「福島原発事故から立ちあがる市民」の目次
三石博行
講演シリーズ「医者・専門家から見た福島原発事故」を開催
1、原発事故処理作業者の被曝を防ぐために
未完成(近日公開)
1-1、「放射能による健康障害と放射線による病気の克服」平岡諦医師の講演
放射能による健康障害と放射線による病気の克服」平岡諦医師の講演
放射能による健康障害と放射線による病気の克服」平岡諦医師の講演のYouTube公開
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平岡諦医師講演「放射能による健康障害と放射線による病気の克服」1/4
平岡諦医師講演「放射能による健康障害と放射線による病気の克服」2/4
平岡諦医師講演「放射能による健康障害と放射線による病気の克服」3/4
平岡諦医師講演「放射能による健康障害と放射線による病気の克服」4/4
1-2、「被爆者医療からみた福島原発事故」郷地秀夫医師の講演
被爆者医療からみた福島原発事故」郷地秀夫医師の講演
被爆者医療からみた福島原発事故」郷地秀夫医師の講演YouTube公開
YouTubeで公開
郷地秀夫医師講演「被爆者医療からみた福島原発事故」1/11
郷地秀夫医師講演「被爆者医療からみた福島原発事故」2/11
郷地秀夫医師講演「被爆者医療からみた福島原発事故」3/11
郷地秀夫医師講演「被爆者医療からみた福島原発事故」4/11
郷地秀夫医師講演「被爆者医療からみた福島原発事故」5/11
郷地秀夫医師講演「被爆者医療からみた福島原発事故」6/11
郷地秀夫医師講演「被爆者医療からみた福島原発事故」7/11
郷地秀夫医師講演「被爆者医療からみた福島原発事故」8/11
郷地秀夫医師講演「被爆者医療からみた福島原発事故」9/11
郷地秀夫医師講演「被爆者医療からみた福島原発事故」10/11
郷地秀夫医師講演「被爆者医療からみた福島原発事故」11/11
1-3、「原発被ばく問題のこれから」西野方庸氏(関西労働者安全センター事務局長)の講演
原発被ばく問題のこれから」西野方庸氏(関西労働者安全センター事務局長)の講演
「原発被ばく問題のこれから」西野方庸氏の講演YouTube公開
YouTubeで公開
西野方庸氏講演「原発被ばく問題のこれから」1/8
西野方庸氏講演「原発被ばく問題のこれから」2/8
西野方庸氏講演「原発被ばく問題のこれから」3/8
西野方庸氏講演「原発被ばく問題のこれから」4/8
西野方庸氏講演「原発被ばく問題のこれから」5/8
西野方庸氏講演「原発被ばく問題のこれから」6/8
西野方庸氏講演「原発被ばく問題のこれから」7/8
西野方庸氏講演「原発被ばく問題のこれから」8/8
1-4、「原発作業員の労働衛生―放射線障害の不確実性と多様性―」長尾和宏医師の講演
「原発作業員の労働衛生―放射線障害の不確実性と多様性―」長尾和宏医師の講演
「原発作業員の労働衛生―放射線障害の不確実性と多様性―」長尾和宏医師の講演YouTubeで公開
YouTubeで公開
長尾和宏医師講演「原発作業員の労働衛生―放射線障害の不確実性と多様性―」1/9
長尾和宏医師講演「原発作業員の労働衛生―放射線障害の不確実性と多様性―」2/9
長尾和宏医師講演「原発作業員の労働衛生―放射線障害の不確実性と多様性―」3/9
長尾和宏医師講演「原発作業員の労働衛生―放射線障害の不確実性と多様性―」4/9
長尾和宏医師講演「原発作業員の労働衛生―放射線障害の不確実性と多様性―」5/9
長尾和宏医師講演「原発作業員の労働衛生―放射線障害の不確実性と多様性―」6/9
長尾和宏医師講演「原発作業員の労働衛生―放射線障害の不確実性と多様性―」7/9
長尾和宏医師講演「原発作業員の労働衛生―放射線障害の不確実性と多様性―」8/9
長尾和宏医師講演「原発作業員の労働衛生―放射線障害の不確実性と多様性―」9/9
1-5、「原発作業員に対する自己造血幹細胞事前採取の提言」谷口修一医師の講演
、「原発作業員に対する自己造血幹細胞事前採取の提言」谷口修一医師の講演
、「原発作業員に対する自己造血幹細胞事前採取の提言」谷口修一医師の講演
谷口修一医師講演「原発作業員に対する自己造血幹細胞事前採取の提言」YouTube紹介
YouTubeで講演を公開しています
谷口修一医師講演「原発作業員に対する自己造血幹細胞事前採取の提言」1/14
谷口修一医師講演「原発作業員に対する自己造血幹細胞事前採取の提言」2/14
谷口修一医師講演「原発作業員に対する自己造血幹細胞事前採取の提言」3/14
谷口修一医師講演「原発作業員に対する自己造血幹細胞事前採取の提言」4/14
谷口修一医師講演「原発作業員に対する自己造血幹細胞事前採取の提言」5/14
谷口修一医師講演「原発作業員に対する自己造血幹細胞事前採取の提言」6/14
谷口修一医師講演「原発作業員に対する自己造血幹細胞事前採取の提言」7/14
谷口修一医師講演「原発作業員に対する自己造血幹細胞事前採取の提言」8/14
谷口修一医師講演「原発作業員に対する自己造血幹細胞事前採取の提言」9/14
谷口修一医師講演「原発作業員に対する自己造血幹細胞事前採取の提言」10/14
谷口修一医師講演「原発作業員に対する自己造血幹細胞事前採取の提言」11/14
谷口修一医師講演[原発作業員に対する自己造血幹細胞事前採取の提言」12/14
谷口修一医師講演「原発作業員に対する自己造血幹細胞事前採取の提言」13/14
谷口修一医師講演「原発作業員に対する自己造血幹細胞事前採取の提言」14/14
1-6、「放射能による食品汚染と健康障害」平岡諦医師のコメント
YouTubeで公開
平岡諦医師のコメント「放射能による食品汚染と健康障害」
2. 脱原発運動
2-1、バイバイ原発 京都で集会とデモに参加して 反原発運動の流れ(1)
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_27.html
2-2、衆議院議員・河野太郎さん京都で脱原発について講演会
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_29.html
2-3、ドイツ緑の党副代表 ベーベル・へーンさんとの出会い
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/10/blog-post_31.html
YouTubeで公開
ベーベル・へーンさん(Barbel Hohn)京都公演1/2
ベーベル・へーンさん(Barbel Hohn)京都公演2/2
2-4、脱原発を訴えた瀬戸内寂聴さんのお話し
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/10/blog-post_9970.html
YouTubeで公開
瀬戸内寂聴さんのお話(説法)1/3
瀬戸内寂聴さんのお話(説法)2/3
瀬戸内寂聴さんのお話(説法)3/3
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関連ブログ文書集
ブログ文書集「東日本大震災からの復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3562.html
ブログ文書集「市民運動論」の目次
近日公開
ブログ文書集
ブログ文書集「21世紀日本社会のための大学教育改革の提案」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html
ブログ文書集「日本の政治改革への提言」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_9428.html
ブログ文書集「持続可能なエネルギー生産社会を目指すために」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/11/blog-post_2842.html
ブログ文書集「民主主義社会の発展のための報道機能のありかた」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post_03.html
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哲学に於いて生活とはそのすべての思索の根拠である。言い換えると哲学は、生きる行為、生活の場が前提になって成立する一つの思惟の形態であり、哲学は生きるための方法であり、道具であり、戦略であり、理念であると言える。また、哲学の入り口は生活点検作業である。何故なら、日常生活では無神経さや自己欺瞞は自然発生的に生まれるため、日常性と呼ばれる思惟の惰性形態に対して、反省と呼ばれる遡行作業を哲学は提供する。方法的懐疑や現象学的還元も、日常性へ埋没した惰性的自我を点検する方法である。生活の場から哲学を考え、哲学から生活の改善を求める運動を、ここでは生活運動と思想運動の相互関係と呼ぶ。そして、他者と共感しない哲学は意味を持たない。そこで、私の哲学を点検するためにこのブログを書くことにした。 2011年1月5日 三石博行 (MITSUISHI Hiroyuki)
2012年3月18日日曜日
2012年3月8日木曜日
非常時から日常時へのボランティア活動の移行過程について
構造構成主義の理解のための試み(2)
三石博行
構造が構成される瞬間
「あらゆる仕事の場で役に立ってしまう本」と言う西條剛央著「人を助けるすんごい仕組み」(ダイヤモンド社)に関する糸井重里氏の一言の本の紹介文の通りに、この本は組織運営の核心に触れているみごとなビジネス理論を展開しているとも謂える。
多くの人々が西條氏のように奇跡に近いプロジェクトの立ち上げを経験していないとしても、日常の社会生活を通じて、類似した経験を持つと思う。その中で気付いたこと、多くの場合失敗経験として記憶にのこることが、実に見事に展開されている。
東日本大震災、未曾有の災害、国家の有事、第二の敗戦とまで言われた状況に人々は直面した。突然襲いかかった災難に立ち向かわなければならなかった。まず、生命を維持し続けるために行動し、生活や社会インフラの復旧に奮闘してきた。
被災した人々を支援するという課題(目的)のために、「ふんばろう東日本支援プロジェクト」は組織され運営されてきた。その運動の中で発生する問題を解決することが構造構成主義の検証となっていた。つまり西條氏は発生する疑問や問題の基本要素を命題として言語化することを、構造が構成されると考えた。
問題解決の方向を掴むことを「構造が構成される」瞬間と言うのだろう。しかし、その瞬間は、さらに新し問題の登場によって、より基本的な命題の言語化を要求されることになる。つまり、状況とはつねに通時的に変遷していく世界を意味し、主体はそれに対して常に立ち向かわなければならない。
そこで、立ち向かう主体の確信が問題となる。つまり、どのようにして問題を解決し続けることができるのか。その課題は問題解決の仕方として提起されている。
技術としての方法
有効な問題解決の仕方、方法が問われる。そこで、有効な方法は与えられた現実(状況)と主体の意図(目的)に規定されて選択されると考えた。それを「方法の原理」と西條氏は述べている。方法とは問題解決の技術である以上、固定された方法はない。その意味で方法は主体とそれを取り巻く生活世界の二つの状況に規定される。
つまり、方法(問題解決の手法)は現実とその中にいる主体の生き方で決定される。その意味で、構造構成主義の方法論は科学的方法論と異なる。西條氏は方法を多様な解決手段として位置付けた。何故なら、人間社会学、取り分け政策学や臨床学、では方法は問題解決のための技術として位置付けられるからだ。
有事のボランティア活動から日常の生活運動への移行
今回、有事的状況の中で西條氏が構造構築主義概念の具現化や検証活動として「ふんばろう東日本支援プロジェクト」の組織化や運営が、平時的状況の中でどのように活かされるかが私の課題となっている。
阪神大震災の時にいち早く生活情報「WANTED」を発信した大阪府箕面市の主婦たち。彼女らは被災地長田区の避難所におにぎりを運んだボランティア活動を箕面市民に訴え罹災者と周辺地域の市民をつなぐために「WANTED」を発行しつづけた。おにぎりボランティアや洗濯ボランティアが「WANTED」の活動で生まれた。
そして、「WANTED」の活動は被災地の復旧が進むなかで不要となり、おにぎりボランティアや洗濯ボランティア運動は次第になくなり「WANTED」発行の意味が消滅していった。つまり有事の状況が次第に平時の状況へ移行し始めた。客観的にはこの状況の進展を喜ぶべきであったが、ボランティアに専念した主婦たちはむしろ「WANTED」を発行しなくなることを「運動を止める」ことだと思っていた。それは罪悪感に近い感情であった。
取材の後に、「無理して「WANTED」の発行を続けるのでなく、積極的に発行を止めることもいいことなのではないでしょうか」という私の発言に「救い」を感じと活動の中心となった人は述べていた。つまり、有事体制下での運動を維持している積極的で自己犠牲的な行動は、未曾有の災害、阪神大震災の罹災者のことを想えば、当然のことだと思うだけに、ボランティア活動を止めると言う状況が「活動を辞める」というモラル問題になっていたように感じた。
罹災地に出向き全ての生活時間をボランティア活動に掛けている若者たちなら有事時のボランティア活動の必要性を失うことを積極的に受け止めることが出来るだろう。何故なら彼らは日常の生活戻らなければならないからだ。しかし、日常の生活の中でボランティア活動をしていた主婦にとっては、ボランティア活動を止めることは、その日常性を失うことを意味する。
この課題に対して私は積極的に災害ボランティアを止めることの意義を語ったが、当時は、そのことを理解する人は居なかった。大切なことは、このボランティア活動の履歴が地域社会に残ることだと考えた。それは丁度、広大な空間に微小な結晶核が形成されることに似ている。無くなったと思える災害救済活動は、状況が来れば、丁度、凝固点に達した水蒸気がその微小な結晶核の存在によって雪になるように、組織され活動を開始し始めるのだと思えた。それを危機管理文化と呼んでよい。
有事の災害救済運動のもう一つの課題は、大震災と呼ばれる有事状況への国民的な運動や経験が、こうした市民の日常生活の中に結晶核として存続し続ける社会文化システムを課題にすることである。これが文化としての危機管理体制と作ることになる。そして、今回の東日本大震災で阪神大震災時に活躍したボランティア活動の経験が初期段階で活かされた。つまり、文化としての危機管理体制の重要さはすでに証明され、実践されたと思う。
未来への確信
今回、西條氏が展開したボランティア活動やその他のボランティア活動によって、阪神大震災で経験した以上のものが社会に定着していくだろう。著書『人を助けるすんごい仕組み』は、作者の今後を越えて一人歩きし始めるだろう。そして、私は密かに、そこで述べれらた課題から多くの市民運動のアイデアや企業活動のスタイルが生み出されるのではないかと期待しているのである。
西條剛央著『人を助けるすんごい仕組み』に流れる思想を一言で言うなら「愛がある」ということに尽きるだろう。「そして本書を読んで、少しでも心が動いたあなたも、何かに呼ばれているのかもしれない。あなたがその心の声に耳を傾ける機会になれたら、本当にうれしい」という最高の読者へのメッセージでこの本は終わる。
多くの読者は、そこから何かをしたいと立ちあがるだろう。そうした心を動かす著書であり、この著書を彼に書かせた力が構造構成主義だと西條氏は語るだろう。
哲学運動としての「ふんばろう東日本支援プロジェクト」
そして、現在、被災地で求められている課題にこたえ続けている「ふんばろう東日本支援プロジェクト」が、この1年間の活動の成果の上に、さらにこれからの1年間の課題にこたえ続ける力を発揮すると思える。ということは、この運動が西條氏の哲学、構造構築主義の検証活動として、運動主体の中で位置づけられている限り、私には確信できるからだ。
常に変動する状況に対して主体は、その状況をよりよく展開するために努力している。言い換えると、常によりよく生きるということはよりよく自分の現実を受け止めることからはじまる。そこで、生活世界の意識やそれに支配されている科学という行為、その論理性や信念、言い換えるとイドラやドグマ(西條氏の謂う「呪」)が生じることが避けられない。1年間の画期的な運動の成果が導く確信(生活世界の意識)の強さ(強くないといけないのだが)は、これからの運動を担う人々の力(生活運動を担う力)となる。その確固たる信念、それこそば未来を生きる信念を形成した現在の生活様式への評価でもあり、また同時に未来への束縛にもつながる。有効性や正当性に相補的に存在しているドグマを避けて生きることのできる人はいないのだろう。
つまり、社会や市民運動論に必然的に付属する集団表象な個人意識のドグマ化と呼ばれる「慣性の法則」に対して予め西條氏は対処する集団を持っていた。それが状況の中で生じる現実を理解する道具としての構造構築主義であった。この道具は、つねに変動し続ける状況の理解のみでなく、その中で発生するドグマ(呪)への検証活動として位置づけられていた。極端に謂えば、西條氏にとって「ふんばろう東日本支援プロジェクト」は彼の構造構築主義の検証材料であると理解できる。この冷やかな精神こそ、つまりすべての生活を掛けた運動から自己の思い(その運動を自己化する意識)を断ち切ろうとする精神こそ、哲学的であると言えないだろうか。
言うまでもなく、彼は人間社会科学の理論等々も通時的に変動し続ける状況(生活世界の現実)とその中で生きる(目的をもった生活主体)との関係において生じる現実世とその了解(構成された構造)を人間学の科学性の検討課題(科学哲学)にしようとしている。その限りにおいて、具体的な生活運動で積極的に生み出すドグマ(呪)の自然発生形態は、積極的に哲学(構造構築主義)の課題として対自化されることになるのではないだろうか。
私は、そこに未来を感じて止まない。その未来とはボランティア運動に参画し、その中から自分を見つけようとする人々の未来であり、問題解決のための実践的知とその基本的課題を考える人間社会学を課題とする人々の未来であり、この社会の未来である。
引用、参考資料
西條剛央 『人を助けるすんごい仕組み』2012年2月16日、ダイヤモンド社
西條剛央 『構造構成主義とは何か』 2005年3月20日、北大路書房
三石博行 「阪神大震災時の住民情報の分析(2) —第一期住民情報の統計分析とその特徴について—」 in 『日本災害情報学会 第2回研究発表大会 予稿論文集』、大宮ソニックス市民ホール、大宮、pp60-79
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_03/cMITShir00h.pdf
三石博行 「阪神大震災で問われた情報文化の原点」 in 『第7回情報文化学会全国大会講演予稿集』、東京大学、東京、pp29-36、ISSN 1341-593X
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_03/cMITShir99g.pdf
三石博行 ホームページで紹介してある生活情報論に関する研究論文
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_03.html
山本みち子、大橋英子発行「WANTED」No1‐No17、1995年1月23日‐1995年7月8日、神戸大学人文系図書館「震災文庫」所蔵
三石博行 ブログ文書集「東日本大震災からの復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
3、現代社会での危機管理
3-3「災害ボランィア活動を生み出す文化的土壌としてのコミュニテイ・市民運動
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_22.html
2012年3月14日 誤字修正と文書挿入(最終節)
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三石博行
構造が構成される瞬間
「あらゆる仕事の場で役に立ってしまう本」と言う西條剛央著「人を助けるすんごい仕組み」(ダイヤモンド社)に関する糸井重里氏の一言の本の紹介文の通りに、この本は組織運営の核心に触れているみごとなビジネス理論を展開しているとも謂える。
多くの人々が西條氏のように奇跡に近いプロジェクトの立ち上げを経験していないとしても、日常の社会生活を通じて、類似した経験を持つと思う。その中で気付いたこと、多くの場合失敗経験として記憶にのこることが、実に見事に展開されている。
東日本大震災、未曾有の災害、国家の有事、第二の敗戦とまで言われた状況に人々は直面した。突然襲いかかった災難に立ち向かわなければならなかった。まず、生命を維持し続けるために行動し、生活や社会インフラの復旧に奮闘してきた。
被災した人々を支援するという課題(目的)のために、「ふんばろう東日本支援プロジェクト」は組織され運営されてきた。その運動の中で発生する問題を解決することが構造構成主義の検証となっていた。つまり西條氏は発生する疑問や問題の基本要素を命題として言語化することを、構造が構成されると考えた。
問題解決の方向を掴むことを「構造が構成される」瞬間と言うのだろう。しかし、その瞬間は、さらに新し問題の登場によって、より基本的な命題の言語化を要求されることになる。つまり、状況とはつねに通時的に変遷していく世界を意味し、主体はそれに対して常に立ち向かわなければならない。
そこで、立ち向かう主体の確信が問題となる。つまり、どのようにして問題を解決し続けることができるのか。その課題は問題解決の仕方として提起されている。
技術としての方法
有効な問題解決の仕方、方法が問われる。そこで、有効な方法は与えられた現実(状況)と主体の意図(目的)に規定されて選択されると考えた。それを「方法の原理」と西條氏は述べている。方法とは問題解決の技術である以上、固定された方法はない。その意味で方法は主体とそれを取り巻く生活世界の二つの状況に規定される。
つまり、方法(問題解決の手法)は現実とその中にいる主体の生き方で決定される。その意味で、構造構成主義の方法論は科学的方法論と異なる。西條氏は方法を多様な解決手段として位置付けた。何故なら、人間社会学、取り分け政策学や臨床学、では方法は問題解決のための技術として位置付けられるからだ。
有事のボランティア活動から日常の生活運動への移行
今回、有事的状況の中で西條氏が構造構築主義概念の具現化や検証活動として「ふんばろう東日本支援プロジェクト」の組織化や運営が、平時的状況の中でどのように活かされるかが私の課題となっている。
阪神大震災の時にいち早く生活情報「WANTED」を発信した大阪府箕面市の主婦たち。彼女らは被災地長田区の避難所におにぎりを運んだボランティア活動を箕面市民に訴え罹災者と周辺地域の市民をつなぐために「WANTED」を発行しつづけた。おにぎりボランティアや洗濯ボランティアが「WANTED」の活動で生まれた。
そして、「WANTED」の活動は被災地の復旧が進むなかで不要となり、おにぎりボランティアや洗濯ボランティア運動は次第になくなり「WANTED」発行の意味が消滅していった。つまり有事の状況が次第に平時の状況へ移行し始めた。客観的にはこの状況の進展を喜ぶべきであったが、ボランティアに専念した主婦たちはむしろ「WANTED」を発行しなくなることを「運動を止める」ことだと思っていた。それは罪悪感に近い感情であった。
取材の後に、「無理して「WANTED」の発行を続けるのでなく、積極的に発行を止めることもいいことなのではないでしょうか」という私の発言に「救い」を感じと活動の中心となった人は述べていた。つまり、有事体制下での運動を維持している積極的で自己犠牲的な行動は、未曾有の災害、阪神大震災の罹災者のことを想えば、当然のことだと思うだけに、ボランティア活動を止めると言う状況が「活動を辞める」というモラル問題になっていたように感じた。
罹災地に出向き全ての生活時間をボランティア活動に掛けている若者たちなら有事時のボランティア活動の必要性を失うことを積極的に受け止めることが出来るだろう。何故なら彼らは日常の生活戻らなければならないからだ。しかし、日常の生活の中でボランティア活動をしていた主婦にとっては、ボランティア活動を止めることは、その日常性を失うことを意味する。
この課題に対して私は積極的に災害ボランティアを止めることの意義を語ったが、当時は、そのことを理解する人は居なかった。大切なことは、このボランティア活動の履歴が地域社会に残ることだと考えた。それは丁度、広大な空間に微小な結晶核が形成されることに似ている。無くなったと思える災害救済活動は、状況が来れば、丁度、凝固点に達した水蒸気がその微小な結晶核の存在によって雪になるように、組織され活動を開始し始めるのだと思えた。それを危機管理文化と呼んでよい。
有事の災害救済運動のもう一つの課題は、大震災と呼ばれる有事状況への国民的な運動や経験が、こうした市民の日常生活の中に結晶核として存続し続ける社会文化システムを課題にすることである。これが文化としての危機管理体制と作ることになる。そして、今回の東日本大震災で阪神大震災時に活躍したボランティア活動の経験が初期段階で活かされた。つまり、文化としての危機管理体制の重要さはすでに証明され、実践されたと思う。
未来への確信
今回、西條氏が展開したボランティア活動やその他のボランティア活動によって、阪神大震災で経験した以上のものが社会に定着していくだろう。著書『人を助けるすんごい仕組み』は、作者の今後を越えて一人歩きし始めるだろう。そして、私は密かに、そこで述べれらた課題から多くの市民運動のアイデアや企業活動のスタイルが生み出されるのではないかと期待しているのである。
西條剛央著『人を助けるすんごい仕組み』に流れる思想を一言で言うなら「愛がある」ということに尽きるだろう。「そして本書を読んで、少しでも心が動いたあなたも、何かに呼ばれているのかもしれない。あなたがその心の声に耳を傾ける機会になれたら、本当にうれしい」という最高の読者へのメッセージでこの本は終わる。
多くの読者は、そこから何かをしたいと立ちあがるだろう。そうした心を動かす著書であり、この著書を彼に書かせた力が構造構成主義だと西條氏は語るだろう。
哲学運動としての「ふんばろう東日本支援プロジェクト」
そして、現在、被災地で求められている課題にこたえ続けている「ふんばろう東日本支援プロジェクト」が、この1年間の活動の成果の上に、さらにこれからの1年間の課題にこたえ続ける力を発揮すると思える。ということは、この運動が西條氏の哲学、構造構築主義の検証活動として、運動主体の中で位置づけられている限り、私には確信できるからだ。
常に変動する状況に対して主体は、その状況をよりよく展開するために努力している。言い換えると、常によりよく生きるということはよりよく自分の現実を受け止めることからはじまる。そこで、生活世界の意識やそれに支配されている科学という行為、その論理性や信念、言い換えるとイドラやドグマ(西條氏の謂う「呪」)が生じることが避けられない。1年間の画期的な運動の成果が導く確信(生活世界の意識)の強さ(強くないといけないのだが)は、これからの運動を担う人々の力(生活運動を担う力)となる。その確固たる信念、それこそば未来を生きる信念を形成した現在の生活様式への評価でもあり、また同時に未来への束縛にもつながる。有効性や正当性に相補的に存在しているドグマを避けて生きることのできる人はいないのだろう。
つまり、社会や市民運動論に必然的に付属する集団表象な個人意識のドグマ化と呼ばれる「慣性の法則」に対して予め西條氏は対処する集団を持っていた。それが状況の中で生じる現実を理解する道具としての構造構築主義であった。この道具は、つねに変動し続ける状況の理解のみでなく、その中で発生するドグマ(呪)への検証活動として位置づけられていた。極端に謂えば、西條氏にとって「ふんばろう東日本支援プロジェクト」は彼の構造構築主義の検証材料であると理解できる。この冷やかな精神こそ、つまりすべての生活を掛けた運動から自己の思い(その運動を自己化する意識)を断ち切ろうとする精神こそ、哲学的であると言えないだろうか。
言うまでもなく、彼は人間社会科学の理論等々も通時的に変動し続ける状況(生活世界の現実)とその中で生きる(目的をもった生活主体)との関係において生じる現実世とその了解(構成された構造)を人間学の科学性の検討課題(科学哲学)にしようとしている。その限りにおいて、具体的な生活運動で積極的に生み出すドグマ(呪)の自然発生形態は、積極的に哲学(構造構築主義)の課題として対自化されることになるのではないだろうか。
私は、そこに未来を感じて止まない。その未来とはボランティア運動に参画し、その中から自分を見つけようとする人々の未来であり、問題解決のための実践的知とその基本的課題を考える人間社会学を課題とする人々の未来であり、この社会の未来である。
引用、参考資料
西條剛央 『人を助けるすんごい仕組み』2012年2月16日、ダイヤモンド社
西條剛央 『構造構成主義とは何か』 2005年3月20日、北大路書房
三石博行 「阪神大震災時の住民情報の分析(2) —第一期住民情報の統計分析とその特徴について—」 in 『日本災害情報学会 第2回研究発表大会 予稿論文集』、大宮ソニックス市民ホール、大宮、pp60-79
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_03/cMITShir00h.pdf
三石博行 「阪神大震災で問われた情報文化の原点」 in 『第7回情報文化学会全国大会講演予稿集』、東京大学、東京、pp29-36、ISSN 1341-593X
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_03/cMITShir99g.pdf
三石博行 ホームページで紹介してある生活情報論に関する研究論文
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_03.html
山本みち子、大橋英子発行「WANTED」No1‐No17、1995年1月23日‐1995年7月8日、神戸大学人文系図書館「震災文庫」所蔵
三石博行 ブログ文書集「東日本大震災からの復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
3、現代社会での危機管理
3-3「災害ボランィア活動を生み出す文化的土壌としてのコミュニテイ・市民運動
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_22.html
2012年3月14日 誤字修正と文書挿入(最終節)
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「状況」という生活世界の現実と「目的」という生活主体の志向性
構造構成主義の理解のための試み(1)
三石博行
状況という現実
構造構成主義を提案した西條剛央氏の最近の著書「人を助けるすんごい仕組み」(ダイヤモンド社)の中に方法論として語られている行動の具体的選択や活動の企画を決定するためにまず検討しなければならない基本要素として「状況」と「目的」という二つの用語が登場する。
西條剛央氏が「ふんばろう東日本支援プロジェクト」で発揮した展開力の基盤となる思想は、「現実を理解して、現実に適した企画と立てるということが最も効率的で有効な行動を導く」と言う近代以来現代までの知の在り方の基本に根差したものである。しかも彼が直面したその現実が余りにも悲惨な現実、東日本大震災という現実であった。この現実は彼(我々)の生活世界を揺るがし、彼(自分)をその現実に対自させざるを得ないものであった。つまり、この現実から一切目を閉じることの出来ない世界を意味していた(いる)。もし、その現実を避けるという行動が可能なら、それは今までの自己の全ての歴史を否定した時にしか可能でないとも言える。自己そのものがそこにある世界だとも言える。
こうした主体にとって不可避的現実を「状況」と呼ぶのだろう。そこに哲学の歴史的課題がある。つまり、哲学の知とは伝統的(本来)知ることによって自己の生き方が決定されることを意味していた。哲学的知は社会や生活世界との緊張によって成立している知の在り方である。それが哲学と科学の知の様式とを分け、哲学と常識との知の意味を区分した。
従って、哲学は科学や常識に付着するドグマを反省的に理解しなければならなかったため、つねに「知っていると思う自分」を疑う作業を課すことになる。何故なら、知っているということは生活世界の中で時代や文化に規定され続ける自己の生き方であり宿命であると理解したからである。その非対自化(意識化しないこと)が社会や個人の暴力や権力となることを良く知っているからである。
主体にとっての世界・状況
哲学が課題とする世界とは、一般的人間の社会文化環境や生態風土環境ではない。哲学が謂う世界とは、個別的で具体的な人間・主体にとっての世界である。何故なら、哲学の知は生きることに直結する知であり、その知は具体的私を前提にして常に成立しているからである。
哲学の知が科学の知に駆逐されようとした時代、哲学はこれまで世界と呼んできた概念を現象と呼び直すことになる。科学技術が知の代表者となり科学主義が社会思想の基盤となる20世紀になって哲学的世界を哲学者は「現象」や「事象」あるいは「こと」と呼ぶようになる。科学的知の対象認識によって語られる世界には主体問題が欠落する。
そのことが、良心的科学者がその良心と裏腹の結果、例えば原爆を作ることになる。また社会や人のために働いていると信じていた技術者が、結果的に特定の利益集団の公害や環境破壊に寄与するという現実を抱えることの基本的な問題点となったからである。そこで、哲学は科学的対象認識と哲学的対象認識を峻別する(厳密に分ける)ために世界を現象と呼んだ。
それらの現象は、科学的言語による解釈、社会文化的評価による解釈そして経済的な意味と呼ばれる解釈等々、主体を取り巻く時代性や社会性を前提とした多様な解釈群によって構成されている。哲学はそのことを存在と呼び、また対象世界と呼んできた。それらの世界は主体を決定づけている現実、「今、ここにある現実」、つまり「状況」を意味する。つまり状況とは主体にとって絶対的な現実であり、主体を具体的(知覚や感覚等の身体的、規範や規則等の社会的)に取り巻く現象世界である。主体を規定し束縛しようとする「いま、ここにある」世界を状況と呼ぶのである。
投企としての「目的」
主体を規定し束縛しようとする「いま、ここにある」世界としての状況を哲学が問題とするのは、それが個別主体にとって生きているという現実にほかならなからだろう。この状況という用語は個別主体にとっての時代性や社会経済文化性に規定された生活世界を意味する。
