一人ひとりに民主主義文化が問われている

現代の日本社会では民主主義の在り方が問われている。それは民主主義を冒涜する権力に対する批判と言うよりも、寧ろ、敗戦、新憲法制定、戦後民主主義体制の歴史の中で、蓄積し続けた現代日本文化の成果として民主主義が問われているように思う。

従って、この問いかけは民主主義を担う国民、市民が自らの生活スタイルやこれからの日本社会の在り方に対する考え方を問い掛けるという内容になる。民主主義を問い掛けているのは豊かで、自由に生きることを知っている我々であり、その我々が民主主義文化をさらに分厚く豊かに育てるために、自問しているのである。

この問い掛けをさらに加速したのが、昨年3月11日に発生した東日本大震災と福島東電原発事故であった。社会の非常事態に対して、豊かな日本社会のもう一つの側面、つまり危機管理や緊急時に対する社会機能が問われた。この問い掛けは二つの課題をさらに投げかけた。つまり危機管理を行うために社会統制システムを導入するか、それとも国民の自主的な活動によって危機管理を作りだすかである。


>国民主権のための武力装置・自衛隊の承認とボランティア国民運動の形成

自衛隊や保安、警察・消防隊の組織的動員力による防災救援体制の構築と強化が一つ目の解答であった。2011年3月11日に発生した東日本大震災への政府の対応は、勿論完璧なものではなかったものの、1995年1月17日の阪神・淡路大震災へのそれに比べて大きく前進した。そして、二つ目の課題に対して言うなら、今回の震災に対して国民は自主的なボランティア救援活動、インターネットやFMラジオを活用した震災情報伝達、多様な救援国民運動を自主的に展開した。

国家の危機的状況を乗り越えることは、日本国民全体の課題である。軍隊や警察等の国家権力機能と国民の自主的活動の民主主義機能を持つ民主主義・資本主義国家の二つの側面が相矛盾することが無いのは、国民主権によって国家権力が運営されているという国民全体のコンセンサスが成立しているからである。自衛隊や警察は国民の命と生活を守る機能である。それらの強力な機動力によって、災害救援部隊が構成され、最も危険で困難な現場に迅速に派遣され、機敏に国民の救済活動に取り組む。この国民のために存在する国家権力への信頼こそ、民主主義国家の屋台骨を支えているのである。

今回の震災救援活動で自衛隊は大きな役割を果たした。それは国民の命を守ることが国民主権国家の自衛隊の役割であることを救援活動を通じて明らかに国民に伝えたことである。そのことによって、国民の中には自衛隊に対する理解が生まれた。国家権力は国家という機能にとって不可欠の機能である。その機能を国民主権のための自衛隊(武力装置)として民主主義文化は問い掛けるのである。

国民主権の国家運営の責任を国民が自覚するなら、その国家権力の主人公として国民は責任ある態度を取るだろう。そして自分たちの自衛隊や警察の在り方を考えるだろう。勿論、自分たちも自主的に災害時の救援機動部隊を作る力を持つだろう。情報や流通を自主的に確保し、国家や地方自治体の制度として配備されている機動部隊、つまり自衛隊、警察、海上保安部隊、消防隊と連携する力を持つだろう。


暴露された立法機関・国会の機能不全状態

国会議員という無能の集団が3.11によって暴露された。約2万人弱の死者や行方不明者、そして数十万人の避難所生活者がいる中で、国会では政局論争に明け暮れていた。国民の多くは、その姿に絶望し、始めは怒りをもって与野党の国会議員達を批判した。しかし、次第に、嘲笑と化して行った。つまり、国民はこれで政局論争を繰り返した与野党の国会議員達から、彼らに頼らないことを学んだのである。

その気持ちの現れが財政危機にあった大阪府(市)を再建するために奮闘する大阪維新会・橋下徹氏への共感であった。選挙公約(マニュフェスト)に掲げた行政や政治改革を実行する橋下氏への支持は大阪府民のみでなく国民全体から支持されている。被災した国民を置き去りにして政局論争を繰り返し続けた与野党国会議員。橋下氏の国民的評価を生み出す背景に国会で党利党略を優先して進められる与野党への不信や怒りがあることは否定できない。

自民党執行部は民主党政権を解散に追い込めば、自分たちが自動的に政権を取れると予測しているのだろうか。また、被災地復興対策や原発事故処理の検証作業等々の遅れ、マニフェスト不履行等々、民主党現執行部は先の参議院選挙で受けた国民からの評価を真摯に受け止める作業をしているのだろうか。極論を許すなら、現在の政党政治の姿は、国民は単なる政局ゲームの駒にすぎないと思っているとしか言えないのである。しかし、日本国民はそうした極論された政党の思惑を理解しないほど遇民の集まりではない。

戦前の政党政治と同じように政局中心主義によって次第に台頭した軍国主義(素早い意思決定機能)のような危険な政治構造は戦後から現在の豊かな民主主義文化を育てた日本では繰り返し起ることがないとは思うが、国民はこの国を滅ぼそうとしている形骸化した官僚主義と政党利権主義に対して、もっとも現実的な答えを用意し始めるに違いない。


