2019年3月13日水曜日

人間社会科学の成立条件(6)


反科学と反科学主義の思想の歴史的背景(2)


反近代合理主義思想としての「反科学」思想 


「反科学」とは近代合理主義、近代科学への批判や拒絶である。アジアの国々(特に古代インドや古代中国文明の伝統文化を継承している国々)では、近代化とは伝統文化の破壊を意味する。富国強兵政策の名の下で進む国家が指導型の近代化政策は列強の植民地侵略に怯えるアジアの国、江戸末期や明治初期の日本で行われた。鹿鳴館のように西洋の物まねから欧米の先進的な知識(科学)や技術の導入により伝統な知識文化が破棄して行く。この変革なしに列強の軍事的圧力に対して鎖国を続けることは不可のであった。

日本社会文化の構造、観念形態が西洋文化のそれと根本的に異なるため、日本社会が近代化を受け入れることは、その受け入れを拒否する古い社会制度、風習、伝統文化を同時に破壊することを意味する。そうでなければ列強国の植民地になるという現実に、日本民族は立ち向かった。強制的な国家指導型の近代化政策が取られ、しかも、その受け入れ体制のトップに日本を古代から統治してきた天皇を国家元首として置き、天皇制度の下に、近代日本国家を作った。

言い換えると、反西洋的観念形態・日本民族神話の頂点に立つ天皇制度を利用して、国家の近代化・富国強兵、工業化政策を進めた。国力増強のために、全国民の教育水準を上げる義務教育制度、軍事力強化のための徴兵制度、有能な人材育成のための高等教育制度、優秀な国民の採用・社会的平等主義の普及、国家運営を全ての国民の人材と投入して行う官僚制度等々、すべての国の改革を国民全体の力を投入して進めた。国家指導型の近代国家建設、資本主義経済強化を行った。日本は上からの近代化によって資本主義が発達し、近代国家として成長した。

国家指導型の近代化は国民教育制度、全国鉄道建設や地域産業振興によって近代化の波は地方社会にも浸透し続けた。しかし、封建的な地主制度が残存した農業生産の場、地方の農村社会では古い村の制度や風習、文化風土は残っていた。言い換えると、農村社会文化によって古い日本的観念形態・文化が再生産され続けられた。近代化された都会には、常に、日本の古い観念形態・伝統文化を守る人々(田舎者)が移住し、彼らはそこで近代化され、都市文化はそこで日本的伝統文化へと押し戻されるのである。

反近代主義は日本人の深層心理を構築している伝統文化への回帰現象である。この反近代の感情は、開発や工業化による自然環境破壊、農業や漁業の生活手段や生活文化の破壊等、近代化政策によって貧困化する人々によって起こる。そして、同時に、それは近代主義を学んだ知識人たちにも支持される。かれらは科学を学ぶことによって近代化を受け入れた。そのため、その知識人たちの一部の人々は、彼らの近代化批判を反科学として表現することになる。

反科学思想とは、近代化を推し進めた西洋科学を全面的に否定し、日本伝統の考え方や生活スタイルを摸索する思想である。例えば、日本古来の伝統文化、漢方や鍼灸、ヨガや禅の健康法、自然農法等々、経済進歩主義を批判し、場合によっては資本主義的経済活動から離れ自給自足生活を試み、科学技術の恩恵の上に成立している都会的環境から疎遠な生活を試みる考え方である。

当然、近代科学を生み出したヨーロッパでも近代合理主義思想に反対する「反科学思想」があったと考えられる。1617世紀のヨーロッパ先進国であったイギリスやフランスも、中世キリスト教的文化を中心にした社会であった。新しく登場し、勢力を強める近代合理主義に対して、中世的生活文化、風習や文化風土に根付く観念形態がその変更を迫られ、伝統文化の危機に対して抵抗し、受け入れを拒否した。

その意味で、近代合理主義思想や近代科学に対する抵抗であった「反科学」は封建的な制度を持つ社会が近代化される時に必然的に起こす、謂わば「社会身体」の拒絶反応であるとも言えるだろう。

2019年3月14日 修正




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