生活者は常に自分の生活世界に具体的に関係する存在である。そのため状況と呼ばれる生活世界とその中で生きる主体とは不可分の関係にある。ここで言う不可分の関係とは、二つの概念が相互に関連し、一方が他方を規定し、同時に他方が一方を規定する関係のことである。労働という生活主体の行為によって生活環境や生活条件(生活世界)は形成・改良され、育児、教育や文化環境と呼ばれる生活環境(生活世界)によって生活主体(人々)は育ち・生存している。生活世界では、生活主体と生活環境は不可分の概念であり、この二つの概念によって生活様式(生き方)や生活素材(生産物)は形成される。
現実の生活現実世界を状況と呼ぶことによって、その状況を受け止め、また切り開く生活主体の姿を生活主体の欲望や希望、つまり西條剛央氏の「目的」という概念で表現できる。問題を解決するために、まず西條剛央氏は「状況」という概念で生活世界の現実を理解し、「目的」という概念で生活主体の課題を把握した。何が基本的な問題かと問いかけることによって莫大で無限の課題に満ちた震災の状況の中から主体の要求を実現させるための課題を選別する。その選別された課題の解決のために再度、生活主体の状況が問われ、そこに問題解決の現実的な方法が抽出される。目的を果たすための方法は状況によって(生活世界の社会文化的状況と生活主体の身体文化的状況の理解によって)決定されると西條剛央氏は述べている。
言いかえると、生活主体とは状況がなければ目的を見つけ出せず、また目的がなければ状況を切り開くことも出来ない存在である。そして生活主体や状況を決定する生活世界も同様に生活主体の目的によって生み出される状況であると言えるだろう。状況と目的の二つの概念は、生活世界と生活主体の動的相補関係を意味し、哲学が対象とする世界と科学や常識の語る意味との違いを物語るとも言えるだろう。つまり、哲学が語る状況とは、生活主体に与えられている現実であり、生活主体のその解釈と挑戦の対象であり、生活主体の投企(目的を持ち未来(夢・幻想)へ立ち向かうこと)であると言えないだろうか。
引用、参考資料
西條剛央 『人を助けるすんごい仕組み』2012年2月16日、ダイヤモンド社
西條剛央 『構造構成主義とは何か』 2005年3月20日、北大路書房
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参考ブログ文書集
「東日本大震災からの復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
「原発事故が日本社会に問いかけている課題」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3562.html
2012年3月14日 誤字修正
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三石博行
状況という現実
構造構成主義を提案した西條剛央氏の最近の著書「人を助けるすんごい仕組み」(ダイヤモンド社)の中に方法論として語られている行動の具体的選択や活動の企画を決定するためにまず検討しなければならない基本要素として「状況」と「目的」という二つの用語が登場する。
西條剛央氏が「ふんばろう東日本支援プロジェクト」で発揮した展開力の基盤となる思想は、「現実を理解して、現実に適した企画と立てるということが最も効率的で有効な行動を導く」と言う近代以来現代までの知の在り方の基本に根差したものである。しかも彼が直面したその現実が余りにも悲惨な現実、東日本大震災という現実であった。この現実は彼(我々)の生活世界を揺るがし、彼(自分)をその現実に対自させざるを得ないものであった。つまり、この現実から一切目を閉じることの出来ない世界を意味していた(いる)。もし、その現実を避けるという行動が可能なら、それは今までの自己の全ての歴史を否定した時にしか可能でないとも言える。自己そのものがそこにある世界だとも言える。
こうした主体にとって不可避的現実を「状況」と呼ぶのだろう。そこに哲学の歴史的課題がある。つまり、哲学の知とは伝統的(本来)知ることによって自己の生き方が決定されることを意味していた。哲学的知は社会や生活世界との緊張によって成立している知の在り方である。それが哲学と科学の知の様式とを分け、哲学と常識との知の意味を区分した。
従って、哲学は科学や常識に付着するドグマを反省的に理解しなければならなかったため、つねに「知っていると思う自分」を疑う作業を課すことになる。何故なら、知っているということは生活世界の中で時代や文化に規定され続ける自己の生き方であり宿命であると理解したからである。その非対自化(意識化しないこと)が社会や個人の暴力や権力となることを良く知っているからである。
主体にとっての世界・状況
哲学が課題とする世界とは、一般的人間の社会文化環境や生態風土環境ではない。哲学が謂う世界とは、個別的で具体的な人間・主体にとっての世界である。何故なら、哲学の知は生きることに直結する知であり、その知は具体的私を前提にして常に成立しているからである。
哲学の知が科学の知に駆逐されようとした時代、哲学はこれまで世界と呼んできた概念を現象と呼び直すことになる。科学技術が知の代表者となり科学主義が社会思想の基盤となる20世紀になって哲学的世界を哲学者は「現象」や「事象」あるいは「こと」と呼ぶようになる。科学的知の対象認識によって語られる世界には主体問題が欠落する。
そのことが、良心的科学者がその良心と裏腹の結果、例えば原爆を作ることになる。また社会や人のために働いていると信じていた技術者が、結果的に特定の利益集団の公害や環境破壊に寄与するという現実を抱えることの基本的な問題点となったからである。そこで、哲学は科学的対象認識と哲学的対象認識を峻別する(厳密に分ける)ために世界を現象と呼んだ。
それらの現象は、科学的言語による解釈、社会文化的評価による解釈そして経済的な意味と呼ばれる解釈等々、主体を取り巻く時代性や社会性を前提とした多様な解釈群によって構成されている。哲学はそのことを存在と呼び、また対象世界と呼んできた。それらの世界は主体を決定づけている現実、「今、ここにある現実」、つまり「状況」を意味する。つまり状況とは主体にとって絶対的な現実であり、主体を具体的(知覚や感覚等の身体的、規範や規則等の社会的)に取り巻く現象世界である。主体を規定し束縛しようとする「いま、ここにある」世界を状況と呼ぶのである。
投企としての「目的」
主体を規定し束縛しようとする「いま、ここにある」世界としての状況を哲学が問題とするのは、それが個別主体にとって生きているという現実にほかならなからだろう。この状況という用語は個別主体にとっての時代性や社会経済文化性に規定された生活世界を意味する。
生活者は常に自分の生活世界に具体的に関係する存在である。そのため状況と呼ばれる生活世界とその中で生きる主体とは不可分の関係にある。ここで言う不可分の関係とは、二つの概念が相互に関連し、一方が他方を規定し、同時に他方が一方を規定する関係のことである。労働という生活主体の行為によって生活環境や生活条件(生活世界)は形成・改良され、育児、教育や文化環境と呼ばれる生活環境(生活世界)によって生活主体(人々)は育ち・生存している。生活世界では、生活主体と生活環境は不可分の概念であり、この二つの概念によって生活様式(生き方)や生活素材(生産物)は形成される。
現実の生活現実世界を状況と呼ぶことによって、その状況を受け止め、また切り開く生活主体の姿を生活主体の欲望や希望、つまり西條剛央氏の「目的」という概念で表現できる。問題を解決するために、まず西條剛央氏は「状況」という概念で生活世界の現実を理解し、「目的」という概念で生活主体の課題を把握した。何が基本的な問題かと問いかけることによって莫大で無限の課題に満ちた震災の状況の中から主体の要求を実現させるための課題を選別する。その選別された課題の解決のために再度、生活主体の状況が問われ、そこに問題解決の現実的な方法が抽出される。目的を果たすための方法は状況によって(生活世界の社会文化的状況と生活主体の身体文化的状況の理解によって)決定されると西條剛央氏は述べている。
言いかえると、生活主体とは状況がなければ目的を見つけ出せず、また目的がなければ状況を切り開くことも出来ない存在である。そして生活主体や状況を決定する生活世界も同様に生活主体の目的によって生み出される状況であると言えるだろう。状況と目的の二つの概念は、生活世界と生活主体の動的相補関係を意味し、哲学が対象とする世界と科学や常識の語る意味との違いを物語るとも言えるだろう。つまり、哲学が語る状況とは、生活主体に与えられている現実であり、生活主体のその解釈と挑戦の対象であり、生活主体の投企(目的を持ち未来(夢・幻想)へ立ち向かうこと)であると言えないだろうか。
引用、参考資料
西條剛央 『人を助けるすんごい仕組み』2012年2月16日、ダイヤモンド社
西條剛央 『構造構成主義とは何か』 2005年3月20日、北大路書房
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参考ブログ文書集
「東日本大震災からの復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
「原発事故が日本社会に問いかけている課題」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3562.html
2012年3月14日 誤字修正
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2012年3月6日火曜日
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
目次
三石博行
はじめに
未完成(近日公開)
1. 日本社会の国際化
1-1、多言語文化社会の生活風景
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/04/blog-post_28.html
1-2、街に生れるイングリシュカフェ文化の意味
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/08/it-21-1-2-3-70.html
1-3、第三期国際交流運動を展開した歴史
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/08/blog-post_23.html
1-4、第三次開国期を迎えた日本
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post.html
1-5、17回目の吹田市千一地区公民館での国際交流・餅つき大会
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/7.html
2、日中関係
2-1、「日中友好に未来あり」)
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post.html
2-2、中国の人権問題で思うこと
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_03.html
2-3、経済的発展か軍事的衝突か 問われる東アジアの政治的方向性
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_13.html
2-4、中国の近代化・民主化過程を理解しよう
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_1850.html
2-5、中国との経済的協力関係の展開と中国への軍事的脅威への対応の二重路線外交を進めよ
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post.html
2-6、米中関係の進展は東アジアの平和に役立つ
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_5428.html
2-7、中国共産党による中国の民主化過程の可能性
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_3865.html
3、イスラム社会と日本外交
3-1、1980年、パキスタンから激動するイランへ
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/04/1980.html
3-2、イラン・イスラム国家の近代化過程と日本の国際戦略
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/04/1980.html
3-3、中東・北アフリカの政治的安定に向けた我が国の外交路線
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_03.html
3-4、中東、北アフリカでの市民抗議運動を欧米型民主主義運動と誤解してはならない
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_23.html
4. 日米関係
4-1、進行する核拡散を食い止められるだろうか
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_16.html
4-2、民主主義国家としての日米同盟のあり方を考える
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_25.html
5. 日韓関係
5-1、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6656.html
5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る 東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html
5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html
5-4、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html
5-5、東アジア共同体構想の展開を進める日韓関係の強化
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_12.html
6. EU関係及びEU協会運動
6-1、生活運動としての国際交流運動
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_14.html
6-2、日欧学術教育文化交流委員会ニュース配信
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_8507.html
6-3、文化経済学的視点に立った国際交流活動
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_26.html
6-4、新しい国際交流活動のあり方を模索して
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/06/blog-post.html
6-5、我々はEUに何を学ぶのか
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/07/eu.html
6-6、東アジア諸国でのEU協会運動の交流は可能か
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/09/eu.html
6-7、東アジア共同体構想と日本のEU協会運動の役割
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/10/eu.html
6-8、欧州連合国の成功が21世紀の国際化社会の方向を決める
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/21.html
6-9、Eddy Van Drom 氏のインターネット講座 ヨーロッパ評議会の形成史
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/10/eddy-vandrom.html
7. 東アジアの平和と共存のために
7-1、「北朝鮮」という我々の呼び方に含まれているもの
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_18.html
7-2、軍事的衝突か東アジア境界領域文化圏の形成か
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_9930.html
7-3、東アジアの人々の文化的交流活動からはじめよう
A
8. 国際人権問題
8-1、多様化する国際社会での問われる人権問題
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_04.html
8-2、国際化する人権思想・民主化過程
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_11.html
9. 大学の国際化と国際教育
9-1、大衆的な国際化社会のための大学教育の課題
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/08/1980-pblproblem-basic-learning.html
9-2、京都奈良EU協会・日欧学術教育文化交流委員会の今後の課題
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_18.html
9-3、教養教育重視型大学の教育開発研究課題
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_04.html
9-4、日欧学術教育文化交流委員会の活動
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_2223.html
10. 環境・エネルギー問題と国際社会
10-1、講演シリーズ「医者・専門家から見た福島原発事故」を開催
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_25.html
10-2、ドイツ緑の党副代表 ベーベル・へーンさんとの出会い
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/10/blog-post_31.html
--------------------------------------------------------------------------------
関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「大学教育改革論」
三石博行 ブログ文書集「市民運動論」
三石博行 ブログ文書集「人権学試論」
三石博行 ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」
三石博行 ブログ文書集「国民運動としての政治改革」
三石博行 ブログ文書集「持続可能なエネルギー生産社会を目指すために」
三石博行 ブログ文書集「民主主義文化としての報道機能について」
三石博行 ブログ文書集「東日本大震災からの復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」
三石博行 ブログ文書集「わが国の民主主義文化を発展させるための課題について」
2012年4月19日 修正
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三石博行
はじめに
未完成(近日公開)
1. 日本社会の国際化
1-1、多言語文化社会の生活風景
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/04/blog-post_28.html
1-2、街に生れるイングリシュカフェ文化の意味
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/08/it-21-1-2-3-70.html
1-3、第三期国際交流運動を展開した歴史
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/08/blog-post_23.html
1-4、第三次開国期を迎えた日本
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post.html
1-5、17回目の吹田市千一地区公民館での国際交流・餅つき大会
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/7.html
2、日中関係
2-1、「日中友好に未来あり」)
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post.html
2-2、中国の人権問題で思うこと
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_03.html
2-3、経済的発展か軍事的衝突か 問われる東アジアの政治的方向性
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_13.html
2-4、中国の近代化・民主化過程を理解しよう
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_1850.html
2-5、中国との経済的協力関係の展開と中国への軍事的脅威への対応の二重路線外交を進めよ
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post.html
2-6、米中関係の進展は東アジアの平和に役立つ
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_5428.html
2-7、中国共産党による中国の民主化過程の可能性
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_3865.html
3、イスラム社会と日本外交
3-1、1980年、パキスタンから激動するイランへ
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/04/1980.html
3-2、イラン・イスラム国家の近代化過程と日本の国際戦略
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/04/1980.html
3-3、中東・北アフリカの政治的安定に向けた我が国の外交路線
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_03.html
3-4、中東、北アフリカでの市民抗議運動を欧米型民主主義運動と誤解してはならない
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_23.html
4. 日米関係
4-1、進行する核拡散を食い止められるだろうか
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_16.html
4-2、民主主義国家としての日米同盟のあり方を考える
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_25.html
5. 日韓関係
5-1、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6656.html
5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る 東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html
5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html
5-4、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html
5-5、東アジア共同体構想の展開を進める日韓関係の強化
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_12.html
6. EU関係及びEU協会運動
6-1、生活運動としての国際交流運動
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_14.html
6-2、日欧学術教育文化交流委員会ニュース配信
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_8507.html
6-3、文化経済学的視点に立った国際交流活動
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_26.html
6-4、新しい国際交流活動のあり方を模索して
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/06/blog-post.html
6-5、我々はEUに何を学ぶのか
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/07/eu.html
6-6、東アジア諸国でのEU協会運動の交流は可能か
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/09/eu.html
6-7、東アジア共同体構想と日本のEU協会運動の役割
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/10/eu.html
6-8、欧州連合国の成功が21世紀の国際化社会の方向を決める
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/21.html
6-9、Eddy Van Drom 氏のインターネット講座 ヨーロッパ評議会の形成史
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/10/eddy-vandrom.html
7. 東アジアの平和と共存のために
7-1、「北朝鮮」という我々の呼び方に含まれているもの
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_18.html
7-2、軍事的衝突か東アジア境界領域文化圏の形成か
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_9930.html
7-3、東アジアの人々の文化的交流活動からはじめよう
A
8. 国際人権問題
8-1、多様化する国際社会での問われる人権問題
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_04.html
8-2、国際化する人権思想・民主化過程
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_11.html
9. 大学の国際化と国際教育
9-1、大衆的な国際化社会のための大学教育の課題
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/08/1980-pblproblem-basic-learning.html
9-2、京都奈良EU協会・日欧学術教育文化交流委員会の今後の課題
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_18.html
9-3、教養教育重視型大学の教育開発研究課題
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_04.html
9-4、日欧学術教育文化交流委員会の活動
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_2223.html
10. 環境・エネルギー問題と国際社会
10-1、講演シリーズ「医者・専門家から見た福島原発事故」を開催
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_25.html
10-2、ドイツ緑の党副代表 ベーベル・へーンさんとの出会い
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/10/blog-post_31.html
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関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「大学教育改革論」
三石博行 ブログ文書集「市民運動論」
三石博行 ブログ文書集「人権学試論」
三石博行 ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」
三石博行 ブログ文書集「国民運動としての政治改革」
三石博行 ブログ文書集「持続可能なエネルギー生産社会を目指すために」
三石博行 ブログ文書集「民主主義文化としての報道機能について」
三石博行 ブログ文書集「東日本大震災からの復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」
三石博行 ブログ文書集「わが国の民主主義文化を発展させるための課題について」
2012年4月19日 修正
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2012年2月29日水曜日
プログラム科学論研究のあり方
理論的なものは実践的であり、実践的なものは理論的である
三石博行
社会生活生産活動の装置としての理論
人間社会文化現象の理解のための作業を人間社会学と呼んでいる。時代や社会によってを、人々が抱える課題は具体的には異なりながら、しかしその課題の基本には人間社会文化のあり方という共通したテーマが付きまとってくる。
言い換えると、生きているという人々の現実として人間社会文化の課題がある。その課題に対する解答を得るために、用いられる方法や技術を人間社会学と呼んでいる。つまり人間社会学とは、現実の生きて生活するための知的活動の道具や装置であるといえるだろう。
それらの理論の有効性を検証する手段は、それらの理論が示す方法や論理が実際の問題解決のために有効な分類や分析方法を与え、そして実践的な解決の糸口(対策)の提案を導くことができるかどうかという点のみである。つまり、現実の問題解決のために有効な装置(方法と論理)として機能しない限り、理論としての有効性は実証されないのである。
社会生活運営活動の装置としての制度
また、知の有効性はその方法や論理のみでなく、その知を運営する社会システムの問題に繋がる。つまり、知的活動はその知的活動を保障する社会制度によって確立しているといえる。
ある個人が科学的思索を行うということおいて、知的活動は個人の生活行動であるといえる。しかし、その個人的行為が、社会的行為となるためには、行為主体が個人から集団へと移行しなければならないだろう。
実践的に生活、社会経済(政治)活動を実現する装置として機能しない限り、知は社会的に問題解決力を持つことができないだろう。そのために、問題解決のための制度が作り出される。それが知的生産のための制度である。
問題分析のための検証活動
研究活動が具体的な対象を持つ限り、一般的な理論や一般的な研究体制をイメージすることは困難である。具体的な問題提起に対して、どのような研究方法とどのような研究システムが現実的でありより研究効果を発揮できるかが問われる。従って、それらの問題は常に時代や社会的制約の上に成立している。
研究者というある特定の時代性や社会性を前提にしながら、今、ここにという課題からすべての知的活動は束縛される。今、私は、3.11の課題を無視して、今までの研究とこれからの研究を語ることができないと思うのは決して感傷的でもなく、また流行的でもない。まさに、研究活動のあり方そのものを意味するのだと思う。
そのために、理論的検証作業として過去の学説を批判的に検討し、そして新しい切り口(仮説)の理論実証性をその論理性の中で検証しようとしているのである。それは丁度、理論式を検証するための計算機実験と類似している。繰り返し行われる計算機実験のように、人間社会学の理論(切り口)の有効性も、解釈可能な事例を多く取り出しすことによって、理論的な確かさが検証されていく。そういて仮説が生まれる。
そして、仮説の正しさは、唯一、現実的な課題の解決に対し有効であったかどうかという結果で評価されるのである。
自己組織性の設計科学(プログラム科学論)の理論の検証活動
人間社会文化現象を理解するためのこれまで人間社会学の中で用いられた用語、それらは何々学派や何々主義と呼ばれる学説に付随する用語として使われてきた。
例えば、社会実証主義では、統計学的方法が用いられている。また機能主義や構造主義では構造と機能、構造・機能の要素とその関係式、表象の記号とその意味や記号の意味するものと意味されるものという用語、そして現象学(現象学的な社会学)では内的要素と外的要素、役割意識と社会制度という相補的関係性、さらに解釈学では解釈主体や解釈行為の社会性や時代性と解釈対象(テキスト)の関係などが挙げられるだろう。
自己組織性の設計科学(プログラム科学論)の理論(仮説)を検証するためには、まず、上記した今までの人間社会学の理論で説明された解釈をすべて説明できなければならないだろう。その作業が上
記した計算機実験である。この作業は研究室や書斎で、しかも一人で十分可能だろう。殆どの人間社会学、特に哲学系の研究者の作業はこの計算機実験の作業を意味しているようだ。
しかし、それでは「自己組織性の設計科学」の理論は成立もしていないし、その有効性も検証されている訳ではない。その検証は検証しようとしている私の生き方や考え方に直接関係するだろう。つまり、私の問題意識にヒットして、阪神大震災や東日本大震災、福島原発事故等々の課題に関係しながら検証作業が提案される。
勿論、その場合、私はこの検証作業を進めるために書斎や研究室にこもっては出来ないことは確かだ。そして、現場とよばれる現実社会の中に飛び込み、目で見て、人に合って、話を聴き、また語りかけ、生活活動としてそれらの理論を検証、展開していくことになる。
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三石博行
