2019年3月14日木曜日

私という現象 (詩)

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私という現象は、

止めどもなく沸き上がる疑問の風に吹かれ、

止むことなく続く疑問の森を彷徨う

 

明日という未来はどこに存在するのか

昨日という過去はどこに存在したのか

 

私は

刻々と進む時間の中を

ただ焦りながら思索の欠片を掴もうとする。

 


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私という現象は

視覚としての光の風景

心象としての形の風景

 

時間と共に過ぎ風景の中で

私のいない世界へと流れ

無限に広がる

 

私は

広がる世界の中で

無限に微分され

限りなく微小化される

 

 

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私とうい現象は

心象の亀裂から湧き上がる違和感

心象の流れの中の微細結晶

 

不快の中で湧き出す新たなことば

苦痛の中で鳴り響く心象交響曲

 

私は

沸き起こる記憶や言葉

新たに沸き起こる時間は欺瞞の感動を消し去り

飛び込む光の現実に私を戻す

 

 

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私という現象は

遠のく感銘の記憶

近づく幻想のカタルシス

 

光は

冷たく青く

疑問の森を

進むしかない

 

形は

明るく白く

遠のく記憶の中に

微小化した私を

探すしかない

 

 

もう春は終わったのだ

 


2019年3月14日作

2019321日修正
2020年11月27日再修正

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淡路島で研究会が行われるので、車に乗って、名神高速道路の豊中を過ぎたくらい、宝塚の山が春の日差しを受けて見えた時、ふと沸いたことば。運転中なので、書きとどめることは出来なかった。しかし、それらのことばたちは強烈に私を占拠し続けた。私は、目的地に着き、車を止めて、それの言い分をスケッチした。

 

青春時代の苦悩の後に沸き起こる解放感、一種のカタルシスだろうか。こうしたカタルシスの瞬間に、私は永遠がそこにあるという幻想を快感を味っていた。それは、ある意味で、迷路の中で、厳しい現実の壁を直視することから救ってくれた自我を保存するための精神作用なのかもしれないと思うこともあった。

 

この麻薬のような作用を私はどこかで恐れている。それは本来の世界から私をカタルシスの花壇の中にいると錯覚させてにすぎないと、思うからだった。答えのない思索にはこうした錯覚が時として訪れる。それは、考えることを中断させるための精神作業のようだ。つまり、カタルシスは逃避行為なのかもしれない。その意味で、哲学にとっては毒にすぎない。勿論、宗教的な世界では、それは神の声と解釈されるかもしれない。

 

ともあれ、この詩をスケッチし、その後の詩を読みなおすと、私の詩の課題は、全く同じだと気づく。春の光に照らされて活き活きと若葉をもやす生命たちの放すことばをスケッチすることもなく、それほど自分に拘るのは何故なのだろうか。

 

2020年1127



2019321日修正

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