選挙という国民の政治的意思決定を最大限尊重しない限り間接民主主義制度は成立しない

2010年の参議院選挙で民主党は大敗した。その時、彼らは政権を自民党に渡すべきであった。衆議院での多数政党である民主党が最終的に立法権を持つ政党である。そのことと先の参議院選挙で国民から受けた審判とは別なのである。ねじれ国会の経験は日本の戦後政治史の中ではそう多くないために、2008年の民主党が参議院の多数を占めて出来たねじれ国会と2011年の自民党が多数を占めたそれとの経験を踏まえて、衆参二院制によって生じる立法機能のマヒ状態を回避するための選挙後の政党間の取り決めが作られる必要があるだろう。

自民党も民主党もこのねじれ国会が引き起こす立法機能のマヒを国民の責任にしていないだろうか。現在の民主党(2008年の自民党)も参議院選挙を通じて受けた国民からの批判に鈍感なのではないだろうか。最終立法権をもつ衆議院で多数であろうと、そうでない参議院の選挙で敗北したことは、それ自体重大な意味がある。何故なら、国民の政治参加が選挙という手段でしか行われない間接民主主義の社会では、参議院選挙も衆議院選挙も同じ国民の意思を表現する手段なのである。

これまでの自民党と同じように、2011年の参議院選挙での国民からの批判を真摯に受け止める力が民主党にはなかった。政治的駆け引きによって技術的に野党の理解を求め、最終的には衆議院で法案を決定する権限を振りかざしながら、社交的姿勢として話し合いによってねじれた国会を乗り越えられると信じているのである。それは、民主党が政権を取る前に、当時の自民党政権も行った判断であった。そうなると、ねじれ国会が生じた場合の対応を真面目に考えるべきではないか。何故なら、国会は国民の利益を最大限守るために存在している立法機能をマヒさせてはならないのである。そのことをもっと真剣に、与野党は話し合い、決まりを作るべきである。

もし、ねじれ国会が引き起こす国民への不利益を真摯に受け止め、それを党利党略や有利な政局ゲームを行うためでなく、国民の利益を最優先にして未来の社会のために、言い換えれば間接民主主義社会の日本の国のかたちを持続可能な状態にするために、与野党の壁を越えて、考えなければならないのである。与党と最大野党が、現在の政治の混乱の原因の一つの解決への努力を払わないなら、現在の議会制度自体が国民に批判される危険があることを国会議員は全員、想像しなければならないだろう。

首相公選制度は実現可能か、何が立法機能麻痺の解決策なのか

現在の立法機能のマヒを生み出す政党政治、国会議員達に絶望した国民はこれから何をすべきなのだろうか。この答えを出したのは橋下氏であった。彼は「国民による首相公選制度」を提案した。しかし、この提案は憲法の改正を前提にしなければならない。そのため、この案はそう簡単に実現できない。この提案に対して与野党含めて殆どの国会議員達は非現実的な対案と皮肉な一言を述べ、そして橋下氏は国政のシステムを知らないと言わんばかりであった。だからと言って、彼らがねじれ国会で生じる立法機能のマヒ状態を解決するための解決案を出した訳ではない。

そして、ある少数の評論家や報道のこうした利権集団化した国会議員達への批判が生まれる。つまり、現在の与野党国会議員に立法機能の改革を求めることは不可能であるという極論が姿を現すのである。その理由は、世襲化した国会議員職、生まれ持って与えられた職業として国会議員職があるなら、彼らは自ら自分の職業的利益を損なう国会議員改革案などとう自殺的な提案する筈がないという極論である。

この極論が意外に説得力を持つのは、現在の国会で立法機能の改革が野党時代にマニフェストに書かれていても一たび政権与党になるとまったく取り上げられないという現実を国民が味わってきたからである。例えば、行政改革による無駄遣いの削減や議員定数削減問題を先送りにして、消費税を上げるだろう。確かに赤字国債を出し続ける現在の財政構造は危険すぎる。その解決のため消費税を上げることが不可欠である。しかし、そうであったとしても、議員達は国民に負担に対して自らの襟を正すパフォーマンス、例えば自分の給与を下げるとか定数を削減するとか等々を演じてもいいだろうと思うのだが。

しかし、パフォーマンスさえも演じることが出来ないほど議員達はプライドを失っているのだろうか。政治は自分の生活のためになり、自分の生活を守るために選挙で国民から票を貰う。国民は票田に植えた稲のようなものだと今でも固く信じているのだろうか。そうした議員の姿、被災した国民よりも、自分のことが大切な人々、それでいて選挙になると「宜しくお願いします」と連発する議員達の姿をこの国の人々はどう見ているのだろうか。被災し今でも生活できない人々はいつまで寛大な気持ちで議員達のお願いを聞いてくれるだろうか。それが次回の選挙で議員達が密かに不安に思う問題ではないだろうか。

国会議員の心無さや無能さを批判しようが、国会の機能不全を嘆こうが、ともかく、被災地では明日生きるために、経営難の企業を救うために、職を見つけるために、子供を育てるために、老いた両親の世話をするために、あらゆる手段を講じて、対応しなければならないのである。だから、実際は、大半の国民は、国会の批判をする時間もないのである。それが現実の国民の姿であり、国の状態である。


引用、参考資料

成熟した社会・民主主義社会を発展させるたに

1、新しい社会政策の模索の時代、問われている21世紀社会の姿と理念

2、国民の社会改革への参画こそ民主主義文化展開の唯一の方法である

3、現在問われている社会改革の課題


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2012年4月10日 文書及び誤字修正、

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