社会生活生産活動の装置としての理論
人間社会文化現象の理解のための作業を人間社会学と呼んでいる。時代や社会によってを、人々が抱える課題は具体的には異なりながら、しかしその課題の基本には人間社会文化のあり方という共通したテーマが付きまとってくる。
言い換えると、生きているという人々の現実として人間社会文化の課題がある。その課題に対する解答を得るために、用いられる方法や技術を人間社会学と呼んでいる。つまり人間社会学とは、現実の生きて生活するための知的活動の道具や装置であるといえるだろう。
それらの理論の有効性を検証する手段は、それらの理論が示す方法や論理が実際の問題解決のために有効な分類や分析方法を与え、そして実践的な解決の糸口(対策)の提案を導くことができるかどうかという点のみである。つまり、現実の問題解決のために有効な装置(方法と論理)として機能しない限り、理論としての有効性は実証されないのである。
社会生活運営活動の装置としての制度
また、知の有効性はその方法や論理のみでなく、その知を運営する社会システムの問題に繋がる。つまり、知的活動はその知的活動を保障する社会制度によって確立しているといえる。
ある個人が科学的思索を行うということおいて、知的活動は個人の生活行動であるといえる。しかし、その個人的行為が、社会的行為となるためには、行為主体が個人から集団へと移行しなければならないだろう。
実践的に生活、社会経済(政治)活動を実現する装置として機能しない限り、知は社会的に問題解決力を持つことができないだろう。そのために、問題解決のための制度が作り出される。それが知的生産のための制度である。
問題分析のための検証活動
研究活動が具体的な対象を持つ限り、一般的な理論や一般的な研究体制をイメージすることは困難である。具体的な問題提起に対して、どのような研究方法とどのような研究システムが現実的でありより研究効果を発揮できるかが問われる。従って、それらの問題は常に時代や社会的制約の上に成立している。
研究者というある特定の時代性や社会性を前提にしながら、今、ここにという課題からすべての知的活動は束縛される。今、私は、3.11の課題を無視して、今までの研究とこれからの研究を語ることができないと思うのは決して感傷的でもなく、また流行的でもない。まさに、研究活動のあり方そのものを意味するのだと思う。
そのために、理論的検証作業として過去の学説を批判的に検討し、そして新しい切り口(仮説)の理論実証性をその論理性の中で検証しようとしているのである。それは丁度、理論式を検証するための計算機実験と類似している。繰り返し行われる計算機実験のように、人間社会学の理論(切り口)の有効性も、解釈可能な事例を多く取り出しすことによって、理論的な確かさが検証されていく。そういて仮説が生まれる。
そして、仮説の正しさは、唯一、現実的な課題の解決に対し有効であったかどうかという結果で評価されるのである。
自己組織性の設計科学(プログラム科学論)の理論の検証活動
人間社会文化現象を理解するためのこれまで人間社会学の中で用いられた用語、それらは何々学派や何々主義と呼ばれる学説に付随する用語として使われてきた。
例えば、社会実証主義では、統計学的方法が用いられている。また機能主義や構造主義では構造と機能、構造・機能の要素とその関係式、表象の記号とその意味や記号の意味するものと意味されるものという用語、そして現象学(現象学的な社会学)では内的要素と外的要素、役割意識と社会制度という相補的関係性、さらに解釈学では解釈主体や解釈行為の社会性や時代性と解釈対象(テキスト)の関係などが挙げられるだろう。
自己組織性の設計科学(プログラム科学論)の理論(仮説)を検証するためには、まず、上記した今までの人間社会学の理論で説明された解釈をすべて説明できなければならないだろう。その作業が上
記した計算機実験である。この作業は研究室や書斎で、しかも一人で十分可能だろう。殆どの人間社会学、特に哲学系の研究者の作業はこの計算機実験の作業を意味しているようだ。
しかし、それでは「自己組織性の設計科学」の理論は成立もしていないし、その有効性も検証されている訳ではない。その検証は検証しようとしている私の生き方や考え方に直接関係するだろう。つまり、私の問題意識にヒットして、阪神大震災や東日本大震災、福島原発事故等々の課題に関係しながら検証作業が提案される。
勿論、その場合、私はこの検証作業を進めるために書斎や研究室にこもっては出来ないことは確かだ。そして、現場とよばれる現実社会の中に飛び込み、目で見て、人に合って、話を聴き、また語りかけ、生活活動としてそれらの理論を検証、展開していくことになる。
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2012年2月22日水曜日
感謝の気持ちを持つとは何か
商品化した他者の再生は可能か
三石博行
抽象的に感謝の気持ちが湧くだろうか
よく感謝の気持ちをもって生きるという道徳心が語られる。この「感謝の気持ちを持つ」ということばは、道徳的なことばとして語られる場合、そのことを実践的に理解する上での困難さや疑問に出会う。しかし、「感謝の気持ちを持って生きる」ということに疑問を投げかける人はいない。何故なら、それは人として大切な心遣いであるということが余りにも自明であるとされているからである。
感謝する、人に感謝するという感情は抽象的な対象、人に対して沸きあがるだろうか。感謝である以上、何か具体的な内容、感謝すべき内容と、具体的な対象、感謝したい人(具体的な個人)がいるはずである。その意味で、感謝という感情を人という一般的な対象に対して、一般的な気持ちとして持つことは、何か無理があるように思う。
同じようなことばとして「生かされている自分」への自覚という概念がある。人は一人で生きているのではなく、人々は協力しあい支えあい生きているという当たり前の考えに立って、自分だけで生きているという考え方に対する批判的な視点を、この概念は与えている。生かされている自分の自覚と人への感謝の気持ちとは、前者が生きている自分の現実を意味し、後者は生きている中での具体的な他者からの行為に対する感情を意味している。
従って「生かされている自分」の自覚(意識化)は、人間が社会的存在であることの自覚として理解される。この意識は具体的な誰かに対してや何かに対してという感情ではなく、自分が生きて来た(生きている)現実に対する自己意識的な生きてきたという解釈(主体性論)から、多くの人々の労働や行為によって生かされているという解釈(社会文化環境論)へ変換、つまり理解や解釈の変更を意味する。
しかし、「生かされている自分」という気持ちが「感謝」と結び付くとき、「生かされている自分の現実」に対する解釈が、より具体的な事実(出来事)や具体的な個人に対する感情として、それらの人々によって今まで生かされてきた自分への自覚となる。その場合、「努力し状況を切り開いてきた自分(主体的に生きている自分)」という解釈から、「誰々(具体的個人)の何々という協力(具体的な行為や物質的根拠を背景にした助け)に対して自分ひとりではどうにもできなかったある具体的課題を解決、もしくは解決の糸口を見つけた」ことに対する感謝の念を抱いている心理的状況を意味している。その場合、「生かされている自分」という自覚は、何か具体的な課題が前提にした誰か具体的な人への「感謝」であるといえる。
もし、人は漠然とありがとうという気持ちを持ち、抽象的に感謝の感情を抱くことはないのなら、「人に感謝の気持ちをもって生活する」という道徳的な教えは、もっと説明が必要になるだろう。そして、感謝を一般的に「有難いと思う」と語ることは、実は感謝の本質を理解していないと批判されても仕方がないのではないだろうか。この感謝を道徳的なテーマとして提案することに対して、ここでは批判的に検討してみる必要がある。
見えない人々の絆や手助けに対する繊細な感情
「感謝の気持ちをもって生活したか」という項目を一日の反省の課題に取り入れるなら、その点検作業をどのように進めるだろうか。前記したように、今日一日の生活の中で、具体的な課題である誰かに対して感謝の念を抱く経験をしたかとうい事になる。しかし、もし、感謝の念という感情を、他者のある積極的な行為に対する感情として受け取るなら、多分、毎日、感謝の気持ちが湧くような機会には恵まれないのではないだろうか。
言い換えると、多くの人々から援助され、また手助けされる状況は、よほど大変な被害にあった状況、たとえば今回のような大震災の後に避難所生活をしているような境遇でない限り、生まれないだろう。普通は、殆ど、他人の積極的な手助けを必要としない程度に十分自分でやりくりしている。だとすると、毎日、感謝の気持ちをもって生活したかと問いかけるのはやり過ぎだと思われるかもしれない。
しかし、日常生活では、色々な他者の手助けにあっている。例えば、こうして仕事を大学の研究室で行っているのは、この大学が存続しているからであり、また、学生がこの大学に入学してくれているからである。さらに、この文章を書くためのPCがあり、それを動かす電気があり、ブログをアップする機能(インターネット)があり、また、情報処理を行う知識(それを学んだ経験)があり、そして、研究室の机、暖房器具、照明器具、知的労働を手助けするノート、筆記道具、その他の文房具、等々。数えると限りない多くのもの(過去と現在の人々の労働の産物)に囲まれていることには確かである。それらの一つひとつに対して感謝の念を持つということは、多分「それらのものを大切に使う」ということに尽きるだろう。そして、何よりそれらのものを使って、より社会に貢献する働きを行うということになるだろう。
感謝の気持ちとは、自分が支えられている具体的な現実を理解することである。人々はそれぞれの現実生活の中で生きている。その意味で個々人の感謝の内容はその人々の具体的な現実生活の中身によって異なるものである。しかし、感謝するこころのあり方には、共通したものがある。それは、自分に与えられた現実の生活を営むことができるという状況である。その状況を生み出している環境(ものやひとによって生み出された)に対する理解となる。
会社のトップの例で言うと、その会社で働く人々から会社の製品を使ってくれる消費者、そして、その会社の製品製造のための原料を提供する人々や企業等、それらのすべてに対して感謝の念を持つということになる。すると、感謝の念とは、抽象的なものではないと気付く。それは極めて具体的であり、そしてことばだけでなく、社会貢献等の社会行為や他者を利することによって自己を利すると信じる生活行為として表現されるものだと思える。
つまり、感謝という気持ちは、見えない人々の絆や手助けに対する繊細なこころ(感情)のように思える。感謝の念を持つということは、自分を取り巻く世界によって生かされている自分の現在を見つめる気持ちから生まれるのではないだろうか。
商品化した他者
もし、確りと自分の周り(生活環境)を見つめ、今まで自覚していなかった人々の労働(労力)や援助(手助け)、そしてそれを可能にしている社会、その社会のモラルに対する繊細なこころを持つことが出来れば、人々は、日常的に感謝の気持ちを持つことが出来るかもしれない。もし、これがなかったら大変な苦労をしたかもしれない。もし、この人が居ないなら、仕事は終わっていないかもしれない。もし、この社会の制度がなければ自分はこうした生活を送ることは出来なかったかもしれない、等々。限りなく、多くの条件(生活環境の)が自分を守り、自分を生かしていることに気付くかもしれない。
そして、他人の手助けで動いている社会(高度に分業化した社会・商品生産を行う社会)では、他者の労働が商品として売り出され、それを買った人は、その労働を自分のものだと理解してしまう。金を払った以上、その商品を自分が捨てようが壊そうがそれは自分が決める権利を持つと信じている。つまり、この資本主義社会は、他者の労働力(商品)を豊富に手に入れることができる。
その意味で豊かな社会、言換えるとより多くのそして多様な人々によって相互に支えあっている社会であると言える。その反面、この社会では商品化された労働、つまり具体的人々の労働の姿が見えなくなる社会でもある。それは使用価値を失った交換価値だけの商品(通貨)によってしか、商品の交換ができないからである。それ自体、資本主義社会(経済の発達した社会)の宿命であると言えるだろう。
そこで、商品に囲まれた社会で生まれ育った人々、つまり金があれば何でも買えるという考え方(我々の社会常識)をもった人々にとって、カネで自分が買った商品(品物や労働力)に感謝の気持ちを持てと言う方が無理難題、言いがかりを付けているとしか思えないだろう。これが、この社会の常識なのである。資本主義社会は、他者の労力を商品化することによって、その労力を普及させ、多様化させ、その労力の交換をスムーズにさせた。そして同時に、他者は商品化し、商品化した他者に囲まれて生活することになる。つまり、他者の人格も感情も自己に介入し自己を動揺させることも、感銘させるることもないのである。
商品に作った人の顔をイメージする力
地産地消をモットーにした八百屋の店頭に名前入り野菜が出回る。何とも安心感を持つのは、その野菜が安全だと言うだけではない。その野菜をつくった人々の顔が見えるからだろう。また、オーダーメードの商品が受けるのは、多分、自分に合った品物ということと同様に、作った職人の顔が見えるからだろう。
人々は、本来の商品交換の姿を求めている。それは、労働力(お金)と労働力(品物)の交換である。そして、その交換に必要なものは、失いかけている人の顔や関係(絆)の確認である。感謝という言葉でなく、お互いの作ったものを評価すること、そして大切に使うこと、そのことに感謝の内実が含まれているようだ。
他者の働きを評価すること、例えば、上司が自分の仕事を手伝う部下の人々への気遣い、夫が家庭を守る妻の苦労を理解してやる気持ち、同僚の作業内容を理解し彼らの力を得て自分が仕事をすることが可能になっているという気持ち等々、日常生活の中では不断に他人の働きを感謝している。そうした気持ちがあることで、家庭、職場や地域社会の和が成立している。言い換えると、日常の家庭や職場の中に、共に生活し仕事をする人々を気遣う繊細なこころを感謝の気持ちと呼んでいるのだろう。そう考えるなら、それらの考え方や感情、生き方が、自分自身にそのまま問われていることに気付くのである。私は果たして、自分の周りの人々や社会への感謝の念を持って生活しているのだろうか。
商品社会・資本主義社会では、商品に作った人の顔をイメージする力が欠落することで、より巨大な消費社会を可能にした。商品が顔を持たないことで、つまり大量生産システムが可能になることで、人々は口数の少ない商品、つまり安価な商品を手に入れることが可能になった。その意味で、資本主義社会は、広範な地域での労働力の交換に成功し、より多くの生産物をより早く、より多く流通させることが出来た。その速度に反比例するように、労働力から人の顔が消滅していったようだ。つまり、資本主義社会で、消費に感謝の気持ちがないというのは時代錯誤も甚だしい意見であるともいえる。いちいち、商品に顔を付けていたら、時間が掛かるし、大量に生産することは不可能なのだ。
しかし、この社会もようやく一回りしたようだ。人々は安さよりも安全を、均一な商品よりも個性のある商品を、既製品よりもオーダーメード商品を求めるようになった。野菜にも生産者の名前が入り、ハンカチにも作者名が入る。そしてそれらの品物を大切に出来る限り長く使う。壊れたら直し、使えなくなったらその材料で別のものを作ったりする。この行為を感謝と呼んでもいいのだと思う。何故なら、感謝とは共に生活し仕事をする人々を気遣う繊細なこころなのだから。
誤字修正 2012年2月24日
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三石博行
抽象的に感謝の気持ちが湧くだろうか
よく感謝の気持ちをもって生きるという道徳心が語られる。この「感謝の気持ちを持つ」ということばは、道徳的なことばとして語られる場合、そのことを実践的に理解する上での困難さや疑問に出会う。しかし、「感謝の気持ちを持って生きる」ということに疑問を投げかける人はいない。何故なら、それは人として大切な心遣いであるということが余りにも自明であるとされているからである。
感謝する、人に感謝するという感情は抽象的な対象、人に対して沸きあがるだろうか。感謝である以上、何か具体的な内容、感謝すべき内容と、具体的な対象、感謝したい人(具体的な個人)がいるはずである。その意味で、感謝という感情を人という一般的な対象に対して、一般的な気持ちとして持つことは、何か無理があるように思う。
同じようなことばとして「生かされている自分」への自覚という概念がある。人は一人で生きているのではなく、人々は協力しあい支えあい生きているという当たり前の考えに立って、自分だけで生きているという考え方に対する批判的な視点を、この概念は与えている。生かされている自分の自覚と人への感謝の気持ちとは、前者が生きている自分の現実を意味し、後者は生きている中での具体的な他者からの行為に対する感情を意味している。
従って「生かされている自分」の自覚(意識化)は、人間が社会的存在であることの自覚として理解される。この意識は具体的な誰かに対してや何かに対してという感情ではなく、自分が生きて来た(生きている)現実に対する自己意識的な生きてきたという解釈(主体性論)から、多くの人々の労働や行為によって生かされているという解釈(社会文化環境論)へ変換、つまり理解や解釈の変更を意味する。
しかし、「生かされている自分」という気持ちが「感謝」と結び付くとき、「生かされている自分の現実」に対する解釈が、より具体的な事実(出来事)や具体的な個人に対する感情として、それらの人々によって今まで生かされてきた自分への自覚となる。その場合、「努力し状況を切り開いてきた自分(主体的に生きている自分)」という解釈から、「誰々(具体的個人)の何々という協力(具体的な行為や物質的根拠を背景にした助け)に対して自分ひとりではどうにもできなかったある具体的課題を解決、もしくは解決の糸口を見つけた」ことに対する感謝の念を抱いている心理的状況を意味している。その場合、「生かされている自分」という自覚は、何か具体的な課題が前提にした誰か具体的な人への「感謝」であるといえる。
もし、人は漠然とありがとうという気持ちを持ち、抽象的に感謝の感情を抱くことはないのなら、「人に感謝の気持ちをもって生活する」という道徳的な教えは、もっと説明が必要になるだろう。そして、感謝を一般的に「有難いと思う」と語ることは、実は感謝の本質を理解していないと批判されても仕方がないのではないだろうか。この感謝を道徳的なテーマとして提案することに対して、ここでは批判的に検討してみる必要がある。
見えない人々の絆や手助けに対する繊細な感情
「感謝の気持ちをもって生活したか」という項目を一日の反省の課題に取り入れるなら、その点検作業をどのように進めるだろうか。前記したように、今日一日の生活の中で、具体的な課題である誰かに対して感謝の念を抱く経験をしたかとうい事になる。しかし、もし、感謝の念という感情を、他者のある積極的な行為に対する感情として受け取るなら、多分、毎日、感謝の気持ちが湧くような機会には恵まれないのではないだろうか。
言い換えると、多くの人々から援助され、また手助けされる状況は、よほど大変な被害にあった状況、たとえば今回のような大震災の後に避難所生活をしているような境遇でない限り、生まれないだろう。普通は、殆ど、他人の積極的な手助けを必要としない程度に十分自分でやりくりしている。だとすると、毎日、感謝の気持ちをもって生活したかと問いかけるのはやり過ぎだと思われるかもしれない。
しかし、日常生活では、色々な他者の手助けにあっている。例えば、こうして仕事を大学の研究室で行っているのは、この大学が存続しているからであり、また、学生がこの大学に入学してくれているからである。さらに、この文章を書くためのPCがあり、それを動かす電気があり、ブログをアップする機能(インターネット)があり、また、情報処理を行う知識(それを学んだ経験)があり、そして、研究室の机、暖房器具、照明器具、知的労働を手助けするノート、筆記道具、その他の文房具、等々。数えると限りない多くのもの(過去と現在の人々の労働の産物)に囲まれていることには確かである。それらの一つひとつに対して感謝の念を持つということは、多分「それらのものを大切に使う」ということに尽きるだろう。そして、何よりそれらのものを使って、より社会に貢献する働きを行うということになるだろう。
感謝の気持ちとは、自分が支えられている具体的な現実を理解することである。人々はそれぞれの現実生活の中で生きている。その意味で個々人の感謝の内容はその人々の具体的な現実生活の中身によって異なるものである。しかし、感謝するこころのあり方には、共通したものがある。それは、自分に与えられた現実の生活を営むことができるという状況である。その状況を生み出している環境(ものやひとによって生み出された)に対する理解となる。
会社のトップの例で言うと、その会社で働く人々から会社の製品を使ってくれる消費者、そして、その会社の製品製造のための原料を提供する人々や企業等、それらのすべてに対して感謝の念を持つということになる。すると、感謝の念とは、抽象的なものではないと気付く。それは極めて具体的であり、そしてことばだけでなく、社会貢献等の社会行為や他者を利することによって自己を利すると信じる生活行為として表現されるものだと思える。
つまり、感謝という気持ちは、見えない人々の絆や手助けに対する繊細なこころ(感情)のように思える。感謝の念を持つということは、自分を取り巻く世界によって生かされている自分の現在を見つめる気持ちから生まれるのではないだろうか。
商品化した他者
もし、確りと自分の周り(生活環境)を見つめ、今まで自覚していなかった人々の労働(労力)や援助(手助け)、そしてそれを可能にしている社会、その社会のモラルに対する繊細なこころを持つことが出来れば、人々は、日常的に感謝の気持ちを持つことが出来るかもしれない。もし、これがなかったら大変な苦労をしたかもしれない。もし、この人が居ないなら、仕事は終わっていないかもしれない。もし、この社会の制度がなければ自分はこうした生活を送ることは出来なかったかもしれない、等々。限りなく、多くの条件(生活環境の)が自分を守り、自分を生かしていることに気付くかもしれない。
そして、他人の手助けで動いている社会(高度に分業化した社会・商品生産を行う社会)では、他者の労働が商品として売り出され、それを買った人は、その労働を自分のものだと理解してしまう。金を払った以上、その商品を自分が捨てようが壊そうがそれは自分が決める権利を持つと信じている。つまり、この資本主義社会は、他者の労働力(商品)を豊富に手に入れることができる。
その意味で豊かな社会、言換えるとより多くのそして多様な人々によって相互に支えあっている社会であると言える。その反面、この社会では商品化された労働、つまり具体的人々の労働の姿が見えなくなる社会でもある。それは使用価値を失った交換価値だけの商品(通貨)によってしか、商品の交換ができないからである。それ自体、資本主義社会(経済の発達した社会)の宿命であると言えるだろう。
そこで、商品に囲まれた社会で生まれ育った人々、つまり金があれば何でも買えるという考え方(我々の社会常識)をもった人々にとって、カネで自分が買った商品(品物や労働力)に感謝の気持ちを持てと言う方が無理難題、言いがかりを付けているとしか思えないだろう。これが、この社会の常識なのである。資本主義社会は、他者の労力を商品化することによって、その労力を普及させ、多様化させ、その労力の交換をスムーズにさせた。そして同時に、他者は商品化し、商品化した他者に囲まれて生活することになる。つまり、他者の人格も感情も自己に介入し自己を動揺させることも、感銘させるることもないのである。
商品に作った人の顔をイメージする力
地産地消をモットーにした八百屋の店頭に名前入り野菜が出回る。何とも安心感を持つのは、その野菜が安全だと言うだけではない。その野菜をつくった人々の顔が見えるからだろう。また、オーダーメードの商品が受けるのは、多分、自分に合った品物ということと同様に、作った職人の顔が見えるからだろう。
人々は、本来の商品交換の姿を求めている。それは、労働力(お金)と労働力(品物)の交換である。そして、その交換に必要なものは、失いかけている人の顔や関係(絆)の確認である。感謝という言葉でなく、お互いの作ったものを評価すること、そして大切に使うこと、そのことに感謝の内実が含まれているようだ。
他者の働きを評価すること、例えば、上司が自分の仕事を手伝う部下の人々への気遣い、夫が家庭を守る妻の苦労を理解してやる気持ち、同僚の作業内容を理解し彼らの力を得て自分が仕事をすることが可能になっているという気持ち等々、日常生活の中では不断に他人の働きを感謝している。そうした気持ちがあることで、家庭、職場や地域社会の和が成立している。言い換えると、日常の家庭や職場の中に、共に生活し仕事をする人々を気遣う繊細なこころを感謝の気持ちと呼んでいるのだろう。そう考えるなら、それらの考え方や感情、生き方が、自分自身にそのまま問われていることに気付くのである。私は果たして、自分の周りの人々や社会への感謝の念を持って生活しているのだろうか。
商品社会・資本主義社会では、商品に作った人の顔をイメージする力が欠落することで、より巨大な消費社会を可能にした。商品が顔を持たないことで、つまり大量生産システムが可能になることで、人々は口数の少ない商品、つまり安価な商品を手に入れることが可能になった。その意味で、資本主義社会は、広範な地域での労働力の交換に成功し、より多くの生産物をより早く、より多く流通させることが出来た。その速度に反比例するように、労働力から人の顔が消滅していったようだ。つまり、資本主義社会で、消費に感謝の気持ちがないというのは時代錯誤も甚だしい意見であるともいえる。いちいち、商品に顔を付けていたら、時間が掛かるし、大量に生産することは不可能なのだ。
しかし、この社会もようやく一回りしたようだ。人々は安さよりも安全を、均一な商品よりも個性のある商品を、既製品よりもオーダーメード商品を求めるようになった。野菜にも生産者の名前が入り、ハンカチにも作者名が入る。そしてそれらの品物を大切に出来る限り長く使う。壊れたら直し、使えなくなったらその材料で別のものを作ったりする。この行為を感謝と呼んでもいいのだと思う。何故なら、感謝とは共に生活し仕事をする人々を気遣う繊細なこころなのだから。
誤字修正 2012年2月24日
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2012年2月20日月曜日
社会経済システムからみた太陽光発電システムの課題
太陽光発電の将来性と問題点
三石博行
3-1、技術開発を推進する政府・公共研究機構NEDOの役割とその課題
新しい産業の形成を個別企業独自の力で可能にすることは不可能に近い。黎明期と呼ばれる暗中模索の時代を進むには大きな経営的リスクを抱えることになる。場合によっては、未来型産業に早く投資したために倒産する企業もあるだろう。そのため、政府は新しい産業を育成するために国家は長期的な方針を立てなければならない。政府が新しい産業を擁護し助成することは、将来の国の経済や政治にとって重要であるからだ。
日本政府は太陽電池産業の育成を1974年から取り組み始めた。国家的プロジェクトを進める中で、太陽光発電技術開発や制度研究を行う公共研究機関、産官学共同研究体制、民間企業の研究開発への補助、大学での基礎応用研究への助成等々を行った。こうして今日の日本の太陽電池産業は育成、発展してきたのである。
どの産業技術もそれを支える基礎研究の成果がある。太陽光電池の基礎理論が発見され、それが産業化するまでの過程について簡単に述べる。太陽電池の原理は今から170年前にすでに発見されていた。1831年、フランスのアンリ・ベクレル(Henri Becquerel)によって電解質溶液中での光起電力効果が発見されてから、1873年の光電導性、1876年の固体状態の光起電力、1883年のセレン起電力セルと物理学での発見が過去にあり、19世紀末には電磁気学が発展し、20世紀はじめに量子力学が生まれる。シリコン半導体が見つかり、それらの固体物性の研究成果は産業に活用された。1954年にピアソンらによってp-n接合シリコン太陽電池が誕生した。そして、その翌年の1955年1月に林一雄や長船廣衛らによって日本でもp-n接合シリコン太陽電池が出来上がった。
民間企業、大学、公立研究所(電子技術総合研究所・現在の産業技術総合研究所や電電公社・現在のNTT)などの研究者によって太陽光発電の素材、半導体の基礎研究から応用研究が取り組まれ日本での太陽電池の基礎研究がはじまった。基礎研究とリンクしながら応用研究やその成果の産業化が民間企業(シャープ、京セラや松下電産)で取り組まれる。そして、シャープが1962年に変換効率10%の太陽電池の量産化に始めて成功した。ベクレルが光起電力効果を発見してから131年後にその物理現象を活用した太陽電池が市場に登場したのである。1955年1月に林一雄氏らがp-n接合シリコン太陽電池に成功してから1962年にシャープが太陽電池の量産化に成功するまでの期間を桑野幸徳氏は日本の太陽電池開発と事業化の黎明期と呼んでいる。
1974年から国家プロジェクト、サンシャイン計画が始まり、日本の太陽電池産業は黎明期から発展期を迎えることになる。NEDOの太陽光発電技術開発の経緯を示した図表12の説明によると、第一期サンシャイン計画の時代(1974年から1992年の18年間)の1980年にNEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)が発足し1990年にPVTEC(太陽光発電技術研究組合)が発足した。この二つの機構、一つは公共研究機構でもう一つは太陽電池生産企業で構成される研究機構によって、日本での太陽光発電の産業化は進んで行った。この第一期では、多結晶シリコン太陽光電池の開発、住宅用系統連係系システム技術確立などが主な事業となる。
図表12、 NEDOの太陽光発電技術の経緯 ※図をクリックすると大きくなります
出典『NEDO再生可能エネルギー技術白書』平成22年7月27日
サンシャイン計画の第二期はニューサンシャイン計画(1993年から2000年の8年間)と呼ばれ、この第二期からはNEDOが中心となり、アモルファスシリコン太陽電池の基礎技術研究、多結晶シリコン太陽電池やアモルファスシリコン太陽電池の低コスト製造プロセスの研究開発が取り組まれた。サンシャイン計画の第三期はNEDOからの5カ年計画の時代(2001年から2005年までの5カ年間)と呼ばれ、この第三期では低コスト薄膜太陽電池製造技術の開発が取り組まれた。現在はサンシャイン計画の第四期(2006年から2030年まで)太陽光発電ロードマップ(PV2030+)の時代と呼ばれている。
図表13、 PV2030+による太陽光発電技術開発シナリオ ※図をクリックすると大きくなります
引用 『NEDO再生可能エネルギー技術白書』平成22年7月27日
NEDOは太陽光発電ロードマップ(PV2030+)で2030年までの太陽光発電技術開発のシナリオ(図表13)を示した。このシナリオによると、2010年での発電コスト30円/KWhを2020年までには14円/KWh、2030年には7円/KWhにする目標を立てた。また、単結晶系シリコンのモジュール変換効率も2009年に最高16%である数値を、2017年には20%、2025年には25%にする目標を立てている。現在10年と評価されている結晶系セルの耐久性を2025年には30年にし、セルの寿命を40年とする目標を立てている。( )今後、太陽電池は薄膜法によってシリコン使用量を低く抑えると同時に、変換効率の高い接合型やハイブリッド型を導入することで、発電コストの逓減化が可能になるだろう。
サンシャイン計画の第四期では、激化する全世界の企業の価格競争、発電コストやシステム価格の急速な逓減化を可能にする新素材や新製造法の開発が繰り返される。この激化する国際競争の中で、太陽電池や太陽光発電システムの産業をめぐる環境は急激に変化し続けるだろう。その結果として、太陽光発電が世界に普及し、再生可能エネルギー社会の基礎が構築されるだろう。この厳しい国際競争と急激な社会経済改革の時代が第四期の特徴である。
それは、これまで日本の太陽電池や太陽光発電システムの産業化に貢献し続けてきたNEDO(政府の国家戦略)に対して、その役割と戦略方針、さらには機構の機能性をも問われることになるだろう。これまでの公共研究機関としてのNEDO指導力によって、今後の状況を切り開いていくためには、この問いかけを敏感に検証点検する機能性が社会経済システムの中に必要となるだろう。
3-2、俯瞰的視点に立った太陽光発電システムの技術・制度開発の課題
太陽光発電システムの多様なサポート企業、NPOの形成
今回の再生可能エネルギー世界フェア2011年のPVJapan2011展示会では、太陽電池・太陽光発電システムの生産企業、政府専門機関(経済産業省、環境省等々)、公共研究開発機関(NEDO)、民間研究開発機関のみでなく、大学、自治体を中心とする地域産業育成機関、太陽光発電システムをサポートする企業やNPO法人太陽光発電所ネットワークに代表される民間団体や気象庁など政府機関が参加していた。
その中で、太陽光発電が普及することによって生まれる消費者のニーズに答えて事業を展開しているベンチャー企業があった。例えば、英弘精密の開発した全天日射計(図表14)(写真1)によって太陽光を正確に測定することができる。その測定から得られたデータ(傾斜面日射量)から、太陽電池の発電効率を計算するための重要なパラメータが得られる。そこで、太陽光発電システムを設置する場合に、設定場所や設置環境で最大の発電効率を得るためにこの全天日射計が活躍する。
また、太陽光サポートセンター株式会社では太陽光発電システムのメンテナンスをサポートしている。今後、住宅用の太陽パネルの設置は増えつづける。個人や団体が太陽光パネルを設置した場合に、そのメンテナンスが必ず問題となる。太陽光サポートセンター株式会社はそのニーズに答えようとしている。また、電力会社が太陽光発電量や風力発電量を予測するために、日本気象協会は日照時間や風力の情報を提供するサービスを開始している。
また、今後、益々、重要なエネルギー源となる太陽光発電(最も多い再生可能エネルギー)で機能する社会を考えるなら、上記した国民のニーズに答える事業として太陽光発電システムの多様なサポート企業の形成が進む。そのニーズを理解しながら、今後のNPO法人太陽光発電所ネットワークの役割や活動が期待されるだろう。その意味で、市民運動体NPOPV-Netが果たす社会的機能を再検討する時代が来ているのである。
写真1、英弘精機製の太陽電池評価装置の展示場
2011年11月6日 PVJapan 2011 展示会会場(千葉、幕張国際展示場)
図表14 全天日射計MS-802、(英弘精機製)
引用 桑野幸徳・近藤道雄 監修 『図解 最新 太陽光発電のすべて』p221、
太陽光発電システム(再生可能電力供給システム)を支える分散型電力供給網の構築
スマートグリッドとは、再生可能エネルギーをエネルギーネットワーク(電力と交通)と情報ネットワーク(通信と情報処理)を活用しながら、効率の高いエネルギーマネージメントを意味する。スマートグリッドは、言い方を変えるなら、再生可能エネルギーの持つ弱点を補強するために構想された電力供給システムである。
例えば、太陽光発電や風力発電は、天候によって発電量が変動する。つまり、一定電圧での安定した電力量を供給することが出来ない。つまり、再生可能エネルギーが系統に逆流することで周波数や電圧の変動(不安定さ)が生じる。そのため系統安定化の設備、蓄電池(コンデンサー機能)や安定電力供給源である火力発電所(供給側)と系統運用者(需要側)との双方で電力調整(デマンドレスポンスサービス)が必要となる。
また、単位面積当たりの発電能力が原発や火力発電所に比べて非常に小さいため、1か所の発電施設から大量の電力を供給することはできない。そのために発電施設が分散することになる。こうした弱点を補足し、または、その弱点を活かし、新しいエネルギー供給システムを構築しなければならない。つまり、分散型電力供給源による社会経済システムの構築が必要となり、電力の産地直送制度が地域的電力ネットワークと情報ネットワークの連繋によって作られる。それをスマートコミュニティやスマートシティと呼んでいる。
さらに、再生可能エネルギーを活用する社会(再生可能エネルギー社会)では、省エネ対策が重要となる。住宅内のマイクログリッドや省エネ対策をサポートするエネルギー総合管理サービスが生まれ、家庭のエネルギー費用の削減、太陽光発電設備や蓄電蓄熱等の蓄エネ機器のメンテナンスや初期投資へのサポートや、そのリース制度が作られる。
また、再生可能エネルギー社会では、省エネと生活経済意識を向上させるために、省エネへの努力を評価する制度(減税やエコポイントのような経済的インセンティブ)が作られる。その経済的インセンティブを活用して、エコや省エネに関する教育や社会活動が行われ、また、地域ぐるみの省エネへの取組(共同省エネ活動)が生まれる。それらの地域的活動によって、再生可能エネルギー社会の文化(人々の生活習慣やモラル)が形成される。
再生可能エネルギー源の弱点を補強する技術開発と制度改革によって構築されるスマートグリッドの課題を纏めると
1、 分散型電力供給源に対応する社会経済システムの構築、スマートコミュニティやスマートシティ
2、 変動型電気供給源に対応する技術開発、蓄電施設(電気自動車の蓄電池活用)、エコキュート、EV充電器、
3、 地域的電力消費社会を運営する文化の構築、個人や共同体での省エネ対策と経済的インセンティブ構築、省エネ教育
安定した再生可能エネルギー電力の供給社会を支える直流電力融通幹線網の構築
2011年12月5日の再生可能エネルギー世界フェア2011「基調講演会」で北澤宏一氏(独立行政法人科学技術振興機構の顧問)が「3.11以降の日本のエネルギーオプション」と題する講演を行った。北澤氏は、「エネルギー政策は国家100年の計である」という基調に立ち、3.11の東電福島原発事故からエネルギー政策の変換を模索するわが国の方向について語った。その一つの課題として、北澤氏は直流電力融通幹線の構築を提案した。
明治時代、東日本では、東京電燈(東京電力)の前身会社がドイツから50Hzの発電装置を購入して運用していたのに対し、西日本では大阪電燈(関西電力)がアメリカから60Hzの発電装置を購入していたことに由来し、新潟・群馬・埼玉・山梨を境界にし、静岡を分断する形で東日本で50Hz、西日本で60Hzの二つの異なる周波数の交流電気を使っている。
この二つ交流電気によって多量の電力ロスが生じている。そのため、この問題を解決するために努力を払ってきたが、今日に至るまで解決されていない。この解決を先送りにすることでこれからも日本の電力ロスが生じ続けるだろう。今年、東電福島原発による事故で、東電区間内の電力不足が生じた。東電は計画的停電を実施した。そのため日本の首都東京で停電が繰り返し起り、日本経済に大きな損失を与えた。
この問題の解決策として、直流電力融通幹線の構築が提案されている。異周波数系統間での連繋ができるため二つの異なる周波数地域間での電力の流通が可能になる。また、直流は安定度の限界がないため、長距離送電に適する。そして、交流送電に比べて直流送電は無効電力がないため、送電損失が少ない。さらに、直流方式では導体が2本でよいことから、交流方式に比べて電線路の建設費が安い等々の利点が挙げられる。勿論、直流電力のデメリットもある。例えば、大電流の遮断のための大容量遮断器が必要だか、直流の大電流遮断は技術的に難しい等々である。
太陽光発電、風力発電や小型水力発電等の再生可能エネルギー電力は、天候によって発電量が変動するため、広域(全国的)直流電力融通幹線網によって、地域的な電圧不安定性をカバーすることが出来る。しかし、現在の交流電力網では、例えば静岡県内で二つ異なる周波数の電気によって電力配線網が分断されている。そのため、再生可能エネルギー電力を地域的に安定して供給することが更に難しくなるのである。こうした問題を解決する方法として、直流電力融通幹線網の構築は必要となる。
エネルギー自給率の向上を目指すために必要な固定価格買取制度
「エネルギー政策は国家100年の計である」と言う北澤宏一氏の再生可能エネルギー世界フェア2011「基調講演会」の中のもう一つの課題は、エネルギー自給政策に関する課題であった。3.11の東電福島原発事故までの政府のエネルギー政策では、原子力エネルギーの活用によって日本のエネルギー自給率を上げる方針が取られていた。
しかし、原発事故以後は、そのエネルギー政策を大きく変換しなければならなくなっている。現在、日本社会はその課題を巡って暗中模索をしている状態である。
1999年に資源エネルギー省が試算した電源別発電原価から、原子力による発電原価に関しては、現在多くの批判が述べられているので、その値をここで議論することは避ける。その他の、火力発電の発電原価と太陽光発電の発電コストを比較すると、太陽光発電の発電コストは最も高いと評価されている。
1999年の資源エネルギー庁によると、一般水力の発電原価 13.6円(施設利用率45%で耐用年数40年として)、石油火力の発電原価 10.2円(施設利用率80%で耐用年数40年として)、石炭火力の発電原価 6.5円(施設利用率80%で耐用年数 40年として)、LNG火力の発電原価 6.4円(施設利用率80%で耐用年数 40年として)、ちなみに、当時、原子力の発電原価は 5.9円(施設利用率80%で耐用年数40年)として試算されている。
上記したように、NEDOは2010年での太陽電池の発電コスト30円/KWhを2020年までには14円/KWh、2030年には7円/KWhにする目標を立てた。つまり、2030年に太陽電池の発電コストは石炭火力発電原価に近くなると言える。太陽電池による電力のグリッドパリティ(系統電力よりも安価になる)は2030年である。これから、20年かけてようやく、石炭火力による発電原価に近づくことになる。仮に、今後、化石燃料費が高騰し続けたとしても、現在の太陽電池での発電コストは化石燃料よりも高い現実を否定できない。このことが、太陽光発電に対する批判となっている。そして、また、このことがFIT法(固定価格買取法)の導入の原因となっている。
つまり、化石燃料が枯渇する未来の問題を今から準備するために、再生可能なエネルギーである太陽光発電を普及するために、投資として太陽電池の電力を系統電力よりも高値で買い取るのである。現在の太陽電池の電力コストのハンディを政策的に解決しようとしたのが、FIT法(固定価格買取法)なのである。この制度なくしては、太陽光発電の普及は不可能に近い。
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4章「未来社会からみた太陽光発電システムの課題」
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三石博行
3-1、技術開発を推進する政府・公共研究機構NEDOの役割とその課題
新しい産業の形成を個別企業独自の力で可能にすることは不可能に近い。黎明期と呼ばれる暗中模索の時代を進むには大きな経営的リスクを抱えることになる。場合によっては、未来型産業に早く投資したために倒産する企業もあるだろう。そのため、政府は新しい産業を育成するために国家は長期的な方針を立てなければならない。政府が新しい産業を擁護し助成することは、将来の国の経済や政治にとって重要であるからだ。
日本政府は太陽電池産業の育成を1974年から取り組み始めた。国家的プロジェクトを進める中で、太陽光発電技術開発や制度研究を行う公共研究機関、産官学共同研究体制、民間企業の研究開発への補助、大学での基礎応用研究への助成等々を行った。こうして今日の日本の太陽電池産業は育成、発展してきたのである。
どの産業技術もそれを支える基礎研究の成果がある。太陽光電池の基礎理論が発見され、それが産業化するまでの過程について簡単に述べる。太陽電池の原理は今から170年前にすでに発見されていた。1831年、フランスのアンリ・ベクレル(Henri Becquerel)によって電解質溶液中での光起電力効果が発見されてから、1873年の光電導性、1876年の固体状態の光起電力、1883年のセレン起電力セルと物理学での発見が過去にあり、19世紀末には電磁気学が発展し、20世紀はじめに量子力学が生まれる。シリコン半導体が見つかり、それらの固体物性の研究成果は産業に活用された。1954年にピアソンらによってp-n接合シリコン太陽電池が誕生した。そして、その翌年の1955年1月に林一雄や長船廣衛らによって日本でもp-n接合シリコン太陽電池が出来上がった。
民間企業、大学、公立研究所(電子技術総合研究所・現在の産業技術総合研究所や電電公社・現在のNTT)などの研究者によって太陽光発電の素材、半導体の基礎研究から応用研究が取り組まれ日本での太陽電池の基礎研究がはじまった。基礎研究とリンクしながら応用研究やその成果の産業化が民間企業(シャープ、京セラや松下電産)で取り組まれる。そして、シャープが1962年に変換効率10%の太陽電池の量産化に始めて成功した。ベクレルが光起電力効果を発見してから131年後にその物理現象を活用した太陽電池が市場に登場したのである。1955年1月に林一雄氏らがp-n接合シリコン太陽電池に成功してから1962年にシャープが太陽電池の量産化に成功するまでの期間を桑野幸徳氏は日本の太陽電池開発と事業化の黎明期と呼んでいる。
1974年から国家プロジェクト、サンシャイン計画が始まり、日本の太陽電池産業は黎明期から発展期を迎えることになる。NEDOの太陽光発電技術開発の経緯を示した図表12の説明によると、第一期サンシャイン計画の時代(1974年から1992年の18年間)の1980年にNEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)が発足し1990年にPVTEC(太陽光発電技術研究組合)が発足した。この二つの機構、一つは公共研究機構でもう一つは太陽電池生産企業で構成される研究機構によって、日本での太陽光発電の産業化は進んで行った。この第一期では、多結晶シリコン太陽光電池の開発、住宅用系統連係系システム技術確立などが主な事業となる。
図表12、 NEDOの太陽光発電技術の経緯 ※図をクリックすると大きくなります
出典『NEDO再生可能エネルギー技術白書』平成22年7月27日
サンシャイン計画の第二期はニューサンシャイン計画(1993年から2000年の8年間)と呼ばれ、この第二期からはNEDOが中心となり、アモルファスシリコン太陽電池の基礎技術研究、多結晶シリコン太陽電池やアモルファスシリコン太陽電池の低コスト製造プロセスの研究開発が取り組まれた。サンシャイン計画の第三期はNEDOからの5カ年計画の時代(2001年から2005年までの5カ年間)と呼ばれ、この第三期では低コスト薄膜太陽電池製造技術の開発が取り組まれた。現在はサンシャイン計画の第四期(2006年から2030年まで)太陽光発電ロードマップ(PV2030+)の時代と呼ばれている。
図表13、 PV2030+による太陽光発電技術開発シナリオ ※図をクリックすると大きくなります
引用 『NEDO再生可能エネルギー技術白書』平成22年7月27日
NEDOは太陽光発電ロードマップ(PV2030+)で2030年までの太陽光発電技術開発のシナリオ(図表13)を示した。このシナリオによると、2010年での発電コスト30円/KWhを2020年までには14円/KWh、2030年には7円/KWhにする目標を立てた。また、単結晶系シリコンのモジュール変換効率も2009年に最高16%である数値を、2017年には20%、2025年には25%にする目標を立てている。現在10年と評価されている結晶系セルの耐久性を2025年には30年にし、セルの寿命を40年とする目標を立てている。( )今後、太陽電池は薄膜法によってシリコン使用量を低く抑えると同時に、変換効率の高い接合型やハイブリッド型を導入することで、発電コストの逓減化が可能になるだろう。
サンシャイン計画の第四期では、激化する全世界の企業の価格競争、発電コストやシステム価格の急速な逓減化を可能にする新素材や新製造法の開発が繰り返される。この激化する国際競争の中で、太陽電池や太陽光発電システムの産業をめぐる環境は急激に変化し続けるだろう。その結果として、太陽光発電が世界に普及し、再生可能エネルギー社会の基礎が構築されるだろう。この厳しい国際競争と急激な社会経済改革の時代が第四期の特徴である。
それは、これまで日本の太陽電池や太陽光発電システムの産業化に貢献し続けてきたNEDO(政府の国家戦略)に対して、その役割と戦略方針、さらには機構の機能性をも問われることになるだろう。これまでの公共研究機関としてのNEDO指導力によって、今後の状況を切り開いていくためには、この問いかけを敏感に検証点検する機能性が社会経済システムの中に必要となるだろう。
3-2、俯瞰的視点に立った太陽光発電システムの技術・制度開発の課題
太陽光発電システムの多様なサポート企業、NPOの形成
今回の再生可能エネルギー世界フェア2011年のPVJapan2011展示会では、太陽電池・太陽光発電システムの生産企業、政府専門機関(経済産業省、環境省等々)、公共研究開発機関(NEDO)、民間研究開発機関のみでなく、大学、自治体を中心とする地域産業育成機関、太陽光発電システムをサポートする企業やNPO法人太陽光発電所ネットワークに代表される民間団体や気象庁など政府機関が参加していた。
その中で、太陽光発電が普及することによって生まれる消費者のニーズに答えて事業を展開しているベンチャー企業があった。例えば、英弘精密の開発した全天日射計(図表14)(写真1)によって太陽光を正確に測定することができる。その測定から得られたデータ(傾斜面日射量)から、太陽電池の発電効率を計算するための重要なパラメータが得られる。そこで、太陽光発電システムを設置する場合に、設定場所や設置環境で最大の発電効率を得るためにこの全天日射計が活躍する。
また、太陽光サポートセンター株式会社では太陽光発電システムのメンテナンスをサポートしている。今後、住宅用の太陽パネルの設置は増えつづける。個人や団体が太陽光パネルを設置した場合に、そのメンテナンスが必ず問題となる。太陽光サポートセンター株式会社はそのニーズに答えようとしている。また、電力会社が太陽光発電量や風力発電量を予測するために、日本気象協会は日照時間や風力の情報を提供するサービスを開始している。
また、今後、益々、重要なエネルギー源となる太陽光発電(最も多い再生可能エネルギー)で機能する社会を考えるなら、上記した国民のニーズに答える事業として太陽光発電システムの多様なサポート企業の形成が進む。そのニーズを理解しながら、今後のNPO法人太陽光発電所ネットワークの役割や活動が期待されるだろう。その意味で、市民運動体NPOPV-Netが果たす社会的機能を再検討する時代が来ているのである。
写真1、英弘精機製の太陽電池評価装置の展示場
2011年11月6日 PVJapan 2011 展示会会場(千葉、幕張国際展示場)
図表14 全天日射計MS-802、(英弘精機製)
引用 桑野幸徳・近藤道雄 監修 『図解 最新 太陽光発電のすべて』p221、
太陽光発電システム(再生可能電力供給システム)を支える分散型電力供給網の構築
スマートグリッドとは、再生可能エネルギーをエネルギーネットワーク(電力と交通)と情報ネットワーク(通信と情報処理)を活用しながら、効率の高いエネルギーマネージメントを意味する。スマートグリッドは、言い方を変えるなら、再生可能エネルギーの持つ弱点を補強するために構想された電力供給システムである。
例えば、太陽光発電や風力発電は、天候によって発電量が変動する。つまり、一定電圧での安定した電力量を供給することが出来ない。つまり、再生可能エネルギーが系統に逆流することで周波数や電圧の変動(不安定さ)が生じる。そのため系統安定化の設備、蓄電池(コンデンサー機能)や安定電力供給源である火力発電所(供給側)と系統運用者(需要側)との双方で電力調整(デマンドレスポンスサービス)が必要となる。
また、単位面積当たりの発電能力が原発や火力発電所に比べて非常に小さいため、1か所の発電施設から大量の電力を供給することはできない。そのために発電施設が分散することになる。こうした弱点を補足し、または、その弱点を活かし、新しいエネルギー供給システムを構築しなければならない。つまり、分散型電力供給源による社会経済システムの構築が必要となり、電力の産地直送制度が地域的電力ネットワークと情報ネットワークの連繋によって作られる。それをスマートコミュニティやスマートシティと呼んでいる。
さらに、再生可能エネルギーを活用する社会(再生可能エネルギー社会)では、省エネ対策が重要となる。住宅内のマイクログリッドや省エネ対策をサポートするエネルギー総合管理サービスが生まれ、家庭のエネルギー費用の削減、太陽光発電設備や蓄電蓄熱等の蓄エネ機器のメンテナンスや初期投資へのサポートや、そのリース制度が作られる。
また、再生可能エネルギー社会では、省エネと生活経済意識を向上させるために、省エネへの努力を評価する制度(減税やエコポイントのような経済的インセンティブ)が作られる。その経済的インセンティブを活用して、エコや省エネに関する教育や社会活動が行われ、また、地域ぐるみの省エネへの取組(共同省エネ活動)が生まれる。それらの地域的活動によって、再生可能エネルギー社会の文化(人々の生活習慣やモラル)が形成される。
再生可能エネルギー源の弱点を補強する技術開発と制度改革によって構築されるスマートグリッドの課題を纏めると
1、 分散型電力供給源に対応する社会経済システムの構築、スマートコミュニティやスマートシティ
2、 変動型電気供給源に対応する技術開発、蓄電施設(電気自動車の蓄電池活用)、エコキュート、EV充電器、
3、 地域的電力消費社会を運営する文化の構築、個人や共同体での省エネ対策と経済的インセンティブ構築、省エネ教育
安定した再生可能エネルギー電力の供給社会を支える直流電力融通幹線網の構築
2011年12月5日の再生可能エネルギー世界フェア2011「基調講演会」で北澤宏一氏(独立行政法人科学技術振興機構の顧問)が「3.11以降の日本のエネルギーオプション」と題する講演を行った。北澤氏は、「エネルギー政策は国家100年の計である」という基調に立ち、3.11の東電福島原発事故からエネルギー政策の変換を模索するわが国の方向について語った。その一つの課題として、北澤氏は直流電力融通幹線の構築を提案した。
明治時代、東日本では、東京電燈(東京電力)の前身会社がドイツから50Hzの発電装置を購入して運用していたのに対し、西日本では大阪電燈(関西電力)がアメリカから60Hzの発電装置を購入していたことに由来し、新潟・群馬・埼玉・山梨を境界にし、静岡を分断する形で東日本で50Hz、西日本で60Hzの二つの異なる周波数の交流電気を使っている。
この二つ交流電気によって多量の電力ロスが生じている。そのため、この問題を解決するために努力を払ってきたが、今日に至るまで解決されていない。この解決を先送りにすることでこれからも日本の電力ロスが生じ続けるだろう。今年、東電福島原発による事故で、東電区間内の電力不足が生じた。東電は計画的停電を実施した。そのため日本の首都東京で停電が繰り返し起り、日本経済に大きな損失を与えた。
この問題の解決策として、直流電力融通幹線の構築が提案されている。異周波数系統間での連繋ができるため二つの異なる周波数地域間での電力の流通が可能になる。また、直流は安定度の限界がないため、長距離送電に適する。そして、交流送電に比べて直流送電は無効電力がないため、送電損失が少ない。さらに、直流方式では導体が2本でよいことから、交流方式に比べて電線路の建設費が安い等々の利点が挙げられる。勿論、直流電力のデメリットもある。例えば、大電流の遮断のための大容量遮断器が必要だか、直流の大電流遮断は技術的に難しい等々である。
太陽光発電、風力発電や小型水力発電等の再生可能エネルギー電力は、天候によって発電量が変動するため、広域(全国的)直流電力融通幹線網によって、地域的な電圧不安定性をカバーすることが出来る。しかし、現在の交流電力網では、例えば静岡県内で二つ異なる周波数の電気によって電力配線網が分断されている。そのため、再生可能エネルギー電力を地域的に安定して供給することが更に難しくなるのである。こうした問題を解決する方法として、直流電力融通幹線網の構築は必要となる。
エネルギー自給率の向上を目指すために必要な固定価格買取制度
「エネルギー政策は国家100年の計である」と言う北澤宏一氏の再生可能エネルギー世界フェア2011「基調講演会」の中のもう一つの課題は、エネルギー自給政策に関する課題であった。3.11の東電福島原発事故までの政府のエネルギー政策では、原子力エネルギーの活用によって日本のエネルギー自給率を上げる方針が取られていた。
しかし、原発事故以後は、そのエネルギー政策を大きく変換しなければならなくなっている。現在、日本社会はその課題を巡って暗中模索をしている状態である。
1999年に資源エネルギー省が試算した電源別発電原価から、原子力による発電原価に関しては、現在多くの批判が述べられているので、その値をここで議論することは避ける。その他の、火力発電の発電原価と太陽光発電の発電コストを比較すると、太陽光発電の発電コストは最も高いと評価されている。
1999年の資源エネルギー庁によると、一般水力の発電原価 13.6円(施設利用率45%で耐用年数40年として)、石油火力の発電原価 10.2円(施設利用率80%で耐用年数40年として)、石炭火力の発電原価 6.5円(施設利用率80%で耐用年数 40年として)、LNG火力の発電原価 6.4円(施設利用率80%で耐用年数 40年として)、ちなみに、当時、原子力の発電原価は 5.9円(施設利用率80%で耐用年数40年)として試算されている。
上記したように、NEDOは2010年での太陽電池の発電コスト30円/KWhを2020年までには14円/KWh、2030年には7円/KWhにする目標を立てた。つまり、2030年に太陽電池の発電コストは石炭火力発電原価に近くなると言える。太陽電池による電力のグリッドパリティ(系統電力よりも安価になる)は2030年である。これから、20年かけてようやく、石炭火力による発電原価に近づくことになる。仮に、今後、化石燃料費が高騰し続けたとしても、現在の太陽電池での発電コストは化石燃料よりも高い現実を否定できない。このことが、太陽光発電に対する批判となっている。そして、また、このことがFIT法(固定価格買取法)の導入の原因となっている。
つまり、化石燃料が枯渇する未来の問題を今から準備するために、再生可能なエネルギーである太陽光発電を普及するために、投資として太陽電池の電力を系統電力よりも高値で買い取るのである。現在の太陽電池の電力コストのハンディを政策的に解決しようとしたのが、FIT法(固定価格買取法)なのである。この制度なくしては、太陽光発電の普及は不可能に近い。
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4章「未来社会からみた太陽光発電システムの課題」
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市場からみた太陽光発電システムの課題
太陽光発電の将来性と問題点
三石博行
2-1 、利用可能な太陽光エネルギーの量の評価
太陽から地球に到達する太陽光のエネルギーは約174PW(ペタワット)、つまり174×1000兆ワットである。この光エネルギーは大気中で吸収され海面に反射してその半分が失われ、残り半分が地表に降り注ぐ。地表に到達した太陽光エネルギーは大気、海洋と地表を熱し、最終的に宇宙空間に放出される。藤原氏によると、この太陽光エネルギーの約1PW(ペタワット)、1000兆ワット(1兆kw)を人類は利用することが可能であると言われている。現在の人類の全消費エネルギーが50倍と言われている。
また、他の地球での利用可能な再生可能エネルギーと比較してもその太陽光エネルギーは非常に大きいと言われている。例えば、山田興一氏や小宮山宏氏によると、収集可能な(利用できる)風力エネルギーは10TW(テラワット)と推定されている。つまり、太陽光エネルギーの100分の1である。
最近注目を浴びている収集可能な波力エネルギーは0.5TW(太陽光エネルギーの200分の1)であると推定されている。そして潮力エネルギーは0.1TWである。火山国日本で期待されている利用可能な地熱(貯留)エネルギーは年間50TW(太陽光エネルギーの20分の1)と推定されている。太陽光エネルギーはその他の再生可能な自然エネルギーに比べて、利用可能な資源量が大きいことが理解できる。
巨大な資源量を持つ再生可能エネルギーとしての太陽光エネルギーを活用し、新たな産業を興すことを藤原洋氏は第4の産業革命と呼んでいる。この第4の産業革命を支える社会経済システムは「太陽経済」(2009年一般財団法人太陽経済の会を設立した山崎養世氏の言葉)によって成立すると藤原氏は述べている。石炭火力エネルギーで第一次産業革命が起り、石油化学エネルギーで第二次産業革命が展開し、電気エネルギーで第三次産業革命と呼ばれる情報通信産業が発展し、そして太陽光エネルギーによって第四次の産業革命(第4の波による太陽経済社会)が起ろうとしているという考え方は現在の世界の全消費エネルギー量の50倍もある太陽光エネルギー利用の可能性から導かれる希望であり夢であると言えるだろう。
しかし、同時に2011年3月11日に起った東電福島第一原子発電所事故(以後、東電福島原発事故と呼ぶ)によって、我々は未来のエネルギーとして期待した原子力の利用の難しさを知った。また、その事故によって大量に放出した放射能物資の処理に関して、何も対策がなされていない事を知った。海外の化石燃料に依存する社会、そしてそれが引き起こす異常気象問題と国防上の問題解決として、原子力エネルギーの利用が1970年代から進んできた。
しかし、東電福島原発事故によって、その計画は大きく変更しなければならなくなっている。そして、太陽光エネルギーの利用は、3.11東電福島原発事故以来、将来のエネルギーとして大きな期待をかけられようとしている。
そして、同時に現在の人類の全消費エネルギーが50倍ものエネルギーを供給できると言われる太陽光エネルギー利用の実現可能性に関する検証が要請されている。その基本的な課題は、エネルギー変換率の高いセルや太陽光発電ンシステムの生産技術開発、太陽電池の生産に関する経済的検証、国民的な太陽光発電システムの普及に関する政治・経済・社会政策の検討等々である。それらの検証作業は言及するまでもなく科学技術的な方法によって行われる必要がある。
2-2 、太陽電池のエネルギー回収年数(EPT)・二酸化炭素ペイバックタイムの評価とその算出基準
以前から、太陽電池へのエネルギーの回収可能性に関する疑問が存在していた。鷲田豊明氏は、『環境とエネルギーの経済分析』の中で、「一般に太陽光発電は初期の設備投資の大きさに比べて経常運転のための追加的コストが少ないことから、エネルギー効率を評価する場合、エネルギーの回収可能性あるいはエネルギー回収年という基準が用いられることが多い」と述べている。
つまり、太陽電池の生産にはコストや労力が必要であるが、それが一旦設置されると電気(エネルギー)を生産することになり、電池の生産過程で投資したコストを電池の操業によって回収することが出来る。
しかし、もし生産能力が低く、しかも稼働年数が短い場合には、電池生産につぎ込んだエネルギー(電池の生産や流通に必要とされるエネルギー・カロリー量)を電池稼働によって生産されたエネルギーとして回収することが出来ない。この場合、太陽電池はエネルギー回収性がないと評価される。つまり、電池を作るならば社会は損をすることになる。この電池のエネルギー回収性は、電池の生み出すエネルギー量、例えば太陽光エネルギーの電気エネルギーへの変換効率や電池製造エネルギーを電池によって生産されるエネルギーとの関係から導かれるエネルギー回収性によって評価されることになる。
製造に使われたエネルギーを回収するための時間をエネルギー回収年という基準で表現することで、よりエネルギー回収性やエネルギー効率の概念が計量的(厳密に)表現できる。つまり、エネルギー回収年数とは、「エネルギー回収可能性に厳密な定義を与え実際の太陽光発電設備に関してこれを求めること」を可能にする経済学的概念と言える。
エネルギー回収年数 = 太陽光発電システムを製造するために使ったエネルギー量(炭酸ガス排出量)÷太陽光発電システムから造られた電気エネルギー(炭酸ガス排出量) (式1)
鷲田氏は太陽電池のエネルギー回収年数を求めるために、「1987年度新エネルギー・産業技術総合開発機構依託業務成果報告書、太陽光発電システム実用化技術開発、アモルファス太陽電池の実用化研究」(新エネルギー財団、1988年3月)における、年間製造規模別の投入費用の試算結果を用い」て 太陽電池の量産規模が10MW(1000KW)規模/年の(第一ステップ段階、1990年)で、太陽電池の変換効率は10%と想定して、エネルギー回収年数を計算した。
鷲田氏は10MWの太陽電池を生産するために使用した原料の加工やその運搬に費やした燃料の熱量を計算し、1990年に生産された1000KWの太陽電池のエネルギー回収年数は17.85年であると述べている。この結論から言えば、太陽電池が18年以上の年月で電気を生産しない限り、エネルギー回収性はないと結論されることになる。
集積型アモルファスシリコン太陽電池を世界で初めて工業化させた桑野幸徳氏(日本の太陽電池の草分け的存在)が2011年に公開した資料によると、アモルファスシリコン系太陽電池ではエネルギー回収年数(以後EPTと呼ぶ)は1年、結晶シリコン系太陽電池では1.52年であると述べられている。(出典 NEDO成果報告書「太陽光発電評価の調査研究」2001年3月)1990年の鷲田氏の算出ではEPTは約19年であり、2001年のNEDO(独立行政法人 新エネルギー・産業技術総合開発機構)の調査では、1年と算出されている。
EPTを算出するためにはそれなりの計算基準があると思われる。その中で、製造過程だけではなく(原発の電力生産コストを計算する上で、現在、原発廃棄物処理や災害事故処理のコストは計上されていないことを反省する意味で)、廃棄物処理過程も入れる必要がある。また、製造過程では原料生産、運送、加工等の主に製造運送過程でのエネルギー消費量が算出されている。しかし、同時に、その生産工程で働く人々の消費するエネルギーも換算する必要がある。
科学的に正確に太陽電池の現時点でのEPTを算出することによって、太陽電池の普及のための政策や開発改良すべき技術問題の対策が正確に、しかも現実的に可能になるのだと思われる。その意味で、太陽電池のEPT算出の基準を公開し、また専門家の中で検討する必要があると思われる。
EPTの考え方に類似するものとして、二酸化炭素ペイバックタイム(CO2PT)がある。この二つはほとんど同じ概念であるが、一方は全ての消費エネルギー量を他方は化石燃料使用量に限定していると言える。生産工程で原子力発電による電気や再生可能エネルギーによる電気を使うことによって、二酸化炭素ペイバックタイムは相対的にETPよりも小さい値をとるだろう。
2-3 、太陽電池のシステム価格、発電コストの評価
システム価格
太陽光発電システム価格(購入価格)が消費者にとっては一番気になる。システム価格はパネルの規模や太陽電池の種類(図表5)、システム構築に必要な機器、メーカ、設置する場所(工事条件)、用途等によって異なる。
図表5、太陽電池の種類と製造システム
出典 産業技術総合研究所「太陽電池の分類」(NISIt 11A,131p)
NEDOの資料(図表6)から、現在、10KW以下の系統連係型システムの価格は一般に1KWhにつき60万円から110万円(2009年のIEA ‐PVPSの資料では69万円/1KWh)の範囲である。また10KW以上の系統連係型システムの価格は50万円/1KWhから85万円/1KWh(2009年のIEA ‐PVPSの資料では32万円)の範囲である。つまり、システムの規模が大きくなると1KWhあたりの価格は低減する。
図表6 「日本での太陽光発電の導入実績とシステム単価、発電コストの推移」
出典 『図解 エネルギー・経済データの読み方入門』 (ZNEK 11A p318)
また、独立型システムは一般的に二つの場合(10KW/1KWh以下とそれ以上の場合)でもKW当たりの価格は高騰する。蓄電池や関連機器の必要であることがその理由と言われている。
ちなみに、コスト構成に関してみるとシリコン系アモルファス型と微結晶シリコン型の一般的に言われる薄膜型のタイプでは原料費の割合が15%、セル化とモジュール化の費用が40%、工事費が45%である。また、単結晶シリコン型と多結晶シリコン型の結晶型タイプでは原料費の割合が35%、セル化とモジュール化の費用が35%、工事費が30%である。
上記のデータから、例えば、薄膜型は原料のシリコン(Siと今後は呼ぶ)が少なくてすむのでコストが抑えられることが言える。このように、技術開発によってコストを低くすることが可能になる。
発電コスト
発電コストとは年間経常費を年間発電量で割算して求められる。年間経常費とは、非常に簡単に説明するなら一年当たりの建設コスト分(減価償却と同じ発想で考えるとよい)と一年間の太陽電池を運転・保守経費の二つの要素で構成される。
一年当たりの建設コスト分とは、初期投資金額(建設コスト)に年経費率を掛けることで算出できる。
年経費率は経営学上の専門的な計算方式があるが(図表7)、非常に簡単に考えるなら、例えば、300万円の建設コストが掛った、しかもその300万円を銀行から20年ローンを借りているので金利を支払わなければならない場合を仮定する。太陽電池の稼動年数(耐用年数)を20年とすれば、300万円と20年間の金利(3割と仮に合計して90万円とすると)の合計390万円を稼動年数(耐用年数)20で割ると一年間平均で19.5万円の経費になる。19.5万円は390万円の5%であるので、その場合、年経費率は5%(300分の20)になると簡単に換算することにしておく。この19.5万円(一年間の太陽電池建設コスト)に一年間に必要な太陽電池の運転・保守経費を加えると年間経常費が算出できる。
図表7、発電コスト算出式 )※図をクリックすると大きくなります
出典『NEDO再生可能エネルギー技術白書』平成22年7月27日
一年間に必要な太陽電池の運転・保守経費の算出方法であるが、一般に日本のメーカが発売しているパネルは10年保証をしている。つまりその10年間の稼動期間に関しては無料となる。また、NPO太陽光発電所ネットワークに参加している場合、つまり、太陽電池を設置した人々が協同組合を作り発電所の維持管理をしている場合、その年間経費3000円やその他地震や火災等の保険に加入している場合など、その年間の保険金は、この一年間に必要な太陽電池の運転・保守経費の中に含めて計算をすることができる。
ちなみに、2009年の日本の発電コストは、導入量の約8割を占める住宅用連係型太陽発電システムでは、36円/kWhから75.5円/kWhである。また、2011年時点での平均的な導入費用 (システム価格) は住宅用で57万円/1KWhである。
しかし、上記した計算方法が政府の専門部署や民間の調査会社(シンクタンク)で採用されているとは限らない。現在、発電コスト算出基準があればその基準に従って計算すべきである。また、もし、現在のその基準設定に補足すべき要素があるなら、その基準を点検することも必要である。発電コスト算出に方法基準を決めなければならないだろう。
EPTに大きな影響を与えるシステム価格(発電コスト)
小西正暉氏達は、2003年3月のNEDOの太陽光システムのEPTの試算例を紹介している。試算条件は、多結晶シリコン、アモルファスシリコンとCdS/CdTe (化合物系)の三つの素材と、10MW、30MWと100MWの三つの異なる年間生産規模、そして、屋根への設置型と一体型の二つの設置方法である。これらの条件で18ケースのEPTの試算例が示されている。この資料に、モジュール変換効率を加えて図表8を作った。
図表8、太陽光システムのEPTの試算例(2003年3月)※図をクリックすると大きくなります
出典 NEDO 引用 小西正暉、鈴木竜宏、蒲谷滋記 『太陽光発電システムがわかる本』(KONIm 08A 37p)
この表から、発電規模が大きいほど、EPT値は少なくなり、また、屋根一体型が屋根に設置するよりもEPTが少ないと試算されている。さらに、CdS/CdTe (化合物系)はシリコン系に比べて発電効率が低いがEPTは少ないこと、また、シリコン系でも多結晶シリコン型よりも発電効率の悪いアモルファスシリコン型の方が、EPTが少ないと試算されている。
つまり、現時点でEPT値の決定に大きな影響を与えている要因は発電効率ではなく、それらのシステム価格にあることが理解できるだろう。
太陽電池設置コストの推移の要因(1993年から2009年まで)
財団法人日本エネルギー研究所が作成した1993年から2009年までの「日本での太陽光発電の導入実績とシステム単価、発電コストの推移」を示す図表6から、発電単価(発電コスト)とシステム価格は連動していることが理解できる。発電コストはシステム価格(建設コスト)によって決定されているために、この二つが連動する、つまりシステム価格が下がれば発電コストも下がるのは当然のことである。
システム価格の減少率推移から、1993年のIKW当たりのシステム価格は250万円、1994年には200万円、1995年では170、万円、1996年では120万円と4年間で半分以下(0.47倍に減少する)に減少した。しかし、1997年(106万円/KW)から2001年(75.8万円/KW )の5年間でシステム価格の減少率は3分2以下(0.72倍に減少する)である。さらに、2002年(71.0万円/KW)から2009年(62万円/KW)の8年間では僅かに10万円の減少(0.87倍に減少する)であった。日本の太陽電池システム価格は2003年からほぼ横ばいに推移している。
図表9に2001年から2010年までの日本で生産された太陽光電池総量を国内用と海外用に分けて示した。2004年まで続いた政府の補助制度が2005年で終わった。このことによって、2005年からの国内需要は、再び政府の補助金が支給される2008年まで減少し続けた。図表6で示された、日本の太陽電池生産量(累積)の増加を維持していたのは、海外用に生産された太陽電池であった。
図表9、2001年から2010年までの日本の太陽光電池生産量(海外用と国内用)
出典 (Wikipedia)
つまり、太陽電池産業は黎明期を出て、市場競争を繰り広げながら社会に普及しようとしている発展段階にある。この段階では、これまでに長年掛けて開発してきたコスト、貧弱な需要(市場)、低い発電効率やエネルギー変換効率という技術問題、等々の課題を抱えている。その段階を政府が固定価格買取制度等を設定して支えなければ、日本発の太陽電池産業はたちまちのうちに他国の企業に追いつかれる。そのことを2005年から苦々しく経験することになった。そして、その結果が、国内出荷量の減少、それによる全集荷量増加推移の減少、そして、その結果として、市場でのシステム価格の減少率低下につながったのではないかと予想できる。これまで、電卓やコンピュータをはじめとして電気機器のみならずすべての商品に謂えることとして、供給力(生産量の増加)は商品コストを下げるという経済の決まりが十分働いていなかったのではないかと考えられる。
技術開発による製造コスト削減
2011年12月5日から7日まで、千葉の幕張で国際再生エネルギーフェア2011が開催され太陽光発電に関する4つの基調講演、最新の太陽光発電システム研究に関する講習会が行われた。そのではフェアでPVJapan2011によって「太陽光発電に関する総合イベント」、展示会や講演会が開催された。イベントには、NPO法人太陽光発電所ネットワークを始めとする380以上の企業や団体が参加し、最新の技術や商品の展示や紹介がなされていた。多くの参加者が、太陽電池産業は21世紀を切り開く次世代産業への期待を抱いている。そして、この新産業に益々多くの投資が集まることが予想される。
まず、EPTの評価がその期待を実現するための経営的根拠の土台となる。もしその値が現在でも18年以上(1988年3月の鷲田豊明氏の試算)であるなら、企業も消費者も太陽電池への投資は避けるだろう。図表8に示したように、現在のEPT値は1から3、つまり太陽電池一年から3年の稼動であると試算されている。そのことは、電池生産に消費したエネルギーを、3年以内には回収することができるのであれば、エネルギー消費量からみた経営上の問題の一つはクリアーできると評価されるだろう。
次に、システム価格が消費者の需要に相関する。システム価格は太陽光発電を設置するためのエネルギーコストだけでなく、原料、加工、開発、営業等々、企業が太陽電池生産システムを運営するための全てのコスト(製造コスト)と販売コストによって決定される。システムコスト(製造コスト)を下げるために、太陽電池産業の専門化、分業生産体制、補助サービスの企業化、多種多様の企業が生まれ、それらの総合力によって製造コストは逓減することになる。
また、新しい素材や工法によって多様な太陽電池パネルが生産されるようになった。製造価格を抑えるために新しいパネルが登場し、それらが価格競争にしのぎを削ることになる。ちなみに、現在の太陽電池の種類や特徴、セルとモジュールの変換効率、利点や課題、製造企業名に関して野村証券金融経済研究所が作成した資料を図表10に示す。
例えば、結晶シリコンの材料費は製造コストの大きな割合を占めている。ちなみに、野村証券金融研究所が報告している資料によると、結晶法でのシリコンの割合は56%であり薄膜法では3%である。このシリコンの占める価格を抑えることで製造コストを下げることが出来る。また、一般に、シリコンは希少金属ではなく石英(二酸化ケイ素)の成分として地球の至る所に存在すると言われているが、最近の太陽電池需給の増加によってシリコン(Si)は原料不足を起こし、コストも上昇している。そのため、セルの材料を安くするために、単結晶シリコンから多結晶シリコンへ、さらにアモルファス(結晶していない状態)シリコンへと新しい素材でセルを生産するための開発がなされてきた。
図表10 、太陽電池の種類と特徴(変換効率、利点と課題とメーカ))
※図をクリックすると大きくなります
引用 和田木哲哉 『爆発する太陽電池産業 25兆円市場の現状と未来』p74
この開発によって、非結晶(アモルファス)シリコンによる電池が開発され、この材料は薄膜化しても一定の波長内での発電効率を十分保つことができるため、出来る限り薄膜にして電池材料に活用する薄膜シリコン法が開発された。非結晶系(アモルファス)を使った薄膜法では結晶系の生産方法(結晶法)よりもシリコン消費量を100分の1に抑えることができると報告されている。
さらに、アモルファス(非結晶系)は一般に結晶系よりも変換効率(太陽エネルギーを電気エネルギーに変換する割合)が悪い。その弱点を克服するために(薄膜シリコンは変換効率を上げるために)、薄膜シリコンを重ね合わせるセルを製造する技術、HIT(ハイブリッド型)や多接合法(吸収波長域の異なるシリコン層を積層にして変換効率を上げる方法)が開発された。例えばこの二つの工法によって幅広い波長を電気に変換することができ、セル変換効率は上がった。
薄膜シリコン法とハイブリッド法や多接合法によってシリコン消費量を抑えながら発電効率を上げる技術を開発してきた。
結晶法でもより少ないシリコン量でセルを製造する方法が開発され続けている。図表11が電力当たりのシリコン消費量の推移を示されているように、新しい工法技術によって生産電力当たりの材料費(シリコン)は少なくなった。この図表11から、2004年では、1Wp(ワットピーク、太陽電池モジュールが発生するエネルギー単位、1Wと同じ)の電力を生産するためにシリコン12g(厚さ300μm)のシリコン膜が使用されている。そして、3年後の2006年では、1Wpの電力を生産するためにシリコン10g(厚さ200μm)のシリコン膜が使用されている。
つまり、三年間に1W当たり17%のシリコン量を減らすことができた。2010年では、1Wpの電力を生産するためにシリコン7.5g(厚さ150μm 2004年の半分の厚み)のシリコン膜が使用されている。この予測によると2011年でのシリコン使用量は2004年に比較して38%少なくなる。このように、高価なシリコンを薄膜化することによって製造価格を引き下げてきたのである。
図表11 、結晶法太陽電池のシリコン消費量の推移(2004年から2010年)
※図をクリックすると大きくなります
引用 和田木哲哉 『爆発する太陽電池産業 25兆円市場の現状と未来』p74
国際価格競争による製造コスト削減
現在、国際的な太陽光発電産業の産業化が始まっている。2000年までは、日本、ドイツやアメリカの企業が中心であったが、2009年以降は中国、台湾、韓国などの企業が進出してきた。今回の再生可能エネルギー世界フェア2011年のPVJapan2011展示会でも、多くの海外の企業、特に中国の企業が参加していた。中国を始めとする海外の企業の参加によって、価格競争が激化する。
国際的な価格競争によってより安価な太陽電池の素材や製造方法の開発が進む。そのことにより、さらに太陽電池商品の多様化が進み、それらの多様な特徴を備えた商品がしのぎを削って電力コストめぐる価格競争に突入する。国際競争による太陽光発電システムと太陽電池産業の技術や価格の競争の激化がこれからの時代の特徴を形作るだろう。
2004年まで世界一の生産量を誇ったシャープが、その後、ドイツのQ-Cells 社に追い抜かれ、その後、Q-Cells社は中国のSuntechに追い抜かれる。一年ごとに世界トップ企業名の変更が続く。全ての企業に短期間で世界的企業に躍進するチャンスが与えられ、そして同時に、その座を他の新興企業に奪われるリスクを抱える。この熾烈な世界的な競争によって価格の逓減はさらに進むだろう。
用語解説
3、体積モル
モル(mole)は国際単位系における物質量の単位で、12グラムの炭素12の中に存在する原子の数(6.02×10の23乗の個数、アボガドロ数と呼ばれる)である。1モルの理想気体は、1気圧で0度Cの標準状態では同じ体積(22.41383リットル)を占める。(Wikipedia)その1モルの占める体積をモル体積と呼ぶ。例えば、酸素16の分子は32グラムですから、1モルの酸素(32グラム)の占める体積は1気圧、0度Cで22.4リットルとなる。(Wikipedia)
4、電気の単位
1Wは 約0.860cal (1ccの水を約0.86度C上げるエネルギー)
1000Wが1KW(キロワット)
1000KWが1MW(メガワット)つまり100万W(0.1万KW)
1000MWが1GW(ギガワット)つまり10億W(100万KW)
1000GWが1TW(テラワット)つまり1兆W(10億KW)
1000TWが1PW(ペタワット)、つまり、1000兆W(1兆KW)
(上の赤字にした部分も逆転しています。)
5、電気、熱と石油エネルギーの換算
1kWh = 1000W×(60×60 s) = 36×10の5乗 Ws = 3.6×10の6乗 J = 3.6 MJ (メガジュール)
1kWh = 3.6 MJ = 3.6 /4.1868 Mcal = 0.8598452× 103 kcal = 860 kcal
1kWhは 860Kcal
石油換算トンTOE(Ton of Oil Equivalent 定義 1TOE=10の7乗 kcal)
1TOE は1.1628万KWh
100億TOEは、10,000,000,000(TOE)×11,628,000cal = 116,280,000,000,000,000Wh
= 11.628PWh(ペタワット) =116.28兆KWh
6、タンデム(多接合)構造
多接合型(タンデム型)とは、「吸収波長域の異なるシリコン層を積層したもの。アモルファスシリコンと各種の結晶シリコンを積層したものの他、通常のa-Si(アモルファスシリコン)に吸収波長域の異なるa-SiC(アモルファスシリコンに炭素を加えてp層・プラス極を作る)やa-SiGe(アモルファスシリコンにゲルマニウムを加えてn層・マイナス極を作る)を積層したものなどが開発・実用化されている。高効率で温度特性などに優れるものが多い。」(Wikipedia)
7、ハイブリッド型(HIT型)
ハイブリッド型(HIT型)と「結晶シリコンとアモルファスシリコンを積層した太陽電池である。通常の結晶シリコンに比して変換効率が高く、温度特性も良いなどの特長を有する。シリコンの使用量が減らせる他、両面受光型にも出来る。日本の三洋電機が主な製造者である。なお、吸収波長域の異なる材料同士を積層するという点では下記の多接合型太陽電池に似るが、pn接合は1つ(単接合)である。」(Wikipedia)
8、発電原価と発電コスト
電気を起こすための費用単価で、発電施設建設や施設管理維持、人件費や発電用原料購入等に費やす全ての金額を発電総経費として、その金額をその電力施設が生産する総電力量で割ったもので、単位は 円/kWhで示す。なお、発電原価は耐用年数や、設備稼働率等の条件によって変わる。つまり、建設コストが低く、施設耐用年数が長く、稼働率が高いほど発電原価は低くなる。この発電原価の二つの条件の中の設備稼働率等の条件を省いた考え方が、ほぼ発電コストと同じ概念になると理解してよい。
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3章「社会経済システムからみた太陽光発電システムの課題」
http://mitsuishi.blogspot.com/2012/02/blog-post_579.html
論文「市場からみた太陽光発電システムの課題 -太陽光発電の将来性と問題点- 」のダウンロード
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三石博行
2-1 、利用可能な太陽光エネルギーの量の評価
太陽から地球に到達する太陽光のエネルギーは約174PW(ペタワット)、つまり174×1000兆ワットである。この光エネルギーは大気中で吸収され海面に反射してその半分が失われ、残り半分が地表に降り注ぐ。地表に到達した太陽光エネルギーは大気、海洋と地表を熱し、最終的に宇宙空間に放出される。藤原氏によると、この太陽光エネルギーの約1PW(ペタワット)、1000兆ワット(1兆kw)を人類は利用することが可能であると言われている。現在の人類の全消費エネルギーが50倍と言われている。
また、他の地球での利用可能な再生可能エネルギーと比較してもその太陽光エネルギーは非常に大きいと言われている。例えば、山田興一氏や小宮山宏氏によると、収集可能な(利用できる)風力エネルギーは10TW(テラワット)と推定されている。つまり、太陽光エネルギーの100分の1である。
最近注目を浴びている収集可能な波力エネルギーは0.5TW(太陽光エネルギーの200分の1)であると推定されている。そして潮力エネルギーは0.1TWである。火山国日本で期待されている利用可能な地熱(貯留)エネルギーは年間50TW(太陽光エネルギーの20分の1)と推定されている。太陽光エネルギーはその他の再生可能な自然エネルギーに比べて、利用可能な資源量が大きいことが理解できる。
巨大な資源量を持つ再生可能エネルギーとしての太陽光エネルギーを活用し、新たな産業を興すことを藤原洋氏は第4の産業革命と呼んでいる。この第4の産業革命を支える社会経済システムは「太陽経済」(2009年一般財団法人太陽経済の会を設立した山崎養世氏の言葉)によって成立すると藤原氏は述べている。石炭火力エネルギーで第一次産業革命が起り、石油化学エネルギーで第二次産業革命が展開し、電気エネルギーで第三次産業革命と呼ばれる情報通信産業が発展し、そして太陽光エネルギーによって第四次の産業革命(第4の波による太陽経済社会)が起ろうとしているという考え方は現在の世界の全消費エネルギー量の50倍もある太陽光エネルギー利用の可能性から導かれる希望であり夢であると言えるだろう。
しかし、同時に2011年3月11日に起った東電福島第一原子発電所事故(以後、東電福島原発事故と呼ぶ)によって、我々は未来のエネルギーとして期待した原子力の利用の難しさを知った。また、その事故によって大量に放出した放射能物資の処理に関して、何も対策がなされていない事を知った。海外の化石燃料に依存する社会、そしてそれが引き起こす異常気象問題と国防上の問題解決として、原子力エネルギーの利用が1970年代から進んできた。
しかし、東電福島原発事故によって、その計画は大きく変更しなければならなくなっている。そして、太陽光エネルギーの利用は、3.11東電福島原発事故以来、将来のエネルギーとして大きな期待をかけられようとしている。
そして、同時に現在の人類の全消費エネルギーが50倍ものエネルギーを供給できると言われる太陽光エネルギー利用の実現可能性に関する検証が要請されている。その基本的な課題は、エネルギー変換率の高いセルや太陽光発電ンシステムの生産技術開発、太陽電池の生産に関する経済的検証、国民的な太陽光発電システムの普及に関する政治・経済・社会政策の検討等々である。それらの検証作業は言及するまでもなく科学技術的な方法によって行われる必要がある。
2-2 、太陽電池のエネルギー回収年数(EPT)・二酸化炭素ペイバックタイムの評価とその算出基準
以前から、太陽電池へのエネルギーの回収可能性に関する疑問が存在していた。鷲田豊明氏は、『環境とエネルギーの経済分析』の中で、「一般に太陽光発電は初期の設備投資の大きさに比べて経常運転のための追加的コストが少ないことから、エネルギー効率を評価する場合、エネルギーの回収可能性あるいはエネルギー回収年という基準が用いられることが多い」と述べている。
つまり、太陽電池の生産にはコストや労力が必要であるが、それが一旦設置されると電気(エネルギー)を生産することになり、電池の生産過程で投資したコストを電池の操業によって回収することが出来る。
しかし、もし生産能力が低く、しかも稼働年数が短い場合には、電池生産につぎ込んだエネルギー(電池の生産や流通に必要とされるエネルギー・カロリー量)を電池稼働によって生産されたエネルギーとして回収することが出来ない。この場合、太陽電池はエネルギー回収性がないと評価される。つまり、電池を作るならば社会は損をすることになる。この電池のエネルギー回収性は、電池の生み出すエネルギー量、例えば太陽光エネルギーの電気エネルギーへの変換効率や電池製造エネルギーを電池によって生産されるエネルギーとの関係から導かれるエネルギー回収性によって評価されることになる。
製造に使われたエネルギーを回収するための時間をエネルギー回収年という基準で表現することで、よりエネルギー回収性やエネルギー効率の概念が計量的(厳密に)表現できる。つまり、エネルギー回収年数とは、「エネルギー回収可能性に厳密な定義を与え実際の太陽光発電設備に関してこれを求めること」を可能にする経済学的概念と言える。
エネルギー回収年数 = 太陽光発電システムを製造するために使ったエネルギー量(炭酸ガス排出量)÷太陽光発電システムから造られた電気エネルギー(炭酸ガス排出量) (式1)
鷲田氏は太陽電池のエネルギー回収年数を求めるために、「1987年度新エネルギー・産業技術総合開発機構依託業務成果報告書、太陽光発電システム実用化技術開発、アモルファス太陽電池の実用化研究」(新エネルギー財団、1988年3月)における、年間製造規模別の投入費用の試算結果を用い」て 太陽電池の量産規模が10MW(1000KW)規模/年の(第一ステップ段階、1990年)で、太陽電池の変換効率は10%と想定して、エネルギー回収年数を計算した。
鷲田氏は10MWの太陽電池を生産するために使用した原料の加工やその運搬に費やした燃料の熱量を計算し、1990年に生産された1000KWの太陽電池のエネルギー回収年数は17.85年であると述べている。この結論から言えば、太陽電池が18年以上の年月で電気を生産しない限り、エネルギー回収性はないと結論されることになる。
集積型アモルファスシリコン太陽電池を世界で初めて工業化させた桑野幸徳氏(日本の太陽電池の草分け的存在)が2011年に公開した資料によると、アモルファスシリコン系太陽電池ではエネルギー回収年数(以後EPTと呼ぶ)は1年、結晶シリコン系太陽電池では1.52年であると述べられている。(出典 NEDO成果報告書「太陽光発電評価の調査研究」2001年3月)1990年の鷲田氏の算出ではEPTは約19年であり、2001年のNEDO(独立行政法人 新エネルギー・産業技術総合開発機構)の調査では、1年と算出されている。
EPTを算出するためにはそれなりの計算基準があると思われる。その中で、製造過程だけではなく(原発の電力生産コストを計算する上で、現在、原発廃棄物処理や災害事故処理のコストは計上されていないことを反省する意味で)、廃棄物処理過程も入れる必要がある。また、製造過程では原料生産、運送、加工等の主に製造運送過程でのエネルギー消費量が算出されている。しかし、同時に、その生産工程で働く人々の消費するエネルギーも換算する必要がある。
科学的に正確に太陽電池の現時点でのEPTを算出することによって、太陽電池の普及のための政策や開発改良すべき技術問題の対策が正確に、しかも現実的に可能になるのだと思われる。その意味で、太陽電池のEPT算出の基準を公開し、また専門家の中で検討する必要があると思われる。
EPTの考え方に類似するものとして、二酸化炭素ペイバックタイム(CO2PT)がある。この二つはほとんど同じ概念であるが、一方は全ての消費エネルギー量を他方は化石燃料使用量に限定していると言える。生産工程で原子力発電による電気や再生可能エネルギーによる電気を使うことによって、二酸化炭素ペイバックタイムは相対的にETPよりも小さい値をとるだろう。
2-3 、太陽電池のシステム価格、発電コストの評価
システム価格
太陽光発電システム価格(購入価格)が消費者にとっては一番気になる。システム価格はパネルの規模や太陽電池の種類(図表5)、システム構築に必要な機器、メーカ、設置する場所(工事条件)、用途等によって異なる。
図表5、太陽電池の種類と製造システム
出典 産業技術総合研究所「太陽電池の分類」(NISIt 11A,131p)
NEDOの資料(図表6)から、現在、10KW以下の系統連係型システムの価格は一般に1KWhにつき60万円から110万円(2009年のIEA ‐PVPSの資料では69万円/1KWh)の範囲である。また10KW以上の系統連係型システムの価格は50万円/1KWhから85万円/1KWh(2009年のIEA ‐PVPSの資料では32万円)の範囲である。つまり、システムの規模が大きくなると1KWhあたりの価格は低減する。
図表6 「日本での太陽光発電の導入実績とシステム単価、発電コストの推移」
出典 『図解 エネルギー・経済データの読み方入門』 (ZNEK 11A p318)
また、独立型システムは一般的に二つの場合(10KW/1KWh以下とそれ以上の場合)でもKW当たりの価格は高騰する。蓄電池や関連機器の必要であることがその理由と言われている。
ちなみに、コスト構成に関してみるとシリコン系アモルファス型と微結晶シリコン型の一般的に言われる薄膜型のタイプでは原料費の割合が15%、セル化とモジュール化の費用が40%、工事費が45%である。また、単結晶シリコン型と多結晶シリコン型の結晶型タイプでは原料費の割合が35%、セル化とモジュール化の費用が35%、工事費が30%である。
上記のデータから、例えば、薄膜型は原料のシリコン(Siと今後は呼ぶ)が少なくてすむのでコストが抑えられることが言える。このように、技術開発によってコストを低くすることが可能になる。
発電コスト
発電コストとは年間経常費を年間発電量で割算して求められる。年間経常費とは、非常に簡単に説明するなら一年当たりの建設コスト分(減価償却と同じ発想で考えるとよい)と一年間の太陽電池を運転・保守経費の二つの要素で構成される。
一年当たりの建設コスト分とは、初期投資金額(建設コスト)に年経費率を掛けることで算出できる。
年経費率は経営学上の専門的な計算方式があるが(図表7)、非常に簡単に考えるなら、例えば、300万円の建設コストが掛った、しかもその300万円を銀行から20年ローンを借りているので金利を支払わなければならない場合を仮定する。太陽電池の稼動年数(耐用年数)を20年とすれば、300万円と20年間の金利(3割と仮に合計して90万円とすると)の合計390万円を稼動年数(耐用年数)20で割ると一年間平均で19.5万円の経費になる。19.5万円は390万円の5%であるので、その場合、年経費率は5%(300分の20)になると簡単に換算することにしておく。この19.5万円(一年間の太陽電池建設コスト)に一年間に必要な太陽電池の運転・保守経費を加えると年間経常費が算出できる。
図表7、発電コスト算出式 )※図をクリックすると大きくなります
出典『NEDO再生可能エネルギー技術白書』平成22年7月27日
一年間に必要な太陽電池の運転・保守経費の算出方法であるが、一般に日本のメーカが発売しているパネルは10年保証をしている。つまりその10年間の稼動期間に関しては無料となる。また、NPO太陽光発電所ネットワークに参加している場合、つまり、太陽電池を設置した人々が協同組合を作り発電所の維持管理をしている場合、その年間経費3000円やその他地震や火災等の保険に加入している場合など、その年間の保険金は、この一年間に必要な太陽電池の運転・保守経費の中に含めて計算をすることができる。
ちなみに、2009年の日本の発電コストは、導入量の約8割を占める住宅用連係型太陽発電システムでは、36円/kWhから75.5円/kWhである。また、2011年時点での平均的な導入費用 (システム価格) は住宅用で57万円/1KWhである。
しかし、上記した計算方法が政府の専門部署や民間の調査会社(シンクタンク)で採用されているとは限らない。現在、発電コスト算出基準があればその基準に従って計算すべきである。また、もし、現在のその基準設定に補足すべき要素があるなら、その基準を点検することも必要である。発電コスト算出に方法基準を決めなければならないだろう。
EPTに大きな影響を与えるシステム価格(発電コスト)
小西正暉氏達は、2003年3月のNEDOの太陽光システムのEPTの試算例を紹介している。試算条件は、多結晶シリコン、アモルファスシリコンとCdS/CdTe (化合物系)の三つの素材と、10MW、30MWと100MWの三つの異なる年間生産規模、そして、屋根への設置型と一体型の二つの設置方法である。これらの条件で18ケースのEPTの試算例が示されている。この資料に、モジュール変換効率を加えて図表8を作った。
図表8、太陽光システムのEPTの試算例(2003年3月)※図をクリックすると大きくなります
出典 NEDO 引用 小西正暉、鈴木竜宏、蒲谷滋記 『太陽光発電システムがわかる本』(KONIm 08A 37p)
この表から、発電規模が大きいほど、EPT値は少なくなり、また、屋根一体型が屋根に設置するよりもEPTが少ないと試算されている。さらに、CdS/CdTe (化合物系)はシリコン系に比べて発電効率が低いがEPTは少ないこと、また、シリコン系でも多結晶シリコン型よりも発電効率の悪いアモルファスシリコン型の方が、EPTが少ないと試算されている。
つまり、現時点でEPT値の決定に大きな影響を与えている要因は発電効率ではなく、それらのシステム価格にあることが理解できるだろう。
太陽電池設置コストの推移の要因(1993年から2009年まで)
財団法人日本エネルギー研究所が作成した1993年から2009年までの「日本での太陽光発電の導入実績とシステム単価、発電コストの推移」を示す図表6から、発電単価(発電コスト)とシステム価格は連動していることが理解できる。発電コストはシステム価格(建設コスト)によって決定されているために、この二つが連動する、つまりシステム価格が下がれば発電コストも下がるのは当然のことである。
システム価格の減少率推移から、1993年のIKW当たりのシステム価格は250万円、1994年には200万円、1995年では170、万円、1996年では120万円と4年間で半分以下(0.47倍に減少する)に減少した。しかし、1997年(106万円/KW)から2001年(75.8万円/KW )の5年間でシステム価格の減少率は3分2以下(0.72倍に減少する)である。さらに、2002年(71.0万円/KW)から2009年(62万円/KW)の8年間では僅かに10万円の減少(0.87倍に減少する)であった。日本の太陽電池システム価格は2003年からほぼ横ばいに推移している。
図表9に2001年から2010年までの日本で生産された太陽光電池総量を国内用と海外用に分けて示した。2004年まで続いた政府の補助制度が2005年で終わった。このことによって、2005年からの国内需要は、再び政府の補助金が支給される2008年まで減少し続けた。図表6で示された、日本の太陽電池生産量(累積)の増加を維持していたのは、海外用に生産された太陽電池であった。
図表9、2001年から2010年までの日本の太陽光電池生産量(海外用と国内用)
出典 (Wikipedia)
つまり、太陽電池産業は黎明期を出て、市場競争を繰り広げながら社会に普及しようとしている発展段階にある。この段階では、これまでに長年掛けて開発してきたコスト、貧弱な需要(市場)、低い発電効率やエネルギー変換効率という技術問題、等々の課題を抱えている。その段階を政府が固定価格買取制度等を設定して支えなければ、日本発の太陽電池産業はたちまちのうちに他国の企業に追いつかれる。そのことを2005年から苦々しく経験することになった。そして、その結果が、国内出荷量の減少、それによる全集荷量増加推移の減少、そして、その結果として、市場でのシステム価格の減少率低下につながったのではないかと予想できる。これまで、電卓やコンピュータをはじめとして電気機器のみならずすべての商品に謂えることとして、供給力(生産量の増加)は商品コストを下げるという経済の決まりが十分働いていなかったのではないかと考えられる。
技術開発による製造コスト削減
2011年12月5日から7日まで、千葉の幕張で国際再生エネルギーフェア2011が開催され太陽光発電に関する4つの基調講演、最新の太陽光発電システム研究に関する講習会が行われた。そのではフェアでPVJapan2011によって「太陽光発電に関する総合イベント」、展示会や講演会が開催された。イベントには、NPO法人太陽光発電所ネットワークを始めとする380以上の企業や団体が参加し、最新の技術や商品の展示や紹介がなされていた。多くの参加者が、太陽電池産業は21世紀を切り開く次世代産業への期待を抱いている。そして、この新産業に益々多くの投資が集まることが予想される。
まず、EPTの評価がその期待を実現するための経営的根拠の土台となる。もしその値が現在でも18年以上(1988年3月の鷲田豊明氏の試算)であるなら、企業も消費者も太陽電池への投資は避けるだろう。図表8に示したように、現在のEPT値は1から3、つまり太陽電池一年から3年の稼動であると試算されている。そのことは、電池生産に消費したエネルギーを、3年以内には回収することができるのであれば、エネルギー消費量からみた経営上の問題の一つはクリアーできると評価されるだろう。
次に、システム価格が消費者の需要に相関する。システム価格は太陽光発電を設置するためのエネルギーコストだけでなく、原料、加工、開発、営業等々、企業が太陽電池生産システムを運営するための全てのコスト(製造コスト)と販売コストによって決定される。システムコスト(製造コスト)を下げるために、太陽電池産業の専門化、分業生産体制、補助サービスの企業化、多種多様の企業が生まれ、それらの総合力によって製造コストは逓減することになる。
また、新しい素材や工法によって多様な太陽電池パネルが生産されるようになった。製造価格を抑えるために新しいパネルが登場し、それらが価格競争にしのぎを削ることになる。ちなみに、現在の太陽電池の種類や特徴、セルとモジュールの変換効率、利点や課題、製造企業名に関して野村証券金融経済研究所が作成した資料を図表10に示す。
例えば、結晶シリコンの材料費は製造コストの大きな割合を占めている。ちなみに、野村証券金融研究所が報告している資料によると、結晶法でのシリコンの割合は56%であり薄膜法では3%である。このシリコンの占める価格を抑えることで製造コストを下げることが出来る。また、一般に、シリコンは希少金属ではなく石英(二酸化ケイ素)の成分として地球の至る所に存在すると言われているが、最近の太陽電池需給の増加によってシリコン(Si)は原料不足を起こし、コストも上昇している。そのため、セルの材料を安くするために、単結晶シリコンから多結晶シリコンへ、さらにアモルファス(結晶していない状態)シリコンへと新しい素材でセルを生産するための開発がなされてきた。
図表10 、太陽電池の種類と特徴(変換効率、利点と課題とメーカ))
※図をクリックすると大きくなります
引用 和田木哲哉 『爆発する太陽電池産業 25兆円市場の現状と未来』p74
この開発によって、非結晶(アモルファス)シリコンによる電池が開発され、この材料は薄膜化しても一定の波長内での発電効率を十分保つことができるため、出来る限り薄膜にして電池材料に活用する薄膜シリコン法が開発された。非結晶系(アモルファス)を使った薄膜法では結晶系の生産方法(結晶法)よりもシリコン消費量を100分の1に抑えることができると報告されている。
さらに、アモルファス(非結晶系)は一般に結晶系よりも変換効率(太陽エネルギーを電気エネルギーに変換する割合)が悪い。その弱点を克服するために(薄膜シリコンは変換効率を上げるために)、薄膜シリコンを重ね合わせるセルを製造する技術、HIT(ハイブリッド型)や多接合法(吸収波長域の異なるシリコン層を積層にして変換効率を上げる方法)が開発された。例えばこの二つの工法によって幅広い波長を電気に変換することができ、セル変換効率は上がった。
薄膜シリコン法とハイブリッド法や多接合法によってシリコン消費量を抑えながら発電効率を上げる技術を開発してきた。
結晶法でもより少ないシリコン量でセルを製造する方法が開発され続けている。図表11が電力当たりのシリコン消費量の推移を示されているように、新しい工法技術によって生産電力当たりの材料費(シリコン)は少なくなった。この図表11から、2004年では、1Wp(ワットピーク、太陽電池モジュールが発生するエネルギー単位、1Wと同じ)の電力を生産するためにシリコン12g(厚さ300μm)のシリコン膜が使用されている。そして、3年後の2006年では、1Wpの電力を生産するためにシリコン10g(厚さ200μm)のシリコン膜が使用されている。
つまり、三年間に1W当たり17%のシリコン量を減らすことができた。2010年では、1Wpの電力を生産するためにシリコン7.5g(厚さ150μm 2004年の半分の厚み)のシリコン膜が使用されている。この予測によると2011年でのシリコン使用量は2004年に比較して38%少なくなる。このように、高価なシリコンを薄膜化することによって製造価格を引き下げてきたのである。
図表11 、結晶法太陽電池のシリコン消費量の推移(2004年から2010年)
※図をクリックすると大きくなります
引用 和田木哲哉 『爆発する太陽電池産業 25兆円市場の現状と未来』p74
国際価格競争による製造コスト削減
現在、国際的な太陽光発電産業の産業化が始まっている。2000年までは、日本、ドイツやアメリカの企業が中心であったが、2009年以降は中国、台湾、韓国などの企業が進出してきた。今回の再生可能エネルギー世界フェア2011年のPVJapan2011展示会でも、多くの海外の企業、特に中国の企業が参加していた。中国を始めとする海外の企業の参加によって、価格競争が激化する。
国際的な価格競争によってより安価な太陽電池の素材や製造方法の開発が進む。そのことにより、さらに太陽電池商品の多様化が進み、それらの多様な特徴を備えた商品がしのぎを削って電力コストめぐる価格競争に突入する。国際競争による太陽光発電システムと太陽電池産業の技術や価格の競争の激化がこれからの時代の特徴を形作るだろう。
2004年まで世界一の生産量を誇ったシャープが、その後、ドイツのQ-Cells 社に追い抜かれ、その後、Q-Cells社は中国のSuntechに追い抜かれる。一年ごとに世界トップ企業名の変更が続く。全ての企業に短期間で世界的企業に躍進するチャンスが与えられ、そして同時に、その座を他の新興企業に奪われるリスクを抱える。この熾烈な世界的な競争によって価格の逓減はさらに進むだろう。
用語解説
3、体積モル
モル(mole)は国際単位系における物質量の単位で、12グラムの炭素12の中に存在する原子の数(6.02×10の23乗の個数、アボガドロ数と呼ばれる)である。1モルの理想気体は、1気圧で0度Cの標準状態では同じ体積(22.41383リットル)を占める。(Wikipedia)その1モルの占める体積をモル体積と呼ぶ。例えば、酸素16の分子は32グラムですから、1モルの酸素(32グラム)の占める体積は1気圧、0度Cで22.4リットルとなる。(Wikipedia)
4、電気の単位
1Wは 約0.860cal (1ccの水を約0.86度C上げるエネルギー)
1000Wが1KW(キロワット)
1000KWが1MW(メガワット)つまり100万W(0.1万KW)
1000MWが1GW(ギガワット)つまり10億W(100万KW)
1000GWが1TW(テラワット)つまり1兆W(10億KW)
1000TWが1PW(ペタワット)、つまり、1000兆W(1兆KW)
(上の赤字にした部分も逆転しています。)
5、電気、熱と石油エネルギーの換算
1kWh = 1000W×(60×60 s) = 36×10の5乗 Ws = 3.6×10の6乗 J = 3.6 MJ (メガジュール)
1kWh = 3.6 MJ = 3.6 /4.1868 Mcal = 0.8598452× 103 kcal = 860 kcal
1kWhは 860Kcal
石油換算トンTOE(Ton of Oil Equivalent 定義 1TOE=10の7乗 kcal)
1TOE は1.1628万KWh
100億TOEは、10,000,000,000(TOE)×11,628,000cal = 116,280,000,000,000,000Wh
= 11.628PWh(ペタワット) =116.28兆KWh
6、タンデム(多接合)構造
多接合型(タンデム型)とは、「吸収波長域の異なるシリコン層を積層したもの。アモルファスシリコンと各種の結晶シリコンを積層したものの他、通常のa-Si(アモルファスシリコン)に吸収波長域の異なるa-SiC(アモルファスシリコンに炭素を加えてp層・プラス極を作る)やa-SiGe(アモルファスシリコンにゲルマニウムを加えてn層・マイナス極を作る)を積層したものなどが開発・実用化されている。高効率で温度特性などに優れるものが多い。」(Wikipedia)
7、ハイブリッド型(HIT型)
ハイブリッド型(HIT型)と「結晶シリコンとアモルファスシリコンを積層した太陽電池である。通常の結晶シリコンに比して変換効率が高く、温度特性も良いなどの特長を有する。シリコンの使用量が減らせる他、両面受光型にも出来る。日本の三洋電機が主な製造者である。なお、吸収波長域の異なる材料同士を積層するという点では下記の多接合型太陽電池に似るが、pn接合は1つ(単接合)である。」(Wikipedia)
8、発電原価と発電コスト
電気を起こすための費用単価で、発電施設建設や施設管理維持、人件費や発電用原料購入等に費やす全ての金額を発電総経費として、その金額をその電力施設が生産する総電力量で割ったもので、単位は 円/kWhで示す。なお、発電原価は耐用年数や、設備稼働率等の条件によって変わる。つまり、建設コストが低く、施設耐用年数が長く、稼働率が高いほど発電原価は低くなる。この発電原価の二つの条件の中の設備稼働率等の条件を省いた考え方が、ほぼ発電コストと同じ概念になると理解してよい。
3章へ
3章「社会経済システムからみた太陽光発電システムの課題」
http://mitsuishi.blogspot.com/2012/02/blog-post_579.html
論文「市場からみた太陽光発電システムの課題 -太陽光発電の将来性と問題点- 」のダウンロード
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2012年2月16日木曜日
エネルギー消費量からみた現代社会の課題
太陽光発電の将来性と問題点
三石博行
1-1 、文明のエネルギー史観(神田淳氏の視点から)
私たちは人類史の中で最高の豊かさを手に入れている。この豊かさは18世紀にヨーロッパで始まった産業革命によって可能になった。神田淳氏は『持続可能な文明の創造』の中で、これまでの人類が形成してきた文明の根底に、人類が制御できたエネルギーの姿があることを述べている。神田氏はそれを「文明のエネルギー史観」と呼んだ。
生物学的視点に立てば、哺乳動物の寿命はそれぞれの種の個体(成熟した)の平均体重の0.2乗に比例すると言われる。本川達雄氏によると、その方程式でヒトの寿命を計算すると26.3年となる。そして、考古学調査から縄文人の平均寿命は31歳であったことが判明している。しかし、現代の日本人(女性)の場合には83歳である。縄文人と現代人の決定的違いはエネルギー使用量である。極論すれば、その寿命の差を可能にしたのがこのエネルギー使用量であると言えると神田氏は述べている。
人類は個体が生み出す生物的エネルギーのみでなく、自然のエネルギーを個体保存のために活用することが出来るようになった。それはことば、道具の発見と共に人類を特徴付ける大きな発見であったと言える。これが神田氏のエネルギー史観の基調となり、その後の人類史を活用したエネルギーの形態で分類する所以になる。
例えば、人類の文明の起源として火の使用をその特徴とするなら、第一期の文明は木材資源を活用した火力エネルギー文明と呼ぶことが出来る。この木材火力エネルギー文明時代は古代から中世まで続く。そして、同時に古代から中世、家畜動力、水力(水車)、風力(風車)が開発されるが、それらは主要なエネルギーではなかった。
そして、火力エネルギー文明が木炭・木材から石炭に代わることで産業革命が起こる。火力による製鉄(それまでは木炭によって製鉄が行われていた)、その鉄を用いた道具・機械の大型化、工業機械、そして蒸気機関の発明が次の石炭による火力エネルギー文明が20世紀前半まで続く。この石炭(化石燃料)を火力原料としたのが第二期のエネルギー文明(化石燃料エネルギー文明)である。
1882年のジェームズ・アトキンソンの内燃機関の発明から始まる石油を原料とする火力エネルギー革命が起る。そのエネルギー革命を推進したのは20世紀のアメリカの自動車産業である。そして今日まで、石油を使った新しいエネルギー革命が起り現代社会の経済や文化の姿を生み出している。(Wikipedia内燃機関) つまり、化石燃料である石油エネルギーも第二期の化石燃料エネルギー文明の中に組み込まれることになる。
人類が火(生体エネルギー以外のエネルギー)を生存活動に活用したことが、人と他の動物の明確な境界を生み出し、そのエネルギー活用領域を拡大することで、人類は自然資源の加工能力や社会生産力を得て、さらにその力(知性と経済力)をもって生活文化、経済活動、社会制度、文明を創ってきた。この文明の発展の原動力に神田氏はエネルギー資源の生産と活用の技術史を文明のエネルギー史観と呼んだのである。(KANDsu11A)
これまで、人類の歴史を経済制度や道具(生産手段)で理解する考え方はあった。著者も生活情報や生活資源の視点から歴史観を述べたことがある。エネルギー史観はそれらの歴史観と同類の考え方でありまったく目新しいものではないが、持続可能な社会の在り方を模索するために現代社会の巨大エネルギー消費の社会構造を理解することは必要である。今まで多くの専門家がその課題に取り組んできた。それらの研究や提言の歴史(経過)を「エネルギー史観」という考え方で纏め上げることは、今後の研究の視点に役立つと言える。
1-2、増えつづける世界の人口とネルギー消費量
17世紀の産業革命以来、人類が使用するエネルギーは莫大な量に膨れ上がった。その最大の原因は世界の人口の増加である。図表1(世界の人口の推移)から以下のことが理解できる。つまり、産業革命以前の18世紀初頭の世界の人口は10億人以下であった。1950年には25億人、そして1987年にはその2倍の50億人、つまり37年間で世界人口は2倍に増え、2009年には68億人(59年間に約2.7倍強)に増えた。現在、2011年には70億人といわれている。そして、国連人口基金は2050年には世界人口は91億人に到達すると予測している。
図表1 世界人口の推移 ※画像をクリックすると大きくなります
出典 国連人口基金東京事務所資料 (KANDsu11 p81)
グレゴリー・クラークの資料によると、紀元前10世紀から18世紀後半の産業革命までは一人当たりの所得(最低生存費水準)は殆ど変化していない。この均衡状態をマルサス的均衡の状態とかマルサスの罠(文末用語解説を参考)と呼んでいる。図表2の相対尺度1はこの均衡状態、つまりマスサスの罠と呼ばれる人口が増加しない状態を意味している。つまり、この状態では人口の変動はありえないのである。そして、産業革命によって一人あたりの生産力が増加、その結果、一人当たりの所得が増えつづける。その所得の増加と図表1の人口の増加は不可分の関係にあると言える。そして、この図表1の2050年の世界の人口の推移(91億人)の仮定には、国民所得が増加しつづけるという前提で予測される人口であると言える。
図表2 世界史における人口一人あたりの所得の変化 ※画像をクリックすると大きくなります
出典 グレゴリー・クラーク『10万円の世界経済史』 上巻p14-15 (KANDsu11A p81)
2010年の『エネルギー白書』(世界銀行年次報告、World BankのWorld Development Indicatorsのデータ)によると、世界のエネルギー消費量(一次エネルギー)は経済成長とともに増加を続け、1965年の38億TOE(原油換算トン、Tonne of Oil Equivalent)、つまり41TW(テラワット) (410億KW)から年平均2.6%で増加し続け、2008年には113億TOE、つまり130TW(テラワット)(1300億KW)に達したと報告されている。43年間に約3.2倍に増えたことになる。
図表3はWord Bankの調査した2009年の世界の国々の一人当たりのGDPのランキングを示したものである。1位のモナコは国民一人当たりの1年間のGDPは186,175US$である。日本は22位で39,738US$(1ドルを77円として約306万円)となる。日本に比べて、例えば食糧を要求して立ち上がったアラブの春のチュニジア(ランキングは103位)は一人当たりの所得は3,792$、つまり日本の10分の1、エジプトは2,270$で日本の17分の1の所得となる。186位のコンゴ民主共和国は国民一人当たり160$で、日本の何と249分の1である。
図表3, 世界銀による1人当たりGDP世界ランキング(2009年)※画像をクリックすると大きくなります
出典 フリー百科事典Wikipedia 「国の国内総生産順序リスト(1人当たり為替レート)(KANDsu11A p85)
この数値が即、国民生活の質を表現するものではないとしても、明らかに現在、先進国と発展途上国との国民所得の差は非常に大きいのである。当然、発展途上国の国民は豊かな生活を求める。その結果として世界のエネルギー消費量は今後急増することは避けられないのである。
例えば、GDP(国内総生産量)が世界2位である中国(58,786億US$)は、国民一人当たりのGDPは3,744US$(日本の10分の1以下)である。しかし、中国の今後の経済成長を考えると、容易に国民一人当たりのGDPが上がり続ける。つまり、発展途上国でのエネルギー消費量はそれに比例して増加し続ける。
IEAの資料(図表4)によると世界の一次エネルギー消費量は約年率2%で増加を続け、2035年には石油換算量16,386(百万トン)163億トン(約1900億KW)となると予測されている。近年の新興国や途上国での消費量の急激な増加の動向を考えると、その予測以上の一次エネルギー消費量が必要となる可能性も否定できない。しかし、将来、有限な地球資源量を考えると、2050年の予測人口91億人の実現可能性は疑問視されるかもしれない。そして、逆に経済成長を支える一次エネルギー供給(消費量)が不足する可能性を否定できないのである。
図表4 「世界の一次エネルギー供給(消費)」 ※画像をクリックすると大きくなります
出典 IEA 「Energy Balances of OECD Countries」「Energy Balances of Non-OECD Countries」(ZNEK 11A p59)) (ZNEK 11A p59)
マルサスの理論に従えば、世界の人口は増加しないというこの未来の予測は人口淘汰という熾烈な試練が未来に生じることを意味するのである。人口淘汰は、出産の抑制、堕胎、間引き、乳幼児死亡率の増大、餓死等だけではない。それは、資源エネルギーを巡る世界的な紛争(国際地域的、もしくは全世界的な戦争)が起こることも意味しているのである。
1-3 、省エネルギー社会を期待された情報化社会・第三の波の社会(A.トフラー氏の視点から)
石炭による火力エネルギーを活用することで可能になった産業革命以前の社会では、ことによって、それまで農業を中心とした社会であった。
石器時代を代表する自然素材そのものを利用して道具を作っていた時代では、人々の生活は他の動物と同じように与えられた自然環境の条件に厳しく限定され生存していた。人々は生態系の中で与えられた食料を捕獲しながら生活していた。この時代を生産様式の視点から観るなら、狩猟社会と呼ぶことができる。
そして人類は自然素材を加工しより優れた道具を作ることによって、この与えられた自然環境(生態系)の中で生存していた生活環境から人工的環境を形成することが可能になる。例えば、焼畑や灌漑によって生態環境に手を加え食料生産を行う農業と呼ばれる生産様式を開発することによって、農耕地(畑や穀物果樹園)を作りより効率よく食料を生産することが出来るようになった。
与えられた生態環境に束縛されて生活をしていた狩猟時代から自然生態環境に手を加え食料を生産した農耕時代が登場する。農耕文明を発展させることによって、人類は以前よりもより効率の良く生産物を手にいれることができた。この農耕文明をもたらした農業革命をアルビン・トフラーは第一の波と呼んだ。
トフラーは、産業革命によって生まれた工業生産を中心とする社会を第二の波の社会と呼んだ。この第二の波の社会では、大量生産、大量流通、大量教育、マスメディア、大量のレクリエーション、大衆娯楽等の産業文化や過去の二つの世界戦争を特徴付けたに大量破壊兵器による総力戦、そして大企業を中心とする生産の規格化や標準化が行われ、19世紀に登場した国民国家、帝国主義と呼ばれる強い国家体制、それを維持し発展させた官僚機能の中央集権、社会機能の首都(主要都市)への集中化、国家的規範によって国の津々浦々まで統制のとれた社会制度(警察や官僚組織)が形成された。徴兵は国民の義務となり、国家という権力に今まで経験したことのない強烈な規則(法律)で支配されることになった。
そして、第二次世界戦争が終わり、植民地主義を土台とする資本主義経済(帝国主義)への非難が高まり、また情報科学技術が発展することによって、第三の波とよばれる脱産業社会(脱工業化社会)への流れが始まった。先進国とよばれる発達した資本主義社会の国民は民主主義や人権尊厳を社会理念とする成熟した社会の在り方を模索することになる。トフラーはこの社会への流れを第三の波と呼んだ。トフラーはこの第三の波へと変化する社会を、情報化時代、情報化社会、情報革命等の造語を創り説明をしたのであった。
情報化社会はトヨタ生産システムに代表される部品ストック量の軽減、流通の合理的配分、インターネットによる紙情報による伝達の消滅、つまり情報伝達のための物質資源利用の軽減、テレビ会議(インターネット上での会議)による運送機関利用の軽減、シミュレーション技術による開発コストの削減、インターネット上での動画配信による大衆娯楽施設(装備)の個人化等々、資源とエネルギーを節約し、結果的に省エネルギー社会の入り口を創ると期待されたのである。
1-4、三つの産業革命、躍進するIT産業による巨大エネルギー消費社会の出現(藤原洋氏の視点から)
しかし今、情報化社会が省エネルギー社会を導いていることに対する点検が始まっている。その問題を投げかけた一人として藤原洋氏の第4の産業革命の概念がある。その中で、藤原氏は情報化社会を第3の産業革命(3つの波)と位置付け、その社会は巨大なエネルギー消費社会であると述べた。まず、藤原氏の四つの産業革命に関する概念を簡単に紹介する。
18世紀のイギリスを起点として始まる産業革命を第一次産業革命と藤原氏は呼んだ。蒸気機関とは石炭を燃やし熱を発生させ、その熱で水を蒸気に変え、その蒸気の力で動力を動かす外燃機関である。つまり、エンジンを直接動かしている物質は高温の蒸気(水)である。水が蒸気になることで18cc(水分子1モル当たりの重さ)の体積が1気圧で22.4リットルに増える。さらに高温にすることでその体積はさらに増える。この熱力学の法則を活用し、膨張した体積を動力源としたのが蒸気機関である。その意味で藤原氏は第一次産業革命を蒸気機関による動力革命によって生み出されたと述べている。
石油を原料として生み出された内燃機関は、シリンダーの中で酸素と揮発性炭化水素(石油)が化学反応(燃焼反応)を起こし、その熱と生成されたガス(二酸化炭素や水蒸気)によってシリンダーが上下運度を起こす。そこで藤原氏はこの内燃機関による生産技術の変化を第二次産業革命と呼んでいる。また、石油は単に燃料となるばかりでなく、化学合成工業の原料となった。第二次産業革命によって化学繊維、プラスチックなどの化学合成素材(新素材)が生み出された。化学変化をエネルギーの動力や産業資源として新しい重化学産業が生み出された。石油化学工業や内燃機関による自動車や運輸産業が引き起こす新しい産業形成過程を第二次産業革命と藤原氏は呼んだのである。
1950年代以後、情報・通信に関する科学技術の進歩によってコンピュータ産業、情報産業が発展する。この情報通信技術によって導かれた産業構造の変化を第三の産業革命と藤原氏は呼んだ。このデジタル情報革命の進展によって期待された省エネルギーは実現しなかった。情報処理技術の進歩によって情報処理の高速化が日進月歩で進んでいる。半導体の集積密度は18から24ヵ月で倍増すると技術革新の流れの規則性をムーアの法則と呼んでいる。また、ネットワーク情報通信では「森の法則」とよばれるブロードバンドトラフィックは加入者の倍増に対して指数関数的に増大するというと規則が成立している。このムーアの法則や森の法則が意味することは、今後もIT産業は飛躍的に進歩し続けるという予測である。
携帯電話の普及等々、中国、ブラジル、ロシアやインド等の新興国や発展途上国での情報化社会は益々進み、莫大な情報の入力、蓄積と出力の高速化が必要とされる。その情報処理に必要とされるエネルギーは莫大なものになろうとしている。例えば、2006年の米アクセンチュア社のレポートによるとデータセンターの電力消費量は600億KWhで、全米の電力消費量の1.5%を占めた。
わが国でも、このIT産業による巨大な電力消費問題に対応するため、経済産業省が2008年にグリーンITプロジェクトを立ち上げた。このプロジェクトはIT機器による電力消費量は2025年には全電力消費量の40%に達し、2050年には50%に達するだろうと予測した。つまり、IT産業の躍進によって発展する第三の産業革命(第三の波)の延長には巨大な電力消費社会があり、そのために原子力発電等の導入が提案される結果となっている。
1-5 、現代科学技術文明社会・巨大エネルギー消費社会の課題
トフラーは第三の波、参画型の民主主義社会の土台となる情報化社会に未来の産業や社会システムの発展を望んでいた。しかし、その社会は、藤原洋氏が指摘したように、巨大な電気エネルギーを消費する社会であった。科学技術の力によって情報処理機能によって動く最先端の生産システムを創り、情報通信を駆使してより効率よい流通や生産管理を行い、巨大な生産力を獲得してきた。それらの現代科学技術文明に支えられた資本主義の社会では、より大きな利益を求めるために、日々、生産効率を上げるための努力が払われている。そのすべてのエネルギーを化石燃料や原子力によって得てきた。それらのエネルギー資源なくしては、現在の生産システム、社会システムや生活システムは成立しないのである。
21世紀は20世紀の科学技術文明社会を先導してきた欧米や日本だけでなく、発展途上国の経済発展も始まり、その速度は加速度的に高まっている。人口の多い中国、インド、インドネシア等の国々の経済発展によって、更に多くのエネルギーが必要となっている。生活の豊かさ(人間の当然の権利)を求める世界の人々によって、世界のエネルギーの消費量はさらに増加し続ける。巨大エネルギー消費社会は全世界に波及し続け、究極的にはエネルギーの枯渇問題や巨大なエネルギー消費によってさらに深刻化する異常気象(地球温暖化等々)や環境破壊が進むことは避けられないのである。
また、エネルギー枯渇問題は、暫定的には高騰する化石燃料を主体とするエネルギー資源問題として現れるだろう。そこに起る問題は昨年エジプトで起った小麦粉等の食糧の不足で生じる市民の暴動、そして今年1月からアラブの春とよばれる市民の反乱と独裁政権の終焉等々、政治的問題に発展した。しかし、市民が政権を取ったとしてもエネルギーや資源の絶対量は不足し続けるだろう。つまり、石油資源に依存する社会や国の貧困化は人口増大に拍車を掛けながら、次第に深刻化することは避けられないのである。しかも、東電福島原発事故が示しているように、原子力エネルギーの活用は上記した貧困化対策へのベストな解決策を与えるとは思われない。
言い換えると、20世紀社会は、社会経済システムは生産力の向上を目指して構築、改革、再編され続けてきた。しかし、21世紀の社会は、巨大なエネルギー消費社会からの脱却が問われている。その確実な解決策はない。しかも、その解決策を早急に探し求めなければならないことは明らかである。これまでにあった社会発展の理念を変換することが問われている。そして、化石燃料や原子力エネルギーに依存しない社会経済システムを構築しなければならないことも問われている。
エネルギーききが世界を襲い、列強(帝国主義)の国々が20世紀初頭に繰り広げられたたエネルギー資源の争奪をめぐる国際的な紛争(世界戦争)が起らないために、今、何をすべきかを考えなければならない。それはこれまでの社会理念と全く異なる社会モデル(例えば縮小社会)を提起するだろう。いずれにしても、生活の豊かさを求める発展途上国の人々、先進国の豊かな生活を持続したい人々、殆どがエネルギー消費量の極端な削減策には同意しないだろう。
そこで、民主主義(資本主義)と現代科学技術文明によって生み出された豊かな生活の質を維持し、また獲得し続けることを前提にしたエネルギー政策が問われることになる。その二つの課題、つまり生活の豊かさ(巨大なエネルギー資源の消費によって成立する社会)と化石燃料や原子力エネルギーへの依存をなくし、再生可能なエネルギー消費社会を創ることは矛盾なく成立するだろうか。その二つの課題が成立するための条件を考えなければならないのである。そして、以上のエネルギー消費量から観た現代科学技術文明社会に関する議論から解決しなければならない3つの課題を挙げる。
1、 再生可能エネルギー技術と社会経済システムの開発
2、 省エネルギー技術と社会システムの開発
3、 食糧、資源エネルギー問題や人口問題の解決、資源問題で生じる国際紛争への対応と資源独占・争奪をめぐる世界戦争の回避
用語解説
1、マルサスの罠
マルサスは、彼の有名な『人口論』の中で「人口は生産物の増加速度を上回る速さで増加を続けている」と述べている。そのため、「労働投入量を増やせば増やすほど生産量は増加するが、追加的増分(生産物の)はしだいに小さくなる」関係(限界生産力逓減の法則)が生じる。つまり、貧困化が生じる。
その貧困によって、「余分な人口は淘汰される。現実には、出産の抑制、堕胎、間引き、乳幼児死亡率の増大、餓死等が起こる」ことになる。そのことによって人口増加は抑制される。これを最低生存費均衡の理論と呼んでいる。マルサスの基本仮定によって人口は常に増加する傾向を持つのだが、その人口増加は最低生存費均衡の理論によってある水準に留まる。
つまり、世界人口の増加が産業革命以前になかったように、結局、人口は増加も減少もしなくなる。「この均衡状態をマルサス的均衡の状態(Malthusian equilibrium)あるいはマルサスの罠(Malthusian trap)と呼んでいる。マルサスの罠の状態では、1人当りの所得は最低生存費水準であるから、所得の一部を貯蓄にまわす余裕はない」生活状態にある。この状況では所得はすべて消費され、その殆どが生きるため必要な生活資源に使われることになる。
参考 鳥居泰彦『経済発展理論』東洋経済新報社、1979年
http://phrik.misc.hit-u.ac.jp/Asami/Jugyo/2005/socdev/week2/malthus1.html
2、国民総所得、国民総生産、国内総生産
「国民総所得(Gross National Income)とは、略してGNIと呼び、1990年代半ば以前に経済活動の指標として使われていた国民総生産 (GNP, Gross National Product)と、税制の計算上の適用有無の違いがあるもの近い指標である。日本の国民経済計算(国民所得統計)では、2000年に大幅な体系の変更が行われた際に統計の項目として新たに設けられた。」現在経済指標として多く使われている国内総生産 (GDP, Gross Domestic Product) は海外や自国の企業全てが国内での生産量を示す。
その国内総生産に「海外からの所得の純受取」を加えたものが国民総生産である。(Wikipedia)
製造業を中心として国内で生産を続けていた1990年代までの日本は国内総生産が大きかった。しかし、海外に工場を移し、また海外の企業を買収してそこで生産をするようになってから、国内総生産は減少している。つまり、2000年代になると日本は、国民総所得(国民総生産)の大きな割合を海外からの所得の純受取に依存するようになっている。
また、「海外への融資の利回りで得た国民総生産と国民総所得は、名目では一致するが、実質では若干の差がある。これは、実質国民総所得では、実質国民総生産は考慮されていない、輸出入価格の変化によって生じる実質的な所得の増加分を「交易利得」として加えているためである。」(Wikipedia)
参考資料
1、 (TSUZk 10A)都築建 『エネルギーシフト 太陽光発電で暮らしを変える・社会が変わる』株式会社旬報社、2010.10.25、179p
2、 (KANDsu11) 神田淳『持続可能文明の創造』 株式会社エネルギーフォーラム2011.7.6、
3、 (Wikipedia) Wikipedia 「内燃機関」
4、 電気連合会 「図表で語るエネルギーの基礎2008-2009」
http://www.fepc.or.jp/library/publication/pamphlet/pdf/enekiso08_09.pdf
5、 鳥居泰彦『経済発展理論』東洋経済新報社、1979年
http://phrik.misc.hit-u.ac.jp/Asami/Jugyo/2005/socdev/week2/malthus1.html
6、 (FJHAh 10A ) 藤原洋 『第4の産業革命』 朝日新聞出版 2010.7.30、207p
7、 経済産業省 『平成22年度 エネルギーに関する年次報告 第179回国会(臨時会提出)』242p
8、 経済産業省 「平成22年度 エネルギーに関する年次報告 概要」 平成22年10月 5p
9、 (NISIt 11A)西山孝 別所昌彦(まさひこ)『統計データからみる 地球環境・資源エネルギー論』 丸善出版社、2011.4.30、163p
10、 (YAMAk 02A)山田興一、小宮山宏著 『太陽光発電工学 太陽電池の基礎からシステム評価まで』 日経BP社、2002.10.7、254p
11、 (ZNEK 11A) 財団法人 日本エネルギー研究所 計量分析ユニット編 『図解 エネルギー・経済データの読み方入門』財団法人、省エネルギーセンタ― 2011.10.12、改訂3版、 348p
12、 濱川圭弘、太和田善久 編著 『太陽光が育くむ地球のエネルギー 光合成から光発電へ』、大阪大学出版会、2009.10.16、132p、
13、 鷲田豊明『環境とエネルギーの経済分析』白桃書房、1992年10月6日刊)http://eco.genv.sophia.ac.jp/book/sosyo/so-4-3.html
14、 桑野幸徳 「太陽光発電の実力は」PowerPoint資料 17p
http://www.natureasia.com/japan/nature_cafe/reports/videos/111609/presentation-kuwano.pdf
15、 桑野幸徳 『太陽電池はどのように発明され、成長したのか -太陽電池開発の歴史-』オーム社、2011.8.11、430p
16、 桑野幸徳・近藤道雄 監修 『図解 最新 太陽光発電のすべて』オーム社、2011.6.1、255p
17、 瀬川浩司、小関珠音、加藤謙介 編著『サイエンス徹底図解 太陽電池のしくみ』 新星出版社、2010.5、183p
18、 NEDO成果報告書「太陽光発電評価の調査研究」(2001年3月)
19、 和田木哲哉 『爆発する太陽電池産業 25兆円市場の現状と未来』 東洋経済新報社、2008.11.27、178p
20、 濱川圭弘、太和田善久 編著 『太陽光が育くむ地球のエネルギー 光合成から光発電へ』、大阪大学出版会、2009.10.16、132p、
21、 濱川圭弘編著 『太陽光発電』 ㈱会社シーエムシー、1995.5.20、210p
22、 京セラ(㈱ソーラーエネルギー事業部 編著 『太陽エネルギーへの挑戦』 清文社 2000.9.30、318p
23、 NEDO『NEDO再生可能エネルギー技術白書』平成22年7月27日 http://www.nedo.go.jp/library/ne_hakusyo_index.html
24、 (KONIm 08A) 小西正暉、鈴木竜宏、蒲谷滋記 『太陽光発電システムがわかる本』 株式会社工業調査会、2008.7.10、321p
25、 三石博行 [再生可能エネルギー促進法とその問題点について -持続可能なエネルギー生産社会を目指すために-」おおつ市民環境塾講座講演の資料(論文)、2011年11月19日http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_03_04/cMITShir11a.pdf
26、 石川憲二 『自然エネルギーの可能性と限界 風力・太陽光発電の実力と現実解』 株式会社オーム社、2010.7.25、190p.
27、 『月刊環境ビジネス』「大特集 スマートグリッドPART1 激化する開発競争」 2011.12月号 VOL.114、pp16⁻68
2章へ
2章「市場からみた太陽光発電システムの課題」
http://mitsuishi.blogspot.com/2012/02/blog-post_20.html
論文「エネルギー消費量からみた現代社会の課題 -太陽光発電の将来性と問題点- 」のダウンロード
クリックしてください
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_03_04/cMITShir11b1.pdf
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三石博行
1-1 、文明のエネルギー史観(神田淳氏の視点から)
私たちは人類史の中で最高の豊かさを手に入れている。この豊かさは18世紀にヨーロッパで始まった産業革命によって可能になった。神田淳氏は『持続可能な文明の創造』の中で、これまでの人類が形成してきた文明の根底に、人類が制御できたエネルギーの姿があることを述べている。神田氏はそれを「文明のエネルギー史観」と呼んだ。
生物学的視点に立てば、哺乳動物の寿命はそれぞれの種の個体(成熟した)の平均体重の0.2乗に比例すると言われる。本川達雄氏によると、その方程式でヒトの寿命を計算すると26.3年となる。そして、考古学調査から縄文人の平均寿命は31歳であったことが判明している。しかし、現代の日本人(女性)の場合には83歳である。縄文人と現代人の決定的違いはエネルギー使用量である。極論すれば、その寿命の差を可能にしたのがこのエネルギー使用量であると言えると神田氏は述べている。
人類は個体が生み出す生物的エネルギーのみでなく、自然のエネルギーを個体保存のために活用することが出来るようになった。それはことば、道具の発見と共に人類を特徴付ける大きな発見であったと言える。これが神田氏のエネルギー史観の基調となり、その後の人類史を活用したエネルギーの形態で分類する所以になる。
例えば、人類の文明の起源として火の使用をその特徴とするなら、第一期の文明は木材資源を活用した火力エネルギー文明と呼ぶことが出来る。この木材火力エネルギー文明時代は古代から中世まで続く。そして、同時に古代から中世、家畜動力、水力(水車)、風力(風車)が開発されるが、それらは主要なエネルギーではなかった。
そして、火力エネルギー文明が木炭・木材から石炭に代わることで産業革命が起こる。火力による製鉄(それまでは木炭によって製鉄が行われていた)、その鉄を用いた道具・機械の大型化、工業機械、そして蒸気機関の発明が次の石炭による火力エネルギー文明が20世紀前半まで続く。この石炭(化石燃料)を火力原料としたのが第二期のエネルギー文明(化石燃料エネルギー文明)である。
1882年のジェームズ・アトキンソンの内燃機関の発明から始まる石油を原料とする火力エネルギー革命が起る。そのエネルギー革命を推進したのは20世紀のアメリカの自動車産業である。そして今日まで、石油を使った新しいエネルギー革命が起り現代社会の経済や文化の姿を生み出している。(Wikipedia内燃機関) つまり、化石燃料である石油エネルギーも第二期の化石燃料エネルギー文明の中に組み込まれることになる。
人類が火(生体エネルギー以外のエネルギー)を生存活動に活用したことが、人と他の動物の明確な境界を生み出し、そのエネルギー活用領域を拡大することで、人類は自然資源の加工能力や社会生産力を得て、さらにその力(知性と経済力)をもって生活文化、経済活動、社会制度、文明を創ってきた。この文明の発展の原動力に神田氏はエネルギー資源の生産と活用の技術史を文明のエネルギー史観と呼んだのである。(KANDsu11A)
これまで、人類の歴史を経済制度や道具(生産手段)で理解する考え方はあった。著者も生活情報や生活資源の視点から歴史観を述べたことがある。エネルギー史観はそれらの歴史観と同類の考え方でありまったく目新しいものではないが、持続可能な社会の在り方を模索するために現代社会の巨大エネルギー消費の社会構造を理解することは必要である。今まで多くの専門家がその課題に取り組んできた。それらの研究や提言の歴史(経過)を「エネルギー史観」という考え方で纏め上げることは、今後の研究の視点に役立つと言える。
1-2、増えつづける世界の人口とネルギー消費量
17世紀の産業革命以来、人類が使用するエネルギーは莫大な量に膨れ上がった。その最大の原因は世界の人口の増加である。図表1(世界の人口の推移)から以下のことが理解できる。つまり、産業革命以前の18世紀初頭の世界の人口は10億人以下であった。1950年には25億人、そして1987年にはその2倍の50億人、つまり37年間で世界人口は2倍に増え、2009年には68億人(59年間に約2.7倍強)に増えた。現在、2011年には70億人といわれている。そして、国連人口基金は2050年には世界人口は91億人に到達すると予測している。
図表1 世界人口の推移 ※画像をクリックすると大きくなります
出典 国連人口基金東京事務所資料 (KANDsu11 p81)
グレゴリー・クラークの資料によると、紀元前10世紀から18世紀後半の産業革命までは一人当たりの所得(最低生存費水準)は殆ど変化していない。この均衡状態をマルサス的均衡の状態とかマルサスの罠(文末用語解説を参考)と呼んでいる。図表2の相対尺度1はこの均衡状態、つまりマスサスの罠と呼ばれる人口が増加しない状態を意味している。つまり、この状態では人口の変動はありえないのである。そして、産業革命によって一人あたりの生産力が増加、その結果、一人当たりの所得が増えつづける。その所得の増加と図表1の人口の増加は不可分の関係にあると言える。そして、この図表1の2050年の世界の人口の推移(91億人)の仮定には、国民所得が増加しつづけるという前提で予測される人口であると言える。
図表2 世界史における人口一人あたりの所得の変化 ※画像をクリックすると大きくなります
出典 グレゴリー・クラーク『10万円の世界経済史』 上巻p14-15 (KANDsu11A p81)
2010年の『エネルギー白書』(世界銀行年次報告、World BankのWorld Development Indicatorsのデータ)によると、世界のエネルギー消費量(一次エネルギー)は経済成長とともに増加を続け、1965年の38億TOE(原油換算トン、Tonne of Oil Equivalent)、つまり41TW(テラワット) (410億KW)から年平均2.6%で増加し続け、2008年には113億TOE、つまり130TW(テラワット)(1300億KW)に達したと報告されている。43年間に約3.2倍に増えたことになる。
図表3はWord Bankの調査した2009年の世界の国々の一人当たりのGDPのランキングを示したものである。1位のモナコは国民一人当たりの1年間のGDPは186,175US$である。日本は22位で39,738US$(1ドルを77円として約306万円)となる。日本に比べて、例えば食糧を要求して立ち上がったアラブの春のチュニジア(ランキングは103位)は一人当たりの所得は3,792$、つまり日本の10分の1、エジプトは2,270$で日本の17分の1の所得となる。186位のコンゴ民主共和国は国民一人当たり160$で、日本の何と249分の1である。
図表3, 世界銀による1人当たりGDP世界ランキング(2009年)※画像をクリックすると大きくなります
出典 フリー百科事典Wikipedia 「国の国内総生産順序リスト(1人当たり為替レート)(KANDsu11A p85)
この数値が即、国民生活の質を表現するものではないとしても、明らかに現在、先進国と発展途上国との国民所得の差は非常に大きいのである。当然、発展途上国の国民は豊かな生活を求める。その結果として世界のエネルギー消費量は今後急増することは避けられないのである。
例えば、GDP(国内総生産量)が世界2位である中国(58,786億US$)は、国民一人当たりのGDPは3,744US$(日本の10分の1以下)である。しかし、中国の今後の経済成長を考えると、容易に国民一人当たりのGDPが上がり続ける。つまり、発展途上国でのエネルギー消費量はそれに比例して増加し続ける。
IEAの資料(図表4)によると世界の一次エネルギー消費量は約年率2%で増加を続け、2035年には石油換算量16,386(百万トン)163億トン(約1900億KW)となると予測されている。近年の新興国や途上国での消費量の急激な増加の動向を考えると、その予測以上の一次エネルギー消費量が必要となる可能性も否定できない。しかし、将来、有限な地球資源量を考えると、2050年の予測人口91億人の実現可能性は疑問視されるかもしれない。そして、逆に経済成長を支える一次エネルギー供給(消費量)が不足する可能性を否定できないのである。
図表4 「世界の一次エネルギー供給(消費)」 ※画像をクリックすると大きくなります
出典 IEA 「Energy Balances of OECD Countries」「Energy Balances of Non-OECD Countries」(ZNEK 11A p59)) (ZNEK 11A p59)
マルサスの理論に従えば、世界の人口は増加しないというこの未来の予測は人口淘汰という熾烈な試練が未来に生じることを意味するのである。人口淘汰は、出産の抑制、堕胎、間引き、乳幼児死亡率の増大、餓死等だけではない。それは、資源エネルギーを巡る世界的な紛争(国際地域的、もしくは全世界的な戦争)が起こることも意味しているのである。
1-3 、省エネルギー社会を期待された情報化社会・第三の波の社会(A.トフラー氏の視点から)
石炭による火力エネルギーを活用することで可能になった産業革命以前の社会では、ことによって、それまで農業を中心とした社会であった。
石器時代を代表する自然素材そのものを利用して道具を作っていた時代では、人々の生活は他の動物と同じように与えられた自然環境の条件に厳しく限定され生存していた。人々は生態系の中で与えられた食料を捕獲しながら生活していた。この時代を生産様式の視点から観るなら、狩猟社会と呼ぶことができる。
そして人類は自然素材を加工しより優れた道具を作ることによって、この与えられた自然環境(生態系)の中で生存していた生活環境から人工的環境を形成することが可能になる。例えば、焼畑や灌漑によって生態環境に手を加え食料生産を行う農業と呼ばれる生産様式を開発することによって、農耕地(畑や穀物果樹園)を作りより効率よく食料を生産することが出来るようになった。
与えられた生態環境に束縛されて生活をしていた狩猟時代から自然生態環境に手を加え食料を生産した農耕時代が登場する。農耕文明を発展させることによって、人類は以前よりもより効率の良く生産物を手にいれることができた。この農耕文明をもたらした農業革命をアルビン・トフラーは第一の波と呼んだ。
トフラーは、産業革命によって生まれた工業生産を中心とする社会を第二の波の社会と呼んだ。この第二の波の社会では、大量生産、大量流通、大量教育、マスメディア、大量のレクリエーション、大衆娯楽等の産業文化や過去の二つの世界戦争を特徴付けたに大量破壊兵器による総力戦、そして大企業を中心とする生産の規格化や標準化が行われ、19世紀に登場した国民国家、帝国主義と呼ばれる強い国家体制、それを維持し発展させた官僚機能の中央集権、社会機能の首都(主要都市)への集中化、国家的規範によって国の津々浦々まで統制のとれた社会制度(警察や官僚組織)が形成された。徴兵は国民の義務となり、国家という権力に今まで経験したことのない強烈な規則(法律)で支配されることになった。
そして、第二次世界戦争が終わり、植民地主義を土台とする資本主義経済(帝国主義)への非難が高まり、また情報科学技術が発展することによって、第三の波とよばれる脱産業社会(脱工業化社会)への流れが始まった。先進国とよばれる発達した資本主義社会の国民は民主主義や人権尊厳を社会理念とする成熟した社会の在り方を模索することになる。トフラーはこの社会への流れを第三の波と呼んだ。トフラーはこの第三の波へと変化する社会を、情報化時代、情報化社会、情報革命等の造語を創り説明をしたのであった。
情報化社会はトヨタ生産システムに代表される部品ストック量の軽減、流通の合理的配分、インターネットによる紙情報による伝達の消滅、つまり情報伝達のための物質資源利用の軽減、テレビ会議(インターネット上での会議)による運送機関利用の軽減、シミュレーション技術による開発コストの削減、インターネット上での動画配信による大衆娯楽施設(装備)の個人化等々、資源とエネルギーを節約し、結果的に省エネルギー社会の入り口を創ると期待されたのである。
1-4、三つの産業革命、躍進するIT産業による巨大エネルギー消費社会の出現(藤原洋氏の視点から)
しかし今、情報化社会が省エネルギー社会を導いていることに対する点検が始まっている。その問題を投げかけた一人として藤原洋氏の第4の産業革命の概念がある。その中で、藤原氏は情報化社会を第3の産業革命(3つの波)と位置付け、その社会は巨大なエネルギー消費社会であると述べた。まず、藤原氏の四つの産業革命に関する概念を簡単に紹介する。
18世紀のイギリスを起点として始まる産業革命を第一次産業革命と藤原氏は呼んだ。蒸気機関とは石炭を燃やし熱を発生させ、その熱で水を蒸気に変え、その蒸気の力で動力を動かす外燃機関である。つまり、エンジンを直接動かしている物質は高温の蒸気(水)である。水が蒸気になることで18cc(水分子1モル当たりの重さ)の体積が1気圧で22.4リットルに増える。さらに高温にすることでその体積はさらに増える。この熱力学の法則を活用し、膨張した体積を動力源としたのが蒸気機関である。その意味で藤原氏は第一次産業革命を蒸気機関による動力革命によって生み出されたと述べている。
石油を原料として生み出された内燃機関は、シリンダーの中で酸素と揮発性炭化水素(石油)が化学反応(燃焼反応)を起こし、その熱と生成されたガス(二酸化炭素や水蒸気)によってシリンダーが上下運度を起こす。そこで藤原氏はこの内燃機関による生産技術の変化を第二次産業革命と呼んでいる。また、石油は単に燃料となるばかりでなく、化学合成工業の原料となった。第二次産業革命によって化学繊維、プラスチックなどの化学合成素材(新素材)が生み出された。化学変化をエネルギーの動力や産業資源として新しい重化学産業が生み出された。石油化学工業や内燃機関による自動車や運輸産業が引き起こす新しい産業形成過程を第二次産業革命と藤原氏は呼んだのである。
1950年代以後、情報・通信に関する科学技術の進歩によってコンピュータ産業、情報産業が発展する。この情報通信技術によって導かれた産業構造の変化を第三の産業革命と藤原氏は呼んだ。このデジタル情報革命の進展によって期待された省エネルギーは実現しなかった。情報処理技術の進歩によって情報処理の高速化が日進月歩で進んでいる。半導体の集積密度は18から24ヵ月で倍増すると技術革新の流れの規則性をムーアの法則と呼んでいる。また、ネットワーク情報通信では「森の法則」とよばれるブロードバンドトラフィックは加入者の倍増に対して指数関数的に増大するというと規則が成立している。このムーアの法則や森の法則が意味することは、今後もIT産業は飛躍的に進歩し続けるという予測である。
携帯電話の普及等々、中国、ブラジル、ロシアやインド等の新興国や発展途上国での情報化社会は益々進み、莫大な情報の入力、蓄積と出力の高速化が必要とされる。その情報処理に必要とされるエネルギーは莫大なものになろうとしている。例えば、2006年の米アクセンチュア社のレポートによるとデータセンターの電力消費量は600億KWhで、全米の電力消費量の1.5%を占めた。
わが国でも、このIT産業による巨大な電力消費問題に対応するため、経済産業省が2008年にグリーンITプロジェクトを立ち上げた。このプロジェクトはIT機器による電力消費量は2025年には全電力消費量の40%に達し、2050年には50%に達するだろうと予測した。つまり、IT産業の躍進によって発展する第三の産業革命(第三の波)の延長には巨大な電力消費社会があり、そのために原子力発電等の導入が提案される結果となっている。
1-5 、現代科学技術文明社会・巨大エネルギー消費社会の課題
トフラーは第三の波、参画型の民主主義社会の土台となる情報化社会に未来の産業や社会システムの発展を望んでいた。しかし、その社会は、藤原洋氏が指摘したように、巨大な電気エネルギーを消費する社会であった。科学技術の力によって情報処理機能によって動く最先端の生産システムを創り、情報通信を駆使してより効率よい流通や生産管理を行い、巨大な生産力を獲得してきた。それらの現代科学技術文明に支えられた資本主義の社会では、より大きな利益を求めるために、日々、生産効率を上げるための努力が払われている。そのすべてのエネルギーを化石燃料や原子力によって得てきた。それらのエネルギー資源なくしては、現在の生産システム、社会システムや生活システムは成立しないのである。
21世紀は20世紀の科学技術文明社会を先導してきた欧米や日本だけでなく、発展途上国の経済発展も始まり、その速度は加速度的に高まっている。人口の多い中国、インド、インドネシア等の国々の経済発展によって、更に多くのエネルギーが必要となっている。生活の豊かさ(人間の当然の権利)を求める世界の人々によって、世界のエネルギーの消費量はさらに増加し続ける。巨大エネルギー消費社会は全世界に波及し続け、究極的にはエネルギーの枯渇問題や巨大なエネルギー消費によってさらに深刻化する異常気象(地球温暖化等々)や環境破壊が進むことは避けられないのである。
また、エネルギー枯渇問題は、暫定的には高騰する化石燃料を主体とするエネルギー資源問題として現れるだろう。そこに起る問題は昨年エジプトで起った小麦粉等の食糧の不足で生じる市民の暴動、そして今年1月からアラブの春とよばれる市民の反乱と独裁政権の終焉等々、政治的問題に発展した。しかし、市民が政権を取ったとしてもエネルギーや資源の絶対量は不足し続けるだろう。つまり、石油資源に依存する社会や国の貧困化は人口増大に拍車を掛けながら、次第に深刻化することは避けられないのである。しかも、東電福島原発事故が示しているように、原子力エネルギーの活用は上記した貧困化対策へのベストな解決策を与えるとは思われない。
言い換えると、20世紀社会は、社会経済システムは生産力の向上を目指して構築、改革、再編され続けてきた。しかし、21世紀の社会は、巨大なエネルギー消費社会からの脱却が問われている。その確実な解決策はない。しかも、その解決策を早急に探し求めなければならないことは明らかである。これまでにあった社会発展の理念を変換することが問われている。そして、化石燃料や原子力エネルギーに依存しない社会経済システムを構築しなければならないことも問われている。
エネルギーききが世界を襲い、列強(帝国主義)の国々が20世紀初頭に繰り広げられたたエネルギー資源の争奪をめぐる国際的な紛争(世界戦争)が起らないために、今、何をすべきかを考えなければならない。それはこれまでの社会理念と全く異なる社会モデル(例えば縮小社会)を提起するだろう。いずれにしても、生活の豊かさを求める発展途上国の人々、先進国の豊かな生活を持続したい人々、殆どがエネルギー消費量の極端な削減策には同意しないだろう。
そこで、民主主義(資本主義)と現代科学技術文明によって生み出された豊かな生活の質を維持し、また獲得し続けることを前提にしたエネルギー政策が問われることになる。その二つの課題、つまり生活の豊かさ(巨大なエネルギー資源の消費によって成立する社会)と化石燃料や原子力エネルギーへの依存をなくし、再生可能なエネルギー消費社会を創ることは矛盾なく成立するだろうか。その二つの課題が成立するための条件を考えなければならないのである。そして、以上のエネルギー消費量から観た現代科学技術文明社会に関する議論から解決しなければならない3つの課題を挙げる。
1、 再生可能エネルギー技術と社会経済システムの開発
2、 省エネルギー技術と社会システムの開発
3、 食糧、資源エネルギー問題や人口問題の解決、資源問題で生じる国際紛争への対応と資源独占・争奪をめぐる世界戦争の回避
用語解説
1、マルサスの罠
マルサスは、彼の有名な『人口論』の中で「人口は生産物の増加速度を上回る速さで増加を続けている」と述べている。そのため、「労働投入量を増やせば増やすほど生産量は増加するが、追加的増分(生産物の)はしだいに小さくなる」関係(限界生産力逓減の法則)が生じる。つまり、貧困化が生じる。
その貧困によって、「余分な人口は淘汰される。現実には、出産の抑制、堕胎、間引き、乳幼児死亡率の増大、餓死等が起こる」ことになる。そのことによって人口増加は抑制される。これを最低生存費均衡の理論と呼んでいる。マルサスの基本仮定によって人口は常に増加する傾向を持つのだが、その人口増加は最低生存費均衡の理論によってある水準に留まる。
つまり、世界人口の増加が産業革命以前になかったように、結局、人口は増加も減少もしなくなる。「この均衡状態をマルサス的均衡の状態(Malthusian equilibrium)あるいはマルサスの罠(Malthusian trap)と呼んでいる。マルサスの罠の状態では、1人当りの所得は最低生存費水準であるから、所得の一部を貯蓄にまわす余裕はない」生活状態にある。この状況では所得はすべて消費され、その殆どが生きるため必要な生活資源に使われることになる。
参考 鳥居泰彦『経済発展理論』東洋経済新報社、1979年
http://phrik.misc.hit-u.ac.jp/Asami/Jugyo/2005/socdev/week2/malthus1.html
2、国民総所得、国民総生産、国内総生産
「国民総所得(Gross National Income)とは、略してGNIと呼び、1990年代半ば以前に経済活動の指標として使われていた国民総生産 (GNP, Gross National Product)と、税制の計算上の適用有無の違いがあるもの近い指標である。日本の国民経済計算(国民所得統計)では、2000年に大幅な体系の変更が行われた際に統計の項目として新たに設けられた。」現在経済指標として多く使われている国内総生産 (GDP, Gross Domestic Product) は海外や自国の企業全てが国内での生産量を示す。
その国内総生産に「海外からの所得の純受取」を加えたものが国民総生産である。(Wikipedia)
製造業を中心として国内で生産を続けていた1990年代までの日本は国内総生産が大きかった。しかし、海外に工場を移し、また海外の企業を買収してそこで生産をするようになってから、国内総生産は減少している。つまり、2000年代になると日本は、国民総所得(国民総生産)の大きな割合を海外からの所得の純受取に依存するようになっている。
また、「海外への融資の利回りで得た国民総生産と国民総所得は、名目では一致するが、実質では若干の差がある。これは、実質国民総所得では、実質国民総生産は考慮されていない、輸出入価格の変化によって生じる実質的な所得の増加分を「交易利得」として加えているためである。」(Wikipedia)
参考資料
1、 (TSUZk 10A)都築建 『エネルギーシフト 太陽光発電で暮らしを変える・社会が変わる』株式会社旬報社、2010.10.25、179p
2、 (KANDsu11) 神田淳『持続可能文明の創造』 株式会社エネルギーフォーラム2011.7.6、
3、 (Wikipedia) Wikipedia 「内燃機関」
4、 電気連合会 「図表で語るエネルギーの基礎2008-2009」
http://www.fepc.or.jp/library/publication/pamphlet/pdf/enekiso08_09.pdf
5、 鳥居泰彦『経済発展理論』東洋経済新報社、1979年
http://phrik.misc.hit-u.ac.jp/Asami/Jugyo/2005/socdev/week2/malthus1.html
6、 (FJHAh 10A ) 藤原洋 『第4の産業革命』 朝日新聞出版 2010.7.30、207p
7、 経済産業省 『平成22年度 エネルギーに関する年次報告 第179回国会(臨時会提出)』242p
8、 経済産業省 「平成22年度 エネルギーに関する年次報告 概要」 平成22年10月 5p
9、 (NISIt 11A)西山孝 別所昌彦(まさひこ)『統計データからみる 地球環境・資源エネルギー論』 丸善出版社、2011.4.30、163p
10、 (YAMAk 02A)山田興一、小宮山宏著 『太陽光発電工学 太陽電池の基礎からシステム評価まで』 日経BP社、2002.10.7、254p
11、 (ZNEK 11A) 財団法人 日本エネルギー研究所 計量分析ユニット編 『図解 エネルギー・経済データの読み方入門』財団法人、省エネルギーセンタ― 2011.10.12、改訂3版、 348p
12、 濱川圭弘、太和田善久 編著 『太陽光が育くむ地球のエネルギー 光合成から光発電へ』、大阪大学出版会、2009.10.16、132p、
13、 鷲田豊明『環境とエネルギーの経済分析』白桃書房、1992年10月6日刊)http://eco.genv.sophia.ac.jp/book/sosyo/so-4-3.html
14、 桑野幸徳 「太陽光発電の実力は」PowerPoint資料 17p
http://www.natureasia.com/japan/nature_cafe/reports/videos/111609/presentation-kuwano.pdf
15、 桑野幸徳 『太陽電池はどのように発明され、成長したのか -太陽電池開発の歴史-』オーム社、2011.8.11、430p
16、 桑野幸徳・近藤道雄 監修 『図解 最新 太陽光発電のすべて』オーム社、2011.6.1、255p
17、 瀬川浩司、小関珠音、加藤謙介 編著『サイエンス徹底図解 太陽電池のしくみ』 新星出版社、2010.5、183p
18、 NEDO成果報告書「太陽光発電評価の調査研究」(2001年3月)
19、 和田木哲哉 『爆発する太陽電池産業 25兆円市場の現状と未来』 東洋経済新報社、2008.11.27、178p
20、 濱川圭弘、太和田善久 編著 『太陽光が育くむ地球のエネルギー 光合成から光発電へ』、大阪大学出版会、2009.10.16、132p、
21、 濱川圭弘編著 『太陽光発電』 ㈱会社シーエムシー、1995.5.20、210p
22、 京セラ(㈱ソーラーエネルギー事業部 編著 『太陽エネルギーへの挑戦』 清文社 2000.9.30、318p
23、 NEDO『NEDO再生可能エネルギー技術白書』平成22年7月27日 http://www.nedo.go.jp/library/ne_hakusyo_index.html
24、 (KONIm 08A) 小西正暉、鈴木竜宏、蒲谷滋記 『太陽光発電システムがわかる本』 株式会社工業調査会、2008.7.10、321p
25、 三石博行 [再生可能エネルギー促進法とその問題点について -持続可能なエネルギー生産社会を目指すために-」おおつ市民環境塾講座講演の資料(論文)、2011年11月19日http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_03_04/cMITShir11a.pdf
26、 石川憲二 『自然エネルギーの可能性と限界 風力・太陽光発電の実力と現実解』 株式会社オーム社、2010.7.25、190p.
27、 『月刊環境ビジネス』「大特集 スマートグリッドPART1 激化する開発競争」 2011.12月号 VOL.114、pp16⁻68
2章へ
2章「市場からみた太陽光発電システムの課題」
http://mitsuishi.blogspot.com/2012/02/blog-post_20.html
論文「エネルギー消費量からみた現代社会の課題 -太陽光発電の将来性と問題点- 」のダウンロード
クリックしてください
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_03_04/cMITShir11b1.pdf
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2012年1月19日木曜日
ブログという知的生産の技術について
生活行為や思索点検としての文章化作業
三石博行
メモ帳を使った作業
殆どのアイデアは、メモ帳にまずスケッチされる。それを発想のスケッチと呼ぶ。メモ帳には、アイデアのみでなく、インターネット等々の情報も入力される。これらの材料が、ブログ文章を書くためにまず必要となる。
メモ帳を使って、まず、思ったままを書いてみる。書きながら考えがまとまる。勿論、まとまらない場合が殆どだろう。しかし、書くことで思索作業が進むことは確かだ。
メモ帳と使った作業で、公開して良いもの、つまり、他人が時間を費やして読む価値があると私が主観的に判断したものだけをブログで公開する。
このメモ帳を使った作業の目的は、ブログの文書や論文の準備ではない。あくまでも思うままのこと、ヒョイと浮かんだ考え、アイデアを書き写すためのものである。思うままに書くことに、このメモ帳に書く意味がある。
ブログを使った作業
日々考えることを書き綴る道具としてブログと呼ばれる日記風の文書化がある。ブログは公開される文章である。そのため、自分の思うままに書くことをそのまま公開することは出来ないだろう。それらの文章が意味不明、人々の気持ちを害する、まったく他者の興味のない、つまり公共性を持たない等々の可能性がある場合、文書の公開は百害あって一利なしと呼ばれる結果を生むだろう。それが明らかなら、あえて文書を公開する必要はない。公開という作業は、公開することの意味を前提にしていることで可能になっている。
もし、情報の公開という作業を自分だけの自己満足の作業にするなら、インターネットという社会的資源の無駄遣いをすることになるだろう。また、それによって、他者に不愉快な気持ちを与えたり、まったく世の中の理解を得られない情報、間違った情報を発信することはあまりよいことではないと思う(これは私個人の考え方であるので、他の人に強制しようとは思わない)。
社会に伝えたいことをスケッチし、それらが一定の形式や内容(中身)を得ることが出来た時、その文章をブログとして公開する(社会に伝える)。これが私流のブログ文章化作業である。そのため、私はブログ文書はテーマを絞り、できるだけ分かりやすく書くこと、そして短い文章にすることに努めようと思う。
ブログを書く作業で、例えばスケッチした文章をブログ日記に書きなおすことになる。その中で、ブログ上の文書編集を行う。それらの文章は一定のテーマを与えられ、何らかのキーワード(中心テーマ)が与えられる。それらのキーワードとは日常的に思い続けている課題とリンクしている。
私の場合、ブログで書く作業とは、日常生活の中で思索し続けてきた課題を纏めるということを意味する。つまり、ブログを書くことで、それらの課題を顕在化し、継続化し、分析、整理し、自己の中にある他の論理や指向性との整合性を求めることになる。一般に書くという作業が、こうした自己整合性の確認や点検の実験を意味する。そこで、私はこのブログのタイトルを「生活運動から思想運動へ」としたのだ。
もし、生活行為がある生き方に従うように企画されるなら、そこには大まかな生活行為の指向性が生じる。それらするいてみる。そして、それらの思索が方向性を持つ限り、それらの思索を綴った文章は、断片から文章集に変貌するだろう。そして、文書集への変貌は、断片的思索を一定の方向に導きまとまった主張に発展する。そのために、文書集の目次が書かれ、また、その中には予定された文章項目が入ることになる。説得力のある主張を行うことが、文章集を作る作業の目的である。
しかし、それらの文章が予定されたように完成される保障は何もない。それらの予定は常に頭の中で描かれたものでしかない。そのため、内容をの構想にすぎない。多分に、予測された文書集の目次とは別の展開が始まることになる。しかし、それらの全ての作業が、ブログを書くという思索の点検や再編集作業、思考実験であると言えるだろう。
文書の進化過程は、以下のようになる。
1、文書編集
2、文書集の編集
3、文書集としてまとめる。
ブログ文書の形式は、文章だとブログ形式で十分であるが、論文形式の場合、表や図面が入るとそれらをを張り付ける必要がある。そのための、技術的な問題を解決してきた。そして、それらの文章が最も簡単にPDFファイル形式で作成できるので、その文章をホームページに添付することになる。
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三石博行
メモ帳を使った作業
殆どのアイデアは、メモ帳にまずスケッチされる。それを発想のスケッチと呼ぶ。メモ帳には、アイデアのみでなく、インターネット等々の情報も入力される。これらの材料が、ブログ文章を書くためにまず必要となる。
メモ帳を使って、まず、思ったままを書いてみる。書きながら考えがまとまる。勿論、まとまらない場合が殆どだろう。しかし、書くことで思索作業が進むことは確かだ。
メモ帳と使った作業で、公開して良いもの、つまり、他人が時間を費やして読む価値があると私が主観的に判断したものだけをブログで公開する。
このメモ帳を使った作業の目的は、ブログの文書や論文の準備ではない。あくまでも思うままのこと、ヒョイと浮かんだ考え、アイデアを書き写すためのものである。思うままに書くことに、このメモ帳に書く意味がある。
ブログを使った作業
日々考えることを書き綴る道具としてブログと呼ばれる日記風の文書化がある。ブログは公開される文章である。そのため、自分の思うままに書くことをそのまま公開することは出来ないだろう。それらの文章が意味不明、人々の気持ちを害する、まったく他者の興味のない、つまり公共性を持たない等々の可能性がある場合、文書の公開は百害あって一利なしと呼ばれる結果を生むだろう。それが明らかなら、あえて文書を公開する必要はない。公開という作業は、公開することの意味を前提にしていることで可能になっている。
もし、情報の公開という作業を自分だけの自己満足の作業にするなら、インターネットという社会的資源の無駄遣いをすることになるだろう。また、それによって、他者に不愉快な気持ちを与えたり、まったく世の中の理解を得られない情報、間違った情報を発信することはあまりよいことではないと思う(これは私個人の考え方であるので、他の人に強制しようとは思わない)。
社会に伝えたいことをスケッチし、それらが一定の形式や内容(中身)を得ることが出来た時、その文章をブログとして公開する(社会に伝える)。これが私流のブログ文章化作業である。そのため、私はブログ文書はテーマを絞り、できるだけ分かりやすく書くこと、そして短い文章にすることに努めようと思う。
ブログを書く作業で、例えばスケッチした文章をブログ日記に書きなおすことになる。その中で、ブログ上の文書編集を行う。それらの文章は一定のテーマを与えられ、何らかのキーワード(中心テーマ)が与えられる。それらのキーワードとは日常的に思い続けている課題とリンクしている。
私の場合、ブログで書く作業とは、日常生活の中で思索し続けてきた課題を纏めるということを意味する。つまり、ブログを書くことで、それらの課題を顕在化し、継続化し、分析、整理し、自己の中にある他の論理や指向性との整合性を求めることになる。一般に書くという作業が、こうした自己整合性の確認や点検の実験を意味する。そこで、私はこのブログのタイトルを「生活運動から思想運動へ」としたのだ。
もし、生活行為がある生き方に従うように企画されるなら、そこには大まかな生活行為の指向性が生じる。それらするいてみる。そして、それらの思索が方向性を持つ限り、それらの思索を綴った文章は、断片から文章集に変貌するだろう。そして、文書集への変貌は、断片的思索を一定の方向に導きまとまった主張に発展する。そのために、文書集の目次が書かれ、また、その中には予定された文章項目が入ることになる。説得力のある主張を行うことが、文章集を作る作業の目的である。
しかし、それらの文章が予定されたように完成される保障は何もない。それらの予定は常に頭の中で描かれたものでしかない。そのため、内容をの構想にすぎない。多分に、予測された文書集の目次とは別の展開が始まることになる。しかし、それらの全ての作業が、ブログを書くという思索の点検や再編集作業、思考実験であると言えるだろう。
文書の進化過程は、以下のようになる。
1、文書編集
2、文書集の編集
3、文書集としてまとめる。
ブログ文書の形式は、文章だとブログ形式で十分であるが、論文形式の場合、表や図面が入るとそれらをを張り付ける必要がある。そのための、技術的な問題を解決してきた。そして、それらの文章が最も簡単にPDFファイル形式で作成できるので、その文章をホームページに添付することになる。
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2011年12月3日土曜日
新しい社会政策の模索の時代、問われている21世紀社会の姿と理念
成熟した社会・民主主義社会を発展させるたに(1)
三石博行
2011年3月11日、東日本大震災と東電福島第一原子力発電所事故(以後、福島原発事故と呼ぶ)が発生したその日から、日本の社会は大きな課題に直面した。大震災や大原発事故への対応に現れた政治、行政、経済、社会や文化のシステム上の問題としてその大きな課題は現象化した。しかし、それらの現象はすでにこれまで1990年代の日本経済を襲った経済問題(バブル経済の破綻)やその後の社会経済力の低迷、そして相次ぐ冤罪問題等々これまでの新聞紙面に大々的に報道された社会現象(事件)のかたちを取って現れ続けていた。
敏感な人々はこの問題の本質を見抜いていた。それは一言で言うなら、これらの問題は、日本が成熟した社会・民主主義文化を持つ社会への発展の過程で問われていた社会的構造・機能に関わる課題から生じていると言えた。この国のかたちと呼ばれた社会の基本的構造・機能に関して、これらの問題が示唆していることは、これまでの政治、社会経済文化等の政策が限界に来ているということであった。その解決策には多くの見解が存在している。
それらの見解はすべて国民は政党政治の埒内で検討吟味し続けてきた。例えば、反自民党政権で成立した1993年の細川連立政権(細川内閣の取り組んだ政治改革・公職選挙法改正や政党資金規正法と生徒助成法等)、自民党を打っ潰す(ぶっつぶす)と呼び掛けて圧倒的に選挙選で勝ち抜いて成立した2002年小泉政権(小泉内閣の市場原理主義の導入と小さな政府化・行政改革や規制緩和)、そして今年の橋下徹氏の大阪でのダブル選挙(知事選と市長選)もその流れの一端であると理解できる。
これまでの問題解決策として出された見解は、経済成長論、市場原理による競争原理の導入等々、今までの社会経済政策を成功に導いた実績の評価を前提にして提案されたものであった。それらの考え方で改革はある程度進んできたとも言える。しかし、それらの考え方の中で全く有効性を発揮できなかった政策(例えば公共投資による経済成長政策)がある。すでに、その問題点は指摘されているのであるが、政党の壁を越えて今、これまで1990年代から政府が行った政策を点検しなければならない。
具体的な政策課題の点検の前に、明確にしなければならないのはこの国の基本的なかたちに関する社会像であり、社会理念や社会思想である。そのことが明確でない以上、具体的な施策の提案を羅列したとしても、それらの提言の賞味期限は極めて短い。21世紀の日本社会の構想を出し、そのために問われる社会思想や社会理念について議論しなければならない。
引用、参考資料
1、国民の社会改革への参画こそ民主主義文化展開の唯一の方法である
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post.html
2、現在問われている社会改革の課題
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post_01.html
つづき
国民の社会改革への参画こそ民主主義文化展開の唯一の方法である
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post.html
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三石博行
2011年3月11日、東日本大震災と東電福島第一原子力発電所事故(以後、福島原発事故と呼ぶ)が発生したその日から、日本の社会は大きな課題に直面した。大震災や大原発事故への対応に現れた政治、行政、経済、社会や文化のシステム上の問題としてその大きな課題は現象化した。しかし、それらの現象はすでにこれまで1990年代の日本経済を襲った経済問題(バブル経済の破綻)やその後の社会経済力の低迷、そして相次ぐ冤罪問題等々これまでの新聞紙面に大々的に報道された社会現象(事件)のかたちを取って現れ続けていた。
敏感な人々はこの問題の本質を見抜いていた。それは一言で言うなら、これらの問題は、日本が成熟した社会・民主主義文化を持つ社会への発展の過程で問われていた社会的構造・機能に関わる課題から生じていると言えた。この国のかたちと呼ばれた社会の基本的構造・機能に関して、これらの問題が示唆していることは、これまでの政治、社会経済文化等の政策が限界に来ているということであった。その解決策には多くの見解が存在している。
それらの見解はすべて国民は政党政治の埒内で検討吟味し続けてきた。例えば、反自民党政権で成立した1993年の細川連立政権(細川内閣の取り組んだ政治改革・公職選挙法改正や政党資金規正法と生徒助成法等)、自民党を打っ潰す(ぶっつぶす)と呼び掛けて圧倒的に選挙選で勝ち抜いて成立した2002年小泉政権(小泉内閣の市場原理主義の導入と小さな政府化・行政改革や規制緩和)、そして今年の橋下徹氏の大阪でのダブル選挙(知事選と市長選)もその流れの一端であると理解できる。
これまでの問題解決策として出された見解は、経済成長論、市場原理による競争原理の導入等々、今までの社会経済政策を成功に導いた実績の評価を前提にして提案されたものであった。それらの考え方で改革はある程度進んできたとも言える。しかし、それらの考え方の中で全く有効性を発揮できなかった政策(例えば公共投資による経済成長政策)がある。すでに、その問題点は指摘されているのであるが、政党の壁を越えて今、これまで1990年代から政府が行った政策を点検しなければならない。
具体的な政策課題の点検の前に、明確にしなければならないのはこの国の基本的なかたちに関する社会像であり、社会理念や社会思想である。そのことが明確でない以上、具体的な施策の提案を羅列したとしても、それらの提言の賞味期限は極めて短い。21世紀の日本社会の構想を出し、そのために問われる社会思想や社会理念について議論しなければならない。
引用、参考資料
1、国民の社会改革への参画こそ民主主義文化展開の唯一の方法である
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post.html
2、現在問われている社会改革の課題
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post_01.html
つづき
国民の社会改革への参画こそ民主主義文化展開の唯一の方法である
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post.html
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ブログ文書集「民主主義文化としての報道機能について」
「民主主義文化としての報道機能について」の目次
三石博行
0、はじめに(何故、報道機能の改革が課題となるのか)
0-1、HKK・公共放送は誰のために「原発事故報道の検証」作業を行ったのか
0-2、ポスト311時代のメディアとしての市民メデァイの社会的機能
1.スコミの現実
1-1、マスコミの本音と報道の自由
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/09/blog-post.html
1-2、「私企業としての報道活動と電波伝達空間の所有権」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/10/blog-post.html
1-3、「民間報道の報道の自由とその国民的監視機能の必要性」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post_02.html
2、公共報道機関の必要性とその独自性を擁護するための改革
2-1、国家の利益を擁護する情報機能としての公共報道の宿命
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post_527.html
2-2、公共報道機能の独立権の成立条件とは
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post_5219.html
2-3、国民負担による公共放送の意味を理解するために
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post_6015.html
2-4、国民参画の公共放送を目指す課題
未完成
3、コミュニティメディアと市民参加の報道機能の確立
3-1、高度情報化社会での報道機能の革命
未完成
3-2、コミュニティメディアの役割
未完成
3-3、コミュニティメディアを支える土台、知識社会と民主主義文化
未完成
4、報道の自由とモラル
4-1、国民文化に根ざす報道の自由の意味と報道のモラル
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_4500.html
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ブログ文書集
1、ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3562.html
2、ブログ文書集「東日本大震災の復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
3、ブログ文書集「日本の政治改革への提言」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_9428.html
4、ブログ文書集「21世紀日本社会のための大学教育改革の提案」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html
6、ブログ文書集「持続可能なエネルギー生産社会を目指すために」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/11/blog-post_2842.html
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三石博行
0、はじめに(何故、報道機能の改革が課題となるのか)
0-1、HKK・公共放送は誰のために「原発事故報道の検証」作業を行ったのか
0-2、ポスト311時代のメディアとしての市民メデァイの社会的機能
1.スコミの現実
1-1、マスコミの本音と報道の自由
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/09/blog-post.html
1-2、「私企業としての報道活動と電波伝達空間の所有権」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/10/blog-post.html
1-3、「民間報道の報道の自由とその国民的監視機能の必要性」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post_02.html
2、公共報道機関の必要性とその独自性を擁護するための改革
2-1、国家の利益を擁護する情報機能としての公共報道の宿命
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post_527.html
2-2、公共報道機能の独立権の成立条件とは
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post_5219.html
2-3、国民負担による公共放送の意味を理解するために
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post_6015.html
2-4、国民参画の公共放送を目指す課題
未完成
3、コミュニティメディアと市民参加の報道機能の確立
3-1、高度情報化社会での報道機能の革命
未完成
3-2、コミュニティメディアの役割
未完成
3-3、コミュニティメディアを支える土台、知識社会と民主主義文化
未完成
4、報道の自由とモラル
4-1、国民文化に根ざす報道の自由の意味と報道のモラル
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_4500.html
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ブログ文書集
1、ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3562.html
2、ブログ文書集「東日本大震災の復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
3、ブログ文書集「日本の政治改革への提言」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_9428.html
4、ブログ文書集「21世紀日本社会のための大学教育改革の提案」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html
6、ブログ文書集「持続可能なエネルギー生産社会を目指すために」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/11/blog-post_2842.html
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2011年12月2日金曜日
国民負担による公共放送の意味を理解するために
民主主義と報道機能(6)
三石博行
国民主権による公共放送の社会情報機能を確立するためには、多くの課題を検討しなければならない。その一つが財政問題である。つまり、国民による国民のための報道機能であるなら、国民がその経営責任を持たなければならない。しかし、現実はどうなのだろうか。
NHKは国民からの放送料金を半強制的に受取り、その受信料金で運営されている。しかし、受信料金を回収できない状態である。その主な理由の一つとして、国民にとってNHKが自分たちの(国民の)ためにあり、国民によって運営されている報道機能(公共放送)であるという意識が希薄であることが挙げられる。また、NHKは国家からの補助金(交付金)を受けている。この交付金によって、公共放送が国、取り分け官僚からの縛りを受ける可能性を否定出来ないだろう。
日本国憲法が施行され、国民主権・民主主義制度が始まったとしても、NHKの官僚的体質はその歴史に付着している脱却困難なしみのようなものである。NHK,日本放送局が国家の報道機能として発足したのである限り、その歴史的な履歴をそう簡単に消し去ることはできないだろう。しかし、その官僚的な考え方を率直に述べることは出来なくなっている。それだけに受信料を支払う国民からの厳しい監視の視線が存在していることを自覚しているのである。
しかし、そのしみついた官僚的風土はそう簡単にはなくならないだろう。そして、その官僚的体質は、NHKが国民から当然のように受信料金を回収できること、国民は義務として受信料を支払うべきと考えるところに露出しているのである。つまり、この国民の義務としての受信料観は、受信料徴収と受信料によってNHKの運営が成立していることとが分離していることを意味していることに気づかないのである。そこには、過去の遺産、官僚的体質からにじみ出る論理、つまり国家(お上)対する国民の義務として受信料の支払いが疑問の入る余地のない強制的な事項となって成立しているのである。
受信料を受信者から回収して成立している民間放送局がある。それらの放送局にとって受信者はお客様である。そこで受信者のニーズを知らなければ、その放送局は成立しない。当然、顧客の需要を理解しない民間企業が経営難になるように、受信者のニーズを理解しない民間放送局は経営に苦しい状態になるだろう。しかし、NHKは国民から受信料を取りながら、国民のニーズを大切にする姿勢を持っているだろうかという厳しい意見が出されるだろう。
何故なら、民間では顧客はその放送を見るか見ないかの選択権がある。その意味で民間には市場原理が働く、しかし、NHKは強制的に受信料を取るために、言換えるとNHKにとって国民は顧客ではなく受信料を義務として支払う人々であるた、めに、NHKの番組を見たくない人々、まったく見ない人々も、受信料を払わなければならないことになる。その分、NHKへの意見も厳しくなるのである。離れるからだ。しかし、NHKは受信料を払っている
受信者のニーズに答えず受信料金を一方的に請求する公共放送への批判が、公共報道機能を民営化し他の報道機能と競合関係を作り、市場原理に基づく報道産業化によって民意を反映させようという意見が2005年に生まれた。この民営化の意見は当時の小泉内閣によって打ち出された「聖域なき構造改革」とNHKの不祥事の発覚による受信料不払い運動が背景にあった。国民から支持されない公共放送のあり方が続けば、公共放送を廃止する極端な意見へと発展する可能性を持っている。
社会的報道機能は公共放送に独占されている訳ではないが、国民が公共放送受信料の意味、つまり公共放送存在意義を理解しない限り、公共放送を民営化する動きは、行政改革や公共施設への競争原理の導入という資本主義社会の正論を盾に登場することは避けられないのある。
公共放送の運営のために国民から受信料を取るという作業の意味することを考えることによって、公共放送の存在意義が再検討される機会を得るのである。富国強兵制度を推し進めた日本の近代化政策の重要な一つの国民政策としての公共放送機能の形成、その結果としての統一国家としての近代日本の成立に大きな役割を果たした公共放送、日本放送局の歴史、そしてそれを牽引してきた国家官僚制度の一翼を担ったNHKの基盤体が、国民主権の理念によって変換される唯一の糸口がその受信料問題に端を発する国民的反発の感性の深層に存在しているからである。
参考資料
ブログ文書集「民主主義社会の発展のための報道機能のありかた」
1、民間報道機関の公共性と報道の自由の確立に必要な改革
1-1、「報道企業マスコミの本音と報道の自由」 2011年9月5日
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/09/blog-post.html
1-2、「私企業としての報道活動と電波伝達空間の所有権」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/10/blog-post.html
1-3、「民間報道の報道の自由とその国民的監視機能の必要性」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post_02.html
2、公共報道機関の必要性とその独自性を擁護するために必要な改革
2-1、国家の利益を擁護する情報機能としての公共報道の宿命
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post_527.html
2-2、公共報道機能の独立権の成立条件とは
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post_5219.html
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ブログ文書集
1、ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3562.html
2、ブログ文書集「東日本大震災の復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
3、ブログ文書集「日本の政治改革への提言」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_9428.html
4、ブログ文書集「21世紀日本社会のための大学教育改革の提案」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html
6、ブログ文書集「持続可能なエネルギー生産社会を目指すために」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/11/blog-post_2842.html
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三石博行
国民主権による公共放送の社会情報機能を確立するためには、多くの課題を検討しなければならない。その一つが財政問題である。つまり、国民による国民のための報道機能であるなら、国民がその経営責任を持たなければならない。しかし、現実はどうなのだろうか。
NHKは国民からの放送料金を半強制的に受取り、その受信料金で運営されている。しかし、受信料金を回収できない状態である。その主な理由の一つとして、国民にとってNHKが自分たちの(国民の)ためにあり、国民によって運営されている報道機能(公共放送)であるという意識が希薄であることが挙げられる。また、NHKは国家からの補助金(交付金)を受けている。この交付金によって、公共放送が国、取り分け官僚からの縛りを受ける可能性を否定出来ないだろう。
日本国憲法が施行され、国民主権・民主主義制度が始まったとしても、NHKの官僚的体質はその歴史に付着している脱却困難なしみのようなものである。NHK,日本放送局が国家の報道機能として発足したのである限り、その歴史的な履歴をそう簡単に消し去ることはできないだろう。しかし、その官僚的な考え方を率直に述べることは出来なくなっている。それだけに受信料を支払う国民からの厳しい監視の視線が存在していることを自覚しているのである。
しかし、そのしみついた官僚的風土はそう簡単にはなくならないだろう。そして、その官僚的体質は、NHKが国民から当然のように受信料金を回収できること、国民は義務として受信料を支払うべきと考えるところに露出しているのである。つまり、この国民の義務としての受信料観は、受信料徴収と受信料によってNHKの運営が成立していることとが分離していることを意味していることに気づかないのである。そこには、過去の遺産、官僚的体質からにじみ出る論理、つまり国家(お上)対する国民の義務として受信料の支払いが疑問の入る余地のない強制的な事項となって成立しているのである。
受信料を受信者から回収して成立している民間放送局がある。それらの放送局にとって受信者はお客様である。そこで受信者のニーズを知らなければ、その放送局は成立しない。当然、顧客の需要を理解しない民間企業が経営難になるように、受信者のニーズを理解しない民間放送局は経営に苦しい状態になるだろう。しかし、NHKは国民から受信料を取りながら、国民のニーズを大切にする姿勢を持っているだろうかという厳しい意見が出されるだろう。
何故なら、民間では顧客はその放送を見るか見ないかの選択権がある。その意味で民間には市場原理が働く、しかし、NHKは強制的に受信料を取るために、言換えるとNHKにとって国民は顧客ではなく受信料を義務として支払う人々であるた、めに、NHKの番組を見たくない人々、まったく見ない人々も、受信料を払わなければならないことになる。その分、NHKへの意見も厳しくなるのである。離れるからだ。しかし、NHKは受信料を払っている
受信者のニーズに答えず受信料金を一方的に請求する公共放送への批判が、公共報道機能を民営化し他の報道機能と競合関係を作り、市場原理に基づく報道産業化によって民意を反映させようという意見が2005年に生まれた。この民営化の意見は当時の小泉内閣によって打ち出された「聖域なき構造改革」とNHKの不祥事の発覚による受信料不払い運動が背景にあった。国民から支持されない公共放送のあり方が続けば、公共放送を廃止する極端な意見へと発展する可能性を持っている。
社会的報道機能は公共放送に独占されている訳ではないが、国民が公共放送受信料の意味、つまり公共放送存在意義を理解しない限り、公共放送を民営化する動きは、行政改革や公共施設への競争原理の導入という資本主義社会の正論を盾に登場することは避けられないのある。
公共放送の運営のために国民から受信料を取るという作業の意味することを考えることによって、公共放送の存在意義が再検討される機会を得るのである。富国強兵制度を推し進めた日本の近代化政策の重要な一つの国民政策としての公共放送機能の形成、その結果としての統一国家としての近代日本の成立に大きな役割を果たした公共放送、日本放送局の歴史、そしてそれを牽引してきた国家官僚制度の一翼を担ったNHKの基盤体が、国民主権の理念によって変換される唯一の糸口がその受信料問題に端を発する国民的反発の感性の深層に存在しているからである。
参考資料
ブログ文書集「民主主義社会の発展のための報道機能のありかた」
1、民間報道機関の公共性と報道の自由の確立に必要な改革
1-1、「報道企業マスコミの本音と報道の自由」 2011年9月5日
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/09/blog-post.html
1-2、「私企業としての報道活動と電波伝達空間の所有権」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/10/blog-post.html
1-3、「民間報道の報道の自由とその国民的監視機能の必要性」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post_02.html
2、公共報道機関の必要性とその独自性を擁護するために必要な改革
2-1、国家の利益を擁護する情報機能としての公共報道の宿命
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post_527.html
2-2、公共報道機能の独立権の成立条件とは
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post_5219.html
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ブログ文書集
1、ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3562.html
2、ブログ文書集「東日本大震災の復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
3、ブログ文書集「日本の政治改革への提言」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_9428.html
4、ブログ文書集「21世紀日本社会のための大学教育改革の提案」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html
6、ブログ文書集「持続可能なエネルギー生産社会を目指すために」
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